銀色のインベンション・3

9へ飛ぶ
 
 リサイタルは成功した。
 念のため言っておくが、客観的に見て、だ。
 悠季の音は甘く、優しく、僕だけではなくその場に居合わせた全ての人を魅了した。
 僕らのパガニーニは、私的感情によって高められただけに、もしも録音されたものを後で聞いたなら、ポーカーフェイスを保てないくらいの赤面ものだったけれど。純朴な客達の拍手は好意的だった。
 個人的に言えば、僕の幸福感は、どんな言葉でも表現しようが無く、同じ感触を得るために、帰ってから部屋にピアノを置こうかと思ったほどである。
 高嶺の時とは違う、僕のための音。悠季の音が僕に語りかける、言葉にならない『愛しているよ』を聞きたくて。
 ピアノイコール高嶺が入り浸る、と、いうのを思い出して、思いとどまった訳だが。
 打ち上げを兼ねたクラス会の会場への道すがら、悠季にそれを言うと、彼は無邪気に笑った。
「たしかに! ピアノはやめといたほうがいいよ。……、君のためなら、僕は何時だって、君の好きな曲弾くからさ……。何でも注文して……。もっとも、ちゃんと聞かせられるようなのは、レパートリー少ないけど……」
 とつとつと、後半を頬を染めて言いながら、そっと周りに目をやり、僕の手を取ってキスをした。
 君を困らせるのでなかったら、即座に三倍返しのディープキスで応えるのですが……。
「君のタクトで弾くためなら、どんな難曲でも練習してモノにしてみせるから……。そりゃ、時間はかかるけど、頑張るからね」
「オケのみんなには単純すぎて物足りないかもしれないけれど、いつか君のパガニーニのコンチェルトを振りたいものです……」
「うん……。その時は、もっともっと頑張って、深めたものをやりたいよ……」
「ええ、期待してますよ。君の音で、僕や周りを幸せにして下さい」
 悠季の赤面は癖のようなものだ。その表情があんまり魅力的だから、僕は分かっていて彼が赤面するようなことを口にする。そんなときの僕の心には、弾むような華やかな音楽が鳴り響く。譜面に書き写すなら、そこにはシンフォニアが出来上がるだろう。僕と悠季と音楽の想い……そう、三声のインベンション。曲想はあくまでも明るく楽しく、そして甘く優しい。
 以前、音楽が、心で感じるものであって、理屈で論じるものではないということを、彼が僕に思い出させてくれたのだ。
 音楽とは愛すること。
 その響きを身体で感じ、心を共鳴させて自らの思いを解放すること。
 言葉でよりも素直にその思いを伝えてくれる音。
 今日、悠季の音を聞いた生徒達の何人かは、音楽というものの不思議に魅せられ、その道に進むかもしれない。そうでなくとも、進路とは関係なく、一生涯の友として音楽を傍らに寄り添わせるだろう。
 それが悠季の音楽。
 僕自身にとっては、悠季自体が音楽そのものだ。そういう意味でも、僕は彼を手放すことなど考えられない。
「素敵な演奏、ありがとうございました」
 入り口で出迎えがてら、ちょこんとお辞儀をして言った沢渡羽澄の微笑みを目にした途端、僕は自分の中にまだ不安が燻っていることを自覚してしまった。
 悠季の音楽人生は僕に寄り添うもので。それに関しては僕も自信がある。けれど、心は……。プライベートな愛情に関しては、僕をナンバーツーの立場に追いやってしまうかもしれない。そんな不安。
 相手が男なら、僕は絶対負けてはいない。そういう嗜好を持たないと言う悠季が受け入れてくれた僕だから。だけれど、相手が女性となると……。悠季の奥手な性格が、自分に対する自信のなさが僕に協力してくれる以外、苦戦を強いられることになるだろう。漠然とした不安なら、僕は克服できる自信があった。
 悠季との音と身体の絡み合いだけで十分僕は救われているはずだったのに……。
 それなのに、沢渡羽澄だ。
 彼女の敵意を感じる。
 肌で感じるそれは、直接的なものではなく、全て気のせいと言ってしまえばそうかもしれないのだが。粘り着くような敵意の視線は、僕と視線の合わない瞬間にあらゆる箇所に向けられる。
 彼女との接点は、悠季以外にはないわけで、そんな彼女が僕に敵意を持つとしたら、悠季がらみとしか……。
「宣戦布告……ですかね」
 一通りの挨拶を交わし、取り残された僕を気遣ってか、悠季が僕のいる隅のテーブルに戻ってきたとき。僕の呟いた台詞に、彼はぎょっとして目で伺った。
(え?)
