冷たい媚薬・最終回

あの女……
抵抗したって無駄なのに。
あいつは死ななきゃならなかった。
当然なんだ……
それに、まだ最後じゃない……
あいつをやらなければ……おわれないんだ

 ツカツカと土台を蹴る響きは山の中においてはあまりにも違和感がある。
「タツキ、あんまり意地悪いうものじゃないわよ」
 低く威嚇するような口調に、拓斗は信じられないと言うように頭を振った。
「……柏木……先生……」
 腕組みをして尊大ぶった立ち方をする柏木律子は、未だ傷跡を包帯で隠した状態ある。
「おばちゃ……」
 泉は柏木をそうと認識すると、ビクッと怯えを走らせて縄をほどこうとした。
「やっぱり黒幕はあなたか……」
 冷笑的な口調で呟くと、龍樹は柏木とにらみ合った。
「泉、お前達に命令したりしてたのは、あのおばちゃんかい?」
 こっくり頷く泉は、小動物のように震えていた。
「何言ってるの。あなたが困ってたのを、助けてあげたのは私でしょう?」
「ちがうも。あたし、殺してなんて、頼んでないもっ」
 幼い口調で必死に叫ぶ泉は、ひたすら龍樹の後ろで震えていた。
「あたし、おにいちゃまを取られたくないって、センセに言っただけっ。あのおねーちゃん達、おにいちゃまを取ってやるって、あたしのこと脅かしてたから……」
「って、あの通り魔に殺された人たちかい?」
「んっ。みんな、泉のこと嫌いだったの。お店でいっつも意地悪だった……」
「意地悪って……。お前、互角にやり合ってたじゃないか。陰険勝負」
「おにいちゃま、黙って見てるだけなんだもん。ひどいよ」
「僕の妹だって見れば判るのに。普通、狙ってる男の家族に意地悪しないだろう? 僕の目には、お前の方が意地悪に見えたぞ」
「た、龍樹さん!」
「意地悪してたのはユイナだも。あたしじゃないも」
 うええんと手放しで泣き出す様も子供そのもの。
「ああもうっ! 沢山よっ」
 憎々しげに言い放つ柏木は、まるで別人のようだ。
「先生……どうしちゃったんだよ。そんな先生、変だよ」
 泣き出しそうに顔を歪ませた拓斗の言葉に、柏木は寂しそうに笑った。
「拓斗君、あなたがここにいるなんて、本当に残念だわ」
「な……」
「せっかく腎臓をあげたのに……今度は命を貰わなきゃならないなんて」
「っ」
 すっと解かれた柏木の腕先から、黒光りした筒先が突きつけられた。
「ベレッタ……ですか……一体どういう大学講師なんだか……」
 いたって冷静に龍樹が言うものだから、柏木の眉がピクッと跳ね上がった。
「あなた、ヘタに動かないでね。先に拓斗君を殺すわよ」
 ビクッと龍樹が凍り付く。
 たったそれだけで、まるで呪縛されたかのように行動を起こせなくなってしまった龍樹を、拓斗は半ば歯がゆい気分と諦め気分で盗み見た。
 二人ともかなりの傷を負っていて、飛び道具に素手で対抗するには気力も体力も不足していたのだから、しかたないと。
 柏木は、そんな二人を面白そうに見やり、自分の持つ黒い殺傷道具をフフンと見つめた。
「こんなものは、手に入れようと思えば何とかなるものよ。それにしても、あなた、性悪だったのね。お店で会ったときは、気づかなかったわ。私、以前一度だけあなたを見かけてるの。年齢から言ってあなたよね。中二の栄太と遊んでいたでしょう? 本当に、女の子みたいだった」
「遊び……ですかね。僕は、からかわれていただけだったような……」
 女の子みたいといわれて嬉しい男はあまり居ないだろうと拓斗は思った。
 事実、龍樹は皮肉な目つきで柏木を睨みすえたままだが、表情に険が浮かんだような気がする。
 柏木の方は、それを煽るかのように憎々しげな微笑みを浮かべた。
「泉ちゃんの言うおにいちゃまのイメージ、全然違うんだもの。彼女がなんであなたなんかに執着するのか、分からない」
 龍樹は、柏木の言い分を否定するでもなく自嘲的に頷いた。
「ああ、それは僕も知りたいな。泉の人格障害については、あなたの方が詳しそうだ。とりあえず、そのくらいは教えてくれるでしょう?」
「時間稼ぎ? 本当に食えないわねぇ」
 クックと笑いながら柏木は小首を傾げた。龍樹の背後の、泉を見やる。
「……彼女は……ずっと心に矛盾を抱えてた。あなたを好きで、嫌いで、淫らで純情……。優しくて冷酷、男で女……。初めて会ったときは、酷く自分に自信がない子だったわ。そりゃそうよね、自分の記憶に自信が持てないんだもの」
「……カウンセリングを?」
「最初は単純に研究として始めたのよ。彼女自身も、協力的だった……」
「それが……どうしてです?」
「どうしてって?」
