冷たい媚薬・第九回
【2】
 

私は吸血鬼なんだ
私は……私……は……
吸血鬼なのに……
 
 
 柏木家は閑静な住宅街のはずれにあるマンションの四階だった。
 既にパトカーが非常灯を点滅させたまま二台ほど駐車していた。
「救急車、いないね。先生、どうしたかな」
「もう病院行ったんじゃない? とにかく聞いてみよう」
 すたすたと巡査の立つ玄関に向かった。
 セキュリティオートロックの玄関である。用向きを言って入れてもらわねばならない。
「先ほど通報した者なのですが。柏木先生は無事ですか?」
 ストレートに龍樹が尋ねれば、巡査は無表情のまま道をあけた。
「中で聞いて下さい。こちらからもいろいろ質問があるはずですから」
「ありがとう」
 拓斗の肩を抱くと、進めと促す。
 エレベーターを一瞥しただけで更に奥に向かった。
「階段を使おう。待ってる間についちゃうよ」
 龍樹の長い脚は四段おきがちょうどいいというように余裕で駆け上がり始めた。
「うわ、待ってよ」
 拓斗もバネを利用して、同じペースを保った。
「あ、太刀村さん!」
 登り切って廊下に出た途端に出くわした刑事を、拓斗が名指しして。龍樹は嫉妬を感じながら、拓斗に寄り添った。
「知り合い?」
「紫関さんと組んで学校に来た人。ほら、亜紀美が殺された件で」
「ああ……」
 ……これがかっこいい人? 拓斗の好みはこういう渋い系なのか……。
 しげしげと太刀村を観察して。自分よりも背の高い男に嫉妬した。
 龍樹の敵意を取り合わずにダンディな巻き毛を掻き上げて微笑みかけてきた刑事は、確かに格好いい。
「……何、君、柏木さんと知り合いなの?」
 頬骨の張り出したいかつい顔の中で、そこだけが和んだ光を持つ切れ長な瞳を大きく見開き、太刀村という刑事は拓斗を優しく見下ろした。
「俺が通報しました。電話したら声が変で、助けてって……」
「何時の話?」
「えっと、九時以降なら電話していいって言われていたから、時計見ながら九時を待ってかけたんで」
「九時ね。で、どういう知り合い?」
「俺、先生から腎臓もらったんです。小学生の時……」
「先生……?」
「医者です。この場合はドナーと患者という関係ですが」
 口をはさんだ龍樹の方を片眉を上げながら眺めた。見下ろされるというのは、日本においてはあまりない経験である。
 かっこいい……のかな。
 声は響きのいい低音で、確かに魅力的だ。
 でも、刑事がアルマーニのコートとスーツで、靴がフェラガモってのは気に入らない。
 龍樹はどうしても好意的に見ることの出来ない太刀村への観察を止めた。
「彼女、医者だったのか……」
「え? 今も医者でしょう?」
「いや。今は……違っていたようだ」
「違っていた?」
「ねえ、それより、柏木先生、大丈夫なんですか?」
「あー。それがね」
「……紫関も来ているんですか?」
「……君は紫関の知り合い?」
「『El Loco』のマスターですよ。それよりも先生はっ?」
「拓斗くん。紫関のいるのは捜査一課なんだよ」
 龍樹の囁きに拓斗は硬直した。
「じゃあ、じゃあ……死んじゃったの? 間に合わなかったの?」
 今にも泣き出しそうに顔をゆがめ、龍樹を見上げる。抱きしめたくなる腕をぎゅっと握りしめて頭を振った。
「死んだとは限らないけど……」
「……大丈夫。病院に搬送されたよ。通報が早くて良かった」
 ホッと溜息をついてヘナヘナと座り込んでしまった拓斗を内心嬉々としながら助け起こした。
「何があったんです?」
 太刀村は小首を傾げて龍樹を見つめてきた。
「両手首を切っていた。それも二本跨った傷で。手当が遅ければ出血多量で死んでた」
「って事は……」
「うん。現場は玄関につながる廊下。向坂君の電話に出ようと這って居間まで行ったらしい」
