銀色のインベンション
大人と同じ表情の子供がいた。
言葉の持つ恐ろしさを知っている。
人の心に裏と表があることを知っている。
ものの見方も、人のあしらい方も、自制心すら大人と同じ。
大人の中で、大人と交わり、大人を見て育った子供だった。
それが成長して、恋をした。正真正銘、本気の恋。
そして……。
僕は子供が同居したままの大人になった。
開け放たれたままのドアを見つめて、僕は溜め息をついた。
愛しいあの人が出て行ってしまった……。
いつも優しく微笑んで、僕を慈しんでくれていた大切な想い人。
「ゆ……う……き……」
守村悠季。
知らず知らず僕の唇をついて出るあの人の名。それは僕の知る限りで一番美しいメロディライン。
僕のオケの、僕のコン・マスであり、優れたヴァイオリニスト。プライベートでは、生涯一度と決めた恋の相手。僕にとって、唯一の癒しの泉であり、そして、今現在は苦しみの元。
出て行ったこと自体は理由があるからいい。
法事なのだ。新潟で、彼の母の。
彼は末っ子長男で、音楽の道に進んだことから、その権利と義務を放棄した人で。だからこそ、こんな時には背を向けられない人で。
その上、法事を挟んで、彼の出身中学からヴァイオリンのリサイタルの依頼も来てしまった。ついでにクラス会もあるという。
「故郷に錦を飾る……ってとこですかね?」
僕の台詞に、彼は頬を赤らめ、
「よしてくれよ。錦なんて、とんでもないよ」
と、呟いた。
ああ、君はどうしてそんなにも、シャイなんでしょうね。純で、清らかで、控えめで……。そんな君だからこそ僕は、一生離すまいとしがみついてしまうんです。
そう心の中で語りかける。瞳に愛しさをのせ、僕は一心に彼を見つめた。
彼がとろけてしまうまで。
僕の腕の中にその身を預けてもいいという気分になってくれるまで。
五日も離れるとなると、彼の感触をこの腕に残しておいて貰うために、どうしても僕の行為は濃厚になってしまう。
そう、僕は、プラトニックな愛だけで彼を愛しているのではない。彼の身も心も、僕の、僕だけのものでなければ耐えられないし、僕の動作の一つ一つに反応する彼の感じやすさは、それぞれがひどく僕の官能を引き出すものなのだ。身体の悦びと、心の慈しみと、どちらも同じ比重でもって僕の中に存在している。どちらかを切り離して考えることなど、僕には出来ない。僕にとってそれは当たり前のことなのだったけれど、彼は……、なかなか受け入れてはくれなかった。
僕は桐ノ院圭。職業は指揮者。かけ出しだが、天才との賛辞をくれる人も多い。
彼、守村悠季もその一人になってくれている。
僕たちは、富士見二丁目交響楽団という、手弁当的なアマチュア楽団で知り合った。
ああ、知り合ったというのは、気取りがある。
実のところ、僕が川原で耳にした彼の音に惚れて、探して探して、やっと探し当てて、押し掛けコンダクターを決めこんだのだ。
そこで初めて見た、あの音を奏でていた人が、僕の理想を具現したような人で……。
どうしても欲しかった。愛しくて、愛しくて、焦がれて、焦がれて……。
それは、どう気取ってみても、アガペーではあり得なく、エロスの愛だった。白状すれば、あの時、彼の気持ちも何も僕の念頭にはなかった。ただ彼を手に入れる、手放すわけにはいかない、そういう一方的な思いで僕は彼を強引に奪ってしまった。
そう、今だって、基本的には変わっていないかもしれない。
彼は、僕の傲慢で愚かな行為で深く傷ついたにも関わらず、赦し、理解し、受け入れてくれたのに。
僕は独占欲が強くて嫉妬深い。
分かっているのにままならない。
法事のために帰郷するのは以前からスケジュールに入っていて、僕は当然快く彼を送り出すつもりでいたのだが。
出かける直前になって、僕は彼を怒らせてしまった。
彼が、懐かしそうに旧友のことを口にしたから。
別れを惜しんでねだったキスが、ほんの少し心此処にあらずという感じだったから。
列車の時間が迫っているのに、きちんと身支度をしてあった彼に性急に行為を求め、僕は……。
そんなとき、僕は思いやりとか、相手の都合とか、対等でいるための最低限のマナーすら忘れ去ってしまって、子供に返る。
そう、僕は君に甘えてしまうんです。
(圭のバカッ!!! 我が儘もいい加減にしろ!)
