冷たい媚薬・第六回
【1】
あの女。
男を食らう女。
それは分かっていた。
今時処女の血を求めるのは至難の業だ。
男の家から、上気した艶やかな頬を見せつけるようにして出て来た女。
それはそれで美しい。
私は誘われるように、後を付ける。
喉が鳴る。
高三の二学期も後半になるとクラスというものもあまり関係なくなってくる。選択授業のための移動や受験のための欠席。全員が顔を揃えるのはホームルームの時でさえなかなか無い。
今の拓斗にとっては、それはそれでありがたかった。
亜紀美の顔を見ないですむ。
同じクラスの女と付き合うというのは別れた後結構気を使うものだな、と、痛む胃を抑えながら拓斗は考えた。
なおかつ今は泉と龍樹の存在がある。
龍樹の告白と、泉との交わり。どちらも思い出す度、拓斗の身体を麻痺させるような効果があった。
死体と出くわしたことなど吹っ飛ぶようなショックだ。
空き時間は図書室で自習をするのが常であるが、これがまたよけいなことを思い出しやすい。
「本気でやばいかな……、受験」
つい独り言が出てしまう。
しかし、一昨日までの落ち込みからは解放された。
捨てる神あれば拾う神ありである。納得のいかないふられ方をした後、自信喪失していた拓斗は、泉と龍樹に救われていた。少なくとも、今の拓斗を好きでいてくれる人が二人いる。それだけでも有り難いことだ。
選択授業のせいで昼休み後に持ってこられているホームルーム出席のために自分のクラスに戻り、拓斗は周りを見回した。まだ亜紀美の姿は見えない。亜紀美の席が離れているのは幸いだった。さっさと自分の席に着く。
「向坂!」
席に着いた途端、同じ部だった畑山が近づいてきた。
「お前、昨日、駅前で桂川先輩と一緒だったろう?」
にやにやと笑いながら、なおかつその視線は冷たく拓斗を突き刺す。
「肩なんか抱いちゃってさ、あの後、どうしたんだよ?」
詮索好きな畑山は何時だって誰かの行動に興味を抱いているのだが、大抵の場合、下卑た想像を伴っているのだ。
拓斗は畑山が苦手だった。素直に泉と寝たなんて事は、この男にだけは言えない。
「……気分悪そうだったから、家で吐けば? って言ったら、ついてきたんだよ」
「それで?」
わくわくと瞳を輝かせて先を促す畑山に、拓斗は真っ向から視線を合わせ、大まじめで言った。
「ゲロ吐いた」
畑山の眉がつり上がった。
「それだけ?」
「それだけ」
きっぱり言い切って、拓斗は窓の外に視線を向けた。
三階の教室の窓から見える景色は、主に裏山と隣設する市立大学のキャンパス。見下ろせば来客用の駐車場がある。
空が青い。
「おい、こっち向けよ。それだけって事無いだろう?」
苛立った畑山の手が肩に乗った瞬間に、拓斗は勢いよく立ち上がっていた。
ガターンという音と共に横の席の鷲塚の怒声が聞こえた。
「ってえっ、バカヤロッ! 何やってんだよ、畑山!」
窓に釘付けだった視線を背後に向けると、畑山が鷲塚の膝の上に座っていた。
バレー部だった鷲塚は二メートルを超える長身で、それに見合ったがっしりした身体を持つ。そんな鷲塚の膝の上では、身長一七〇センチの畑山でも痩せ形のせいか、ちょこんとした子供のように見える。その、どちらかといえば童顔なアイドル顔が、周りにさざ波のように拡がったクスクス笑いに促されて見る間に紅潮した。
「向坂っ、てめっ」
慌てて膝から降りながら拓斗に迫る。
だが、拓斗はそれどころではなかった。
龍樹の店で顔見知りになった刑事が、来客用の駐車場に入った車から降りてきたのだ。土曜の夜も動転する拓斗の事情聴取に来てくれたのは彼だった。
そう、確か、紫関とか言う名前だったっけ。
「刑事だよ」
「ああ?」
「警察が学校に何の用だろ……」
好奇心の強い畑山が乗ってこないわけがない。窓に近寄り下を覗いた。鷲塚まで横に並ぶ。
「何であれが警察だってわかるんだよ」
「知ってる人だから……」
そう、あの龍樹の友達。男にしておくのはもったいないほどの美貌を持つ龍樹と、ずんぐりむっくりの紫関。
紫関は、ごく普通の男のように思えたが、龍樹の趣味は知っているんだろうか。
