冷たい媚薬・第五回
【2】

 見つけた。
 今度の獲物。
 私は渇きを覚えた。
 女の首筋に流れる血潮を考えるだけで、私の喉は鳴る。
 あの女。
 観察は必要だ。
 そうして、目で楽しみ、渇きを高めると、口にしたときの悦びもひとしおである。
 あの女は楽しめる……
 
 
「拓斗と寝たわ」
 電話の向こうの泉の声は妙に弾んでいる。
 向坂と言わずに拓斗と呼んだあたりで、龍樹は次の言葉を予測していた。
 受話器を折れんばかりに握りしめている自分にハッとして、音声をモニターに切り替えると、受話器に絡んだまま固まっている指を一つ一つ引き剥がした。
「それで?」
 平静を保つのに、こんなに力が要るなんて、初めての体験のような気がする。
「兄貴の負けよ。拓斗はあたしのもの。拓斗は初めてだったみたい。それでも、精一杯優しくしようとしてた」
 泉の声が意地悪く響く。優越感がてんこ盛りの泉のハイな声音は、龍樹に頭痛を起こさせた。
 身体でつなぎ止めようなんて事がどんなに愚かなことか、泉は分かっていないのか。
「普通、兄にそういうこと報告するか? だからなんだってんだ?」
 立場の再確認のようにおざなりな返事をしてみせる。案の定、泉はからからと乾いた笑い声を上げた。
「兄貴としてじゃなく、ライバルに牽制してんの。拓斗に手を出さないでねってこと。わかった?」
 やはり、言って聞かせる立場には居れないようだ。
「ライバル……ね」
「手を出さないって、約束してくれる?」
「…………」
 どうしてもイエスとは言えなかった。
「うんって言ってくれないの?」
「……、お前みたいに性急な手を打つつもりはないから安心しろ。だが、無理な約束は出来ない」
「……わかった」
 低く冷却された泉の声。せっかく近づいた兄妹の距離は一気に遠のいてしまった。
「泉……」
「なに?」
「自分を大切にしてくれ。自分の身体を使って遊ぶのだけは止めろ。これは、兄としてのお願いだ」
「遊んでなんかいない!」
 がちゃんと受話器を叩き付ける音が響いた。
 後に残る発信音は、音量が大きいほど虚しく聞こえる。
 モニターのスイッチを切り、龍樹はカウンターの椅子に力無く座り込んだ。
 ひどく頭が痛い。今すぐ眠りにつきたいほど、疲れを感じる。幸い客もとぎれているし、早めに店を閉めてしまおうと思い立った。
 そんなときドアベルが響いた。
 気だるげに振り返る。
「すみません、今日はもう……」
 言いかけて拓斗の姿を認め、龍樹は硬直した。
「拓斗君……」
 拓斗はドア口で今の龍樹と同じように硬直して立っていた。
 龍樹は黙って大仰にカウンターまで誘う仕草をした。
 硬い表情の拓斗は、同じように黙ってカウンターまで一直線に歩いてくると、龍樹の隣に腰掛けた。
「どうしたの?」
 泉からの電話を受けたばかりで拓斗の訪問というのは、かなりきつい。わずかばかり声が鋭角的になってしまう。
 拓斗は龍樹の様子をうかがいながら、どう切り出せばよいか迷っていると、その瞳で訴えた。
「……コーヒー、飲む?」
 龍樹は拓斗がかすかに頷くのを確認してから立ち上がった。
 やがて単調なサイフォンの音が店の中に溢れる。
 黙りこくっていた拓斗が声を低くして呟いた。
「今日の泉さん、変だ。朝からずっと変だった。俺が立ち入る事じゃないと思うけど、気になっちゃって……それで……」
(拓斗はあたしのもの)
 そう言った泉の声が龍樹の頭の中で鳴り響く。まじめな拓斗は、確かに泉に取り込まれてしまった。龍樹の鼻先で、拓斗はより手の届かないものに変えられてしまったのだ。
 だが、拓斗の弱々しい態度が気になった。
「何故、今夜来たの? 気になって眠れそうもないから? それとも……」
 泉の感触が消えないから?
