冷たい媚薬・第13回

おっかしい。
簡単に引っかかったわ。
一生そこにいればいい。
好きな人が一緒だもの、幸せでしょ?
 
 
 拓斗は暗闇の中で呻き声に起こされた。
 不安定な姿勢は、グニャッとした感触によって支えられている。
 湿った空気が澱んで息苦しい。
 呻きが身体の下から発しられているのに気づき、、急いで身を起こした。
 手探りした先は、ざらっとした布地と熱い肉の感触。
「うっ」
 息を詰めた声が奇妙な響きをもっていたので、拓斗は自分が探った場所を理解した。
「わっごめっ」
 慌てて飛び退けば、ゴギュッと踏みつけたのは先ほどより硬かった。
「……つうっ」
「あっ? またっごめん!!」
 身をよじろうとして、ぎゅっと戒められた。
「っ?」
「ちょっとじっとして。ゆっくり動いて」
 腕が導くように拓斗の腰を支えた。
「いい? 右足を後ろに。それからゆっくりどいて……そう」
 ふうと吐息を漏らす。冷たい感触の地面に腰を下ろし、龍樹が横に座り直したのを気配で確認した。
「龍樹さん、ごめん、痛い?」
「いや。大丈夫」
 笑いを含んだ声音に安心する。
「井戸……あったね。ここのことでしょ?」
「うん……。枯れてて助かったな」
「ほんとだね」
 首を巡らせて頭上を見れば、大きな満月のような明かりがみえた。さほど遠くはないので、深さは中程度と言うところか。
 暗さに目が慣れてくれば、そこは全くの暗闇ではなかった。太陽光が斜めに差し込み、途中で乱反射して底の方を照らしている。
 キラリとときおり光るのは、水たまり程度に残った井戸水らしい。
 そして横では、微かに輝く金茶の髪で形取られた翳り濃い美貌が、心配そうに覗き込んできている。
「龍樹さん……?」
「……大丈夫?」
 じっと見つめてくる瞳に圧倒され、拓斗はただ頷いた。
 ひんやりした空気の中で、何故か体温が上昇してくる。
「……今日はここで夜明かしになりそうだな。僕らが帰らないって、騒ぎ出すのは早くて明日だろう……」
「……誰か、早く見つけてくれるといいなぁ」
 わざと呑気そうな口調で呟き、拓斗は膝を抱えて頭を膝頭に乗せた。
「……怖い?」
「……そりゃ……。見つけて貰えなかったら、ここで餓死するんだよ。怖いさ」
「……餓死するまでには、まだ時間があるよ。ほら」
 薄暗がりの中で手渡されたのはキャンディ。かさかさと中身を出して、口に含んだ途端、甘酸っぱい特有の味が広がった。
「あ、いちごみるくだ……」
「じっくり舐めて。口の中でしっかり糖を分解しないとね」
「飴なんて持ち歩いてんの? なんか……」
「イメージじゃない? 普段は食べないけど、泉の好物でね」
「へぇ……。泉さん、どうしてるかな。龍樹さんが追いかけたのって、泉さんだった?」
「そう……だと思ったんだけどな。わからないや」
「泉さん……どうしちゃったんだろうね」
「少なくとも……まともじゃないよ。泉は壊れてる……」
 やるせないという声音。拓斗はそっと龍樹の頭に手をやった。
 柔らかな感触の髪は、逞しい体躯にそぐわないと思えるほどである。
 龍樹は、瞬間ビクッと強張ってからすうっと吐息を漏らした。
 うっとり……という表現がぴったりな態度である。
「……君の手は……魔法だね」
 掠れて消え入りそうな台詞は、そう聞こえたような気がしたが。
「え?」
「いや……」
 呟きの解説はしないつもりらしい。龍樹は大きな溜息混じりに答えて、身を離そうとした。
「……っく」
 身動きした途端の苦しそうな呻き。さする手は足首に触れているようである。
「え? 龍樹さん、足痛いの……? 俺が踏んだから?」
「ううん。挫いたみたいだ」
「あ、俺を受け止めたとき……? ごめん、俺、龍樹さんの上に落ちちゃって」
「僕が下手に受け止めたからいけないんだ。君はどこも痛くない?」
「ああ、うん。打ち身程度だけだから」
「……見せてごらん?」
 腕の痣を矯めつ眇めつした後、龍樹は拓斗の破れたジーパンに目を落とした。
「太股、切れてるよ」
「……ほんとだ。でも、大丈夫だよ。かすり傷……」
 拓斗は龍樹がジーンズの裂け目を更に裂いて傷を舐めだしたのに慌てた。
「なにするんだよっ?」
「今は傷薬って言ったら唾液しかないからね。とりあえず」
「いい、いいよっ」
 叫んではね除けた手の強さに、跪いたままの龍樹は瞳を見開いて拓斗を見上げた。
 暗い光が揺らめく瞳は、オニキスのようにも見えた。
 頬に出来立てのひっかき傷が赤く浮かび上がっていたのに狼狽する。
「あ、ご、ごめんっ」
 龍樹は黙って微笑んだ。紅潮した顔を隠すように俯いて呟いた拓斗の横に座り直して。
 肩を抱いてきた龍樹の腕は、妙な力を加えては来なかったので、拓斗はあらがわずにそのままの体制で居た。
「僕こそ驚かせてごめん。ここ、冷え込みそうだから、体くっつけるのは我慢して」
 忍んでくる囁きに苦笑して、拓斗は自分から龍樹に身を寄せた。
 
