冷たい媚薬・第六回
【2】
あいつ……。
またやらかした。
あたしのことを押さえ込んで、虐めるあいつ。
なんであたしのことをそっとしておいてくれないの?
なんであの人はあいつに味方するのかな……
「え? うちの客?」
拓斗の持ち込んだ意外な話題に目を丸くした龍樹は、それでも拓斗のスクラップを受け取った。
交換のように拓斗のためのスペシャルバーガーの皿を置いた。メニューにない、特別なものである。拓斗のように来店頻度の高い客には、それぞれの好みでこのようなメニューを設えるのも『El Loco』の魅力の一つになるようにしてある。もっとも、実際にこのサービスの恩恵にあやかっているのは拓斗と紫関だけであるが。
「拓斗君、今度は探偵ごっこ始めたのかい?」
もう一つの魅力であると客達が言ってくれる龍樹の微笑みを、拓斗は視線をそらせることで黙殺した。
「ごっこ……てんじゃないけど……」
微笑みが消退していくのを止められないでいる龍樹の顔を見ずに拓斗が呟いた。ごっこという表現が癇に障ったらしい。龍樹は心の中で舌打ちしながら機嫌を損ねてしまった想い人を見守った。
そっぽを向いた拓斗の横顔の、呟く度に動く唇が龍樹には誘惑しているように見える。癖のない絹糸のような髪で隠された目元は多分ほんのり赤く染まっているだろう。ムッとした表情すら愛らしく。
いつかその腕に取り込めたらと願う自分を抑え込み、龍樹は拓斗が語る言葉に耳を傾けようと努めた。
「今日、紫関さん達が学校へ来たんだ。……亜紀美が……通り魔にやられたって」
「って、君の連れてきてたあの彼女?」
「うん……そう。死体見ちゃったときもかなりショックだったけど、やっぱり良く知ってる人が殺されちゃうのって気になるって言うか、……いても立ってもいられないみたいな。 この店にも関係あるんじゃないかなって……」
「はあ? 何でまた……」
「友達がね、最初の二人を見たんだって。ここで……。龍樹さんなら他の人も見覚えあるかもって……」
拓斗の声はまろやかな低めのテノールで、本人が気づいていない甘い響きを持っている。龍樹がつい反問で答えてしまう癖は、もっとその甘さを味わっていたいためについたものだ。
(相当重傷だな)
などと自嘲しながら、やはり反問で返してしまう。
「どういう意味?」
龍樹の反問の癖を咎めもせず、拓斗は身を乗り出してスクラップブックをめくった。
「お客に……いなかったかなって思って。このね、三番目と四番目の人」
拓斗の指し示した記事を覗き込みながら、実際は拓斗の髪の匂いを楽しんでしまった。
気もそぞろなのを見とがめたらしく、拓斗は睨み付けるようにして言いつのってきた。
「ちょっと、ちゃんと見てよ」
「ごめん……」
だが。
客の顔を全て覚えるというのも難しい。しかも女性となると興味の対象外なのだから、なかなか記憶に残らないのだ。
「あんまり覚えがないんだけどな……」
言いながら新聞の解像度の悪い写真に目を凝らした。拓斗の機嫌を損ねたくないという、ただそれだけの理由で。
「まてよ……」
意外にも記憶にある。何故だろうと記憶を検索してみて……。
「あ…………」
「おぼえ……ある?」
好奇心に目を輝かせた拓斗をうっとりと見つめてしまい、慌てて検索したデータに意識を戻した。
それは拓斗には言いにくい理由で記憶されていたものだった。彼女達は店で居合わせた拓斗に粉をかけたことがある女達だった。軽いからかいには違いないが、龍樹にとっては嫉妬の炎を燃やすに十分なことで……。女達の言葉に拓斗が頬を紅潮させて答えていた姿が龍樹の胸を痛めたのだった。
「君のこと、からかったことあるでしょ、この人達……」
「へ?」
「おぼえてないの?」
「えーと…………」
眉間にしわを寄せて記憶をたぐり寄せようとする拓斗の表情は、生真面目な気質を露にしていて龍樹を微笑ませた。しかも、世間一般の評価として美人である彼女達が拓斗の記憶に焼き付けられていなかったという事実が喜びを誘う。
「君好みの人達じゃなかったのかな? 全然記憶にないの?」