 そう口にしそうになって、龍樹は慌てて口をつぐんだ。
 踵を返して戸棚へカップを取りに行く。拓人専用にしているウェッジウッドを対で取り出した。
「こんな事、泉さんの兄さんに言うの、ひどいと思うけど……、俺……」
 そわそわと手を何度も組み替える拓斗は、とても居心地悪そうである。
「今日、泉さんにひどい事したんだ。友達っていったのに……」
「泉としたんだね。でも、泉が誘ったんだろ?」
 拓斗の頬がカアッと燃え上がった。
「妹なのに……! どうしてそんな言い方出来るんだよ。俺が何したか……!」
「自分の中の獣に負けたんだね。後悔してるの?」
 龍樹の言葉に拓斗が凍り付いた。唇だけがかすかにわななく。
「君くらいの年なら仕方がないことなんだ。泉は分かってて君と寝た。だから、君は罪の意識を感じなくてもいい。泉が一度でも抵抗したなら別だけど……」
 拓斗に諭すように語りかけながら、龍樹は万歳を叫びたい心境だった。
 泉の勝ち誇った声が遠のいていく。拓斗は、まだ泉のものにはなっていない。泉は拓斗の心をものにしてはいない。
 先ほどまでの頭痛は嘘のようにかき消えていた。現金なものである。
 泉の宣戦布告という言葉は伊達じゃない。龍樹の中の獣も、妹と本気で戦う腹づもりのようだ。
 何処までも似た兄妹だと腹の中で苦笑した。
 龍樹は拓斗の前にコーヒーを置き、自分の分を持って拓斗の横に座り直す。
「もしも君が、泉のことを今でも友達としか見ることが出来ないなら、それも仕方ないだろうな」
 拓斗は一気にコーヒーを飲み干し大きく息をついた。
「友達ではいられない。泉さんに会ったら、俺……、多分……きっと……」
 そうだろう。
 拓斗の中の獣が、黙っているわけがない。泉の味を知った獣は、泉を見る度にまた味わいたいと考えるだろう。拓斗のような蒼い獣なら、それが自然な欲求だ。
「二人きりにならないことだ。君が不本意だと思うなら……」
「うん……」
 素直に頷く拓斗は、龍樹の身体をうずかせた。その腕が、唇が、泉のために初々しく動いたのだと考えると暗い炎が胸の内にわき上がる。
 だが、ものは考えようだ。
 拓斗の初めての相手が泉であったというのはいささか驚いたが、龍樹にとっては幸運だったかもしれない。
 初体験がいかに心に残るか、龍樹は身を持って知っている。それは行為自体だけでなく、それに至るシチュエーションと共に、その後の生活に影響する。
 拓斗のように、シチュエーションとしては後味の悪い経験の場合、言い方は悪いがつけ込める。龍樹にとって、想いを繋ぐ細い糸がまだ断ち切られていないというのは、本当にありがたいことだった。
 そういう意味では泉に感謝すべきだなと思うと自然笑みが浮かんでしまう。実際そんなことを口にしようものなら、泉に怒りに燃えた視線で貫き殺されてしまうだろうが。
「龍樹さん、何ニヤニヤしてんだよ? 俺が悩んでること、そんなにおかしい?」
「いや、おかしくはないけど、相手が泉だと思うと……。色々複雑でね」
 拓斗は溜め息をつきながら龍樹を見つめた。
 食い入るような視線にさらされて、龍樹は自分が一枚一枚生皮をはがされていくような気がした。観察されていると思うと、妙に緊張する。
 やがて、拓斗の唇が動いた。
「龍樹さん、ほんとに……」
 言いかけてうつむき、拓斗は黙ってしまった。ぽぉっと頬が紅潮した。そんな表情一つで龍樹をひどく揺さぶることが出来るのを、本人は知らない。
 動揺を抑えながら、平静な表情を作った。
「何? 言いなよ」
「あの……、泉さんが……」
「泉が?」
「朝言ってたこと……、本当かなって……」
 言い難そうにモゴモゴと呟く拓斗を、龍樹はぼんやり見つめた。
 拓斗の言っていることが、よく分からなかった。
「朝言ってたこと?」