「沢渡女史……ですよ」
 僕の答えに、ビール瓶を持ってお酌をして歩いている彼女を目で追いながら、何のことか分からないという顔で悠季が言った。
「羽澄が何か?」
「僕は彼女に嫌われたらしい」
 僕の言い方が暗かったせいか、悠季が真顔になって僕の横に座った。
「まさか……、君がなんにもしてないのに女性に嫌われるなんて、考えられないよ。それとも、羽澄に何か言ったの?」
「言ってませんよ、まさか。でも、覚えはあります。……君のことです」
「僕?」
 益々分からないという顔の悠季。そのテの事には妙に鈍感な君に、時々僕はいらつかされる。しかし、そんな彼が、僕の恋心を尚更煽るのも事実だ。
「……言っておきますが、単なる焼き餅じゃありませんからね。君がどう思っているかは、この際関係ありません」
「圭……」
 困惑を声に出して悠季は囁くが、話しているうちにだんだん腹が立ってきた。
「……他に考えようがないでしょう? 初対面の彼女に喧嘩を売られるとしたら、君しか接点がないんですから」
 ポーカーフェイスというのは、こういうときは便利だ。悠季には、僕が腹を立てていることが分かるだろうけれど、他の連中には気づかれない。
「僕が……何したって言うんだ?」
「何もしてませんよ。君に関して含みがあるのは彼女です。……亭主妬くほど、女房はモテるようですね」
「そんなこと……、ありえない。あの羽澄が……?」
 頬を染めて俯くなんて、やめて下さい。そんな表情は、僕のためだけにして欲しいのに……。
「さっき君は、僕の質問にきちんとは答えてくれませんでした。どうです? 今、返事を貰えませんか?」
「な、何の返事だよ?」
「繰り返します。ノーマルだという君は、君好みの女性と僕と、どちらのプロポーズを受けますか?」
 僕の声は響く。内緒話のしにくい声なのだ。たとえ、はっきり内容を聞き取れないにしても、僕の話し声は、結構遠くの人にでも聞き取れてしまう。
 この場に合わないきわどい質問に悠季は全身で狼狽を表した。
「圭っ!」
「……失礼、この場で言うべきではありませんでした。考えて見れば、とても理不尽な気分でしてね。一度、彼女と角つき合わせねばなりませんかね」
「よ、止してくれよ。もうっ」
 昔はともかく、今の君が、僕との関係を人目を憚るように扱うのに、後ろめたさを感じてくれているのは知っています。僕との関係のせいで、仕事を失ったという事がトラウマになっていることも。
 けれど、分かってはいても、僕は寂しさを感じてしまう。
 だから、言葉にして欲しい。僕の寂しさを埋めて欲しい。
 甘えには違いありませんが、僕にその心地よさを教えたのは君ですから。
「では、一言でいいです、僕にだけ聞こえるように言って下さい。好きだよ……と……。今、ここで」
 そっと彼の手をたぐり寄せ、椅子の陰で握りしめた。
「な、何言って……!」
「悠季、僕を救って下さい」
 僕の瞳からせっぱ詰まった思いをくみ取ってくれたのか、悠季は急に真顔になった。
 小さな溜め息と、ほんのり赤い頬。震えた唇からそっと紡ぎ出される言葉は、僕の待ち望んだ……。
「圭……、す……」
「悠ちゃん、悠ちゃん!」
 全くもって、あのアルトには腹が立つ。
 沢渡女史は、タイミングを計ったかのように僕の邪魔をするのだから。
 そんな心の狭い思いにとりつかれてしまう僕に、また腹が立つ。
「今日の主役は悠ちゃんなんだから、ちゃんとみんなの相手をしなきゃ!」
 言いながら悠季の腕を取って引っ張った。
「あ……うん……」
 僕の手からすり抜けていく悠季の手を僕も離すまいと力を込めてしまって。そんな自分に、ハッとして力を緩めた。
「……行ってらっしゃい」
 悠季はすまなそうな視線をくれて、手の放れる瞬間、僕の指に指を絡めた。掠めるように。
(ごめん、圭)
 ポンと肩に手を置き、瞳で言うと、彼は旧友達のもとへ向かった。
 僕は付いてくるべきではなかったのかもしれない。
 確かに、ここでは女史の言うことも尤もで、彼には彼の付き合いってものがあって……。
「寂しそうね」
 楽しそうに談笑しながら旧交を深める悠季の姿を肴に、ちびりちびりと一人酒を飲んでいた僕に声をかけたのは、よりにもよって、沢渡女史だった。悠季のいた席に目をやりながら、僕の向かいに座ると持ってきた徳利を置いた。
「後を追いかけてくるほど、悠ちゃんにご執心?」
「は……?」
 いきなり何を言いだすんだ? この女は……。
「そのポーカーフェイス。あたしには効かないわよ」
 僕に酌をしながら、ニッと笑って言った。それは、やけに意地の悪い笑みで。女性というのは、何故こうも、相手によって性格を変えるのか。内心吐き捨てるように溜め息をつきながら、僕は効かないと言われたポーカーフェイスを固めた。
 だいたい僕は、女性に興味はないわけだが、迫られたり、アタックされたりというのは慣れていても、こう、敵意をむき出しにされるというのには慣れていない。声に戸惑いが出るのは抑えられなかった。
「僕にはよく分からないんですが……。貴女の敵意は、どこから来てるんです?」
 女史はケラケラと笑った。
 酒が入っているせいなのか? それにしては、声の潜め具合も周りへの気の使い方も冷静すぎる。
 彼女は僕を睨み付けながら低く呟いた。
「どこから……ですって? ……悠ちゃんを、返して欲しいのよ。もとの悠ちゃんに戻して。ただそれだけ」
