銀色のインベンション・2
5
ヴァイオリンの音……?
ああ、悠季の音だ。どんなに微かでも、僕には判る。
僕の理想、希望、オアシス。探して、求めて、やっと出会えたと思ったのに。
どこにいるんです?
君の姿が見えない……。
「圭……」
「悠季? どこですか? お願いです、隠れていないで……。出て来て下さい」
「圭、だめなんだ。僕はもう……。君と一緒には居られない」
なんてことを!
「悠季っ?」
「僕は……男なんだから……。君と同じ、男なんだ。君の伴侶にはなれないんだよ。結婚……するんだ……」
君の声……、あんまりにも響きが冷たすぎます。僕が何かしましたか? 君を傷つけるようなことを……何か……?
「悠季> お願いですっ! 嘘だと……、嘘だと言って下さい。冗談なんでしょう? 愛してるんです。本気なんですよっ! 一生共に歩いていこうと誓ったじゃないですか! 僕を……僕を見捨てないで!」
ああ、君をこの胸にとどめることが出来るなら、何でもします。ですから……!
「圭……、だめなんだ。ごめん……。ごめんね……」
「悠季? 待って! 悠季いいぃっ>」
「圭……、圭?」
肩を揺すられ、僕の視界は一転した。
「あ……?」
悠季が穏やかな瞳で僕を覗き込んでいる。
さっきのは、夢……?
「うなされていたよ。大丈夫?」
探していた人が目の前にいる幸せに、僕は……。
「悠季っ!」
しがみつくように荒々しく抱き締めた僕の背を優しく抱きながら、悠季が囁いた。
「圭……、大丈夫、僕はここにいるから」
悠季の言葉に僕は心臓を鷲掴みにされた気分だった。
「僕は……、その……、何か言いました?」
悠季は一瞬沈黙し、恥ずかしそうな照れた声で、おずおずと答えた。
「えと、……一度だけ、僕の名を……」
僕は安堵の吐息を吐いて、悠季の肩にもたれた。
「ああ……。夢見が悪くて。すみません、起こしてしまったんですね」
「いいんだ……」
フフッと悠季が笑った。
「どっちにしろ起きようかと思ってた時間だし」
「……そんな時間ですか?」
「いや、そうじゃないけど。ちょっと難物があって、練習をね」
「難物……ですか?」
「君を起こさずに出るつもりだったんだけど。君が起こしてくれて、後ろめたさを感じずにすむよ」
ああ、僕の本能が嗅ぎ取ってしまって、あんな夢を見せたんでしょうかね。本当に置いて行かれるところだったとは。
僕は、枕元においた腕時計を見た。午前五時。冷え込む時間に起きて練習だなんて。
「どこで練習するんです?」
悠季と共に起きあがり、身支度を始める。もちろん彼についていくために。
「学校の音楽室。着いた日に鍵借りといたんだ」
「何でまた、早朝練習なんて。難物って何です?」
悠季はぼそっと呟いた。
「パガニーニ。コンチェルトの1番」
なんと! 本当ですか?
「それは、それは……」
悠季は憂鬱そうに溜め息をついた。
それにしても完全主義の悠季らしくない選曲だ。実際、彼が難物というのは確かなことで。しかも、リサイタルが決まってから練習していた曲には確かパガニーニは入っていなかった。ろくに突き詰めてもいない曲を選ぶなんて……、らしくない。
母校での演奏会で、聴衆は後輩達中心で。確かに比較的気楽にやれるかもしれないが。……いや、場所も聴衆も関係ない。とにかく、自由な選曲が許されるときに、最も彼が選曲しないだろう曲。それがパガニーニ。
悠季は努力家で、ことヴァイオリンに関しては、見ている方が痛々しくなるほど自分に厳しい人で。そんな彼が安易に演奏曲目に入れるほどパガニーニは簡単ではない。
自他共に天才ヴァイオリニストと認めるパガニーニが、自分の天才的技巧を発揮させるために作った超絶技巧の嵐であるコンチェルト。ちょっとやそっとで弾きこなせるものではない。
もちろん、悠季が弾きこなせないわけはないけれど。悠季のように自分に厳しい人が、人に聴かせてもいいと思う域に達するには、時間が足りないだろう。
「……僕は楽しみが増えました。練習以外で君のパガニーニが聞けるなんて。僕は運がいい」