「一連の事件ですよ。やはり復讐……ですか?」
「なぜ、そう思うのかしら?」
「あなたの息子の死に、泉が関与しているからですよ」
「関与? ふざけないでよ。あなたの妹は栄太を殺したのよ!」
「せ、先生ッそれはちがっ」
「おだまり!」
 黙って聴いていた拓斗が口を挟んだ途端、柏木は噛みつくように一喝した。
「先生……」
 小さな子供のように口をへの字に曲げ、泣きそうなのを堪える拓斗を、抱きしめてしまいたい衝動を振り切るように龍樹は柏木を睨み付けた。
 そう、話はまだ終わっていない。
「柏木さん、何故、彼女たちを殺したんです?」
「え……? た、龍樹さん?」
 拓斗には黙っておいでと目配せだけしておいて、事実確認だけに集中しようとした。
「長谷部も……あなたが?」
「……あの男は彼女の周りを嗅ぎまわっていたから、邪魔だったわねぇ」
「あ、あのっ?」
 拓斗は既に半泣き状態である。
「拓斗君、先生が犯人だよ。泉に全部罪を着せるつもりなんでしょう?」
「人殺しは人殺しとして扱われなきゃね」
 拓斗を黙らせたのは、柏木の言葉だった。
 それは、龍樹の疑問を全て肯定した響きだったから。
「それが……動機ですか? それこそふざけてますね。殺された人たちの家族は納得しませんよ」
「納得できる動機なんてあるの? 大切な人を殺されて、納得なんて!」
「そう思うなら何故殺した! あんたのろくでもない息子よりも、よっぽどきちんとした人生を歩んでいた人たちだぞ」
「全部あなた達のせいだって言うわ。あなた達が絡んでいたから、殺したって言うわよ。みんなに憎まれればいいんだわ」
「せ、先生、ウソだよね? 龍樹さんの勘違いだよね?」
 縋り付きそうになった拓斗に銃を向け、足止めをしながら、柏木は冷笑を浮かべた。
 ゾクリと冷たい汗が伝い落ちそうなほどの憎悪の瞳。
 拓斗はまさしく凍り付き、龍樹はそんな彼を引き戻す。
「……あなた、買いかぶりよ。あなたに腎臓をあげたのは、栄太にしてあげられなかった分の罪滅ぼし。別れたときの栄太はあなた位だったから……」
 瞬間遠い目で空を見つめ、慈愛に満ちていた瞳は即座に元の冷笑にすり替わった。
「自己満足よ」
 クッと肩を竦めた柏木を、拓斗はわなわなと唇を震わせて見つめる。
「そんな……だって……」
 拓斗の身の戦慄を腕に感じながら、龍樹は柏木を射抜くように睨みすえた。。
「泉に催眠術療法をしましたね? で、息子の死の真相を知った……しかしね、こどもですよ? ……復讐する相手が違うとは思いませんか? 泉だって被害者なんだ。あなたの息子は……」
「あなたの妹は売女よ! 栄太は誘われただけだわ!」
「泉を送り込んだのは、佐伯の奥さんですよ? 遊びに行った泉に、蔵へ行くように言ったんだ……。勿論その後彼女の思惑通りに泉に手を出したのはあなたの息子の責任ですがね。八つの女の子が誘うわけないいでしょう?」
「栄太はいい子だったわ。ちょっと神経質なだけの……」
「あなたが知っているのは十歳の時まででしょう? 側には居なかったんだから。子供なんて、毎日見て把握してなければ、本当のところは分かりゃしないはずですよ」
「……全く、あなたって嫌な子ね」
 憎々しげな口振りに、龍樹が罵りを返そうとした矢先。
「先生……、たすけて」
 低く嗄れた声が泉の口から漏れた。口調は魯鈍そうな別人である。
「ああ、あずさちゃん、痛かったわよねえ。お兄さん乱暴ね」
 あずさ=泉には甘く話しかけ、柏木は銃口をクイクイと動かしながら拓斗に命令した。
「拓斗君、ほどいてあげてちょうだい!」
「あの……」
 カチャリと安全装置をはずす音に、龍樹は拓斗を促した。
「いいよ、ほどいてやろう」 
 自由になったあずさ=泉は、大きく伸びをして、柏木の側に寄った。
「おばちゃん、この人達、やっちゃうの?」
「……ええ、そうよ」
「どうして? この人達をやると、タツキやユイナが怒るよ?」
「だって、生きてられちゃおばちゃんが困るもの」
「泉! 僕らを殺せば、お前も殺されるんだぞっ?」
「あたし、泉じゃないもん」
「そうよねぇ? あずさちゃんだものねぇ?」
「……これがジョーダンの言っていた人格なのか……?」
「……そうね。ジョーダンが把握できなかったのは彼女……。デボラから展開された人格よ。私の腹心ですもの、何でも言うことを聞いてくれるのよ」
「でもさ、あの子をやれっていうのは、もうやだな。あいつがすごい怒ってたんだも」
 あずさが拓斗のことを指差しながら柏木を見やった。
 あいつとはタツキのことだろうか?