「彼は、僕のオケの、僕のコン・マスです。不可能ですね」
「そんなことを言ってるんじゃないわ。解ってるでしょう?」
「解りません」
「とぼけたって、無駄よ。準備室でしてたこと、分かってるんだから……。ううん、そんなこと知らなかったとしても、あの演奏を聴けば分かる。悠ちゃんは、変わってしまったわ。あたしの好きだった、強い悠ちゃんがいなくなっちゃった。あんな頼り切った目で貴男を見たりして。……黙って耐えて、許してしまえる強さを持った、一人で立ってる悠ちゃんに会いたかったのに……」
「彼は……、今でも強いですよ。貴女の言う強さを、十分持っている。僕なんか、及びもつかないほどの強さだ。だから、僕には彼が必要でしてね。僕のコン・マスを手放すわけにはいかないんです」
「はぐらかさないで!」 
 すみません、悠季。沢渡女史は、僕らの関係に確信を持っているらしい。どう考えても見られていたはずも聞かれたはずもないんですが……。
 彼女に知られたなんて、僕の失態だ。僕が追いかけてなぞ来なければ……。
 まあ、本音を言えば、嘘をつかないでいいというのは楽なのですが。
「ああ、そんなつもりはないです。僕が彼を必要としているのは、公私ともにでしてね。あんまりにも近すぎて、切り離すことが出来ない。……彼は、ヴァイオリニストとして生きることを選びました。僕と一緒に歩むことを決めてくれたんですよ。僕は悠季を縛ってはいません。彼が選ぶんですよ。返すも何も……彼は、いつでも僕を捨てることが出来ます。そう思い立ったときに……」
「うそ。貴男は悠ちゃんが逃げても追いかける人だわ」
「……確かに。この世の果てまで追いかけるでしょうね。彼に決定的な拒絶を食らわせられない限り」
「悠ちゃんが、簡単に捨てるなんて事出来ないのも知ってるんでしょ。大した自信だわ」
「…………自信なんて……持てるわけありませんよ。僕はね、囚われの身なんだ。悠季に初めて会ったその日からね。そう、貴女の言葉で言うなら、気が違いそうなほどご執心ですよ」
「悠ちゃんを女扱いしておいて、よく言うわ」
「女扱いなんてしてませんよ。貴女に何が分かるっていうんです?」
「悠ちゃんはね、悠ちゃんは……、おとなしかったけど、意地もプライドもあったの。人に頼らず精一杯努力して、……孤高を保つって感じだった。真面目で、誠実で、自分に厳しくて。だからあたしは尊敬してた。悠ちゃんをからかう人には怒りさえ感じた。ここに集まった人達は、みんな悠ちゃんを認めてた人なのよ。みんな悠ちゃんの成長した音を聴くの、楽しみにしてた。確かに素敵で優しい、悠ちゃんの音だった。だけど、歯が浮きそうに甘いわ。甘すぎて、吐くかと思った」
「甘いのは認めますが……、吐かれるのは心外ですね。技量とは別の、本質的な音楽があったはずです。悠季は精一杯の演奏をしましたよ」
「知ってるわよ! 貴男にはご満足だったでしょう。だけど、悠ちゃんの表情が女みたいで……。あのパガニーニは最低!」
「聞き捨てならないな。ずいぶん主観的で偏った感想だ。悠季は男ですよ。れっきとした……。そんな悠季に対して失礼すぎる感想です」
「誰かの後ろ盾のある安穏とした微笑みなんてね、旦那に満足してる女のするものよ。あんな顔した悠ちゃん、見たくなかった!!」
 吐き捨てるように言った女史の悲しそうな顔に、否定の言葉をぶつけられない僕がいた。
 ああそうか……。
 そういう風に見えるのか……。
「羽澄ぃ! いくらハンサムな東京もんだからって、迫っちゃだめだぜ!」
 酔っぱらい特有の大声が僕らの沈黙を破った。女史は途端に表情を和らげて、立ち上がった。
「迫ってなんかいないわよ!」
 頬を染めて声を高くした女史。僕以外は、その意味を誤解したようで。
 あ……、悠季が見ている。彼も誤解しているのだろうか。
「今日の演奏の感想をいただいてました。慣れないことをして守村さんの足を引っ張ってしまう様な結果になったこと、皆さんにも申し訳ないと思っています」
「桐ノ院!」
 悠季はどうして僕の言葉を額面通りに受け取ってくれないのだろう。
 謙遜も、度を過ぎると嫌みですよ。ま、僕の惚れた人の場合、本気で言っているから僕も苦笑するしかないわけですが。
「あんまり優しくて甘い音だったから、泣けちゃったって言ってたのよ。わるい?」
 沢渡女史も、悠季に直に『最低』という言葉をぶつけるつもりはないらしい。
「そんなのは、悠ちゃんに言えばいいだろう? 相手違うって!」
 ぎゃはははははと笑う集団の酔っぱらいの中で、悠季はなぜだか素面の顔をして女史を見ていた。
 
10へ飛ぶ
 
 一人減り、二人減り、宴の終わりというのは、その前の盛り上がりのテンションが高いほど寂しさを感じさせる。
 僕としては、早く悠季を連れ出してしまいたかった。列車のあるうちに、予約を入れたホテルに辿り着きたい。チェックインは遅くなると念押しはしておいたが……。雪の中の移動は、不慣れな分不安が募る。
 ……というのは建前で。
 本音は悠季を気がね無く抱き締めてしまえる場所に早く移動したかっただけ。
 だが、悠季にも、沢渡女史にも決着をつけたいことがあるようだった。店の予約時間を過ぎて、本当のお開きの後、僕は彼女をコーヒーに誘った。
 彼女おすすめの店へ河岸を変え、コーヒーを注文すると、二人を残してトイレに立った。行きにマスターには、僕の分だけカウンターの隅の二人から遠い位置に置いてもらえるように頼んで。