 泉が拓斗に言っていたこと……。思い当たるまで、時間を要した。
「……あ……」
 頬が熱く燃え上がる。
 拓斗は何故今、そんなことを尋ねるのか。龍樹は戸惑いを隠せず狼狽した。正直に言うべきか、それともごまかすか。いずれにしても勝ち目の薄い賭けに近い。
 蘇る頭痛を振り払うように頭を振った。
 どうせなら知って欲しかった。龍樹にとって、拓斗がどんな威力を持っているのかを、本人に知っておいてもらいたかった。
「泉の……って。僕が、女性に興味を持ったことがないって事……だったら、本当だよ。それに……」
「それに?」
「君に惚れてる。ずっと前から……」
 やっとの事でそれだけ言うと、拓斗が龍樹から遠ざかる音を覚悟して、龍樹は堅く目をつぶった。
 だが、何時まで経っても拓斗の離れる気配はなかった。そおっと目を開ける。
 拓斗は何とも言えないという表情で龍樹を見守っていた。
「……今日は、逃げないのか?」
 拓斗の頬が、ほんのり赤らむ。
「あのときは……驚いたから……。俺、どうしようかと思った。今だって、本当言うと困ってるけど。でも、龍樹さん、むりやり変なことはしないよね? 龍樹さんはいい人だから……。そう思ったから、俺……」
 そう言われては手は出せない。もとより、今は手を出す気もないが。大切で、どんなに慎重に扱っても足りないこの想い人に、不用意に手を出すことなど出来るわけがない。
 拓斗の反応が思ったより穏やかだったこと、それだけで今の龍樹は幸福を感じていた。
「君に、そういう風に言ってもらえるとは思ってなかった……。僕みたいのって、嫌がる奴は人間扱いしてくれないからね」
「理解できないからだよ。多分……」
「君は?」
「俺は……」
 龍樹から視線を逸らして言った。
「わかんない。ごめん……」
 拓斗が可愛い。
 龍樹は思わず拓斗の頭に手を遣った。
 触れた瞬間、拓斗はびくっとした。全身の毛が逆立ってしまったかのように。息を詰め、強ばりながら、全身で警戒心を露に表現している。
 それでも龍樹はゆっくりと頭を撫でた。
 拓斗は身を固くしながらも龍樹の腕を払おうとはしなかった。理解は出来ないし、受け入れることも出来ないけれど、龍樹を嫌悪したくないのだと……、そんな気持ちが伝わってくる。
「君はいい奴だ……。君なら泉も……」
 小さな溜め息をつき、龍樹は立ち上がった。拓斗の視線が龍樹を追っているのを感じる。
「泉のこと……、頼むよ。あいつは……あいつなりに真剣だから。僕のことは気にするな。君の嫌なことはしないから」
「分かってる。俺が言わせちゃったんだよね。ごめんなさい。じゃ、俺、帰るから……」
「ああ、またね」
 拓斗が帰り際で急に振り返った。
「龍樹さん」
「ん?」
「俺達、友達だよね? 今でも……」
 拓斗の瞳のすがるような光が、龍樹の胸をぎゅっと掴んだ。それでもいつものように和やかな微笑みを浮かべる。
「ああ、そうだよ。友達だ……。それに、勉強。明日までにテスト問題作っとくから取りに来て。君の学力把握するためだからね」
「うん。おやすみなさい」
 拓斗の気遣わしげな声に、龍樹は平静を装い、精一杯穏やかで落ち着いた声を出してみせた。
「おやすみ……」
 ドアベルが優しく名残惜しげに最後の音を奏でた。とたんに龍樹の柔和な仮面は剥がれ落ち、眉と唇が苦痛に歪んだ。
「友達……か……」
 店に取り残された龍樹は、告白してしまった開放感と共に拒絶されたことによる落胆が胸を焦がすのを持て余し、ぐったりとカウンターに突っ伏した。
「友達って……、便利で残酷な言葉だよなぁ」
 拒絶されても尚、拓斗への思慕は変わらない。大切で、触れるのも怖いほど拓斗が愛しい。
 どうしてこんなに好きなんだろう。五つも下で、まだ高校生の男が、何故こんなにも自分を魅了してしまったのか龍樹自身理解に苦しんでいた。