彼の声が僕の耳の奥でエコーをかけてリフレインする。
本当に焦っていた彼は、僕を全力で突き飛ばし、ドア口に用意してあった荷物をひっつかむと駆け出していった。
それでも、僕は最低限の目的を遂げることは出来た。彼のきめ細かな白い肌に、僕の印を付けたのだ。ワイシャツの立て襟でも隠れないようなところに、わざと。
この人は僕のものです。僕だけの悠季……。誰も、手を出さないで下さい、彼には僕という者が居るんですから。
そんな想いで、めいっぱい痣になるようにキスをした。
ああ、僕は彼の言うとおり馬鹿なんだ。途中の駅のトイレか何かで、身繕いをする際にでも、彼は気づくはず。そして、呪いの言葉をその場にいない僕に向かって吐くだろう。
「ゆ……うき……、悠季、すみません……」
口にしたって、彼には聞こえない。けれど、これはもう、脳のお漏らし状態なのだ。自分を立て直すためにも声に出して呟く必要があったのだから。
僕は、《冷静沈着という言葉が服を着て歩いている子供》だと言われて育ったのだが。それは、飽和状態の中で育ったために、何ものにも執着しなかっただけのこと。
彼に会って、セルフコントロールの出来ない自分の本質に直面した。
僕は、他人よりずっと嫉妬深い。それを抑える忍耐力も不足している。悪い意味での『おぼっちゃま』という言葉が、そんな僕を表現している。
「分かってる……、分かってます……。だから、許して下さい。帰ってきて……くれますよね?」
僕の声だけが響いた。
カレンダーに彼の筆跡で書き込まれたスケジュールでは、土日と祭日を挟んで五日間の一人暮らし。たった五日と思おうとしても、出だしで躓いた僕は、五日も一人で居なければならないのだという重苦しさに沈む。
あの人の暖かな優しい声や、はにかんだような微笑みや、時に無邪気な、子供のような笑い声が消えたこの部屋は、やけに広くて冷たくて……。
躊躇いがちなキスを唇が覚えている。吸い付くような肌の滑らかな感触を指が覚えている。歓びに震えて締め付ける熱く柔らかい感触を思い出して、僕の分身が熱く動悸する。ぴりりと掻きむしられた背中の爪痕が僕の寂しさを強調する。彼を思えば思うほど喪失感が僕を浸食する。他の、音楽などで埋めてもその空虚さは増すばかりで……。
僕にとって、人生で一番大切なものが音楽だと思っていた。それが……。
悠季という人が塗り替えてしまったのだ。僕の中を占める割合は、悠季が七分、音楽が三分……ぐらいだろうか。どちらもかけがえが無く、それなのに、悠季が側にいてくれないと、音楽すら僕から去っていってしまう。それくらいに、僕は……。
あの人の残像を探して部屋を見回した。目を閉じれば、そこここに彼の姿を思い浮かべることが出来る。
一人暮らしの長かった彼は、僕の部屋に住むようになってから、進んで家事全般を引き受けてくれていた。
そういう意味で彼を『かみさん』だと思ったことはない。彼は気にしているような所があったけれど、僕は彼を女扱いするつもりはないのだから……。
凛として背筋を伸ばした男の君が好きなんです。ピュアで清冽で。僕を受け止めてくれる大人の君が……。
体格がよくても、力があっても、僕は君にはかなわない。僕の取り柄は音楽だけで、日常生活では不器用この上ない男なんだ。その上、人間関係でも……。
もちろんこんな事は誰にも、悠季にも秘密なのだ。彼は、妙に僕を買いかぶっているところがある。そんな彼の態度や言葉は、僕にとっては甘い蜜なので。
そして、彼の期待に応えるために、彼と肩を並べるために、僕は精一杯大人であろうと背伸びする。
しかし、僕は子供なんだ。甘えることにさえ不器用な。悠季がいなければ、僕は大人でいられない。僕を甘えさせてくれるのも彼だけれど、大人であろうと努力させるのも彼だけなのだから。
そう居直ってしまえば僕はもう、自分のスケジュール帳と時刻表を手にするしかなかった。
「け……桐ノ院? どうしたってんだ?」
二人きりの時の呼び方で僕を呼びそうになった悠季は、横にいた男にちらっと目をやり僕の姓を呼んだ。
慌てて僕に駆け寄ってくる。頬は寒さのせいで紅潮しているだけなのだろうけれど、瞳の輝きは僕を迷惑には思っていないようだった。
彼の実家というか、今は姉夫婦の家である雪国によくあるタイプの急斜面の屋根を持つ二階建ての家。どう切り出そうか、考えながら、深々と雪をかいてつけられたトンネルのような道を歩いていたら、目指す玄関が開いて彼が出て来たのだ。
何という……。
僕はその懐かしい姿を目にした途端、喉元までこみ上げる熱い胸苦しさに硬直した。
まだ南天の高みまでは上りつめていない陽を照らして銀色に輝く雪の白さに負けない輝かしさで、悠季は僕の視界を占領した。