 出来るだけ時間をかけ、そっと戻ってきた僕は冷めかけたコーヒーを啜りながら彼らの話が終わるのを待った。
 二杯目のコーヒーが終わる頃。
 悠季がトイレに立った。僕の肩を軽く叩いてそのまま後ろを歩き去る。
「ホントに大した自信ね」
 振り返ると沢渡女史が微笑んでいた。
「悠季と……、話し合えましたか?」
 女史の声が和らいでいる。
「うん……ありがとう。二人で話す機会をくれて。あなた達の音を聴いたときから分かっていたことだけど、……おかげで、ふっきれたわ」
 確かに、思いっきり伸びをした女史はさわやかな顔をしていた。
「中学の時から……好きだったんですか?」
 僕の質問に、彼女は苦笑した。
「ええ、そう、……好きだったわ。今も好き。ホントはね、あんな悠ちゃんの顔、あたしにはさせること出来ないのが悔しくて……。最低なんて言って悪かったわ」
 捌けた人だ。だからこそ悠季は気づかなかったのかもしれない。友達の範囲でしか見ていなかったのは確かだろう。
「いえ……。僕こそ、大人げない醜態を曝してしまって、恥じています。ただ、解ってほしい。彼は、今でも十分ノーマルです。だからこそ、貴女の言うような自信など持てなかった……」
「え?」
「彼に、ご指摘のような表情を浮かべて貰えるまでに、かなりの苦労を強いられました。それはもう、茨の道だったんですよ」
「欲しいものを勝ち取るために、行動した者と、行動しなかった者の差って事? あたしにもチャンスはあったのかしら……?」
「ええ、多分……。そうしたら、僕は更なる苦戦を強いられていたでしょうね。でも、必ず取り上げてみせる自信はあります」
「まあ、こわい」
「僕は諦めが悪いんです」
 瞳を微笑ませ、一人の愛しい人を挟んでこんな風に恋敵と語らうなど、思いもしなかったのだが……。
 やけに落ち着いた僕がいる。きっと、彼女から見れば、勝ち誇っているようにしか見えないだろうけれど。
「……、礼を言わねばなりませんね」
 ぼそっと言った僕の言葉を聞きとがめるように彼女が覗き込んできた。
 僕も少し酔っているのかもしれない。口が滑らかになりすぎている。
「安穏とした表情……のことです。女性だけがそんな顔になる訳じゃありませんよ。多分、僕の顔つきも変わっているはずだ……。昔の僕を知らない貴女に言っても分からないでしょうけど……。ベターハーフという言葉が、今日形になったんです。今まで漠然として言葉だけの浮いた存在だったものに、音楽を介在させずに手応えを感じることが出来た。……不思議ですよ。貴女の言葉は僕には救いになった。当事者よりも、第三者の言葉の方が説得力があるって事もあるんですね」
 悠季が、もしそんな表情をしていたのだとしたら……。僕が感じていた安らぎを、彼も感じていてくれたという事。こんな嬉しいことはない。          
「悠ちゃんは……、いい人よ。あたしにお礼を言う気があるなら……、悠ちゃんを大切にしてあげて……。あの人を裏切らないでね」
「無論です。貴女に誓います」
 悲しい瞳で、照れた笑いを浮かべた女史が、バッグを取り上げた。
「遅くなったし、先に帰るわ」
「待って下さい、悠季が出て来たら送りますよ」
「それは遠慮するわ。ちょっと辛い……」
 言いながら財布を取りだしかけたのを押しとどめる。
「あ、コーヒー代は僕が……。それくらいはさせて下さい」
「じゃ、お言葉に甘えて。悠ちゃんによろしく。何時だって、友達として歓迎しますって、伝えて下さい」
「分かりました……」
 僕の女性に対する考え方に、多少の偏見の存在を自覚させるだけの力が、女史にはあった。
「待って! 一つ教えて下さい」
 立ち去りかけた彼女を店の外まで追いかけて引き留め、もう一つの気がかりを思いだした僕は、怪訝そうな彼女に直接的な質問を浴びせた。
「パガニーニには、どんな思い入れがあったんですか?」
 沢渡女史は、遠くを見る目つきで微笑んだ。
「あたしに悠ちゃんを注目させた曲よ。たどたどしくて、だけど、惹きつけられた。塾へ行く途中だったんだけど、サボっちゃったの。……納屋の陰で、ずっと聴いてた。一所懸命で、回を重ねるごとになめらかになっていく調べが温かくて……。そっと盗み見た悠ちゃんは、夕日の中で、真剣な瞳がとっても綺麗で……。どきどきしちゃった……。すごく難しい曲なんだって、後で分かったけど、あの時のドキドキを梃子に、気持ち伝えようって……。そう計画してたの……。遅すぎたけどね」
 小さく肩をすくめた彼女に、僕は何故だか申し訳ない気分にさせられた。
「改めて誓います。僕は貴女の分まで悠季を大切にしますよ」
 女史は小さくこくりと頷いた。
「じゃ……、頑張ってね」
「……さようなら」
 雪に吸い取られるように、僕の声は、駆け出した彼女には届かなかったようだ。
 勘定をしに店内に戻った僕を、泣きそうな顔で微笑んだ悠季が迎えた。片手にヴァイオリンケースと荷物。もう片方は僕の腕を掴んで、ドアに突進する。
「勘定は済ませたから、行こう」
「あ……はい」
 慌ててコートを着込み、自分の荷物を受け取った。
 
11へ飛ぶ
 
 クラス会の前に、一旦悠季の実家に寄って挨拶をすませ、荷物を取ってきたのは正解だった。
 それでも、目的地までたどり着けないうちに列車は終電を迎えてしまい、残りの距離をタクシーに頼って、やっとの事で目指すホテルに着いた。