思い及んで拓斗はプルプルと頭を振った。
そんなことよりも、である。畑山でなくても紫関の訪問は興味深い。
「俺、様子見てこようかな。向坂も来いよ。知り合いなら教えてもらえるんじゃない?」
「そういう知り合いじゃないんだよ」
といっても無駄だった。強引な畑山に引っ張られ、拓斗は教室を出た。
「代返しといてやるからよぉ。後で聞かせてねぇ」
鷲塚の野太い間延びした声が背中にかかってくる。
「んもう、お前って、どうしてそうなわけ?」
だから嫌なんだと喉まで出かかる。
「向坂こそ、どうしてそう、突っ張るかね? なあ、一人で生きてるつもり?」
「え?」
畑山の瞳は真剣な色をたたえて拓斗を覗き込む。黒光りする天然の巻き毛を揺らし、そこから覗く同色の瞳は、おちゃらけたいつもの雰囲気を全く浮かべていなかった。
「向坂って、いっつも肩に力入ってる感じだよな。頑張るのはいいけど、いつか折れちまいそうで、俺、心配!」
畑山がそういうことを言うとは思わなかった。少し畑山のことを誤解していたかもしれないと思う。
そうやって畑山を見れば、なんだか嫌みに見えた畑山の笑顔も親しみ深く見える。
「あれぇ? 向坂君じゃないか!」
きっかけを探して畑山と様子をうかがっていたら、紫関の方から声をかけてきた。
表玄関には事務室の窓口があり、来客は記名を義務づけられている。
紫関ともう一人の刑事は記名をすませて事務職員と話をしている最中だったようだ。
「な、あれでも刑事?」
畑山がそっと囁く。
一緒にいる刑事が長身のハードボイルドな雰囲気なものだから、なおさらギャップを感じるのだろう。
「しいっ」
畑山をたしなめる。
確かに人なつこそうに微笑む紫関は、あまり刑事という感じには見えない。それでも以前に龍樹の言っていたとおり、瞳の奥には油断のならない光がちらりと見えた。
「丁度いいや。向坂君、三年だったよね? 遠藤亜紀美って子、知ってる?」
「亜紀美……?」
「俺達のクラスッスよ! な、向坂」
畑山が身を乗り出した。
「畑山! ……亜紀美がどうかしたんですか?」
「うん……、一寸ね。親しかったの?」
「はあ、まあ……」
ふられたばかりとは言いにくい。
「こいつ、遠藤とつき合ってたんですよ」
畑山のおしゃべり!
拓斗は思いっきり畑山のつま先を踵でにじった。畑山が良い奴かもしれないなんて、幻想だったと思う。
「ったた! ってぇな!」
飛びかかりそうになった畑山を抑えたのは紫関だった。
「まあ、おさえて! 拓斗君、きみ、彼女と交際してたの?」
「はい……。一昨日ふられましたけど」
「ふられたぁ?」
畑山と紫関の両方から見つめられ、拓斗は決まり悪さにうつむいた。
「一昨日……かい?」
「……そうです」
「……その後、彼女とは会った?」
「いいえ。受験に集中したいって言われたし、あんまりあっさり言われて追いかける気にもなれなかったから……」
「そのまんまにしたのか?」
畑山がつっこむ。
誰かこいつを止めてくれと心の中で叫びながらも拓斗は素直に頷いた。
あの時の気持ちは、どう説明したらよいかわからない。ショックはショックだったし、クサりもしたが、納得のいかない部分をつっこんで解明しようという気にはならなかった。
多分ドロドロの修羅場になるだけだろうし、下手をすれば亜紀美を憎まなければならなくなるかもしれない。そういうのは性に合わないなと思った。
「……亜紀美に別れたいって言われて、急で、確かにショックだったけど。何か、『あ、そう』 って感じで」
自分で思ってたより本気じゃなかったのかもしれない……。
ぽんぽんと紫関に肩を叩かれた。
「とにかく、一昨日以来、会っていないんだね?」
「はい」
紫関がもう一人の刑事と見交わした。拓斗の言葉を信じてくれたようである。
「刑事さん、遠藤がどうかしたんですか?」
焦れたように畑山が顔をつっこんでくる。
「昨日、死んだんだよ。夜、帰宅途中にね」
「え……?」
瞬間、日本語が解らなくなったような気がした。
「死んだって? どうしてですか?」
畑山の素っ頓狂な甲高い声が間遠に聞こえた。
「殺されたんだ」
殺された? 亜紀美が?