「圭……、本気で言ってるの? 僕にとって、こんな重荷はないのに……」
「でも、選曲は君の自由なんでしょう? でしたら……。ああ、でも、君が名技主義とは思いませんでした」
からかうなよっ! と、睨み付けてから、肩を落としてまた溜め息をついた。
「……んなわけないだろう? 知ってるくせに。パガニーニだけは別! 羽澄のリクエスト……というか、強制的に演目にはいってるんだ。何度も嫌だって、出来ないって言ったんだけど……。しかも、こっちに来る直前にいきなり言われただろう? 本当に参っちゃうよ」
また羽澄……。僕はこの名前に過敏になってしまっている。
「特別な思い入れでもあるんですかね? ……君の記憶に、パガニーニに関する思い出は?」
悠季は、さあ……? と、首を傾げた。本当に思い当たらないらしい。
しばらく考えてから、怪訝な口振りで彼は語った。
「うーん、中学の時にさ、難曲だって聞いて……。どんなもんだろう? って、試しにトライしてみたことはあるけど……。あはは、身の程知らずって奴だね。見事に挫折して落ち込んだ思い出ならあるよ。若気の至りというか……ね。もちろん、誰にも聴かせてないよ。先生にも内緒の、悪戯だったんだ。いろんな難技巧が盛り込まれているから、練習曲に使うことなら今でもあるけど……。でも、人前で弾くのはねぇ……」
「今の君なら大丈夫ですよ。弾きこなせます」
「またぁ、君は……!」
「君の満足度は別として、ミス無しに弾きこなすことは可能でしょう? 深めるには時間が足りないにしても。今、君に出来るベストを尽くしなさい」
それしかないでしょう? と、目で言うと、彼は弱々しく微笑んだ。断れなかった以上、僕に言われるまでもなく、彼はそのつもりでステージに臨むだろう。
「急ぎましょうか。そんな理由なら、少しでも早く練習を始めましょう。ピアノは苦手ですが、僕でよければ練習の手伝いくらいしますよ。……本当に高嶺を呼べばよかったなぁ。コンチェルトのソロだけなんて。せっかく君のパガニーニなのに、もったいない。せめてピアノが入れば……」
ぼやくようにいった僕に、手袋をはめた手が抱きついてきた。防寒のために着膨れていなければ、その感触を楽しめたのに……。
「君が居てくれるだけで、心強いよ。ありがとう、圭!」
鼻を擦り付けるように僕の胸にしがみついて、甘く呟く悠季はとても可愛くて。
そんな悠季をきゅっと抱き締めてから、僕は彼を押し出した。
「楽しみは後にとっておきましょう。とにかく練習です!」
雪国の建物というのは密閉度が高い。寒さを遮断し、快適な室内気候を保つことが出来る。あらかじめ手配してあったのか、ヒーターはすぐ使える状態で、悠季が用意した。
僕は、コートを教卓に置くと、ピアノの蓋を開けた。
「調弦はスコルダトゥーラで?」
「あ、いや、ニ長調でやるから……」
言いながら、いつものように手早く調弦を始める。ヴァイオリニストの顔になった悠季は、凛とした美しさで僕の胸を打つ。
可愛いなどと言っては失礼にあたるのではと思わせるほど、僕に気持ちのよい緊張感を与えるのだ。彼が僕を見つめ、二人で同じ未来を見つめ……。肩を並べて高みを目指すには、僕も今以上の努力をせねばと、そんな気分にさせられる。この美しい人に、追い越され、置いて行かれないように。
「とりあえず一度流してみましょう」
「うん」
「いきます」
悠季がスタンバイするのを確かめ、僕は管弦楽部の冒頭を弾き始めた。弾きながら悠季の出のタイミングを計る。
パガニーニの作ったこのコンチェルトは、ソロの難しさに反比例するように管弦楽部が簡単である。何でも、技術を盗まれることを極端に警戒した作者が、ぎりぎりまでオケに楽譜を渡さないですむように、その分練習の少なくてすむものを書いたとかいう逸話が残っているのだ。
単純な書法で、和声も平凡。まさしくヴァイオリンのためだけの曲。
そうでなければ伴奏など、僕だって買って出る気にはなれない。昔とった杵柄が通るほど、楽器の演奏は甘くはないのだから。