そうして僕は彼をこの腕に絡め取り、その甘く優しい唇を思う様味わう夢想にとりつかれる。
僕は気にしないけれど、ギャラリーを気にする彼のために、それは夢想だけにとどめて、僕は彼の肩を抱きに行きたい手をぎゅっと押さえるように握りしめた。
「圭……?」
声を潜めて彼が囁く。
怪訝さと併せて心配げな声音。
僕のことを心配してくれている。それだけで、僕は来て良かったと感じてしまう。
新幹線と在来線の乗り継ぎに、ゆっくり走るタクシー。心は一直線に彼の所に飛んでいたのに。思い立って、他のスケジュールを整理して、簡単な荷造りをして。半日以上もかかってしまった。
「仕事……、あったんだろう?」
「休ませて貰いました。今の僕ではろくな仕事が出来ない。たとえ、小さな仕事でも、いい加減な指揮をしたくはありません」
「何が……、あったんだい?」
「ユキちゃん、此処じゃ寒いから、中、入って貰ったら? 俺は先に行くから。戸締まり頼んだよ」
悠季と一緒に出て来た男が声をかけてきた。
「あ、すみません。彼、フジミのコンダクターの桐ノ院さんです。あっちで親しくして貰ってるんで……。後から追いかけますから」
年齢は、三十代前半というところだろうか、普段着なれない黒服が窮屈なのか、まるで就職活動を始めたばっかりの大学生のような感じに見える。純朴そうで直情そうなまなざしが、荒削りなきついラインで描かれた眉の下で、僕のことを観察していた。
やがて彼は瞳を和ませ、やんわりと微笑んだ。
「や、お噂はかねがね。ユキちゃん、こう見えてもきついとこあるから、大変でしょ、つき合うの」
「ええ、でも、僕の方が勝ってますから」
「幸平さん! 桐ノ院も!」
悠季の紅潮した顔は、怒ったような表情を浮かべようとして失敗していた。
『幸平さん』は、あっははは、と、笑いながら軽く手を振って行ってしまった。
親しげな、ユキちゃんという呼び方が、癇に障る。
「……彼は?」
「僕の義兄だよ。二番目の。とにかく入って! もうみんな行っちゃったんだ。僕も急いで後を追わなきゃ。何しろ今年は積もり始めるのが早くてさ。雪ん中で法事だなんて、予定が狂って慌ただしいったらない」
悠季が僕の手を引いて玄関へ導いた。
軽い会釈を彼の義兄の背へ送り、僕は悠季の家に足を踏み入れた。
悠季の手の温かさと室内の暖められた空気が、僕の冷え切った身体にシンとしみ込む。
「圭……、びっくりしたよ。幻かと思った。こんなに冷え切っちゃって、君、大丈夫かい?」
そういいながら、僕の冷たくなった頬を両手で包むように挟み込んだ。
「全く、君は……。時々あんまり強引だから……僕は……」
悠季、君は本当に思っていることが顔に出る。僕がどうして此処に来たか、君はお見通しなんでしょう? それで困ってる……。
僕は頬におかれた温かい手を取ると、その掌に口づけた。
ああ、この手がないと、僕は生きてはゆけない。
「全然大丈夫ではありませんよ。僕は今、病んでいるんです。どうしようもないほどに。それで、静養に来ました」
左胸に空いている方の手を当て、更にアピールする。
「ここが、苦しくて、苦しくて。治すのには特殊な薬が必要なんです。君じゃなければ治せない……」
「だめだ! ……止してくれよ」
悠季はひったくるように手を引っ込めて僕を睨み付けた。頬を赤らめながら睨まれても、僕にとっては誘惑でしかないと、いつも言っているのに。
悠季は僕と目が合うと、さっと俯いた。
「来てくれて、嬉しいけど……。君の病気は、今ここでは治せないよ。悪いけど、法事が始まるんだ。……ここで待っててくれる? 泊まってくだろ?」
彼が僕の手を引いて入った二階の部屋は、普段使ってはいないらしい生活感の薄さを感じさせた。八畳の和室で、彼の鞄とヴァイオリンケースが隅に置いてある。古びた机とキャビネットには、同じく古びた幾つかのスコアと、使い古された教本。ただそれだけの部屋にちょこんとヒーターが置いてある。
「ここに?」
僕のコートをハンガーに掛け、悠季はファンヒーターのスイッチ入れて振り返った。
「だって、他にどこに泊まるってんだよ? この辺には旅館だってないんだよ。……ここは僕の部屋だったんだ。普段は物置状態らしいけど、キャビネットと机だけは姉がそのまま残しておいてくれてね……」
ああ、見えるようですよ。
勉強をしている君。一心不乱にヴァイオリンを練習する君。君の小さな頃は……どんなだったんでしょうね。もちろん、すごく可愛かったに違いありませんが。
「君の部屋に泊まるのはすごく嬉しいんですが……。ただ……」
君を抱き締めて眠るのは厳禁なんでしょう?