 割と新しい、ゲレンデを持つホテルで、連休の最終日という事もあって、運良く取れたのだが……。幸か不幸か、部屋はスイートルームになってしまった。高いところは避けろと言っていた悠季の抗議の声を聴かされると覚悟していたのだけれど。
 案内された部屋に入り、ベルボーイに一通りの説明を受ける時も彼は黙っていた。ボーイが荷物をおいて立ち去るのを待って、悠季はどっかとベッドに倒れ込んだ。
「疲れましたか? 道々、全然口を利きませんでしたね……」
「……」
「悠季……?」
 俯せ寝の彼の横に腰掛け、その髪を撫でながら、僕は悠季が話してくれるのを待った。
「風呂、先に入ってて……」
「は?」
「……何のために今夜からホテルに移ったんだよ。……何度も言わせるなよ」
 ベッドカバーに突っ伏したままのくぐもった声は、言葉の内容とはかけ離れた機嫌の悪さ。
「どうしたんです? 話して下さい。そんな言われ方でいそいそと風呂に行ける訳無いでしょう?」
 彼の顔が見たくて、肩に手を掛けた。けれど、悠季は嫌嫌をするように僕の手を避けた。ベッドカバーを抱き締めるように寄せ集め、その中に深く頭を埋めてしまい……。
「悠季……!」
 僕は力ずくで、彼をベッドから引き剥がそうとした。しかし彼はカバーをひっかぶるようにして断固として言うことをきかない。
「圭、見ないで。……今、僕はすごく嫌な顔してる。すごく、自分が嫌なんだ。だから……少し一人にして。君が風呂入ってる間に、いつもの僕に戻るようにするから……、だから……」
「悠季……、ベッドカバーなんか抱き締めないで、僕を抱き締めて下さい。ほら、こうすれば君の顔は見えません」
 悠季を自分の胸に抱き込み、彼の髪にキスしながら、それでも彼の顔を覗き込みたくて、かき口説いた。
「ああ、でも、僕は君の顔が見たいです。自分が嫌になってると言う君も、僕だけに見せて下さい。僕だけが知っている悠季が増えるほど、僕は幸せになれる。僕を幸せにしてくれませんか?」
「それじゃあ、僕が幸せになれない。君だけに見せたくないんだ。他の誰に見られたっていいけど、君にだけは見られたくない。今の僕はすごく嫌な奴だから、そんな僕を君には知られたくないよ」
「悠季……、寂しいこと言わないで。君は僕だけの悠季でいて下さい。君の辛さも、苦しさも、僕にだけ分けて下さい。……、君に口づけしたい。顔を上げて下さい」
 悠季は激しく頭を振って、僕の着たままだったコートの襟を掴み、懐に潜り込んでしまった。
「悠季、お願いです」
「……羽澄と、何話してたの?」
「今日のパガニーニへの……主観的な感想を聞かされてました。彼女と……、角つき合わないように隅でおとなしくしていた僕に、彼女の方から絡んできたんです。女性の酔っぱらいは、始末に悪い」
「羽澄は、酔っぱらってなんか、いなかったよ。冷静に、僕の音は甘いって……。そりゃ、まだ全然絞れてない音だけど、でも、今の精一杯の演奏をしたんだ……。羽澄のリクエストだったのに。本人に甘いなんて言われたら……」
「ああ、甘いの意味が違いますよ。あくまでもスウィートの意味です。彼女が言いたかったのは……」
 悠季が僕を見上げた。やっと見せてくれたその顔は、少し怒ったようなやるせない表情を浮かべていた。
「やけに肩もつじゃないか。女嫌いの君が……。羽澄に会って、宗旨替えでもしたかい?」
 強張った声音よりも、その内容が、僕を固まらせた。
「あの……、今なんて……? 僕が……女性に……?」
 悠季が嫉妬している。それも、僕と、女性の仲を疑って。
 プッと吹きだした。笑ってはいけないのは分かっている。案の定悠季はカアッと怒りで顔を赤く染めた。せっかく顔を上げてくれたのに、また怒らせてしまっては……。しかし……。
「なっ、何笑ってんだよっ?
 僕の腕から抜け出そうと抗う悠季を放さないように腕に力を込めた。堪えた笑いが、全身の震えになって悠季に伝わってしまう。
「圭!!!」
「ああ、すみません。本当は怒るべきなのでしょうが。……でも何だかとても嬉しくて。だめです、笑いが止まりません。君が嫉妬してくれた。それが、甚だ見当違いでも、嬉しくて。少しの間……許して下さい」
「ど……どうせ……。僕は見当違いばっかり……」
 悠季が拗ねてしまった。本当に手間のかかる人だ。けれど、どんな手間だろうが、惜しむ気はない。愛しさを募らせることはあっても、冷めることは未だかつて無いのだから。
 笑いを収めて僕は彼の額に口づけた。彼が大人しく僕の腕の中に収まっていてくれる心地よさを感じながら。
 悠季の落ち込みの原因が、今日の演奏についてなのか、謂れのない嫉妬のためなのか、今一つ掴みかねてはいたけれど、僕は彼を口説くことに専念した。
「ねえ、悠季。音楽というのは、主観的に聴くものです。僕が君に救われたのだって、君の技術にではない。君の奏でた音だ。そんな音を奏でる君の心にです。
 彼女は、僕らの今日のパガニーニは最低だといいました。僕には、です。後で撤回してくれましたが。確かに、彼女の立場なら、僕もそういう感じ方をしたかもしれない。好きな人が、他の人間を愛していると、全身で表現している姿を見せつけられて、幸せな気分になれる人はいないでしょう?」
 悠季はただつり込まれたようにコクッと頷いた。
 その瞳は、
 何を言ってるんだい?