とにかく、全力を尽くそうと思う。悠季の音を貶めるようなことはしたくない。
第一楽章のアレグロ・マエストーソは明るく軽快で、華やかな曲。もちろん、ヴァイオリン特有の切なくなるようなあの音色を生かすフレーズもふんだんに盛り込まれ、イタリア人らしい歌謡的な旋律は僕の心を代弁するような恋の歌を謳う。
そこここににちりばめられた難技巧を、悠季はそつなくこなして。愛しい音が否が応でも僕の気持ちを盛り上げてしまう。
だが、悠季の自信のなさや、それ故の憂鬱さは、明るい曲想にそぐわず、僕は思わずストップをかけていた。僕自身の無骨な音は棚上げで。
「やると決めた以上、気分を立て直しなさい。君は技巧的には弾けている。十分に。……曲想を大事にして下さい」
「う……うん……」
おずおずとポジションをとり、すうっと息を吸い込むと、しばし沈黙。気分を切り替えたのか、落ち着いた表情を見せた。
再度スタンバイ。
僕の音に絡みつくように悠季のヴァイオリンが声を上げる。
優しく透き通った音が、軽快に華やかに流れ出す。
音の絡み合いは、セックスに似ている。
けれど、僕のピアノと悠季のヴァイオリンという組み合わせは、初めてで。
タクトを振って、悠季と絡み合うときとは違う何か。目新しい体位を試してみたという感じだろうか。それが意外にも心地よくて。
びりびりと背筋を走る快感は、まるで、悠季と愛し合っているときのような……、それでいて、もっと深く僕の身体に侵入してくる妖しさがあって……。
演奏中にベッドでのことを持ち込むなと、悠季に説教をしていた自分を忘れ、僕は鍵盤を叩きながら悠季の音に浸っていった。
神様、この人との出会いを僕の人生に用意して下さったことを感謝します。
コーダにエミール・ソーレのカデンツァを加え、ロ短調のアダージオ、終幕のニ長調のロンド……。
厳しい君の満足度にはほど遠いのでしょうが、言わせて欲しいです。ブラボーと。
一通り弾き終えた悠季の表情は……。紅潮した頬が心地よさの余韻を伝えていた。
「圭……」
ヴァイオリンを持ったまま、後ろから僕の肩に腕を巻き付けて、耳元でホウッと息をついた。
「素敵だった……、君……。ピアノが苦手だなんて……。嘘つきだね。オケ部を即興でアレンジした上に、見事に弾きこなしちゃって……。さすがだ……」
素直な君にそう言って貰えるのは誰に誉められるよりも嬉しい。君の賛辞は僕のビタミンです。ベッドでもこのくらい素直な歓びを体で表してくれたら、もう天国なんですが……。
いけない。今は練習です!
僕は努めてポーカーフェイスを装った。
「嘘はついていません。君とだから弾けたんです。高嶺がいたら張り飛ばされますよ。ピアノに失礼だってね」
ああ、悠季、耳元でのクスクス笑いは体に毒なんですが。
「僕には極上の音楽に聞こえたよ。こんな僕なんかにはもったいないくらい」
「このくらいでよければ、君が望むなら、いつだって……」
「指揮者の君が?」
「僕のピアノはプライベートです。指揮者の桐ノ院ではなく、君の恋人の圭として弾きましょう。君のために」
「僕は世界一贅沢なヴァイオリニストだね」
僕の髪に顔を埋め、悠季がくぐもった声で呟いた。
「悠季……」
ここで『したい』などと言ったら、殴られますかね。
僕の声音からその想いを読みとったのか、悠季は慌てて身体を引き剥がした。
「で、君の耳にはどうだった? アドバイスを頼むよ」
声がうわずってますよ。
「……、上手く弾いてやろうとは思わないことですね。こういう技巧派の曲は、どうしてもそっちに意識が行ってしまいます。出来れば弾いていることを考えないで弾いた方がいいかもしれない。もっとも、今のは、やれていたような気がしますが。君自身の理想の音にたどり着くにはまだ無理でしょうけど、僕は楽しく聞けました。いや、楽しくなんて段階じゃないな。浸ってしまいました。その間、幸福だった……」
僕の感じた快感、君も感じてくれていたんでしょう?