「どうして外に助けを求めなかったんだろう」
「……今時は助けてなんて叫べば、みんな出て来るどころか鍵をかけるさ。電話に出る方が正解だね。遠くなら協力もしてくれやすい」
「俺なら近くだって……」
 拓斗はぽつりと呟いてうつむいた。
 分かってるさと肩を抱きかけた手を握りしめて、龍樹は気持ちを振り切るように太刀村を見つめた。
「それで、どのくらい調べがついているんですか?」
「ぜんぜん」
 肩を竦めながら言う。部屋の外も内も、隅から隅まで粉がはたかれている。掃除機で遺留品を集め、小分けに袋に入れている係員も居て。
「邪魔……ですね。僕ら。先生が送られた病院はどこですか?」
「早光大付属です。お連れしますよ。おい、紫関!」
「なんっすかー? あれ? 龍樹?」
 のそのそと部屋の奥から現れた白手袋姿の紫関は、龍樹達を見てちんまりした目を瞬かせた。
「彼らを連れて病院行ってくれ。通報者だそうだ。行きがけに事情聴取、しておいて」
「へぇ……またかい?」
「今日は第一発見者じゃないですよ。電話だけですから」
「そんな警戒しないでよ。君がやったなんて最初から思ってないって。ただ、関わりはあるんだから。煩わしいだろうけど、運が悪かったと思ってあきらめてくれなきゃ」
「まあ。そりゃ仕方ないって思ってますよ。亜紀美のこともあるし、あの死んでた人、思いっきり腹を蹴ったことになっちゃって。後味悪いったら……」
 紫関の車に乗り込みながら拓斗は呟くように言う。
「それで今度は……どういう関係?」
 龍樹は紫関の事務的な声を遮るように割り込んだ。
「彼の腎臓のドナーだよ」
「ほお?」
「あ、の……。九つの時にですね。生まれつきだったダメ腎臓を救って貰いました。ただ、俺が退院する頃には先生に連絡つかなくなっていて……この間偶然『El Loco』で出逢って。だから、改めてお礼をと思って」
「何でその時言わなかったんだい?」
「お礼は言ってたよね? でも、口だけじゃ足りなかったんだよね?」
 龍樹の助け船に素直に頷いた。
「うん。予備校に遅れそうだったし、急で何の用意もなかったから……」
「それで改めてお礼……か」
「あのマンションまでは僕が一緒にタクシーで来たから。九時頃通報したんだろ? それは通話記録で確認して貰うとして。駅前で僕が彼と会ったのは九時十分。すぐにタクシーに乗って今に至るって事で、アリバイ成立するかい?」
「ああ、協力的で感謝するよ」
 うんざりしたように言う紫関を悲しい目で見つめる。。龍樹の抱く思いについて、紫関は否定的だったのだ。
「柏木先生は、今何やってる人なんだ?」
「あん?」
「僕らはてっきりまだ医者をやっていると思っていた。でも、違うんだろう?」
「ああ……。学校の先生」
「へえ……」
「非常勤講師って奴。ほら、お前んとこの近くの女子大の。心理学……だったかな」
「拓斗君、柏木先生って、何科だったの?」
「ああ……えっと……。内科……だったのかな。いや、小児科……?」
 記憶をたどろうと眉根を寄せる。
「柏木先生っていくつ?」
「あ? 歳か? たしか、四十六……だな」
「……研修医じゃないよね……」
「え?」
「拓斗君が九つの時って事は、十一年前……だよね。彼女はその時三十五だしなぁ」
「研修医って、若い人だけ?」
「いや。まあ、たくさん浪人するとか、急に思い立って後から医学部通い始めたとかなら、その年齢でもあり得るけど要するに医者の卵って分けだし」
「いつも病院にいるわけじゃなかったな……そういえば、何となく浮いた存在だったかも……」
「おいおい、子供のくせにそんなの分かったての?」
「子供を舐めちゃいけないよ。予備知識が少ない分、本能で見破るからね」