ふわりと振り返る度に甘い香りを漂わせるサラサラの髪。
今風に整えられた眉、見開いたような大きさの茶色の瞳。片えくぼが出来る微笑みが可愛らしく……。
グラリと来た。膝に力が入らない。目眩がする。
咄嗟に誰かの腕が支えてくれたので倒れはしなかったが……。
「亜紀美が……なんで……?」
「判らないから調べている」
支えている腕の主が言った。よく通るバリトンの声。低く響く声質が普通の声音を使っていてもドスが利いているように感じさせる。
ハードボイルドな方の刑事だった。
「念のため聞くけど、君は昨日の夜九時半頃何処にいた?」
ハードボイルドが拓斗の顔を覗き込んだ。
「『El Loco』から帰る途中……かな。閉店間際に行って、龍樹さんと少し話して帰ったから……。家まで真っ直ぐ帰りましたけど」
アリバイって奴だ。そういうのはドラマとか小説の中でのことだと思っていたのに。
「あ……、こんなんじゃ、アリバイにならないかな……」
紫関が、まるで安心しろとでも言うように目配せした。型通りにメモを取りながら、もう一人の刑事に向かって言う。
「俺の知り合いなんです。確認しときますよ」
「ああ、そう。そうして」
どうやらハードボイルドは紫関の上役らしい。どうって事のないことまで物腰のせいで格好良く見えてしまう。刑事というよりはメンズのモデルにした方がいいかもというくらいダンディである。
よくは知らないが着ているスーツも、なんだか高価そうだ。
「君、遠藤さんのことで何か思い出したら、僕でも紫関でも良いから連絡してね」
差し出された名刺を受け取る。
神奈川県警捜査一課と書いてあった。名は太刀村敬志(たちむらけいじ)。肩書きは刑事部長とある。
拓斗の目線をたどり、紫関が囁いた。
「名前と職業が同じ音なものだから、口頭で名乗るの止めちまったんだよ」
「紫関、よけいなこと言うなよな」
拓斗に耳打ちした紫関を咎める太刀村は顔を真っ赤にしていて、さっきまでのハードボイルドな雰囲気をすっかり失ってしまっていた。案外この人も面白い人かもしれない。拓斗にそう思わせる二人の刑事は、警察という何とはなしに怖いイメージを改めさせる力を持っていた。
「遠藤って……、やっぱ、あれかな」
「え?」
二人の刑事を見送りながら、畑山が独り言のように言った。
「通り魔。刑事が来るってさ、そういうことだよね」
「…………一課だから……そうだね」
最近、拓斗の住む町の周辺では、何人かの女性が皆、喉を掻き斬られて死んでいる。
拓斗が蹴躓いた死体は三番目だった。
「美人ばっかりで、もったいないと思ってたんだけどさ。何で遠藤な訳?」
畑山の厳しい一言には苦笑せざるを得ない。
亜紀美は可愛い方の部類だが、確かに他の被害者の女性達と比較すれば見劣りしてしまうだろう。
それにしてもである。曲がりなりにも元彼女をそのように言われるのは、いい気持ちではなかった。
しかもクラスメイトで、理不尽な殺人の犠牲者なのだ。
「何か、その言い方、何じゃない?」
畑山は拓斗の顔を覗き込み、にやっと笑った。
「向坂、遠藤のこと、結構好きだったんじゃん。あいつとやった?」
「なっ……!」
そりゃ、嫌いな奴とつき合ったりはしない。亜紀美と寝たいと思ったことだって、もちろんある。受験生らしくないとか、理由を付けて我慢していたのだ。それにしても、畑山に報告する義務はない。
だが、頬を赤くして黙ってしまった拓斗の表情から、畑山は答えを見いだしてしまったようだ。
「ふうん……、まだだったんだ」
巻き毛の下から射抜くような真面目な視線が拓斗に向けられた。
「よかったかもしれない。死んだ奴を悪く言っちゃいけないけどさ、あいつ、向坂の手には負えない奴だったんだよ。お前が振られたっていうから言うんだけど、多分お前、遊ばれたんだよ。あいつ、結構あっちこっちでつまみ食いしてたらしい。他校の友達で引っかかった奴知ってるんだ。それも複数」
「何を今更……」
「お前が俺の言うことを素直に信じるとも思えなかった。お前、変なところでガチガチに堅いんだもん」
何とも変な話であるが、実際には二才も年下である同級生が、拓斗にとっては大人に見えるときが、ままある。病院で過ごした二年という月日が無駄であったはずはないのだが、経験という名の勉強に関しては出遅れてしまったのかもしれない。
幼い頃にだぶってしまった月日はいつの間にか償却され、拓斗を今の学年に見合ったものに作り上げていた。そう、年齢を気にしていては今居る学年についてはいけない。
「遠藤はお前の堅さについていけなかったんだろうな……」
嘆息混じりの畑山の声は、拓斗をゆっくりと貫いた。なんだか自分のことをつまらない男だと言われているような気がして。それをまた否定できない自分の存在を自覚させられて……。拓斗の顔には無意識に苦笑いが浮かんでいた。