僕の問いかけのような視線を受けて、悠季は真っ赤になって俯いた。
「君がいなきゃ、出来ない。……多分。僕のあがり性は、どうしようもないんだから……」
ふと顔を上げ、眼鏡の奥の澄んだ瞳が僕を捕らえた。
「あの……。嫌じゃなかったら……。本番でも伴奏……して欲しいんだけど……」
「本番でですか?」
「プ、プライベートで、……その、こ、恋人の圭として……。君が妥協とかそういうの、嫌いなのは解ってるけど。プライドが許さないかもしれないけど……、でも、僕は今の音をみんなに聞かせたい。下手なりにも、今の音なら聞いて貰えそうな気がするんだ。……君が助けてくれなきゃ、出来ないよ」
自分の腕のことを考えれば、とんでもない申し出なのだが、僕はブラボーと叫んで彼を抱き締めたい気分だった。
さっきの音の再現となると、それはもう、人前で二人でセックスしてみせるようなものですよ。
動機不純といわれようが、へたくそ! と、ゴミや生卵をぶつけられようが、僕らの仲を知らしめる様な真似を悠季が進んでしてくれると考えただけで僕は……。
「……僕でよければ」
「よかったァ」
柔らかく安堵の笑みを浮かべた君は、食べてしまいたいほど甘そうです。
僕はコホンと軽く咳払いして、ピアノに向かった。
「では、頭からもう一度」
「うん」
何故に嫌な予感というのは、そのまま目の前に具現されるのだろう。
僕はその人に会った途端に自分の勘の良さに我ながら感心した。
羽澄……。
それは名前で。
フルネームは沢渡羽澄。
女性。
リハの時間になって、悠季に紹介を受けたときの、僕の驚きは、どうやら感づかれなかったようだ。
そう、悠季は男だとは一度も言わなかった。何となく悠季の友達扱いな言い方から勝手に僕がそう思いこんでいただけで。
実際は、川島さんからもう少し鋭さと女っぽさを抜き取ったようなあっさり美人。
飾り気が無く、快活で気さくそうな雰囲気は、男に混ざっていても遜色無く仕事をこなしそうな逞しささえ感じさせる。悠季が友達だと言い切るのも分かるような気がするけれど……。
女性というのは変わるもので、今の彼女は客観的な意味で美しく、優しくてよく気がつく芯のしっかりした人という、多分悠季の好みの部類で……。
「羽澄、彼は桐ノ院圭。僕がいるフジミのコンダクターだよ。M響で振る方が本業だけど……それはもう、すごい人なんだから……。天才ってみんなが認めてるんだ」
能天気で誇らしげな悠季の声は、ほんのちょっぴり僕の癇に障った。
悠季が親しげに名前を呼び捨てにする女性の存在に、僕は内心の動揺を隠すためのかなりの努力を強いられているというのに。
「初めまして、桐ノ院です」
平静を保つべく、とっておきのポーカーフェイスで僕は会釈した。
彼女は、考え深げに僕を観察していた瞳を和らげ、微笑み、澄んだアルトの声で、
「伴奏、していただけるとか。楽しみです。悠ちゃんたら、全然そんなこと言ってくれなかったから! ……ピアノ、急いで用意しますね」
と、それだけ言うと、用件を済ませに走り去った。
ゆ、悠ちゃん……?
「守村……さん?」
僕の震えた声に、彼女を見送っていた悠季が怪訝な顔で振り返った。
「へ?」
「彼女とは中学だけ……一緒だったんですよね。彼女、君のことを悠ちゃんと呼びましたよ」
「うん、昔っからそう呼ばれてた」
だから何? というように小首を傾げた。
いつもなら、僕はそうされるだけで胸の奥がキュンとなるのだけれど。
「君の恋の思い出話に、彼女は出て来ませんでした。一度も。どういうことですか?」
「恋の……ったって、大学時代までしか話してないじゃないか。どういうもこういうも、彼女と恋愛沙汰はなかったし……」
「君は、かなり奥手だ。そんな君が彼女とはずいぶん親しげですね。親戚でもない、クラスが三年間一緒だっただけの彼女と、どうして、そんなに……?」
「友達だってば!」
もう、止めてくれよ、と悠季が睨む。
僕だって、止めたい。嫉妬は醜いものです。でも思いは止まらないんだ!