 紫関の混ぜっ返しを窘めるように言ってから拓斗に微笑みかける。
 拓斗の照れくさそうな微笑み返しに瞬間クラリとなりながら、
「辞めさせられたって言うより、ただ居なくなったってとこかもね」
「ううーん」
 二十分ほどの間の情報交換はまんざら役立たずでもない。紫関の車が問題の病院に着いたときには、バラバラだったパズルが幾つかは所定の所にはまった気がしていた。
 救急指定の病院では紫関の顔パスのおかげで、既に集中治療室に移された柏木律子の顔を見ることが出来た。
「まだ麻酔が効いていますから」
 看護婦は暗に邪魔だと言ったのだが、龍樹はかまわず酸素マスクと包帯に覆われた美貌を見つめた。大人の女のしっとりした雰囲気は、傷にやつれていてもなお十分魅力的だ。
「手首だけじゃなかったの?」
「狙いは顔……いや、首……だったんじゃないかな。で、かばって両手首を切られたとか」
 龍樹の予測を頷くことで肯定した紫関は、詰めている警官に会釈をすると、龍樹と拓斗の背を押して、退室を促した。
 夜間でも多少は明るくしてある談話室に入って、備え付けの自販機から三人分のコーヒーを買った。熱いのだけが取り柄でも、ないよりはましである。
 紫関は一口飲んで、ふうと息をつき、とどめを刺されなかったわけを教えてくれた。
「騒ぎがあってね。隣の家が派手な夫婦喧嘩やらかして。玄関先で斬りつけられたとき、ちょうど旦那が飛び出してきたんだな。んで、人影を見てる。犯人は慌てたんだろう。とどめは刺さずに逃げた」
「なるほど……。そこへ電話か」
「開けっ放しのドアから覗き込んだ隣人が第一発見者。残念ながら犯人は仮面を付けていたとかで特定できない。警備はつける。もう一度来るかもしれんからな」
「可能性は高い。彼女から話が聞ければいいのに……」
「どうして先生は襲われたんだろう……。先生の家まで行くなんて……」
「行きずりにしては指向性がありすぎるね」
 まじめに三人で考え込んでいたら、紫関が渋い顔をして、遠慮がちに拓斗を覗き込んできた。
「あの……さ、気を悪くしないで貰いたいんだけど」
「はい?」
「今のところ繋がりがあるの、君だけなんだよね。何か思い当たること……無いかなぁ?」
「……俺が繋がり……って、やっぱり紫関さんは、あの通り魔と同じ犯人だって思ってるんですか?」
「先入観持っちゃいけないんだろうけど……そう思えてしょうがないんだ。創傷面とか、鑑定待ちだけど」
「……鑑定は誰が? 早光大付属に運んだって事は……」
「法医学教室の山宮助教授だよ」
「その人、祐治って名前じゃない?」
「ああ。知ってるのか?」
「僕の出た大学では伝説になってるから。バスケのスタープレイヤーで、モンスターだって陰で噂されるほどの頭の出来で。彼が帰国して入れ違いに僕が行ったものだから、もう、比較されっぱなしで。きつかったんだぁ」
 思わず出た溜息で締めくくりながら、龍樹は写真でしか見たことのない山宮の独特な容姿を思い浮かべた。
 龍樹以上に長身で、腰まで届く長い髪と、深い緑の瞳。龍樹ほど華やかではないが、誠実そうな整った面立ち。写真の中で笑っている彼は、レギュラーユニフォームを着たすばらしい肉体を惜しげもなく見せつけ、他のメンバーと肩を並べていた。
「……クォーターだって話だよね」
「じゃ、お前と同じか?」
「ああ。だからね、ほんとに比較されたんだ。嫌になるほど」
「……龍樹さん、クォーターって?」
「僕の母はフィンランド人の父を持っててハーフだから、僕は四分の一ってこと」
「山宮先生はドイツ人の婆さんが居るって話しだったかな。太刀村さんの幼なじみでさ」
「ふううん」
「人間どこで繋がってるかわかんないよね」
「そうだな。柏木先生の繋がりも……君だけじゃないのかも」