 と、尋ねている。
「僕が感じた幸せの分だけ、彼女は不幸な気分になっていたんです。……君のために」
「僕は……」
「悠季、彼女は僕を救ってくれました。僕が、君のベターハーフであるという事を君の中に見つけてくれた。僕は、君を返してくれと、詰め寄られていたにも関わらず、彼女に感謝しましたよ。僕の中の不安のくすぶりを、彼女が消してくれた」
「君たち……、そんなこと話していたのかい? 僕はまたてっきり……」
 もごもごと口ごもりながら、小さく呟いた。
「意気投合しちゃったのかと……」
「しかし、帰りに君は彼女と話したのでしょう? 彼女は君に思いを打ち明けたのではなかったのですか?」
「あ……」
 悠季が赤面した。
「な、何で、そんなこと……!」
「僕は彼女に誓いました。彼女の分まで、君を大切にすると……」
「ちょっと、待って。それって……?」
「彼女、知ってましたよ。僕らの音を聴いて、判ったと言ってました。準備室で何をしていたかも……」
「えええっ?」
 悠季の顔は信号機のように赤くなったり青くなったり。やがて、盛大な溜め息をついた。
 ベッドの上で、へたり込んだように力の抜けた悠季を、僕は支えた。
「そっか……、羽澄は知っていて……。そっか……。羽澄は……。僕には好きだったと……。過去形で言ったよ。この夏見合いした人と、結婚するつもりだって。一度だけ告白したかったって。言ってすっきりしたってさ。そんな風に言われて、僕が言えることは一つしかないだろう?」
「何と言ったんです?」
 悠季の肩を両手で支え、僕は彼の瞳を覗き込んだ。
 悠季がふっと微笑んだ。やるせないような穏やかな……。それからつと視線を逸らした。
「ありがとう……。僕なんか好きでいてくれてありがとうって……」
 彼が落ち込んだときの声というのは、少しかすれて低い響きの弱々しいテノール。
「悠季……」
 悠季はコツンと僕の胸に額をぶつけ、僕の腕に手を掛けた。細く長く、華奢なフォルムのしなやかな手。僕を目覚めさせたあの音を奏でるその手が、僕の腕をきゅっと掴んだ。
「なんかさ……、僕は、誰からも欲しがられない奴だって、ずっと思ってて、……君みたいに思いをぶつけてきてくれた人は初めてでさ。中学の時にも、僕が気づかなかっただけで、そういう人、いてくれたんだなって思ったら……。ちょっと……自己嫌悪。僕ってさ、分かってるつもりで、何にも分かっちゃいなかったんだよね」
「……そうですね、君は少しニブイかもしれない。ああ、そういうことに関して、と、但し書きがつきますが」
 僕の言葉に悠季がびくっと身じろいだ。落ち込みに拍車をかけてしまっただろうか。慌てて付け足した言葉は、選択透過性の悠季の耳には聞こえなかったかもしれない。
「ねえ悠季、前から不思議だったんですがね。何故君はそんなに自分に自信が持てないんでしょうね? プライドも、実力も十分以上に持ち合わせているのに。しかも、容姿だって、美しい。……君は気づこうとしないだけだったようにも思えますよ。他人の目や言葉に、敏感に反応するくせに、賛辞は素直に受け取ってくれない。きっと、沢渡女史も歯がゆかったでしょうね。……僕もです。君という人に惚れたために、どんなに胸苦しさを覚えさせられたか……。だいたい、君を切実に欲して、それがために追いかけてきてる僕が、他の人に目を向けるなんて考えるなぞ……。ああ、何だかだんだん本気で腹が立ってきました」
 悠季を押し倒した。
「昨日の約束、実行して貰いましょう」
 眼鏡を取り上げ、わざと荒々しく彼の唇をむさぼった。舌を絡め取り、めいっぱい吸い上げる。
 長々と彼の口腔を犯しながら、服を脱がせにかかった。
「圭、ごめん、ちょっと待って……」
 唇を引き剥がして、それだけ言うと、僕を押しのけようとした。
「待てません。君は、僕を狂わせる。僕を獣のように変身させるのは君です。君だけなんだ!」
 消えかけた僕のキスマークの上にもう一度重ね、そこから展開していく愛撫に、夢中になった。彼の象牙の肌が上気していくのを、シャツをたくし上げながら確かめる。喘ぎが聞こえる。
「や…………」
 小さな抵抗を受け流しながら、丹念な愛撫の繰り返しの末、僕は彼を生まれたままの姿にすることに成功した。
 熱く燃え立つ彼を口に含み、責め上げる。 入れてと叫ぶ彼の言葉は無視した。指で彼の秘部を慰めながら、僕は……。
「一つだけ、お願いがあります」
「な……に……? あ……ああっ、ね……きくから、何……でも……きくから、い……入れて……!」
 悠季が喘ぎながら答えた。イきそうになって撃ち出したいのを堪えながら、辛そうな切ない声で。
 いつものように貫いてしまいたいのを堪えて僕は彼の耳を舐めなぶりながら囁いた。
「君の……童貞を下さい」
?
 僕の一言は悠季を瞬時にしおれさせた。跳ね上がるように身を起こし、僕を見つめる。
「なっなな……何言って……!」
「能動態が趣味の僕としては、行為自体は不本意ですが、僕の知らない君の存在はもっと不本意です。君の全てを僕だけのものにしておきたい。ですから……」
 言いながら僕は手早く服を脱いで、彼の上に跨った。
「けっけけ圭っ? ちょっと待って! まっ……!」
 彼の抗議の声など口づけで塞ぐ。最初の頃、悠季が童貞であることを気にしていたことを僕は知っていた。いわゆる筆おろしの時期やシチュエーションなど、本来比較するようなことではないのだが。時期が早いとか、その時の相手がどんな人だったかなんて事を気にする輩が多いのも事実で。
 悠季の筆おろしなんて、本当を言えば一生なくったって構わないというつもりでいた僕だが……。彼の姉にからかわれたとき、唇をかんだ彼を見てしまった。屈辱を感じるのは、男としての悠季。
 悠季のそんな表情が、僕のせいだとしたら、たまらない。女史に、女扱いしていると言われたのも引っかかっていた。
 だが……。
 女性に任せるわけにはいかないし、他の男など、以ての外だ。