僕の言いたいことを読みとってか、彼は目元を染め、眉をひそめてぼそぼそと言った。
「もちろん、ここではアレは無しだよ。隣が子供部屋でね。ここは、もう、僕の家じゃなくて、姉の家なんだから……」
「……分かってます」
僕の欲しい温もりがこんなに側にあるのに、それにくるまる事が出来ないなんて。分かってはいたけれど辛い。せめて掠めるような接吻だけでもと、彼の顎を捕らえたら、ぺちっと軽くはたかれてしまった。
「……キスも! ねえ、頼むから。こういう土地では本当にまずいんだよ。プライバシーなんて、無いに等しいんだから。僕の故郷を無くさせないで欲しい。君のつけたキスマークだって……。ごまかすの大変だったんだ。……その、ほんとに悪いって思ってるんだけど。君の気持ち……、すごく嬉しいんだけど……ごめん……」
申し訳なさそうに僕を見つめる瞳は、僕らの関係を隠さなければならないのが不本意だと語りかけてくれていたけれど。
肉体関係が全てではない。しかし、彼が語りかけてくれる愛の言葉は、彼が我を忘れて僕との行為におぼれているときにしか聞くことが出来なくて。
我が儘な僕は証を欲しがった。まだ彼に愛されているという証を。ただそれだけを。
僕の浅はかな行動のせいで、僕たちの間には肉体関係の方が先に出来上がってしまったという事実がある。
彼は、意志に反して身体が肉の愉悦を欲しがるのを悩み、絶望までしたんだった。そんな彼が僕を受け入れ、今は僕との行為を楽しんでいる。
愛してくれているからだと思う。
思うけれど、僕は、ベッドの中以外で彼から聞きたかった。僕にとって彼がそうであるように、僕も彼の中で重要なポジションを占めているかどうか……。
惚れた方が負けとはよく言ったものだ。僕の不安は、全て彼の行動パターンによって生まれる。嫌われたくない、好かれたい、愛されたい。そんな想いが僕の行動を乱脈なものにする。
「すみません。僕だって、自分が駄々をこねているんだって、分かってるんです。でも、お願いです。僕と一緒に帰ってくれますよね」
「もちろん、帰るよ。用が終われば……。どうしちゃったんだよ? 君、変だよ。ああ、もう、ほんとに急がないと。ね、待ってて。そうだ、昼飯。なんか食べる物、持って来なきゃね」
僕が要りませんと首を振って答えると、彼はちらっと心配そうに僕を見た。
(本当にそうかい?)
(ええ、大丈夫です)
「行って下さい。僕は大人しく待ってますよ」
時間に追いつめられながら、僕を心配する悠季に、声を出して答えて送り出した。
「ああ、じゃ……。本当にごめん。三時間くらいで戻るから、話は後で!」
腕時計を見ながら、慌ただしく彼は出て行った。僕を一人残して。昨日と同じに……。
僕はぼんやりと部屋を見渡し、悠季の影を探した。
キャビネットに目をやると、ガラス越しに見えるスコアの薄い背表紙に混ざって、分厚い背表紙が目に入った。古い革張りの、アルバムらしき雰囲気。
悠季は見るなとは言わなかった。
お行儀の悪い客には違いないが、僕は悠季のキャビネットを開け、それを取り出した。
案の定アルバムだ。末っ子の割には初めての男の子という事で、それなりに子供の頃の記録としては平均的な枚数が収まっている。
やはり。赤ん坊の頃から、君は綺麗だ。
真夏の行水シーン。気持ちよさそうな笑顔は、今も変わりませんね。
ソリに乗った君。
スキーを履いた君。
姉たちに囲まれ、小突かれながら、それでも明るい微笑みで楽しそうに。君のことだから、お姉さん達の後を真剣について歩いていたんでしょうね。
小学生時代……。ヴァイオリンを持っている写真が多い。本当に音楽に浸って育ったんですね。
ゆっくりとページを繰る度に、僕は悠季で一杯になっていく。
学ランを着ている悠季は……。実にビューティフルだ。初々しくて、可愛くて。
もし君と同じ学校だったら……。皆勤賞もので卒業できたかもしれないな。その姿を一目見るためだけでも、僕は登校しただろうに。
このアルバム、ここにあってよかった。あの、アパートの火事で燃えてしまっていたら……。僕はこうして君の思い出に触れることもできなかった。
「圭?」
待ちに待ってた声が背後から僕を呼んだ。
「ああ、もう、三時間……経ったんですか?」
胡座をかいたまま半身だけで振り返った僕の手元に目をやり、悠季は真っ赤になった。
「何見てんだよ。勝手に!」
「見るなとは言ってませんでしたよ」
「う……。まあ、仕様がないか。ごめん。せっかく来てくれたのに一人にして。……暇つぶしにはなったかな」
「ええ、時が過ぎるのに気づかないくらい楽しかったです。僕の知らない君が垣間見えて……。それだけでも来て良かった」
「腹減ったろう? 下で宴会始めるから一緒に食べて。姉たちに紹介するから」
(友人として……ですね)
(ごめん……)
すまなそうに目で言う悠季に、僕は苦笑を返した。いいんですという気持ちをめいっぱいのせて。
僕が追いかけてきた理由は、悠季に更なるチャンスとなるオーディションの話が舞い込んだからと説明した。急な話だったので、必要書類や課題曲の準備のために僕が自ら悠季を追いかけることになったと。説得力はあまりないけれど、多分僕らの関係には誰も思い及ばないはずだ。事実予想通りに彼らは気にしなかった。