「うん……何かなきゃ変だよね」
「……まてよ、もう一つ……」
 ハッとして龍樹を見上げた拓斗と目を合わせただけで思いつきは伝達された。
「あ……」
「『El Loco』!」
 二人声をそろえて叫んでしまい、紫関が目を丸くした。
「全部客だ。今までの被害者」
「はああ?」
「いや、拓斗君の友達がね。最初の二人を見かけて……、四人目まで辿ってみたら、みんなうちに来たことがあって。ね?」
「うん。亜紀美も俺が連れてきたことあるし、柏木先生は一回来て俺と再会した」
「なんなんだ? それはっ」
「いや、だからどうってことはないんだけど、被害者全部うちの客だってのが共通点だねって……」
「……まさかお前がやったのか?」
「冗談でも怒るぞ」
「そう……だよな、龍樹が女に興味あるわけ……」
 言いかけて慌ててやめた紫関に、苦笑混じりの溜息をついて頷いて見せた。
「拓斗君にはカミングアウトしてあるから。いいよ、気を使わなくて」
「……でも、煩わされて嫌だったから殺した……なんてね」
「拓斗君?」
 引きつった声音に、拓斗はびくっと身じろいだ。
「あ、冗談、ごめん。龍樹さんには殺す時間無かったの、俺知ってるから」
「まったく、ひどいなぁ」
「けど、店が共通項だっていっても、だから何? ってかんじだな」
「まあな……動機が分からない」
「……最初の二人を見たってのは?」
「畑山……俺の同級生です。紫関さんが学校に来たときに、俺と一緒にいた奴ですよ」
「ああ、あの子」
「泉に連れられて店に来たときに居合わせたんだって」
「……五ばんめの遠藤亜紀美と、柏木先生の他はみんな『El Loco』周辺に住んでいるし、一見の客じゃなかったんだろう?」
「まあね、よくは覚えていないが多分。拓斗君のことからかったことある人達だってことしか……」
「それで覚えてたのか?」
「当の本人は友達に指摘されるまで気づかなかったけど」
 人に言われる前に言ってしまえとばかりに白状した拓斗を、微笑ましく見つめてから紫関に目を向けた。
「本当に僕の店が関係あると思う?」
「ああ……さあ……? 他に手がかりがない以上、その疑いは捨てられないな」
「そうだよね……」
「拓斗君、どう思う?」
「あー。わかりません。つじつま合わないって言うか……」
 うむと頷いた紫関は憂鬱そうに呟いた。
「人を殺すのって、どのくらいの覚悟がいるかとか、普通考えるだろ? だけどさ。一人殺すごとに簡単になっていくんだよな」
「動機なんて些細なことだったりするとか?」
「ああ。顔が気に入らない。進路妨害されただけ。煩いことを言われた……なんてな」
「そんな……」
「殺された方はいい迷惑だよね」
「運が悪かったで済まされないよ」
「だからね、ホントのとこは犯人に聞かなきゃ分からないのさ」
「犯人像は?」
「目撃証言からは小柄な奴。細身で、男なら小さい奴だし、女なら大きい奴。仮面と、マントみたいなの着けてたとかで、足首から見て太ってはいないだろうってさ」
「今時仮面とマントってだけで、相当目立つよなぁ」
「そうなんだよ。なのに、前後の目撃者なし。他の事件でもそんな輩を見たものはいないんだ」
「いつもそんな格好するとは限らないだろう。今回は、被害者の居場所まで訪ねての犯行だから、変装したに過ぎないとか」
「マントと仮面の印象しか残らないようにって?」
「うん。早変わりの現場さえ押さえられなければ、見た人間は誰だか特定できないだろう?」
「今までのは、どっか丁度いいとこで待ち伏せてればいいんだものね」
「う   む」
「あの、紫関さん  
 三人仲良く頭を抱え込んでいるところに、警備の巡査から遠慮がちに声をかけられ、紫関が最初に反応した。巡査が説明するまでもなく彼の頭の上から見える顔で、客を案内してきたのだということが判る。