「ピアノが入るまで、時間があります。説明して下さい」
「圭! こんなとこでよしてくれ! ……、説明も何も、友達なんだよ。本当にそれだけ。こっちに帰って来たって、必ず会う訳じゃない、ただの友達。でも、大切な友達だ」
「中学の時も、高校の時も、大学の時も、そうだったかもしれない。でも、久しぶりに会った彼女を見て、君は本当にそう言いきれますか? ただの友達だと」
悠季の頬に朱が走った。
「君は……どうしても、僕を信用できないんだね」
低く絞り出された声は怒りに震えて。
あ……。
しまったと思ったが遅かった。僕は悠季を本気で怒らせてしまったらしい。
悠季という人は、いつだって人当たりがよくて、大抵のことは笑って許してくれる寛大さを持っていて……。その分、本当に怒ると、機嫌を直して貰うにはかなり手こずるのだ。
「あの……」
縋らせた声は、くるっと向けられた背中で冷たく跳ね返された。
やがて不意に僕の方を向いた悠季が浮かべていたのは期待した微笑みではなく冷たい怒りの表情。
「僕の過去を詮索するのは勝手だけど、想像を押しつけられるのはごめんだ。僕がいくら友達だと説明したって、君が信じないなら、もう僕は知らない。そうだね、羽澄は素敵になったよ。君が言うとおり。僕が相手にされるとは思わないけど、好きになるかもしれないね」
(君が言わせた台詞だよ)
悠季の瞳は、情けない、と悲しげに揺らめいた。
でも、言わせて貰えば……。
自分はノーマルだと言って、僕にさんざん肘鉄を食らわせてくれて。川島さんと結婚したかったとか、ヴァイオリンを始めたきっかけが、若くて美人のヴァイオリニストの影響だとか。ゲイでいることは不本意であるという、そんなこだわりをさんざ僕にぶつけていたわけで。
彼を苦しめる、彼が言うところの常識や良識は、僕にとってもなかなか難物なハードルだった。それをなげうって僕を受け入れてくれたことは、僕にも画期的で生涯最大の幸運と言ってもいいけれど。僕を愛してくれていることは、恥ずかしくないって言ってくれたけれど。
僕の不安要素はいくらでもある。
僕の恋人でいてくれるのも、音楽という仲立ちが存在して、僕を認め、僕にほだされた結果だから。僕以上の積極性でもって悠季を欲する、悠季の好みの女性が現れたとしたら……。
僕は負けてしまうかもしれない。
ああ、僕らしくもない。こんなに気弱にぐるぐる考え込むより、戦わねば。
そう、僕は男だ。欲しいものは闘って勝ち取り、守る。
僕をこれだけどうしようもない男に変えるのは悠季だけ。その唯一無二の存在を、僕は一生離すつもりはないのだから。
「愛してます。どんな言葉が持つ意味よりも深く」
「圭!」
小声の囁きに、目線をステージに向けたまま悠季は窘めた。
僕も表情を変えずに続ける。
「君が誰を好きになっても、僕は君を離しません。殴られようが、蹴られようが、僕は君を離さない。覚えておいて下さい」
「好きにすればいいよ。僕は知らない」
うざったそうに投げつけられた言葉。
意地っ張りで言っているのではない冷たさに、僕は心の奥底まで凍り付いた。それは、怒りにまかせて行動することさえ封じてしまうほど強力な呪縛で。僕は悠季の拒絶に一歩も踏み出せなくなって、ただ彼を見つめることしかできなかった。まるで、あの不幸な事故の後の、毒虫扱いをされていたときのように。
悠季が遠い。
僕は早朝の幸福な南国気分から、一気にシベリアで遭難状態だ。
「悠ちゃん! 演奏順はこれでいい?」
沢渡女史に呼ばれ、人の好い笑顔をとっさに浮かべると、悠季は女史の方に駆け出した。
それはそのまま僕から去っていく足取りのように思えて。
途端に今朝の悪夢が脳裏に浮かび、悠季の後ろ姿をオーバーラップさせた。
行かないで下さい!
「悠季!」
声に出して叫んでいたことに気づいたのは気味が悪いほどの静けさ、集中した視線のせいだった。
慌てて駆け戻ってきた悠季が、僕を揺れるまなざしで見つめる。
「すみません……」
やっとの事でそれだけ言って、僕は彼から目を背けた。
ポーカーフェイスなんて、こういうときには全然役に立たない。彼には全然効かないどころか、彼が絡むと、いとも容易に僕の仮面は剥がれてしまう。僕の激情は、煮詰まってままならないところまで膨れ上がっていて、自分でもどうしようもなかった。目元にじわりと湧き出てくるものを止められなくて。
それが悠季を驚かせたらしい。ひんやりとした手で僕の涙をふき取った。
「圭……? 君、どうかして……」
僕は彼の手を振りきるように顔を背けてしまった。
堪えようと、気分を切り替えようと、僕は抑制に力を入れたのだけど、彼を抱き締めたくて震える手をそのまま留めておく事だけで精一杯だったから。彼を見つめていたら、その力さえ抜けてしまいそうだったから。