 柏木はそう理解したらしく、クスッと笑い声を漏らす。
 チラッと龍樹を見て、あずさに向かって微笑みかけた。
「さあ、ジョーダンを困らせてやりましょ、あのお兄さんの首を……前に教えたでしょう?」
 柏木は、銃を手放さずに懐から折り畳みの剃刀を取り出した。刃渡りが長めで、よく研がれた床屋で使われるようなものだ。
「っ! 柏木さん! だめだ!」
 龍樹の叫びに、さげすんだような目を向ける。
「往生際が悪いわよ。抵抗したら、拓斗君を撃つわ」
 至近で拓斗に向けられた銃口は微動だにもしない。
「そうじゃない! あなたを襲ったのはそいつなのでしょう?」
「……ちがうわ。ジョーダンかデボラ……もしくはタツキ……? その辺でしょう? あたくしが刷り込んだ記憶を、拒否しようと必死だったもの。ねえ、あずさちゃ」
 言いながら、手渡された剃刀は、即座に一閃した。
「……!」
 パーンと軽い破裂音は、絵空事よりも説得力がないなと、拓斗は頭の隅で考えていた。呆然としながらも、妙に冷静な目で見てしまうのは、この場で既に傍観者となってしまったからなのか。
 拳銃は、空に向かって打ち込まれ、柏木の表情は何が起こったのか分からないと言っている。
 ひっという喉から迸る悲鳴は、ゴボゴボという鈍い液体音で押しとどめられた。
 吹き出た噴水のような血潮に、拓斗は思わず後ずさる。
 首からの噴出の反動で、仰け反るようにゆっくりと、柏木の身体は沈んでいった。
「!」
 龍樹は慌てて駆け寄り、切り口を抑えるようにして柏木を抱きしめる。
「拓斗! 山を下りて! 人を呼んできて!」
 ビクッと反応しつつも、拓斗はすぐに駆け出すことが出来なかった。
 刃物をもった泉の表情を伺ってしまう。
 空虚な瞳のままに「あずさ」は手にしていた剃刀をぼんやりと見つめた。
 瞳の色が煌めきながら変化する。
 眉がひくっとひそめられ、弛緩。口元がおぼつかなげに戦慄き、キュウッとつり上がって。
 出来上がった表情は凄惨なものになっていた。
「あ……あの時の……」
 ニヤリと笑って見せた表情は、仮面がはずれて逃げ去ったときのもの。
 それが、次第に波動が強くなるように高笑いに変わっていく。
「やった! やってやった! この女をやっと!」
 拓斗は、そっと彼女に近づくと、その手の剃刀をたたき落とし、大きく蹴り飛ばした。
 彼女はぎょろりと眼球だけを動かして拓斗を一瞥すると、龍樹の手から血をあふれさせながら手足をひくつかせる柏木を見下ろし、また高笑いを続けた。
 完全に壊れている。
 拓斗は頭を振りながら後ずさり、終わらない高笑いを背に山道を駆け下りた。
 転げ落ちるようにして佐伯の家にたどり着いてみると、そこには紫関と太刀村が居た。
「し、紫関さんっ?」
「きみ! なんでここにっ?」
 太刀村の声にはとがめの響きが潜んでいる。
「その怪我! どうしたんだっ?」
 紫関に揺さぶられ、拓斗は辺りを見回した。
 テープが張り巡らされた邸内、大勢の制服警官。
 血だらけの拓斗に、居合わせた人々全てが慌てた。
 拓斗は、紫関に縋り付きながら、叫ぶ。
「き、救急車!! 先生がッ死んじゃうよぅ! 龍樹さんも怪我しててっ!!」
 瞬間のどよめき。
「どこだっ?」
 太刀村の咆吼に似た叫びと共に、拓斗は元来た道を駆けだした。

こんな筈じゃなかった。
 私は……なんだったのか?
