冷たい媚薬・第七回
あの女……。
温かい血を持っている。甘く、濃厚な……。
私には分かる。
私の冷たい体を温めてくれる熱い血潮。
それが一時的なものでも……私には必要。
拓斗の通う予備校は横浜駅にある。授業は退屈。特にそう思うようになったのは龍樹の授業を受けてからだ。
試験と手当の繰り返しだが、その手当の時の教え方が面白い。要領をえた応用しやすい知識は能率アップを約束してくれているような気がする。おかげで他の教科まで勉強のしかたが分かったからなのか成績は上がったのだ。
実際、定期的に行われる予備校の全国模試では席次が上がっている。
張り出された上位者順位表の若い番号の方に位置する自分の名を眺めて確認した。
「向坂!」
呼ばれて振り返れば予備校の進学指導の先生。早光大医学部を受けると言ったら浪人覚悟か? と訊いてきた。
「大驀進だな。この調子で行けば、市大医学部も大丈夫かもしれないぞ」
「はあ、ありがとうございます」
反射的な愛想笑い。そういうときの自分は嫌いだ。
(あんたは何にもしてくれてない)
……そう思っても礼を言う。
辞めてしまおうか、と、ふと思った。
そろそろ冬期講習の講座選びをしなければならない。
「ま、市大を大本命にするなら、文系科目にもう少しだけ力入れとかないとまずいがね」
考え事の頭を急に呼び返されて、まだ会話が終わっていなかったのを知った。
「あ……。そうですね……」
とりあえずの相槌。頭を下げて先生を見送ってから、受付に足を伸ばした。
「冬期講習の申込書をお願いします」
きっちりした制服に身を包んだ事務員の女性が柔らかく微笑みながら予備校の封筒を渡してきた。
「人気の講座はもうすぐ埋まっちゃいそうだから、早めにね」
「はい」
自動ドアののんびりした開き方を見ながら、デパートみたいだなと思った。
予備校というのは大学へ入るための技術を売るところだと言う言葉を急に思い出した。
「あれ、誰が言ってたんだろ……」
頭の中で龍樹の顔がフワリと微笑んだ。
腕時計に目をやった。今から急いで帰れば『El Loco』閉店ぎりぎりに帰れる。
「冬期講習は家庭教師と相談だな。うん」
駅に向かって駆け出した。
三歩も進まない内にヌリカベに跳ね返され、タイルの敷き詰められた外玄関に尻餅をついて、突如出現したヌリカベの正体を確認しようと見上げた。
「大丈夫か?」
甘く響く重低音。元々細そうな切れ長の目を細めて、スーツ姿の大男がかがんできた。腕を引かれ、立ち上がらされる。
「ああ、はい、すみません」
「君、ここの生徒?」
「はい」
「じゃ、理系組だね。顔合わせたこと無いものね」
二十代後半の、落ち着いた雰囲気を持つ理知的な顔を微笑ませている。
高そうな三つ揃いのスーツを、あまりにもしゃれた感じで着こなしている男の台詞としては妙だなと思った。
「あの……?」
思ったことが顔に出る拓斗である。男はぷっと吹いて言葉にしていない質問に答えてきた。
「……俺は生徒じゃないよ。一応講師。古典と現国。ま、余力があったら覗いてごらん」
「はあ……」
「じゃあな。前を見て歩きなよ。受験生!」
笑いながら行ってしまった男を見つめた。
「あれぇ……?」
どこかで見たことがあるような気がしたのだが……。
あの人……こわい。
なんでだかこわいよ。
すごーく優しいこと言うけど、
きゅうにあたしのことをにらむの。
それだけで、あたしは固まってしまう。
トンと突かれるだけで、バラバラになってしまいそう……
みんな、どうしてあの人の言うことを聞くの?
こわいよ。
「……てわけでぇ、冬期講習は文系まぜてとろうかって」
予備校のパンフをはさんで、やはり龍樹は拓斗の顔を見つめていた。
予備校帰りに駆け込みで入店した拓斗と二人きりというのが龍樹には喜びで。さっさと店は閉めてしまった。邪魔されないように。
相変わらず可愛い拓斗。
愛らしい薄紅色の唇の動きが龍樹を夢想に誘い込む。
抱きしめて、キスして……そして…………。
「龍樹さんの授業で充分な気もしたんだけど、この冬休み、毎日一日中この店に入り浸りってのも迷惑だもんね」
(迷惑なんかじゃない! 望むところだよ)
思いっきり言いたい台詞だが、拓斗が怯えるだけだと思い、飲み込んだ龍樹である。
「……午前中の講座に絞って、午後からはこっちで勉強ってのは? うまくスケジュール組めればだけど」
「うん……そうなんだよね。龍樹さんさえ良ければ、俺はそれが一番有り難いんだけど……」
「いいよ。僕の方は。文系もやるんなら、泉にやらせようね。細かいスケジュールは泉が戻って来たら決めよう。君は講座を選んでおいて」
「うん。まあ、大体決まってるんだけど。古典とかは初めての講座だから一寸ね。今日講師の人と会ってさ、面白そうなんだ」
「面白い?」
「うん。なんかね、軽くて、でも鋭そうな……切れ者って感じで……。低い声がめちゃくちゃ印象的」
何となく嫌な予感がした。
「どんな人?」
「どんな……って……。背が高いんだ。龍樹さんより高いかも……」
その時になって、やっと真剣にパンフレットに目を通した。
講師の中にやはりその名前はあった。
「長谷部……穣……」