「君は、僕だけ知っていてくれればいい。君になら僕は……」
 愛撫を再開させ、悠季を起ち上がらせた。悠季の中に燻っていた炎が蘇る。喘ぎと速まった鼓動。僕の愛撫の一つ一つが、彼の理性を押しつぶしていくのが見える。
「あ……あっ……。きっ気でも違ったのかいっ? 圭……、圭!」
 僕の名を呼びながら、それでも馴れた手つきで僕をしごき始める。当惑しながらも、お互いの身体に染みついた行為の慣れがそうさせるのか……。僕は初めて悠季の手の中で射出した。僕のもので濡れた彼の手を導く。
「悠季、僕を愛して。来て下さい。君が……、僕の中に……!」
「圭……、愛してる。愛してるよ……。だから、君の望むことはしてあげたい……。けど…………」
 悠季の指を受け入れる。怖ず怖ずと侵入してきたそれは、優しく、僕の中でうごめいて……。その感触は、今までに感じたどの快感とも違うもので……。悠季も、僕がしたときにはこんな風に感じてくれているのだろうかと頭の隅で考えながら、少しずつそこから散っていく火花に考えなんてものは押し流されていって……。
「ああ、悠季……、素敵です……。でも、君に来て欲しい……」
「圭……、僕は……」
 悠季の去りかけた指を追うように締め付けたら、彼が喘ぎの間から何か言いたげに口ごもった。
 瞳が出来ないと訴える。
「……君が来てくれないのなら、僕からいきます」
 腰を浮かし、彼の切っ先を僕の秘部に押し当てた。ゆっくりと身を沈める。
「うっ…………!」
 鈍い痛みが圧力となって僕の内臓に走った。
 悠季のうめきと、僕の苦痛の声が重なる。けれど、僕は更にグイッと身を沈めた。彼を深くくわえ込むために。瞬間、彼に与えてしまった苦痛を想像した。今の痛みの何倍もひどい痛みであったろう、悠季の苦痛を推す。
 性急にくわえ込んでしまったがための苦痛も、やがて落ち着き始めた。僕の中の悠季の存在を、悠季の脈動に集中することで感じる。
 ああ、今、僕は悠季に……。
 そんな僕の沈黙を悠季が心配そうに見つめる。
「……圭……? 痛い……?」
「少し……だけ。もう、治まりはじめてます」
 君のあの時の苦痛を考えたら……、こんな痛みは比べものにならない。
 それは、僕の、一生の負い目。
 だが、そんな想いも、痛みが快感にすり替わっていく度に隅っこに追いやられていき……。
「圭……、君って、……ホントに……」
 悠季の指が、僕の乳首を撫でた。
「悠季っ、悠季……………………!!」
 彼に口づけするために前にかがんだ。途端に戦慄が走る。
「……あっ」
 僕らの小さな叫びが八度の和音を形成した。
 舌を絡めて悠季の唇をむさぼる。そうしながら、熱く、固く、脈動する悠季を僕の内部で感じている。ゆっくりと腰を上下させ、彼の存在を確かめた。そこには全く異なる快感があって。動かす度に全身に電流が走る。
 悠季が僕の胸を押し上げるように撫でながらのけぞった。
「圭っ、圭っ! い……イきそうだよっ……あっあ……!!!」
 僕の動きは少しずつピッチを上げて。それに併せた様に悠季の腰も動き始め……。僕を突き上げる。
 喘ぎが重なり合って、僕たちを一つの生き物に融合させていく。同じリズムで、種類は異なっても同じ感動を上り詰めさせていく。
 ハレーション。
 そして……。
 僕は悠季と折り重なって果てた。
 
12へ飛ぶ
 
 手探りをした。
 だけど目的は得られず、シーツを掴むのみ。
 悠季のいる筈の場所はひんやりと空いていて。僕を一人残して悠季がベッドから出たのはだいぶ前らしい。
「悠季……?」
 ふと周りを見回し、サイドテーブルの上の時計に目を留めた。バロック調の細工を施されたそれは、午前一時を指していて。
 三十分ほど寝てしまったらしい。
 僕は乱れた前髪を掻き上げながら、枕を背に座り直した。すぐに立ち上がれない自分に舌打ちする。
 悠季への気遣いにも更に力を入れようと、決意した。
 アメリカンサイズのセミダブルを二つ設えたツインベッド。その一つで僕たちは……。
 身体に残る甘い余韻を反芻しながら、肝心の恋人の行方に思いを馳せた。
 風呂だろうか……? それとも、応接フロア? 
 僕はゆっくりとベッドから降り、開けっ放しの応接フロアへの入り口に目を向けた。人の気配はない。そのまま、風呂へ向かった。全裸では肌寒くはあったが、バスルームまで行かなければローブは手に入らない。
 ざあぁぁっという水音に、僕は思わずニヤ付きを浮かべてしまった。
 僕らの住む部屋は、シングル向けで、バスルームも小さい。一緒にはいるとしたら、シャワーがやっとなのだ。
 この部屋のバスルームは、スイートルームという事もあって、広くゆったりしたスペースになっているようだし。
 悠季と風呂で戯れるチャンスだと考えるだけで、悠季が欲しくなってしまう。
 そっと忍んで入ったバスルームは、洗面台を含む脱衣所を挟んで大きめのシャワールームのドアと、その奥にもう一つ扉があって。水音はその扉の向こうから聞こえた。
 そっと扉を開ける。
 そこは八畳ほどのスペースで、天井までガラス張りの露天風呂風の岩風呂。最上階の部屋ならではの満天の星の下の入浴が出来るようになっていた。
 空調だけはホテルらしくエアコンで。窓際に配置されている観葉植物が、程良い目隠しとなっている。
 悠季は岩風呂の湯船に浸かって、空を見上げていた。眼鏡を取った悠季の横顔は、どこまでも優しいラインで形作られたニンフ像の様。少年のようであり、それでいて子供っぽくはない造作。
 年齢不詳の妖精のような彼は、手に入れたと思ってもすぐに僕の腕をすり抜けてしまう。行為の後ですら彼は何事もなかったような無垢な顔をして眠る。だから僕は……。
 悠季の視線を捕らえて離さない夜空は、湯気のせいで明瞭さを損ねてはいるが、東京で見るものとは違い、振る星の数を数えれば眠れないほどに澄んでいる。
 しかし、眼鏡をはずした悠季には、東京の空ほどもはっきりとは見えていないだろうに。
 何を考えているんです?