ユキちゃんもすごいことになったな、と、感心されて、決まり悪そうに悠季は微笑んだ。
「でっかいなぁ……!」
酒の入った赤ら顔で、悠季の叔父だという男が僕をあからさまに観察して言った。
「それに、この男前。たくさん女泣かしたんだろう?」
ウリウリとしながら僕のコップにビールを注ぐ。
「叔父さん! 桐ノ院は、そんな奴じゃないよ」
僕の横から悠季が抗議した。
「まあ、音楽家で、その見てくれで……じゃ、女の方が寄ってくるよ。なぁ?」
幸平という人が、また笑いながらねじ込んできた。
「ええ、まあ。好むと好まざるとに関わらず……ですね。僕のために泣いて欲しい人は一人しかいないんですけどね。これがなかなか。僕の方が泣かされてます」
うっそりと言った僕の横でピキッと凍り付いた悠季の顔を盗み見ると。予想に反して、青ざめている。
また、よけいなこと考えてませんか? 悠季……。
「いやあ、あんたみたいな色男泣かせるなんてどんな人なんだね?」
「……、美人ですよ。性格もよくて、優しくて……。とにかく純情でして。清楚で控えめな人なんですが、プライドも高くて。……その上、僕の思いをなかなか信じてくれなくて、苦労してます。自分が僕をどんなに虜にしてるか、気づいてくれないんです。言葉を尽くしても……」
へえ、と一座が吐息を吐いた。悠季は俯いてコップに残ったビールを見つめている。
大いに照れて下さいね、悠季。これは僕のラブコールですよ。
「あらあ。桐ノ院さん、意中の人がいるんだ。残念!」
悠季のすぐ上の姉だという人が厨房の方から新たな料理を運びながら声をかけてきた。
悠季によく似ているほっそりとした美人。見てくれだけなら、僕好みといえるのかもしれないけれど。
悠季の持つ一途な情熱や、どこまでもシャイで控えめな純情さや、子供のような無邪気な笑顔と、それでいて僕を包み込んでしまう寛大な大人の部分が、彼女からは感じられなくて。
……なぜだか悠季の方が清楚に見えてしまうのは僕の惚れた欲目って奴でしょうかね。
「でも……、大変よね」
「え?」
「桐ノ院さんの彼女」
悠季の顔で、悠季のしたことのない、ほんの少しだけ意地悪そうな表情を浮かべた彼の姉は、僕のことを真正面から覗き込んだ。
「桐ノ院さんがどんな人を選ぼうが、それは桐ノ院さんの勝手だけど。選ばれた彼女は、常に周りから相応しいとか相応しくないとか、観察され続けるし、……そうね、彼女にとっては茨の道だわね」
「はあ」
「女って、同性には厳しいのよ」
「覚えておきましょう。僕の恋人にはそういう辛い思いをさせません」
「ひゃあ、言う言う。ユキちゃんも、このくらい押し出しよくしてりゃあ、いいのにね」
「男前なんだからさぁ」
「そうそう、もっと自分に自信持ってだなぁ」
口々に言われ、悠季は縮こまってしまっている。
酒のピッチが上がりましたね。
確かに、君は自分に自信がなさすぎる。でも、そんな君も僕にとっては魅力的で……。
「ユーキはいいのよぉ。恋人出来たらしくってね。この子ったら、ものすっごい濃厚なキスマークくっつけて帰ってきたのよ」
「ねっ、姉ちゃん? あれは違うって言っただろう?」
悠季の抗議の声など抑えつけるように、彼の頭の上に頬杖をつき、彼女は笑った。
「やあっと、童貞とおさらばらしいの」
おおーっと言うどよめき。悠季は、怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしてしまっている。
ああ、すみません。僕のせいですね。
「じゃあ、今まで……?」
「この子ね、変なところ生真面目でしょ? 好きな人とじゃなきゃそういう事しちゃいけないってね。……結婚初夜を童貞で迎えるんじゃないかって心配してたのよぉ」
よかったよかったと頷きながら、大胆な台詞を吐いた姉君はひとしきり悠季の頭を撫でると厨房へ戻っていった。
「あれが三倍」
悠季が俯いたままぼそっと言った。
「は?」
「僕はああやって可愛がられて育ったんだ。姉たちから……」
「ああ……」
僕はクスりと笑いを声に出した。
「そうやって、君が出来たと……」
赦しという優しさを持った忍耐強い君が、彼女たちのおかげで作られたのなら、僕はいくら彼女たちに感謝しても足りませんね。
「ユキちゃん、ユキちゃん!」
「え?」
「ユキちゃんの恋人って、どんな人?」
悠季の顔が酒だけのせいでなく赤面した。僕は、彼の口から出る言葉がどんなものか、他の人達と同じように耳をそばだてた。
「え……っとお……。いいじゃないか、そんなこと……。言えないよ」
酔いがいっぺんに醒めてしまったようですね。でも、君の口から僕のことを聞けるいいチャンスです。だから僕は助け船は出しませんよ。
「いいじゃない、ねえ、桐ノ院さんとこ程じゃないにしろさ、ユキちゃんが決めたんだ。いい子なんだろう?」
「…………」
しんとしている一座。それぞれの目だけが悠季の口が開くことを促している。注目の悠季の口元がきゅっと締まった。覚悟を決めたらしい。
「もうっ、みんな好き者なんだから……」