「え?」
「拓斗君、悪いこと言わないから、その講師の講座は取らない方がいい。古典とか必要なら別の人のを……」
「何で……」
言いかけて拓斗はハッとしたように龍樹を見つめてきた。
「あの時の……人……?」
「うん……。一寸癖のある奴なんだ。君は狙われやすそうだし……」
「って……? その……」
「あいつ、バイなんだよ」
「ば……?」
「だから、両刀使いって奴」
言うなり頬が赤らんでしまった。
「……昔付き合いがあって……」
拓斗が無言で自分を追いつめてくる。その瞳に負けて、尋ねられる前に白状してしまっていた。
「付き合い……って……」
「兄貴!」
もう少しで全てを話してしまいそうだった。
泉の乱入がなければ。
泉の声の鋭さに、拓斗と二人で絶句して彼女に目をやった。
「何言い出すのよっ?」
泉は買い物の荷を降ろすと、つかつかと二人のところに歩み寄ってきて、いきなり手を振り上げた。
叩かれるのは分かっていたが、よける気がしなかった。
パシンと頬が鳴った。
「ちゃんと正攻法で迫りなさいよね! 告げ口なんて最低!」
「……すまん……」
あんぐり口を開けたまま拓斗が見つめている。
泉の剣幕もだが龍樹の大人しい態度も、拓斗から見れば驚きなのだろう。
「あ、あの、泉……さん、告げ口なんかしてないよ。俺のね、予備校の講師が長谷部……さんなんだ。それでその……」
割って入るように彼は言い出した。
「穣が……? 本当?」
龍樹は黙ってパンフレットを指さした。泉が覗き込み、フルフルと震えだした。
瞬きもせず凍りついた視線がパンフレットに注がれる。
震えた手がパンフレットをゆっくりと引き裂いた。
「あ……」
拓斗と二人声がそろってしまって。それを気に入らないのか、泉がじろりと睨み付けてきた。
「文句、ある?」
「……ありません」
気圧されたように拓斗が返事をしたのが、また気に入らなかったのだろうか。
「兄貴、コーヒー!」
とがった声のままそれだけ行って拓斗の隣に座った。ドカッと乱暴に。
「泉……さん……?」
心配げに呼びかける拓斗にまで冷たい視線を送る。好きだと言っていた相手に、なんとまあ……。拓斗の方は何がなんだか分からないけれど自分のせいか? と、気にしてしまったように瞳を怯えさせて伺っている。
「泉……、拓斗君には関係ないんだから……」
言いながら違和感をぬぐい去れずに妹を見つめてしまった。
それは帰国して初めて妹に会った時も感じたもの。
これは……本当に泉だろうかという疑問。
彼女はコーヒーを一口飲んで大きく溜め息をついた。
「ごめ、ヒステリーだった。拓斗、パンフ、必要だった?」
「あ。いや。……平気だけど……」
「文系やるなら……あたしに聞いて。一応国文科だから」
「すみません……」
泉は拓斗を失った! 完全に!
拓斗の返事の仕方を聞いて直感した。
拓斗は泉に気圧されている。普通、怖いと思った女に対して恋愛感情は生まれない。
龍樹は顔に出さずに快哉を叫んでいた。
そのまま拓斗を自分の腕に取り込めるとは思っていない。けれど、少なくとも今の拓斗はフリーだ。
いつか彼を手に入れる。どんな努力もいとわない。そんな闘志が熱く燃え上がり始めるのを胸の内で意識しながら、龍樹は二人の動向を見守った。
「……そういえば、泉さん、畑山達をここに誘ったそうですね」
「え?」
「陸上部で『El Loco』に来たって……。龍樹さんと泉さんそっくりだからって言われて、気がつかなかった俺って間抜けだなーって」
「……拓斗君が混ざっていなかった時に誘ったの? 泉にしては片手オチだな」
「……夏休みの時! 拓斗はデートだからって、畑山達が言ってたわ。誘ったんじゃなくて、たかられたのよ。第一、略奪愛って性に合わないわ」
ちらりと龍樹をねめつける瞳にはまた非難の炎。ヂクヂクと古傷が痛み出すのを、龍樹は瞼を固く閉じて耐えようとした。
拓斗がまろやかな声を邪気なく差し挟んできたおかげで少し浮上する。
「あ……。そうか……。一回部活さぼって海行ったことあった……」
あの、亜紀美という少女と?
過ぎたこととはいえ、なんとなく嫉妬してしまう。海といえば、半裸を曝す開放的な場所だ。拓斗とそういうデートが出来ることがどんなに幸福なことか、あの少女は気にも留めていなかった。
そんなもの思いを泉の邪気を消した声音が遮った。
「でも、それがどうかしたの?」
「泉さん、その時居合わせたお客のうち二人が通り魔に殺されているの、知ってますか? 俺も会ったことあるらしいんだけど、畑山に指摘されるまで全然気がつかなかったんだ」
「へぇ……。兄貴、知ってた?」
「いや……拓斗君に言われるまで気がつかなかった。紫関なら覚えてるだろうけど、僕の興味の対象じゃないから……」
「あはは、そりゃそうね。でも、覚えてたの? 顔……。珍しいね」
からかい口調で言われて龍樹は頬を染めた。
「拓斗君のことからかってたことあったから……」
ボソッと呟いてそっと拓斗の顔を伺った。
俯いているせいで口元しか見えない。
「はいはい。そんなことだろうね」
いい加減にしろよという口調で泉が溜め息をつき、拓斗は黙殺という形で応じた。