「なんか……、畑山って……」
ん? という風に畑山が拓斗の顔を覗き込んだ。
「爺くさいのな。童顔のくせに」
そうさ、年下のくせに。
そう思いながら、畑山が常日頃気にしている童顔ということをつついてしまった自分こそが子供である事にまたも気づいてしまった。
案の定、畑山は一瞬ムッとして、すねた目つきで拓斗をにらみつけた。
「童顔って、向坂には言われたくねーな。俺よりガキっぽい顔するじゃないか」
「あ? 俺が? いつ?」
「飯食ってるときなんて特に。すっげー嬉しそうでさ。色気より食い気ってやつかね」
「いつの話だよ、いつ!」
畑山がニヤッと笑った。
「学食で人にぶつかってカツ丼落としたときなんて、マジで涙ぐんでたよな。思わず頭撫でて慰めたくなっちゃう様な顔でさ」
拓斗の頬を燃え上がらせたのは、観察されていたという意識と、年下に子供扱いされたための小さな怒り。そして、たかがカツ丼で涙ぐんでしまった気恥ずかしさ。
学食では常にうどんとそばとカレーが提供されているが、日替わり弁当と丼物は限定品で、まず昼時に食券を買いに行ったのでは手に入らないのだ。そんな貴重なカツ丼を手つかずのまま床にぶちまけた思い出は今でも拓斗の胸を微かに締め付ける。
「わ、悪いかよ、涙ぐんで!」
「悪くはないけど、可愛いってさ、思われてもしょうがないよね」
「ああ、そうだよっ。俺はどーせ喰いしんぼだからねっ」
畑山が瞳を和ませて拓斗の頭を小突いた。
「拗ねるなよぉ」
「拗ねてなんかいねーよっ」
言い返しながら気恥ずかしさからそっぽを向いた。実際指摘通りという自覚が、拓斗にはあったから。
「亜紀美がお前の言うとおりだったなら……」
教室に戻りながら、拓斗は独り言のようにつぶやいた。
「ん?」
聞き咎めた畑山が覗き込んできたので苦笑して続けた。
「俺が振られたのって仕様がないよな。俺なんて年ばっかくってたって子供だもんな」
「……年なんてカンケー無いんじゃない? 問題は向坂のバックグラウンドだけで向坂のこと決めつけた遠藤が悪いんだよ」
「バックグラウンド?」
「うん、年上だから大人で、おもしろい目に遭わせてくれるだろうとか、陸上で一寸目立ってたとか……ね」
「ああ、そういうこと……」
思ってたよりミステリアスじゃなくて、つまんない男だったって分かったって訳か。
それが自分に対する亜紀美の評価。
拓斗は寂しく笑った。
「気にするなよ。俺らだって相手に自分のイメージ押し付けてるとこ、あるから。一概に責められないね」
そうだ。
亜紀美が畑山の言うような娘だったとしたら、拓斗は大きな勘違いをしていたことになる。
「ままならないよね」
呟いた畑山と二人、同時に溜息をついてしまった。このアイドル顔の男も、それなりに悩みがあるらしい。
「なあ、向坂」
「ん?」
「通り魔って、いつまで続くと思う?」
「……さあ……? 俺に分かるわけないだろが」
「だって……、さあ。遠藤はともかく、他の人達。お前と顔見知りだったりしない?」
「えっ?」
確かに三番目の犠牲者の顔は知っている。畑山に自分が第一発見者だということは言ってないはずだが……。
「さっき、話に出てた『El Loco』って、お前がよく行く茶店だろ? 桂川先輩に連れてかれたことあるんだ、俺。お前常連だって言うじゃん。あそこのマスター、先輩にそっくりでさ。兄妹ってすぐ分かるよな」
「そ、そうかな」
気づかなかった自分としては何となく耳が痛い。
「あの茶店で、最初と二番目の被害者、見たぜ。俺、美人覚えるの得意なんだ。三番目と四番目は……、そん時見てないけど、家近くだろ? 五番目が遠藤で、……な? お前か、『El Loco』が接点。ちがう?」
「俺は……。よくわかんないや。マスター目当ての若い女の人多かったし」
「ああ、そっか、お前行く回数多いから、逆に記憶がごっちゃになりやすいかもな。もう一度新聞でも見て考えてみな。会ったことあると思うよ」
畑山というのは変に勘の働く奴だ。それは、動物みたいな勘の働き方。拓斗は苦笑した。
『El Loco』が接点?
まさか。
拓斗は帰宅して直ぐに新聞をかき集めた。普段はほとんど読まないけれど、面倒だから解約しなかったという理由でそのまま届けられてくるものだ。口座振替による支払いで、生活費とは別になっているため影響はない。
とりあえず役立つ日が来て新聞も喜んでるだろう等と考えてみる。
事件に関する記事は全部スクラップしたが、新聞に出ている写真では、はっきりしなかった。特に四番目に関しては死後の顔の印象が強く記憶を掘り起こすことすら出来ない。知っているような知らないような……。
「龍樹さんに聞いてみようかな」
独り言で自分を追い立て、スクラップブックを抱えて立ち上がった。