眼鏡を押し上げて溜め息を隠し、彼は語りだした。
「僕には……過ぎた人なんだ。年下なのに僕より大人で、しっかりしてて……ポリシーをきちんと持ってる人でね。ちょっと我が儘で強引なところがあるけど、僕のこと本気で思ってくれてるから……。モテる人で、最初は僕のどこがいいんだろうって、信じ難かったんだけど。それくらい素敵で、可愛い人……。あは、恥ずかしいな。酒でも入ってなきゃ、とても言えないや」
照れたもの柔らかな笑いで締め括った悠季を、僕は抱き締めたくて、抑制するのにかなり苦労した。
一座からはどっと溜め息が出た。
「ひゃあ、ユキちゃんがのろけてるーっ。参ったなぁ。こりゃあ、結婚式が楽しみだ。いつ頃かい?」
「結婚なんて……、僕一人喰うのにも困ってるくらいだから……。まだまだだよ」
そうなのか? という質問の視線が僕に寄せられた。
「彼は、きっと成功しますよ。僕が保証します。守村さんは優れた音楽家ですから。既にその才能の片鱗を見せ始めているんです。彼の名が日本中に鳴り響くのだって、もうすぐですよ。その次は世界ですね」
こればっかりは、嘘でも芝居でもなく心から言える。それがとても嬉しい。
「桐ノ院! いくら何でも、こんな所でおだてないでくれ」
おだてなどではない。言い返すのは簡単だけれど、僕は肩をすくめるだけにした。
「桐ノ院さん、本当かい? このユキちゃんが?」
「本当です」
守村の人達は、やはり悠季の血統である。僕の言葉への反応は、素直で純真な喜びと、ほんの少しの謙譲の心。
「……彼は、守村さんは、現状に満足しません。上へ上へと高みを見つめて努力する。そんな守村さんが、才能もあるのに成功しないわけがありません。だから、彼がそうする限り、僕は安心して保証という言葉を口に出来ます」
僕のバリトンと経歴には、結構説得力がある。彼らがやんやと悠季を持ち上げ、照れさせるのを、酒を啜りながら僕は見つめた。とても旨い肴だ。
長い宴が終わり、心地よい酔いも醒めてから風呂を貰って、僕は悠季の部屋で彼を待った。
ぱりっと、それでいて柔らかく糊の利いた浴衣が心地いい。畳に程良く離されて布団が二組。僕は、布団を移動させて、その川を狭めた。
並べられた枕を目にして、口元がにやけるのを僕は抑えられなかった。
あ、こんな顔、悠季には見せられませんね。
でも、和室と、布団と、浴衣と……。僕にとってはどれもが新鮮で、好きなもので……。悠季が絡むのだから、それはもう極上のものになる。
今夜は大人しく寝る約束だけれど。せめて近くで手を握っていたい。
「……桐ノ院?」
愛しい人の声に、僕はまるで餌を待っていた子犬のように弾んで振り返った。
ああ、そこには悠季の風呂上がりの浴衣姿……。しどけなく色っぽくて。
理性が吹き飛んでしまいそうです。
「あーっ、なんだよ、この布団」
悠季は布団を見るなり僕を睨み付けた。離して敷いてあったはずが、くっついているのを見とがめ、警戒したようだ。普段の行いのせいか、彼の警戒心は頻繁に発揮されてしまう。
「僕の病気を少しでも楽にするためのおまじないです。いけませんか?」
しれっと言う僕から視線を逸らし、悠季は眼鏡を外すとゆっくりと拭いながら嘆息した。
「……いいけど……ね。何にもするなよ」
「無論です。約束は守ります」
僕だって、TPOを弁えるくらいの常識は持ち合わせているというのを、彼は今一分かってくれない。
君が本気で困るようなことを僕がするわけ無いじゃないですか。
「……おやすみなさい、悠季」
悠季が落ち着かない様子なので、僕は先にあてがわれた布団に潜り込んだ。彼はそれで安心したのか自分も布団に潜り込んだ。
「おやすみ、圭」
悠季の声が、やけに甘く響く。甘えるように、全てを僕の腕に投げ出すように。いつもの夜なら、そのまま彼を僕の胸に抱き込んで暖めあって眠るものを……。
今すぐに愛し合いたい。
君の一言で、そんな想いにとりつかれる僕は、変なのですかね。どうして君は寝た子を起こすようなことを時々するんでしょう。こんなにも君を欲して、何もかもほっぽって、新潟くんだりまで追いかけてきた僕に……。
誘うだけ誘っておいてお預けを食らわせる……。それを、ほとんど無意識でやっているのだから始末に悪い。
僕は、いろんな意味で我慢強いことを自負してきたつもりなのだけれど、そんなプライドは、悠季によっていとも簡単に崩されてしまう。
どうにか約束を守ろうという意志の力で、彼を抱き締めたくてうずうずしている腕を布団の中に収め、気を落ち着けるために天井の木目を数えた。
「そうだ、……明日はどういう予定ですか?」
「昼から僕の出た中学で何曲か弾いて、六時からクラス会に出る。……君はどうする?」
「僕は……。君のヴァイオリンを聴きたいです。それに……、君のクラスメートがどんな人達か見たい。出来たら君のクラス会について行きたいんですが。あの、旧友だという、……羽澄さんは来るんですか?」
「あ? ……あ……あ、羽澄……ね。うん、多分。幹事だもの。……、もしかして、君、羽澄のこと気にしてたのかい?」
一度は潜り込んだ布団から身を乗り出して、悠季が僕を覗き込んできた。