「すみません、僕は……。僕は、狂っている。これじゃ、使いものになりません。……帰ります」
ギリリと軋んだ音が聞こえた。それが悠季の口元から発せられたのだという事は、振り返って彼の顔を覗き込んで知った。
彼は思っていることがそのまま表情に浮かぶ。今の彼は、焦燥と怒りと困惑で彩られていた。居直ったときの彼の恐ろしさは、そこまで怒らせてしまった者だけが知る特別なもの。
「ちょっと来て!」
声と同時に僕の腕は乱暴に引っ張られた。
そんな悠季には逆らえない。
呆気にとられた視線を背に、僕たちは適度な温度調節のなされた講堂兼体育館から、しんと冷え込む渡り廊下に出た。
悠季の歩調はいつもよりずっと早く、戸惑いが現れている僕の歩調よりやや速いアレグロアンダンテ。
いくつもの教室を過ぎ、やがて辿り着いたのは、音楽室の奥にある準備室。通常の引き戸とは違うシンプルなノブの着いたドアをさっと開いて、僕に入るように目線で促した。
「悠季……、あの……」
「いいから入れよ」
悠季は僕に比べれば腕力はないけれど、断固とした意志の力は僕と張り合うほどの人で。
そんな彼の言葉と一睨みは、めいっぱいの力を込めたプロボクサーの拳よりも数百倍の、僕をおびえさせる力を持っている。
僕は怖ず怖ずとドアかまちをくぐった。
背後で鍵をかちゃりとかける音がして、ハッと振り返った。
悠季がドアを背に立っていて、やんわり笑った。
「……悠季?」
キスのしやすい程度に僕より背の低い恋人は、困惑で立ちすくむ僕の真正面に歩み寄って言った。
「君は狂ってる。ほんとに」
泣き笑いのような顔で僕を見つめながら眼鏡をはずし、その手がいきなり僕の股間を掴んだ。
「!」
「いっとくけど、僕を狂わせたのも君だ」
手なれた調子で僕のジッパーをおろし、僕を掴み出した。
僕が驚きの硬直から脱して彼を抱き締めようとしたときには、もう彼は跪いていた。
ベルトをはずされ、解放された僕。
手でしごかれ愛撫されてすぐに固くなったそれを、彼は……。
「はうっ!」
思わず彼の頭を鷲掴みにしてしまう。
肺の奥底から喘ぎが沸き上がる。快感が走る度に息を詰めてしまう。
それは僕が教えたこと。口に含み、舌で撫で上げ、吸い上げるように唇でしごく。優しいキスをしながら指先で音階を奏でる。弦を押さえるように、ピアノを弾くように、笛を吹くように。それぞれの愛撫の仕方を織り交ぜることで、転調の繰り返し。弄ぶように執拗に繰り返される愛撫に、僕は理性がスパークして散っていくのを感じていた。
「ゆ、悠季っ?」
意志の力でかろうじて立っていた僕の膝が笑い始めた。
立っていられない。悠季の一方的な愛撫が、僕をとろけさせて……。
「も、もう……っ! イきそうです。……お願いです、僕にも……君を愛させて……」
喘いで言った僕は、いつものように彼を引き剥がしてイニシアチブを取り戻そうと、力を振り絞った。
けれど、とろけた身体は思うように力が入らなかった。
しかも、悠季がそれに抗った。動きを止め、僕を見上げた瞳は、ほんの少し意地悪く光って……。出会った頃のコンマスの守村さんの様な意固地な瞳。彼は僕の悠季ではなく、守村さんのままで僕を……。そんな彼を見たら僕は、いつもの様に彼に甘えることは出来なくて……。呆然と彼を見つめるしかなかった。
「我慢しないで出しちゃえよ。僕は、最後までしたいんだ。いつも君は邪魔するけど……イッちゃう君が見たい……」
悠季の意外な言葉に僕は一気に力を失い、側の机に縋った。悠季は愛撫を再開し……。
「あっ……んんんっ。ゆ……う……きっ…………悠季ぃっ!」
僕は悠季の執拗な愛撫に、とうとう堪えきれず、彼の口の中に撃ち出した。
混乱の中、僕は頭の隅で考えていた。
これは、悠季の立場。
僕に求められ、愛撫され、意志とは関係なく快感にさらわれて、僕を受け入れてしまう悠季。
僕はといえば、彼の愉悦や乱れて悶えるときの色気を味わいたくて、僕だけに見せる悠季の姿を確かめたくて。ぎりぎりまで冷静を保つべく、欲情した僕と切り離されたところに冷静な僕を取り残しておく。そうして彼を、知る限りの手管で愛撫して歓び方を観察する。それは次に彼を乱れさせるための重要なデータで……。
一方、欲情した方の僕は、悠季の肌の火照りや、僕を求めて喘ぐ秘部や、僕のキス一つで戦く彼の全てを愛して、愛して……。僕の全てを注ぎ込む。そこには、計算も打算も何にもない。ただ、彼が愛しくて、彼の全てを知りたいということだけ。
一人でイくのは嫌だという悠季の言葉。
『君と一緒に……!!』
僕は、初めてその意味が分かった気がする。 僕の観察の視線を、彼は気づいていたのではないか?