 あの女……私を追いつめたあの女……
 あいつと同じ事をしただけなのに……
 疲れた……

「泉さん、大丈夫?」
「ああ……今は鎮静剤打ってあるし」
 二人仲良く森元家で治療を受け、隣の家の慌ただしさを窓からぼんやりと眺めた。
 太刀村と紫関が側についている。龍樹と拓斗も参考人だからだ。
 柏木律子は、死んでしまった。頸動脈を切断されての失血死である。
 興奮状態の泉は、あまり情報源にはなれない。
「柏木先生……全部泉さんの記憶になるように暗示をかけてたの?」
 拓斗は、まだ信じられない面もちで、呟いた。龍樹は痛々しく思いながらも応える。
「うん……。催眠暗示って本当は、その人が出来ないと思ってることをやらせることは出来ないんだよね。ただ、やったという記憶だけなら……」
「でも、本当はやってないんだし、混乱するよね?」
 その質問には紫関が答えた。
「だから、病気が進行したんだ。あの、最後の人格ね、自分を吸血鬼だって言うんだよ。名前はなくて」
「あ……それって……」
「血を好んで、若い女性を襲っていたって筋書きだね。柏木先生は、泉の中の色んな人格と付き合いながら、関連した人たちを殺して積み重ねたんだ。最終的に泉に罪を着せようとね。でも、泉の中で、その刷り込みが別人格を生み出した。そいつに押しつけなければ、感情的に処理できなかったのかも知れない」
 龍樹なりの結論。誰も異論を唱えるものは居ない。
「君達の話だと、君の妹は、蔵の事件の時からおかしくなっていたってわけだね?」
「……はい」
「それが、柏木女史と出会って事件になった……」
「……ええ……」
「それで、予備校講師との関係は?」
 事務的な太刀村の口調に、龍樹は少しだけ困ったように微笑んだ。
「……僕の恋人で……泉の恋人でもありました。両天秤てやつですよ。……泉は僕らの関係を知ってしまって、彼を僕が横取りしたと思ったようです。それからは僕のことが許せず、一人で苦しんで……。彼女の心を引き裂くのに僕も荷担してしまったのです」
 観念したようにそこまで言って、拓斗の方をチラッと一瞥する。
 拓斗は揺れる瞳のまま龍樹を見つめていた。
 この男に嫌われたくない……。心にわき上がる思いを、見返す瞳に込めて見つめ返した。
「僕もすぐに彼と別れました。それから留学したんです。……僕の顔を見る度に吐き続ける泉から、僕は逃げたんですよ。昨年、久しぶりに再会した彼女は別人になっていました……」
 じっと拓斗の瞳だけを見て語る。
「僕は、本当に彼が泉の恋人だとは知らなかったんです」
 黒目がちの瞳が頷いた。
「……タツキって人格……泉さんから見た龍樹さんのイメージなのかな……?」
「……多分ね……」
「泉さんは、よっぽど龍樹さんが好きなんだね。龍樹さんに酷いこと言ってても、イメージはとっても格好いいもの。部活の時の、凛々しいくらいの泉さんは、タツキって言う人格だったんじゃないかと思うんだ。一番似てる……」
「拓斗君……」
 こんな時でさえも、救いの手をさしのべてくれるのか……。
 幼げに見えるほど無垢の輝きを秘めた黒い瞳。
「それにね、長谷部さんが言ってたこと、多分当たってる。俺のことが好きって言うより、龍樹さんが俺のこと……思ってるから泉さんは近づいたんだよ。泉さんは……龍樹さんの存在がなければそんなに積極的じゃなかったもの」
「え?」
「違う人になってたのかも知れないけど、俺に求めてるのは、男じゃなかったと思う」
「……泉ちゃんは、昔から龍樹べったりだったからな。そう言われてみれば、店でのきつい態度は別人格で……うん、そうだよ」
 紫関までが納得したかのように頷きだした。
「泉さんは、心の折り合いをつけようとして、失敗しちゃったんだね」
 しかし、そうだとすると、全て兄への執着から被害者が選択されたと言うことになる。