ああ、もう、止めて下さい。そんな風に見られるだけで、僕はもう……。
僕は寝返りを打って彼に背を向けた。
「圭?」
「……、そうですね。気にしていますよ。君にあんな懐かしそうな顔をされては……、たまらない。僕の知らない君の思い出……、気になりますね。話してくれますか?」
そう、昨日はそんな時間がなかった。突き飛ばされて、取り残されて……。確かに僕が悪かったのだけど、悠季は僕に嫉妬と邪推と、閨怨の炎を置きみやげに出て行ってしまった。
今、君を抱くことが出来ないなら、せめて僕の気を楽にするだけの事実を明かしてほしい。君が、僕だけの悠季であることを確かめさせて……。
彼は飽きたら捨ててくれと僕の前にその身を投げ出したことがあったけれど。僕にはとうてい言えない台詞だ。
僕は、飽きられても捨てないでくれと縋ってしまうだろう。そう、悠季に去られでもしたら、きっと僕は気が狂う。プライドなんて、簡単にドブに捨てて、みっともなく縋って、あげくに彼を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。
いつも捨てられたらどうしようと、びくびくしているのは僕の方なのだ。だから、少しでも不安な要素は除去しておきたい。
悠季はまたか……、というように溜め息混じりに笑った。
「圭は、ほんとに焼き餅焼きだよね。ま、そこが可愛いんだけど……さ」
僕の自慢のポーカーフェイスも、だんだん悠季には効かなくなっているようだ。
でも、さすがに僕の内心の恐怖までは分からないでしょう?
まあ、君は知らないでいいことですけど。
「君にだけです。こんな僕になるのは……。君が僕を」
「ストップ、スタァップ!」
僕の口まねで悠季が遮った。
「ちゃんと話すから、そういうの止めて。……羽澄はさ、中学の三年間同じクラスだった人でね。僕と違って、スポーツ万能で、成績もよくて、それでいて気さくな人でさ」
ああ、心からそう思ってるんですね。声音で分かります。妬けますよ、ほんとうに。
僕は何も言葉を差し挟むことが出来なかった。必要以上に無表情な声が、きっと僕の内心の焦慮を君に伝えてしまうだろうから。
「……僕なんか、この通り軟弱者だろ? ヴァイオリンなんかやってる変わり者で。あ、部活とかそういうの、参加しないでレッスンに明け暮れてたから……。ヴァイオリンにつながるような課外活動無かったしね。まあ、それで、からかわれたりとかもあったんだけど、学校中の生徒から一目置かれてた羽澄が、よく庇ってくれて。おかげでずいぶん救われてたんじゃないかな……。いい友達だよ」
そっと盗み見た悠季は遠い目をして言葉を切った。
う、全然救いにならない事実ばかり……。そんな人が、君を呼びだしたとなると、僕は誰が止めても君についてクラス会に行くしかないじゃないですか。
「その人は、今は何を?」
「母校の先生。科目は何だったかな……。今度の僕の演奏会も羽澄の企画らしいんだけど、音楽関係の担当じゃないはずだ」
「それでは、演奏会に行けば会えますね。それにしても、何故でしょう? 担当でもないのにそんな企画を……何故?」
「さあ……。小さな町だし、丁度僕が法事で帰って来るってわかったからじゃない? クラス会だって、それでやってくれることになったらしいし」
明るく笑う悠季の声は、呑気というか、含みのないもので。けれど、僕の不安を増す力は持っていた。
胸騒ぎがする。
悠季は僕の焼き餅を笑うけれど、自分の魅力を知らなさすぎるのだ。そう、彼はピュアで、その分ガードが堅くて。
自他共に認める強引で自信家のこの僕が、何度も挫けそうになったくらい、彼を捕らえるのには苦労したのだ。女好きの飯田さんなら、タデ食う虫も……と言うだろうけれど。悠季の魅力は、決してタデのような特異なものではない。
姿の美しさも、性格の素敵さも、そして奏でる音も……。手に入れたいと思うのは、僕だけではない。惚れた欲目ではないところが困ったところで……。
とにかく明日だ。
「……明日が楽しみです。曲は結局何をやることにしたんですか?」
「ユモレスク、G線上のアリア、ショパンのノクターンの二〇番とか。……伴奏も無しだから、ソロで聴きやすい曲を考えてる。それと、出来ればやりたくないコンチェルトを一つ……」
何故か憂鬱そうなその言い方に、僕はコンチェルトなのに伴奏無しというのが気に入らないのだと勝手に理解した。
「高嶺を呼べばよかったのに」
「な? 冗談だろ? 生島さんに悪いよ」
「高嶺は気にしませんよ。アゴ・アシ・マクラの心配さえなければ、君の伴奏を断る訳無いでしょう? 帰りにスキーでもつけてやればソラ君も乗ってくるだろうから、気兼ねなんか要らないんですよ」
「ああ、スキーね。ま、今からじゃ伴奏は間に合わないけど、圭も来たことだし、最後の一日、二人を呼んで、スキーでもしようか?」
僕は悠季の言葉に固まった。
「……ちょっと待って下さい。最後の一日って……。予定はどうなってたんです? 僕が追いかけてこなかったら、空白の一日をどう過ごす気だったんですか?」
カレンダーと、予定が合わない。
僕の目を逃れて、僕に内緒で、君は何をするつもりだったんですか?