恥ずかしさや、照れやプライドを恋心でくるみこんで、僕の前に全てをさらけ出した悠季を、僕は高みから見下ろす視線でもって捕らえていたことに気づいてしまった。
いかにそれが、彼をもっと喜ばせ、その歓びを共有するためであっても、彼のプライドには受け入れがたい屈辱であったか……。
この行為は、狂った僕に対する狂った悠季の小さな復讐。
僕は……、僕はなんて事を……。
吐き出したせいではない脱力感でへたり込んだ僕の頬を、悠季の両手が優しく挟み込んだ。口づけ。その味は僕の……。口移しで僕は自分の味を味わった。
コクンと飲み込んだそれは、あり得ない苦さを僕に感じさせ……。
「圭……」
悠季の声が、優しく変化していて、僕は縋るように彼の顔を見つめた。
どうか、微笑んで。愛していると言って下さい。
悠季が冷静な瞳で僕を覗き込んでいた。
「僕がしょうもなく落ち込んで、君から心を隠したとき。言葉を尽くしたって、信じて貰えないならお手上げだって君は言ったことがある。多分、今、僕は同じ心境だよ。……僕のバ……バージン……は、君に奪われた」
ああ、やはりだめですか……。
「まてよ! 終わりまで聞け! ……早とちり……!」
あきらめの境地で視線をそらせた僕の頬を包む手に力を込め、悠季はもう一度口づけてきた。それは優しく、暖かく。
唇を触れ合わせたまま、彼は続けた。
「僕は君にメイクラブを教わった。せ……セックスは強制的に覚えさせられたけど……、ふ……フェラチオは……。君は僕に愛撫を強制したことはないものね。あれは……僕の意志でするようになったことだ。君が愛しいから、君が僕にしてくれるように、僕もしたくて……。僕は……、君だから……。君にだから、あんな恥ずかしいことも平気で出来る。男とか、女とか、関係ない。圭だからなんだ。圭だけに……」
言葉は途切れて、そっと舌が割り込んできた。僕の舌を絡め取るように誘う。互いの名を入り混ぜてむさぼりあううちに、少しずつ甘さが僕の心を溶かし始め……。
「悠季! 悠季! 悠季!」
僕はただ固く彼を抱き締めた。悠季の背を、髪を、僕の腕の中の存在を確かめるように。
「悠季……。すみません、ぼ……僕……は……」
悠季の手が僕の背を這う。首筋を這う唇の感触は、温かく、柔らかく、僕の中のマイナスな心を吸い取ってくれて……。
そんな彼が不意に僕の手を取り、自らの股間に導いた。そこは、服の上からでもはっきり分かるほど固く熱く脈動していた。
「君の声も、君の匂いも、僕には優しい刺激で。もう、分かってるはずだけど、君に触れられるだけで、僕はこうなっちゃうんだ。……僕を……、こんなにしちゃったのは君だよ。どうしてそんなに不安がるのか、僕にはよく分からないんだけど……」
揺れる眼差しは、そのまま僕を誘惑する瞳で。そのたおやかでしなやかな動きを描く腕が僕の首に絡められ、額に唇が押し当てられた。次に瞼、僕の鼻梁を這い、頬、そして唇。
悠季の甘い吐息を感じながら、僕は落ち着きを取り戻しつつあった。
「僕がこんな風に出来るのは、圭だけだ。圭だけが、僕を変える事が出来るんだよ。僕の悩みも、僕の本音も、僕の我が儘も……、君だけにぶつけてきたんだ……。それが、君を傷つけてしまったんなら、どんなことでもして償うよ。僕は、君だけなんだから……。だから、僕を信じて。帰るなんて、言わないでくれよ……」
「すみません、すみません! 僕の中に棲む不安という化け物が暴走してしまった。僕を支配してしまっていたんです。僕は……、君の言葉を受け取り損ねてしまった。自分に自信が無くなって、君に置いて行かれそうな気がして……」
君に対する負い目は、一生消えやしない。何時愛想つかしをされるかという怯えは僕の心の奥底に響く通奏低音。僕が人間でいられるのは、君が僕を許し受け入れてくれているからなのです。
君はそんな僕には気づかない。
僕が、ものすごく特別な人間だと思っているみたいだ。僕のプライドをくすぐるそんな君の態度が、僕を突っ張らせるのだけれど。
「君みたいな人が、どうしてまた……」