「うーん……。そう言われて見れば、なんか……そんなことあったような。俺って要領悪くって話し下手だから、よくからかわれるんだよね。俺の反応、おねーさんたちには面白いらしい。……あんまり気分良くないけどさ……。しょうがないよね?」
「君が純情だからだよ。微笑ましいっていうか。母性をくすぐられるんじゃない?」
彼女達の気持ちはよく解る。弄ぶというより、拓斗の照れた表情を味わいたいのだ。可愛くて、優しい気分にさせてくれる無垢な天使。
けれど、そんな天使を淫らに喘がせてみたいという、いけない思いも自分の心の奥底には存在する。
いかんいかん、と自分を叱りつけて。
「可愛いってさ、思うんだよ。きっと……」
「嬉しくないな。可愛いなんて、女の子への評価だ。俺、男だもん。そういうの侮辱だ」
拗ねた口調で呟く拓斗。
そんなところが可愛いんだよ。もちろん僕は女の子扱いしているつもりはないけどね。
心の中で苦笑しながら、拓斗にコーヒーを渡した。
「君はちゃんと男だよ。それに、可愛いって言う形容詞は子供にも使うだろう? 彼女達は母性に従って男を子供扱いする。まして、君は年下の男だからね」
「龍樹さんも俺のこと、子供だと思ってる?」
「思ってないよ」
愛しさの中身はあくまでも想い人だ。子供でも弟でもない。この男に愛されたいと心から願う。たった一つ、一生に一度、願いを何でも叶えてやろうと言われたら、まよわず拓斗を獲たいと願うだろう。
「僕がどう思ってるかは、もう君は知っているはずだ」
拓斗がビクッと身じろいだ。言わなければよかったと一瞬後悔したが飛び出した言葉は取り戻せない。
「いっとくけど、気は変わってないから。君に応えて欲しいとまでは言わないけど、僕の気持ちを疑うのはやめてくれ」
「龍樹さん……俺……」
困惑に揺れる声音は力がなかった。
「ああ、友達でいいんだ。ごめん……知っててくれれば……いいんだ……」
こうして避けないで来てくれるだけでも嬉しいのだから。
「…………」
苦々しい沈黙のたちこめた店内をドアベルの涼しい音が打ち破った。
助かった。正直な気持ちである。
「いらっしゃい」
ホッとした声で客を迎える。見覚えのない、フリの客だった。地味なスーツ姿の中年女性。理知的な面差しを暗く翳らせたまま拓斗の席から一つ離れたところにしなやかな仕草で腰掛けた。若い頃はかなりの美人だったのではないだろうか。
「マンデリンをちょうだい」
ソフトで温かなアルトの声が響いた途端に拓斗が飛び上がった。
新客をまじまじと見つめる。
「拓斗君……?」
龍樹の声は黙殺された。拓斗の視線は女性から離れない。それだけで嫉妬の燻りに火がつく。
凍りついた瞳が潤み始めて。震え声が拓斗の口から漏れた。
「か……柏木……先……生……?」
女性が振り返った。怪訝な表情が拓斗を見つめた。
「あの、向坂です。向坂拓斗。先生に腎臓を貰った……」
息せき切ると言った調子で拓斗が続けた。
記憶を辿ろうと視線を揺らしていた女性の瞳が拓斗を見据えた。
「あ……、あの、拓斗君?」
「はいっ! その節はありがとうございました!」
瞳を潤ませたまま椅子から降りると最敬礼の姿勢で大仰にお辞儀をした。
この女性が拓斗を救ったドナー。
『El Loco』の知己を呼び寄せる力は本当にあるのかもしれない。そんな風に信じたくなるほどの偶然だった。
龍樹は注文のコーヒーを煎れることに集中している振りで耳をそばだてた。
「ああ、大きくなったわね……。元気そうでよかったわ」
「先生も……。俺、四百メートル陸上の選手やってたんですよ。先生のおかげです」
「選手になれたのは君が頑張ったからよ。そう……、君がそうやって頑張りやさんでいるのはうれしいわ」
そうだね。それが拓斗君の魅力の一つだ。
会話に混ざれないまま心の中でつぶやきを差し挟む。
「俺……、俺ね。今度医学部受験するんです。先生みたいな医者になりたくて……。俺なんかでなれるか分かんないけど……でも、どうしてもなりたくて」
「拓斗君なら出来るわ。拓斗君の頑張りと、なりたいって気持ちが強ければ。出来ないことないわよ。透析の痛いのや苦い薬、あれだけ頑張ってこなしてたんだもの」
拓斗の前向きさは、そういうところから培われてきたのだなと合点がいった。