邪推の心がまた身をもたげる。僕は思わず身を起こして悠季を見下ろしていた。
悠季は、ちょっぴり悪戯っぽい笑みを浮かべ、僕を見上げた。眼鏡を外しているせいで、僕の怒りの表情は見えていないらしい。
「早めに帰るつもりだったんだ……。そしたら、君は驚いてくれたかな」
「驚いたでしょうね、もちろん。それに、舞い上がっていたはずです。それが本当なら、ですが」
怒りをポーカーフェイスでくるんで、僕は悠季の布団に手を潜り込ませた。彼の感じやすいポイントは全て心得ている。ちょっと触れただけで彼はハッと息を詰め、吐息を漏らした。僕は手を止めずに、囁いた。
「しっ、声は出さない方がいいです。聞かれちゃまずいんでしょう?」
喘ぎを押し殺しながら、悠季がかすれた小さな声を絞り出した。
「圭っ、圭……、止めて。……こっちに着いてから……演奏会の……予定がずれたこと……を知らされた……んだよ。……連絡を取ろう……と思ったけど……」
「けど?」
僕の声は低く穏やかに響き、指だけが容赦なく彼を責める。悠季は息を詰め、僕の手を押しのけた。
僕はそんな彼の腕を逆手にとって、布団をはぎ取ると、彼を抑えつけた。はだけた浴衣から見える彼の乳首が、僕を誘惑する。
そっと舌で転がし、口に含んだ。びくんと悠季の身体が律動する。
「…………っ」
身体の反応に負けそうになりながら、彼は喘ぎを押し殺して低く囁いた。約束を破ろうとしている僕を怒っている。
「圭っ……! 今……すぐ止めない……と、僕……は……」
「僕は……、なんです?」
容赦ない愛撫に自ら夢中になりながら、僕は気もそぞろに尋ねた。
そんな僕の耳に入ってきたのは悠季の断固とした怒りの声音。
「君とは口を利かない! 金輪際一言も!」
荒げた息の中、真剣な眼差しで僕を見つめる悠季。僕は手を止め、その美しい瞳に見入った。
「……。意地っ張りな君のこと、ほんとに実行しそうですものね。止めます」
ああ、でも、今我慢するのは本当に苦痛ですよ。
僕は盛大に溜め息をついた。大好きな君に逆らうことなど出来そうもないと。そんな意味を込めて。
悠季は僕を見つめ、怒りを消した瞳で微笑んだ。宥めるように心から優しい声音を出して僕の頬を撫でながら言う。
「君を追いつめてしまったなら、謝るよ。出掛けのことがあったから……、ちょっと悪戯したくなったんだ。それに……、驚いた君が見たかった。君はすぐ表情を作ろうとするから……、不意打ちをして、君の生の表情を味わいたかったんだよ。ごめん……」
悪びれずに謝る悠季を、これ以上責める手だてなど、僕にはない。でも、つけ込むことならいくらでも。
「……ホテルをとりましょう。ここから少し離れたところの。二人だけの部屋で、君にはたっぷりと償って貰います。いいですね?」
「ちょっと、圭?」
「約束してくれたら、今日は何もしません」
「……」
カアッと燃え上がった頬と、僕を睨み上げる瞳。
どうして君はそんなにも色っぽい顔が出来るんでしょうね。
「悠季?」
(返事は?)
彼の頬を撫でながら真正面から覗き込む僕の視線を、悠季は真っ向から睨み返した。けれど、僕はひたすら彼の返事をポーカーフェイスの瞳で待ち続ける。
「もうっ、何でもそうやって……、君は……。いいさ、……つき合うよ」
しょうがないなあと瞳で言って、溜め息混じりに微笑んで。彼はそっと僕の額に口づけた。
「でも、今から取れるのかい?」
「明日、一番に手配します。場所は僕に任せてもらえますか?」
「うん、あんまり高くないところをね」
「はい、僕らの思い出づくりに相応しいところを選びます」
悠季はハハッと力無く笑った。
「明日は午前中リハなんだけど、君も来る?」
「ええ、もちろん。クラス会にもついていっていいですか?」
「うーん、僕は構わないけど、どうかな……。羽澄に聞いてみよう」
「はい、じゃ、明日はそういう予定で……」
「今度こそおやすみ」
「おやすみなさい」
とは言っても、寝付かれない。悠季の寝息という密やかな音楽に耳を傾けながら、僕は悶々と明日会う人について思いを巡らした。
悠季は、きっと『僕を信用してない』と怒るかもしれないけれど。信用していないのではなくて、つまり僕は欲張りなのだ。悠季という癒しの泉を、少しでも誰かと分かち合うなど考えたくもないことで。どんなことがあろうと、たとえ悠季が離れたいと言っても、僕は彼を離さないだろう。
傲慢と罵られようが、僕にとって大切なのは、悠季だけなのだから。
そんなことをぐるぐると考えながら、僕はいつの間にか眠りの中に落ち込んでいった。