「君が素敵すぎるからです。君が欲しいというのは、僕だけじゃないはずなんだ。僕は君が欲しい。いや、君の全てを僕のものにしておきたい。思い出の中ででも、君が僕以外の誰かを見つめるなんて、僕には耐えられないんです。ねえ悠季、君は、君好みの女性がプロポーズしてきたとしても、僕を選んでくれますか?」
は? と、一瞬の間があった。僕の言葉が意外だったらしい。
あっはははと悠季が笑った。
「女房妬くほど亭主モテもせずって言葉、あるじゃない? あれみたいなもんだよな」
あやすような、子供を見るような顔つきで、それだけ言うと、ぽおっと赤く頬を染めた。
「ま、僕らの場合、女房と亭主が逆だけど……さ。言っただろ? 男も女も関係ないって」
僕の額にコツンと額をぶつけて、僕の瞳を覗き込んだ悠季は、優しく苦い笑みを浮かべていた。
「僕の方こそ、切実な不安を感じてるのに。……言うなれば、あれだ、コンビニの残り物の弁当だな。もうすぐ賞味期限が来ちゃうのに、誰にも見向きもされなくてさ。そんな誰からも欲しがられない僕を、どんな御馳走だって手に入る立場の君が、抱え込んで誰にも取られないように警戒するって図。喰ってみたら、やっぱり旨くなくって、残して捨てちゃうかもしれないのに。ね? それっくらい僕の立場は、僕にして見れば意外なんだ。君の気持ちはすごく嬉しくて、天国まで舞い上がっちゃいそうに僕にとっては特別なことで。……だから、不思議なんだよ。そんな君が、僕に捨てないでって顔で縋るなんて。逆だろう? 立場が……。僕が、君に言わなきゃいけないんだよ、ホントは。圭、……僕を捨てないで……」
最後の台詞を、これ以上無いというほど真剣な瞳で言った悠季を胸に掻き抱いて、彼の髪の香りを思い切り吸い込んだ。
愛しくて、愛しくて。何ものにも代え難い僕の宝物……。悠季……。
「……コンビニの弁当なんて……。僕の大切な人を、そんなものに喩えないで下さい。僕にとっては、桃源郷の不老不死の実よりも特別な食べ物にだって喩えきれないほど、本当に代わりのない、大切な、大切な君なのに……」
君の鼓動、君の吐息。君の感触全てが僕を熱くさせる。
君は、知らない。
ストイックな僕を。
いつだって僕は君が欲しくて欲しくて、まるで欲望の固まりのように君を……。そんな自分に、戸惑っているのを君は知らない。
君とだから一つになりたい。
いくら望んでも、完全に一つにはなれないから、僕は君を抱き締める。たとえ刹那でもいいから一つになりたいと。
「ああ、君は何度食べても飽きることがないほど素敵です。僕はずっと君を食べていたい。君を……食べてもいいですか? 今、ここで……」
悠季の耳元で囁く。熱い息を吹きかけ、どんなに僕が彼を欲しがっているかを口づけで伝える。
悠季がすがりついてきた。熱く燃えたつ彼を僕に押しつけ、早く一つになりたいとその胸の高鳴りが謳う。
「僕も……。君が欲しい。すごく、すごく!」
もどかしげに僕の服をはぎにかかる彼のシャツをたくし上げながら、僕は微かな音を聞き取って舌打ちした。理不尽なのは分かっているが、女史を恨んでしまう。
「圭……?」
「しっ、どうやら今は我慢のようです。沢渡さんが探しに来たらしい」
悠季が硬直した。慌てて身繕いを始める。
「悠ちゃーん、どこにいるの?」
だんだん近くなる女史の声にせき立てられ、身繕いの手を休めずに悠季の唇を求めた。同じ思いの悠季に迎えられ、チュッとキスを交わした。
途端にやり残していたことを思い出した。
「あ……」
「え?」
「ホテルの手配、しそこねてました。電話をかけなければ。ああ、出来たら、今夜から……。いいですか?」
あははと悠季が照れ笑いした。僕が言い出すのを分かっていたようだ。反対しないところを見ると、同じ気持ちでいてくれたらしい。
「怖いな。僕、生きて帰れるかな」
僕の服のほこりを払いながら耳たぶまで真っ赤にして呟いた。
「それは、こっちの台詞です。僕は腎虚になるかもしれない……。覚悟はしておいて下さいね」
ばか……、と唇だけで言って、僕の胸にコツンと頭を寄せた。
「ああ、電話してから行きますから。ここのを借りてもいいですよね? ……先に戻っていて下さい。ほら、もうそこまで彼女が来ている。行って下さい」
彼を送り出し、僕は机の上の受話器を取った。
ふりだしにもどる