冷たい媚薬・第八回
【2】
あいつ。
今度はあいつ。
何時だって邪魔が入るんだ。
あいつを排除しなければ。
『El Loco』のオーダーストップは原則として九時である。閉店は九時半。出前はしない。たまに料理のテイクアウトを頼まれることはあるが、得意先に限定している。
その日龍樹は紫関に頼まれてキーマカレーを折りに詰めていた。そのままレンジに入れられるようにアルミホイルは使わず、サフランライスとカレーを別々の容器に盛り込んだ。
「旨そうだな。この店はテイクアウトもできるのかい?」
低い声が響いた瞬間、眉をひそめた龍樹の瞳が扉の方を射抜いた。
「そんな顔するなよ」
切れ長の鋭い目に苦笑を浮かべて長身の男はまっすぐ龍樹の正面のカウンター席に陣取った。
長谷部穣。
声を聞いただけで分かってしまう自分に舌打ちしながら、龍樹は瞳だけを凍らせて営業スマイルを浮かべた。
「申し訳ありませんが、閉店したんです」
「昔のよしみだ。コーヒー一杯ぐらい飲ませてくれ」
「生憎豆を切らしてしまって」
「そこにあるのは?」
「明日の客用でね」
「向坂拓斗」
ピクッと龍樹の手が止まったのを目にして長谷部はにやりと笑った。
「この間泉と一緒にいた奴。うちの予備校の生徒だったんだな。お前が本当に目を付けてるのはあの子だろう? また兄妹で奪い合いでもしてるのか?」
「関係ないだろう?」
「泉は……。好みじゃなくても手を出すだろうな。お前が目を付けたんなら」
「え……?」
「俺のやり方が間違っていたのは後で解った。実際、俺はお前を失ったし、泉は兄にくっついていた悪い虫を思惑通り追い払ったわけさ」
「またくだらない言い訳を。とにかく、お前の思惑がどうだろうと関係ない。覆水盆に返らずだよ」
とりつくしまも無いという態度の龍樹の肩をぐいっと掴んで引き寄せると、長谷部は重低音をかすらせて囁いた。
「向坂が大事なら気をつけるんだな」
「っ。どういう意味だっ?」
腕を振り払って逆に胸ぐらをつかみ取った。
「言葉通りだよ」
にやにやしたままの長谷部を汚いものを触ってしまったかのように放り出して威嚇の表情を作った。
「……拓斗に手を出したら殺してやるっ」
「あの子は俺の趣味じゃない。もっと身近にいるだろ?」
「……」
返事をするのは止めた。長谷部に与える言葉はもうない。
龍樹の凍てついた心を溶かすことが出来ないと踏んだのか、長谷部は軽く肩をすくめ席を立った。
「随分入れ込んでるんだな。そんな顔して、美人が台無しだぜ」
美人などとは言われたくない。瞳にだけ抗議の色を浮かべ、出て行く男の背を見送った。
バンと拳をたたきつけそうになって、手を止めた。
手元には無意識に作り上げた折りが並んでいる。
「……ちゃんと温めて食べるのかなぁ」
冷たいカレーなど食べれた物ではないから。
紫関の注文は同僚の分もあって大量だった。新たな顧客を得られるチャンスでもあり、失敗はしたくなかったのだが。
「よりによってカレーね……」
苦笑を浮かべて袋に詰めていたら、ドアベルが鳴った。
「あ、紫関、カレー今出来たとこ。ちゃんと温めて食べてくれよね」
今度こそ紫関だと決めつけて顔を上げずに言った。
「龍樹さん、それなに?」
まろやかなテノールにハッと上げた顔は、のぞき込んできていた思い人と見合わせる位置にきてしまった。その日の訪問はもう無いだろうと落胆していたところだったので、意外な面もちで露骨に見つめてしまったのだった。
拓斗はふっと目元を赤らめ、視線を落とした。絶妙なフォルムの小鼻をヒクヒク震わせて料理の匂いを確かめる表情がかわいらしい。
「あ、キーマカレーだ。なに、テイクアウトなんてありなんだぁ」
見とれてしまった気恥ずかしさを追いやるように微笑んで見せた。
「……紫関の注文なんだ。ほら、刑事の」
「ああ、あの人。おもしろいよね。一緒に組んでた格好いい人も。刑事って、もっと怖いかと思ってた」
親しみを込めた言い方に微笑みを浮かべようとしたのだが、引きつった歪みにしかなれなかった。
「紫関はストレートだよ」
「へ?」
「ゲイじゃないって事」
「何で急にそんなこと言い出すの?」
キョトンとした黒目がちの瞳が不思議そうに見つめてきて。
龍樹はあわてた。嫉妬が言わせた衝動的な台詞だったのだ。つじつま合わせの言い訳を探す。
「……僕との仲を疑われると困る。紫関に怒られるから。あいつは僕がカミングアウトしたとき、本気で一メートル飛びすさったんだよ」
「龍樹さんに、女はいいぞぉって、散々言ってたものね」
クスッと笑って言う拓斗をぽうっと見つめた。