「僕は……殺された人の家族達にはなんて言えばいいか、分からないよ」
 頭を抱えてうずくまる龍樹の髪をそっと撫でた手が落ち着けとばかりに背中におかれた。
「柏木律子は……佐伯家でも一人殺している。後添いをね」
「!」
「多分君たちの所に行く前に寄って、殺したんだな。彼女は、誰の差し金か分かってたんだ」
「だったら何故……」
「後戻りは出来なかったんだろう。誰かが犯人にならなければならないのだから」
「泉ちゃんは、利用されたんだよ。山宮先生が言いだしたときは信じられなかったけど……こうやって全部聞けば納得できる」
「山宮先生が?」
「うん。泉ちゃんのことを話したら、柏木律子をマークした方がいいって言われたんだ」
「それでここまで?」
「ああ。お前らが来てるとは思わなかった。なんで連絡しなかった?」
「泉が助けてと言ったんだ。警察を介入させたくなかった……」
「この……糞バカ野郎……」
 低く呟かれた台詞は、下を向いてしまった紫関から漏れた。
 ガッと首根っこを掴まれた龍樹は、されるがままに頭一つ半下の親友を見下ろした。
「こんな……怪我までしやがって。お前は向坂君まで危険にさらしたんだぞっ!」
 瞳を潤ませた紫関が、情けないと叫ぶ。
「……ごめん……紫関、ごめんよ……」
 太刀村の手が紫関を引き離すまで、龍樹は美貌を歪めて謝り続ける。
「紫関、お前を困らせたくなかったんじゃないのか? 私人と公人の間でさ」
 いつになく優しい瞳で紫関を見下ろす長身にまで挟まれ、紫関はほんのり紅潮して龍樹の前から一歩退いた。
「泉は……どうなるんですか?」
「精神鑑定を受けることになる。柏木先生を殺している以上、鑑定結果によって、病院か拘置所のどちらかにはいることになるな」
 太刀村が重々しい口調でそこまで言うと、紫関が跡を継いで語り始めた。
「通り魔に関しては……柏木先生が真犯人だ。泉ちゃんはその記憶を植え付けられただけ。彼女たちの足取りを調べてね。先生は泉ちゃんのアリバイが証明できないように、暗示をかけて、なるべく自分の手元に置いておいたんだな。でも、一度だけ……そう、向坂君が発見したあのケースの時は、死亡推定時刻のほんの少し前、彼女がタクシーに乗っている姿を見られてる。乗ったのは柏木先生のフラットからだから、殺しは出来ない。運転手も覚えていたよ。下ろしたのは『El Loco』の前で、えらい美少女が夢見心地で乗ってきたってね」
「ああ……」
 思わず両手を組み合わせて祈るように頭を垂れた。
「山宮先生の奥さんに感謝しろよ。目撃者見つけてきたのは、彼女なんだからな」
「あの人、探偵が趣味なんだよ」
 ひそっと耳打ちされ、龍樹はポカンと口を開けたまま頷いた。
「……じゃあ、本当に柏木先生があの人達を殺したの?」
 本人から肯定されていたのに、拓斗はまだ納得していないらしい。目を真っ赤に泣きはらしたまま、ソファベッドに身を預けた姿勢で紫関と太刀村を見上げた。
「状況証拠だけだけど。君たちは直に彼女から聞いたんじゃないの?」
「うん……でも……」
「ウソかも知れない?」
「うん……どうしても信じられないんだ。あの優しい人が……」
「拓斗君の憧れの人だものね。うちの店に来たときだって……人を殺した人だなんて感じさせなかった……」
「死んじまったから分からないけど。あの人も壊れていたんじゃないのかな。泉ちゃんの記憶にある事件を知って、長年の鬱屈が表に出たんだろう」
「子供とは会うことも出来なかったらしいしね」
「そっと見には来てたみたいだよ。そう言ってた……」
「佐伯のおばさんを殺したかったのは、なんか分かる」
「ずるいよね。自分は手を下さずに人を使って陥れようなんて……」
「でもね。結局のったのは栄太自身なんだよ。栄太が欲望に負けなければ、何事も起こらなかったんだから」
 全員が期せずして一緒に溜息をつき、窓の外を見た。