自分の知らない拓斗の側面。それは興味深く、知ることは楽しい経験だった。
龍樹も医者の端くれである。腎臓を患った子供達の治療に対する忍耐力には脱帽ものだと常々思っていた。拓斗はあの医者にいわせると、かなりの優等生であったようだ。
健康的な拓斗が今あるのはこの女性のおかげ。感謝しつつも腹の中の燻りが炎を上げる。
この女性の腎臓が拓斗の中で息づいている。それが悔しい。多分同じ様な形の同じ古さの傷が、二人の背中に存在するのだ。それが二人を繋ぐ絆となって、龍樹を拒絶する。
出来ることなら彼女の腎臓を拓斗から取り出して、自分のものと置き換えてしまいたい。
香り豊かに入ったマンデリンを医者の前に置きながら考えていた。
嫉妬は嫉妬、感謝は感謝。
医者は優雅な手つきでカップを取り上げると一口啜った。
「あ、美味しい……」
素直な言葉がぽつんと出た。入ってきた時はやりきれなさそうな表情だったのが、ほんの少し和んでいるように見える。
客のそんな言葉が聞きたくて、龍樹は店をやっている。
拓斗が嬉しそうに彼女の言葉を追った。
「そうでしょう? 龍樹さんのは絶品なんだ。俺なんか、小遣いほとんどをつぎ込んでるんだから!」
「おいおい」
拓斗が他人の前で自分の名を呼んだ。それだけで悦びが膨れ上がる。弾んだ声にそれが出てしまう。だが、拓斗達は龍樹がコーヒーの出来を誉められて喜んだのだと受け取ったようだ。
ニコリとした笑顔には力がなかったが、ドナーの女医はそれでもだいぶ気分が良くなったようである。
拓斗との出会いのせいのようだ。
拓斗が与える安らぎ気分というのはどこから来るんだろうか。それを享受するのが自分だけでないのは腹立たしいけれど、たとえ人の為でもそんな拓斗の温かさを目に出来るのは嬉しい。
微笑ましい気分で見つめていたら、ふと腕時計に目を遣った拓斗が飛び上がった。
「いっけね。予備校に遅れちゃう。龍樹さん、今日のスペシャル残ってたら、先生にあげてよ。俺にツケといて! 先生、龍樹さんのはホントに美味しいんだから。絶対食べてって! それと、今度ゆっくり会って下さい。ああ、龍樹さん、先生の連絡先も代わりにきいといてよ!」
慌ただしく足踏みしながら早口で言うだけ言って飛び出していった。
呆気にとられた女医と龍樹は、同じリズムでドアから視線を移し、互いを見合った。
女医が先にプッと吹きだした。
「いつもあの調子ですよ」
「ええ。変わっていないわね……。透析のための針跡さえなければ、患者には見えなかったわ。いつも元気いっぱいに見せて……。辛いこともあるでしょうにね」
懐かしげにドアを見つめ直す。彼女だけが知っている幼い拓斗の姿。それは龍樹の羨望を煽るだけでしかない。
「あの。今日のスペシャルはオペラ・ショコラ・キャフェなんですが……。召し上がりますか?」
努めて冷静な声を出したつもりだが、女医は怪訝な顔をして龍樹を見上げた。
「え……?」
にっこりと微笑んでみせた。自分の微笑みが女性に対して威力を持つのを知っている。
「拓斗君のおごりです。受けて下さらないと、僕が彼に叱られる。……ちなみに、オペラケーキのアレンジで、エスプレッソを染み込ませたアーモンドビスケットと、チョコレートクリーム、コーヒークリームを重ねてビターチョコレートでコーティングしたものですが。他のものがよければ用意しますよ」
しばらく観察の視線を向けていた女医もにっこり笑った。
「スペシャルを戴くわ。せっかくだから」
コーヒーのおかわりとケーキを出して。
忘れない内に拓斗の用を済ませておこうと言ってみた。
「それと……よかったらお名刺、頂けますか?」
「あら、ええ」
何度か瞬きをしてからバッグを探り、手帳を取り出した。手早く書き込み破り取って、すまなそうに微笑みながら差しだした。
「ごめんなさい、持ち合わせがないわ。メモでいいかしら? 拓斗君に渡していただける?」
渡されたメモに目を走らせた。
名は柏木律子。市内の電話番号。住所は……。青葉区? 『El Loco』とは随分離れている。
何故ここに? などと考えを巡らせながらエプロンのポケットにしまった。