(困ったな、今日は眠れそうにない)
拓斗をオカズにしているなんて知れたら嫌われてしまう。ただの笑顔なのに延々と自分を慰めることができるほど官能的に感じるのは大好きな人だから。
「おう、お邪魔。出来てる?」
ドアベルを激しく鳴らしながら入ってきた男を見て、龍樹は揺るみかけた表情を引き締めた。
「ああ。出来てる。ちゃんと温めるんだろうね? 冷えたまま食べて、不味いなんて言われたら心外だ」
紫関は金の入った封筒をカウンターに置くとニッと笑った。
「大丈夫。電子レンジくらいあるさ。友達の店を宣伝するのにそんな片手落ちするか! あ、領収書、作っといてな」
バタバタと荷を抱えて帰っていった刑事を見送り、拓斗が羨ましそうに溜息をついた。
「宣伝兼ねてたんだ……。温め直しのカレーが合格なら店に来てみたくなるものね」
「……自信ないんだけどね。確かに、客が増えるのなら歓迎なんだが……」
「大丈夫だよ。俺が保証する。ねえ、俺でもテイクアウト、作ってくれるの?」
「もちろん作るよ。でも、ここで食べていけば?」
「いや、今度でいいんだ。今日は済ませちゃったから……」
拓斗は日参するほどの常連客ではない。食事の注文も多くて週二回ほどだ。
「なんだ、今日はよそで食べたんだ……」
落胆した気分になるのは、会えなかっただけでなく、自分以外の人間が作った物を食べに行かれてしまったこと。
「毎日外食なんて出来ないさ。今日はね、コンビニのおにぎり二個」
「それだけぇ?」
「うん。冬期講習のお金、言うの忘れてたから、生活費に食い込んじゃったんだ」
恥ずかしそうに言う拓斗に背を向けると龍樹は急いでミネストローネの鍋を火にかけた。
さらにフライパンを取り出し、卵二個にミルク、チーズとみじん切りのタマネギを用意して。手早くできあがったオムレツにサラダを添え、スープと共に拓斗の前に置いた。
「食べなさい。おごりだから」
「……困るよ」
たかりたくないと言う意志に満ちた黒い瞳に、諭すように話しかけた。
「君ね、受験に勝ちたかったら栄養バランスも考えないとね。おごられるのが嫌なら出世払いのツケでいい」
拓斗が瞬間泣きそうな顔をした。小さく微笑んだのは気分を害していない証拠。
「じゃあ……絶対払うから……。いただきます」
そう言ってオムレツを見つめ、ナイフとフォークを握ると、勢いよく食べ始めた。
「美味しい。タマネギが甘いね」
「ネギは頭にいいんだって」
食後のコーヒーをいれながら、拓斗の食べる表情を眺めた。快感にとろけたときを想像させるほどの至福の表情。
どうしても手に入れたいと、あらためて思う。
ごちそうさまと手を合わせた拓斗に心の中でキスを投げかけ、無関心を装って皿を片づけた。
「さて。今夜来たって事は、昨日渡した分の問題は出来てるってこと?」
「あ、うん」
ごそごそと鞄を探り、ノートを取りだした。
「化学の二番と十五番で引っかかった」
「ああ、ホントだ、苦しんだ後があるね。でも、分かったんだろ? 答えは合ってる。それより、五番と三番だ。有機の方が苦手なの? 化学式、途中から違ってる」
「わ、ほんとだ」
「ケアレスミスが一番嫌な物なんだ。そんなので落としたら悔しいじゃない」
「うん……」
頭を掻きながらじいっとノートを見つめる真剣な表情を記憶に刷り込んで、思い人の仕草コレクションを増やした。全ては夢で会える彼をリアルにするため。
そんな邪心をおくびにも出さず、赤ペンで正解を書き込みながら、拓斗に検証させた。きちんとした説明が出来るまで繰り返し質問をする。二時間ほどそんなやりとりが続けば、真剣であるほどに疲労も濃くなる。
一通り終わった時点で龍樹は立ち上がった。
「じゃ、今日はこの辺で。コーヒー、飲む?」
用が済めば帰ってしまう思い人を少しでも引き留めたくて言ってみた。
「眠れなくなるから、遠慮する。遅くまで付き合わせちゃってごめん。片づけ手伝うから。なにすればいい?」
ノート類を鞄にしまうと拓斗はにっこり笑った。
「ええっと……」
何か仕事を見つけなければ。せっかくの引き留めるチャンスである。
そう思っても、何もなかった。
「気持ちはありがたいけど、ないや」
本当に残念だと誰にでも読めるように顔に書いて言った。
「受験が終わって暇になったらウェイターやってくれると嬉しいな」
「分かった。俺、出来るだけ店手伝うから」
拓斗が嬉しそうに言った。自分の負債を返せる手だてを与えられたことが嬉しいらしい。負債なんかではないのだが。
龍樹はどんな理由であれ側にいられれば良いという思いで頷いた。