 よく見れば、悠季の瞳の色は満ち足りたものとは違っていた。
「悠季……!」
 夜空を見上げたままの形で消えてしまいそうな気がして、僕は彼を呼び戻すようにその名を叫んだ。
 妖精はハッとしたように振り返り、ぱしゃっと水音が後を追った。
 そのほっそりとした肩や首筋には僕のつけた痕がほんのり赤く浮かび上がっている。
 僕の視線に気づいたのか、彼は困ったように笑った。
「君のつけた痕、こんなに増えちゃって……。ここが旅館じゃなくてよかったよ。部屋付きの風呂にしか入れやしない」
 僕はつかつかと中に入り、悠季を後ろから抱き締めた。僕の勢いのせいでザバッと湯が荒れ狂う。
「どこに行ったのかと思いました……」
 肩や首筋にキスをしながら耳たぶに唇を這わせて囁いた。悠季が小刻みに戦慄したのを密着した肌から感じる。
 絡みついた僕の腕を悠季がそっと撫でた。
「シャワーでも浴びようかと思って来たら、良いもの見つけちゃったもんで……。ごめん、君、寝てたから……。ホントは、こんな高い部屋! って思ったけど……たまにはいいよね。こういう風呂、ちょっと嬉しいし」
 そこまで言うと、ちらっと僕を睨んだ。
「僕の財布の方はシベリア並みになっちゃうだろうから、その辺は嬉しくないけどね」
 言葉とは裏腹に、僕の腕の中で身を翻し、優しい口づけをくれた。
「……また怒られそうですが、これは僕からの貢ぎ物です。こんなもので君を繋ぎ止めておけるとは思っていませんが……。こうして君を抱いていられるなら、どんなリスクだって怖くはない……」
 言いながら手を忍ばせて、張りつめた彼をゆっくりとしごいた。
 悠季の喘ぎが荒くなる。
「あ……圭……、君って……ほんとに……」
 そう……、何でこんなに……。
 時々自分で自分に驚いてしまう。まるでサカリのついた獣だ。けれど、悠季の一挙一動が、僕を熱くさせてしまって……。彼と出会う前までの僕はどこかに消えてしまった。
 一人でいるのが平気な僕は、もういない。
「君を見るだけで、僕は狂ってしまうんです。君をもっと知りたい。君の全てが欲しい。こんな僕は……、嫌ですか?」
(僕を一人にしないで下さい。お願いですから……)
 そう目で縋って。
 悠季の答えは、無言の(ばかだなあ……、逆だろう? 立場が)と、キス。
 腕を絡めてきた悠季を膝の上に抱き上げて、そのピンと立った乳首を口に含んだ。
「あ……ん……」
 悠季の声が、更に僕を燃え立たせる。
「悠季……、悠季……! ここでしたい……。いいですか?」
「うん……でも、君が……来て」
 言うまでもなくそのつもり……と、僕は彼の中に指を入れたのだが、頭に違うことがらが浮かんで、ハタと手を止めてしまった。
「……僕の……身体は旨くありませんでしたか? 一応、処女を捧げたつもりなんですが……」
「け……圭???」
「僕はヴァージンだったんです。君しか、捧げようなんて気の起きる人はいなかった。悠季、君は素敵です。だから……、するのは僕とだけにしてくださいね」
「もうっ、当たり前だろう? こんな事、誰とでも出来ることじゃないぞ。それよりも、君に苦痛を与えてしまっただろうから、僕はそっちが心配で……。僕なんかのために君が……」
 僕はキスで彼の口を封じた。
「もしも、そう思ってくれるなら……。この唇も、この身体も……僕だけに触れさせて下さい。他の誰にも許さず、僕だけに……。愛してます………………!」
 彼も応えて……そのまま何度も……。お互いの求めるままに愛し合って。
 身体がふやけそうになったので、僕は彼とつながったままベッドまで移動した。悠季はまるでダッコちゃんのように僕にしがみつくしかなくて。恥ずかしがって嫌がったけれど、結局両足を僕の腰にからみつけ、僕の腕に収まってくれた。一歩踏み出すごとに感じる快感に、小さな叫びを僕の耳もとにはいて……。
 しかも、耳元で、愛してるって言ってくれた。好きだよ、とも。
 僕の恋人。僕だけの!!
 悠季……!
 
ENDへ飛ぶ
 
 雪の白さが目を刺す。
 平日のゲレンデは、比較的空いていて。
 そういえば、予想より早い積もり方のせいか、予約より飛び込みのスキー客が多いようなことをフロント係が言っていた。
 僕はやっとの事で見つけた大きなサイズのレンタルウエア類を身につけ、斜面を見上げた。
 悠季が優雅でシャープなシュプールを描いて滑降してくる。
 いつもの華奢な感じはなく、とても逞しく見えるのは、ウエアとスキーの腕のせいだろうか。
 結構女性達にも注目されている。だが、僕の一睨みで、誰も近寄らせるつもりはない。
 悠季が誘惑に乗るわけはないが、不愉快なことは事前に、完全に潰しておくに限る。
 午前中は朝食をルームサービスで頼み、長いインターバルを取って、昼から悠季にスキーの指導を受けようと繰り出した。
 僕のスキーの腕は初心者のような物だ。留学時代に、付き合いで一、二度スキーに出かけたことがある程度で。ボーゲンがやっとというところだろうか。だが、二時間ほどで一通り形になるところまで辿り着いた。
 さすが教育者というか、彼の教え方はこつを飲み込んでいて、優しくて。
「やっぱり運動神経いいんだな。上手いよ、圭」
 誉められて、思わずにっこりしてしまった。
 悠季が可愛いなって思ってくれているのが分かる。可愛いなんて言葉、僕とは無縁だと思っていた。それが、悠季には、そう思われたいという時がある。そんな風に計算無く表情を出してもいい場所を得た僕は、その分、弱くなったし、強くもなった。
 安らぎのある帰り場所を持つ僕は……。ああ、そうですね、きっともっと強くなれる。
「君のおかげです」
 視線を優しく絡ませながら、様々な想いを込めて言った。
 想いと共に、僕の中で鳴り続けるメロディの存在を意識する。
 切ないくらいに不安な僕の想いが作った曲。曲調はフーガ。早く譜面にして、悠季に弾いて貰おう。
 
 
 悠季、愛しています。
 
 
しまい


 ふりだしにもどる