 巡査は、頭一つ上のところの顔に向かって見上げたまま会釈をすると、すっと持ち場に戻っていった。
「……山宮先生!」
 紫関のうわずった声に、がばっと顔を上げた龍樹は、初めて顔を合わせる伝説の先輩を注視した。
「また出たんだって?」
 気ぜわしげに言いながら三人を見下ろしてくる長身は、けして強面ではないにも関わらず強い威圧感を発していた。
 トレードマークともいえる腰まで届くロングヘア。極太の一本三つ編みは、仕事バージョンである。前髪をきっちりオールバックになでつけ、全開になった額は形も良く秀麗。眼鏡の奥の瞳は濃い緑色に輝き大変に理知的である。
 ぽかんと無遠慮に見とれる拓斗の表情を、龍樹は胸の内で苦笑いしながら盗み見た。
 山宮祐治。
 常に自分の前を歩く男。ストレートの拓斗でさえ魅了してしまうらしい。
 龍樹は山宮の影を意識しながら学生時代を過ごしたのだった。同じ日本からの留学生というだけでなく、選んだ講座、読む本、実績。すべてが山宮の手垢に染まっていた。出会う人ごとに『山宮の時はこうだった』と言う。
 彼に出来て自分には難しい出来事に出会う度、いかに自分がちっぽけな存在であるかを思い知らされた。
 山宮効果。
 龍樹は密かにそう名付けていた。
 思い人の拓斗も、山宮にとられてしまうのだろうか。
 山宮がその道に興味がないらしいのは、当時つきあっていた仲間たちに聞いていたが、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ不安になる。
「法医学の先生がどうしてここに?」
 龍樹の呟きに、山宮はにっこり笑って答えた。
「単なる好奇心だよ」
 聞いた途端に背筋がぞくっとして、龍樹は慌てた。
 これが山宮の声。
 なんと甘く艶やかな声なんだろう。
 話に聞いていたものに誇張がなかったことを知って、溜息が出た。
 別に耳元で囁かれたわけではないのに、低く忍んでくる響きが偉く官能的で、下半身の方が反応してしまいそうだった。
「個人的興味って事ですか?」
 拓斗の甘いテノールが、更に追い打ちをかける。拓斗には山宮の声は効果がないらしく、冷静な態度が頼もしい。
「まあね。うちの奥さんが知りたがりなんだよ」
 顎をしゃくった方向に視線を移すと、一人の女性がこちらに向かって歩いてくる。
 均整のとれた、およそ自然界で作られた一番美しい曲線といえるのものでかたどられたシルエット。
 姿勢のいいきびきびとした動き。
 やがて照明が彼女の顔をはっきり写したとき、拓斗の口から小さく口笛が漏れた。
「茅野小夜子じゃん、相変わらずゴージャスだなぁ」
「え?」
 駆け寄って迎えた山宮と話している、拓斗がゴージャスだという女を、忌々しい気分で見つめた。
「……高校の時、新体操界のプリンセスって言われたことある人なんだ。なんか、歯医者になるからって引退した人。もう結婚、してたんだ…………」
「学生時代はミステリ研にいたんだそうだ。山宮先生を顧問に祭り上げて。」
 紫関の注釈に、自分だけが除け者にされたような気がして、龍樹は面白くなかった。つい拓斗を睨んでしまう。
「羨ましいの?」
「え? その……」
 戸惑いがちの拓斗の答えに重なるように紫関が口を挟む。
「ああ、そりゃあ羨ましいよな。あれで、結構さばけた人なんだぜ。美人を鼻にかけたりしないし、昔っから山宮先生一筋って感じでさ」
「そりゃ、あの先生なら、他に目がいかないだろう?」
「龍樹は知らないんだ。結婚前の先生のむさ苦しさを。俺、式の日まで、山宮先生の目なんて見たこと無かったもん。ばっさり前髪で顔隠してたんだぜ。服装も無頓着だったしな。乗ってる車だけは女が寄ってきそうな奴だったけど」