 大晦日の夜は、誰もが宵っ張りである。真っ暗なはずの真夜中に、明かりが邪魔なほどに転々と灯されいている。
 遠くで除夜の鐘が鳴り響く。
「今年も後少しで終わりだな」
 太刀村の言葉は、ケリは付いたんだという響きを持っていた。
 実際には、これから全ての処理が始まる。年明け最初の仕事になるだろう。
「百八つの煩悩かぁ……。それだけじゃ足りネーかもな」
 紫関の呟きは何だか悲しく響いた。
「俺達は明日帰る。お前らは?」
「……伯母達にきちんと話さないと、多分帰らせてくれないと思う。拓斗君だけ一緒に連れ帰ってくれないか?」
「え?」
「僕は……こっちの親戚にカミングアウトすることになるから。一緒にいない方がいいでしょ? ごめんね、こんな所まで連れ出して怪我させた上に、酷なこと言って」
 拓斗は何か言いたげに口を開きかけ、引き結びなおして笑顔を作った。
「わかった。俺、龍樹さんが帰ってくるの、横浜で待ってる」
 待ってると言うところに力を入れて、無事な方の手を伸ばすと龍樹の手を取った。
 指が触れた瞬間に胸を締め付けるような痛みが走り、龍樹は硬直した。
 拓斗の方からの能動的なふれあいはほとんどなかったからだ。
「拓斗君……」
 周りに人がいるのも忘れて身体に戦慄が走る。
 ごほっと紫関の咳払いが聞こえても、龍樹は拓斗だけを見据えていた。
「じゃあね、おやすみ」
 瞬間絡み合った指は、拓斗が退室を促されたために名残惜しげに引き離された。
 ぱたりと閉ざされたドアを見つめた。
「お休み……僕の天使」
 聞こえないことをいいことに、呟いてみる。
 指先に残るジンとした熱を、そっと唇で吸い取った。

みんなが見てる……
あたしを。この、あたしを
あの女が居なくなってから、みんなが落ち着いている。
あの女……変なことを吹き込むあの女が。
ねえ、あたし、きれい?
にっこり微笑んでみせれば、みんなが微笑み返す。
眉をひそめる人がいても気にしない。
目立てば、必ずそういう人だって出て来るものよ
ああもうっ!
泉って呼ぶのは止めて!
あたしはユイナ。
女優なの。

「いらっしゃいませ」
 『El Loco』のドアベルの鳴る頻度も通常に戻り始めた。
 コーヒーの香りの漂う小さな店。だが、龍樹の城である。
 奇妙な殺人事件の話題は正月ムードの中で、いろいろな見方をされつつ取り沙汰されていたのだが、泉の人格障害を鑑みた警察により柏木律子と佐伯家の軋轢に目が行くようにし向けられていた。『El Loco』にも取材は来たのだが、あくまでも関係者の家族としての扱いだった。
 龍樹は被害者の遺族には土下座して回った。そこを写されたりもしたが、おおむね顔は見えないように撮ってくれたあたりで好意を感じる。
 遺族によって態度はまちまちだったが、罵倒されることはなかった。
「あなたに謝られても……」
 そんな言葉に恐縮する。
 患者を刺激する存在として出入り禁止なのだが、泉はときおり人格交代をしながら、ほとんどの時間を呆けた顔で過ごしていると父親から聞いている。あの、吸血鬼と呼ばれる人格は、現在表には出ていないらしい。
 店を閉めることも考えたが、客達や近所の商店会の人々が引き留めてくれた。
「待ってるって言ったでしょ?」
 とりまとめた拓斗が最後にそんなことを……。
 3週間の休店の後の再開。
 それで今がある。
 一つだけ違うのは……
「マスター、5番モカ二つスペシャル一つです」
 専用のエプロンをつけた拓斗が元気よく声を掛けてきた。
「はい、6番パスタ上がったよ」
 受験生なのに時間を見つけて手伝ってくれる思い人は、くるくると舞い踊るように給仕をして歩く。
 店を盛り上げたい。そんな思いで居てくれるらしい。
(君は本当に僕の天使だ……)
 龍樹はカウンターの中でそっと拓斗に目線を送った。

おしまい