「すみません、お手数おかけします」
「あら、あなたが謝ることなくてよ。拓斗君、随分あなたになついているみたいね。あんな風に人に甘えるなんて……小さい頃でもなかなかしてなかったのに」
「そうなんですか?」
何だか信じ難いなと思いながら相づちを打った。
柏木女史がケーキをつつきながら頷いた。
「ええ。人なつこそうに見えて、結構自分の殻は固い子だったから。ほら、時々いるでしょう? 誰とでも仲良くしていて、でも一番大事なところで一歩退いてるって人」
「なるほど……」
「病院に長く入院していると、仲良くなりすぎて悲しい思いをすること、あるから……。そういう意味でもあの子が健康になったのかとおもうと……うれしいわ」
拓斗の小さな頃……。それは医師の証言を得て、龍樹の知っていた患者達に重なった。
龍樹に対する態度は拓斗の中で特別なものらしいと知って、愛しさがこみ上げた。今の拓斗を創り上げるに当たって、女史が大きな影響となっていることに感謝の念が湧く。
「拓斗君は……、本当に良い出会いをしたんですね。あなたのような医者がいるというのはホッとします」
「あら……、ほとんどの医者は同じだと思うけど……」
ほんの少しムッとした瞳で柏木女史は答えた。医者を色眼鏡で見るなということか……。
そうでもないんですよ。たとえば僕のようにね……。
龍樹は胸の内で苦笑いを浮かべながら呟く。
柏木女史が腕時計に目を遣って立ち上がった。
「長居してしまったわ。本当に美味しかった。ごちそうさま。拓斗君によろしく。……ああ、電話もらえるなら夜の九時以降にしてって言っておいて下さる?」
「……分かりました。あ、お勘定は結構です」
財布を出しかける手を押しとどめながら龍樹は言った。
「え? でも」
「ケーキは拓斗君から。コーヒーは僕からのおごりですよ」
断固とした態度に見えたのか、苦笑いしながら柏木女史は財布を納めた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
「またお越し下さい」
「ええ、ありがとう」
柏木女史は母性の固まりと表現したくなる笑顔で言いながらドアを開けた。
ドアベルすらさわやかに響く。
だが、そこで動きが止まり、微かに眉根が寄せられた。
「あなた……。どこかで会ったかしら……?」
「……? さあ……僕には覚えが……。あなたのような人なら忘れるはずがないと思うんですけど」
「お上手ね。ごめんなさい。私の勘違いだわ。じゃ、さよなら」
名残惜しげなドアベルの音。
「さようなら」
龍樹の返事は多分柏木女史には聞こえなかっただろう。
「……何?」
女史とすれ違いに入ってきた泉が眉をひそめて言った。
「兄貴が女にそんな顔してるのって、初めてじゃない?」
「え? どんな顔?」
つるんと顔を撫でながら妹を覗き込んだ。
「好感持ってるって顔。何したら、兄貴にそんな顔させられるの?」
「拓斗君の腎臓のドナー」
「へ……え……。拓斗が呼んだの?」
泉は女史の出て行ったドアを振り返って見つめた。
「いや。偶然。あの口振りだと退院以来会ってなかったんじゃないかな」
「そう……」
「拓斗君の小さい頃のこと、少し教えて貰った……」
聞き逃して損したな。
声音に裏打ちして言ってみた。泉は余裕の微笑みで応酬してきた。
「それで嬉しそうにしてたの? 焼き餅焼きの兄貴にしては珍しいね。あ、おばさんだからだ。拓斗の相手にならないからでしょ?」
「そんなんじゃないよ」
「あたしは妬けるな。拓斗の背中にまだ傷が残ってるの。あの人にも同じ傷、あるんだろーな」
挑戦的な瞳で兄を見上げる妹。
龍樹はそれこそ嫉妬に燃え上がる心中を抑えるのに必死だった。焼き餅を焼いてみせれば妹は喜ぶ。だが、そんな自分は見せられない。意地でも。
「……そりゃ移植の傷ともなれば……。一生もんでしょう」
「そうなの?」
「そうだよ。で、泉、今日は客? バイト?」
「バイト。ちゃんと時給で貰うからね」
「当然だ」
戸棚から泉用のエプロンを出して渡した。
拓斗を挟んでライバルの筈だが、仕事は仕事。しかも、やはり兄妹なのだ。