「ポルシェだろ?」
「え?」
「顔隠してたり、服装かまわなかったのは、女の取り巻きとかを作らないため。そっか、彼女、めげずにアタックしてゲットしたか……。あやかりたいもんだ」
「なんで?」
「知ってるかって言うと、それも伝説になっているから。あっちの女は積極的だしね。ゲイの奴らも追っかけ回してたみたいだし。でも、そういうのが煩わしかったらしくて、すっかり人嫌いになったって。ストーカーにも悩まされて、ノイローゼになりかかったって噂もあった。写真でしか見たこと無かったから、実物見るのは今日が初めて」
「すげ……」
「車には、“マイカ”って名前つけてそうなマニアだって事だった」
「……そこまでじゃないよ。車は好きだけど」
 今度は本当に耳元で囁かれて、ドキンとした。途端に顔が赤面してしまう。
「君、桂川君じゃない? 以前、外科のホルスト先生が、すごい留学生が来てるって言ってたんだ。僕の学生時代を知っている綺麗な日本人男なんて、そうそう居ないはずだ」
「……は。あの、はじめまして」
 山宮に自分の噂が流れていたなんて。
 舞い上がってしまった自分を叱咤する。 
「君は今、どこの病院にいるの?」
「あ……いえ、僕は……」
「今は茶店のオーナーやってるんですよ。何がどう嫌なのかは知りませんが、せっかくの腕を錆びさせるつもりらしいです」
「紫関!」
「俺達、中学の時に同級だったんですよ。とにかく山宮先生から説教してやって下さい」
 山宮は涼しげに瞳を細めて微笑んだ。
「僕には説教なんて出来ないよ。自分で選んだ道なんでしょ?」
「そう言っていただけるとありがたいです」
 龍樹は、名刺を取り出して山宮に渡した。
「機会があったら僕の煎れたコーヒーを飲みに来て下さい」
「……店の名前はどうして?」
「僕自身のイメージですよ」
「そう……。どういう経路でそういう結論に行ったのか、聞いてみたい気もするが、遠慮しておこう」
「助かります」
 深々と頭を下げた。山宮の威圧感は気分のいいものだった。
「じゃ、がんばれよ」
 月並みな台詞も、山宮の口から出れば不思議な説得力を持つ。
「本当にいるんだなぁ、ああいう人……」
 羨望の瞳で見送った。
 ポカンと口を開けて見上げる拓斗を横目で盗み見た。
「なに?」
 黒い大きな瞳を更に見張って、クスッと笑った。
「龍樹さんがそんな台詞吐くとは思わなかった……」
 クスクス笑いを納めようと身体を震わせた仕草が可愛らしく、龍樹は背筋を走る戦慄をうっとりと受け止めた。
「どうして?」
「龍樹さん自身が言われ慣れた台詞だろう?」
「そんなことないよ」
「龍樹さんが耳にしないだけで、龍樹さんの背後には、その台詞が渦巻いてるよ。俺も思ったもん」
「僕はただの男だよ。いや、変態な分質が悪いかもしれない」
「自分でそんな風に言わないでよ」
「妹にまで言われてるんだ。今更普通の人間だと言い張るつもりはない」
「龍樹さんはあの人に負けてない。目立つことではあの人以上だよ」
「嬉しくないよ」
「……俺は憧れるな。龍樹さんはものすごくかっこいい。素敵な人だと思う」
「……本当に?」
 拓斗にそう言って貰えれば、他の誰に後ろ指さされて笑われたって良かった。
「うん。本当だよ」
(でも、僕を恋人にはしてくれないんだよね)
 つい、寂しい笑みを向けてしまった。
 拓斗の眉をひそめさせてしまったのは、胸の内の呟きが伝わってしまったからだろうか。
「おい、いちゃついてる場合じゃないぞ。帰れ!」
「なっ!」
 真っ赤になってしまった拓斗の表情は、けして嫌悪だけではなかった。割り込んできた紫関に感謝する。
「拓斗君、帰ろう」
 簡単に会釈して、病院を後にした。
 帰り道は拓斗と龍樹の二人だけで最寄り駅へ向かった。