 
ダメだ。あの人を助けなきゃ……
あいつのものになんかさせない。
ダメだダメだダメだ!
 
 
 薄暗い井戸底は、昼間のごく短い間だけ、光が射して見通しが利くようになる。
 龍樹はそれを利用して、あたりを観察し、自分たちを点検した。
「……完全な涸れ井戸だな」
 石積みの壁面はじっとりした湿り気を帯びていたが、小さな水たまり程度しかない。どこもかしこもヌメヌメとした苔に覆われている。
「よじ登るには苔が邪魔だ。滑ってしまう」
「誰かに見つけて貰えない限り出られない?」
「この高さじゃ、君が僕の頭の上に乗っても届きそうもないな。いや、まてよ。上の方ならもう少し乾いてて手がかりがあるかも知れない。拓斗君、ちょっと僕の肩に乗ってみて」
「足挫いてる人に乗るなんて出来ないよ」
「辛かったら言うから。とにかく、出来ることはしてみないと。壁につかまりながらなら、大丈夫だろう。さあ、はやく!」
「だって……」
「ここでこうしていてもしょうがないだろう?」
「うん……じゃあ」
 小さくかがみ込んだ龍樹の背から、肩に足をかけた。龍樹の広い肩にぎゅっと足が食い込む。
「壁を頼りに立ち上がるから。いくよっ」
 ふんっと力んでから、拓斗の重みをものともせず、立ち上がった。
「どう?」
「……後2メートルかな……。よじ登れればいいんだけど……。苔でぬるぬるだ……」
「ちょっとそのまま一周するから。左行くよ。よく壁見て」
「うわっ……大丈夫なの? 龍樹さん」
 慌ててバランスを取る拓斗を気遣いながら、龍樹はゆっくりと壁沿いに移動した。
「拓斗君、上れそうな所、ある?」
「……ダメみたい。滑っちゃってつかまれないよ。下ろして」
 ぎしっと肩の重みを感じながら拓斗を抱き留めるようにして下ろした。
「……困ったね。誰かに助けて貰えなかったら、ここでずっと……?」
「うわぁ、最悪。飢え死にって奴?」
 という割にのんきそうな呟きをシッと遮った龍樹は、厳しい視線を上の方に向けた。
「……なに?」
「誰かくる」
「……何にも聞こえないけど……?」
「枝を踏む音……聞こえない?」
 拓斗は耳を澄ませてみたが分からなかった。しかし、龍樹の言うことを疑う理由もない。
「じゃ、助けてもらおうよ」
「助けてくれる人ならいいけどね」
 なるべく壁に密着するように位置を変えて、息を殺して上を見据えた。
 チャリ……という音がようやく拓斗にも聞こえて。
 のぞき込んだ顔は泉だった。
 落胆の溜息をつきたくなる。
 二人が死んでいるかどうかを確かめに来たのだろうか。
「……おにいちゃま?」
 ぴくっと龍樹が肩をそびやかした。
 泉がそういう呼び方でこの兄を呼んでいたのを、拓斗は耳にしたことがない。
「……泉……?」
 龍樹は優しい気遣うような声音で妹を呼んだ。
「泉、今一人かい?」
「うん……。おにいちゃま、大丈夫?」
「ああ。ちょっと足に怪我をしちゃってね。泉、その辺にロープか何かないかい? ここからでたいんだが」
「……さがしてくる」
「龍樹さん、どういうこと?」
「今の泉は僕の妹の泉。大丈夫。僕らに危害を加えるつもりはない」
「おにいちゃまって呼んだから?」
「うん。……あの子がそう呼んでくれなくなってから、だいぶ経つけど」
 感慨深げに呟いてから、龍樹はハッと険しい表情を浮かべた。
「……そうだ、どうして気づかなかったんだろう」
「え?」
「泉がおかしくなったのは、長谷部のせいなんかじゃなかった……」
 頭を抱えてしまった龍樹を、拓斗は只見詰めることしかできなかった。
「あの夏からだ……」
「夏?」
「毎夏伯父のところで過ごしたって言っただろう? 僕が剣道部の合宿だったせいで、泉が一人で行った年からなんだ。泉が、兄貴とか、兄さんとか、とにかくお兄ちゃまって呼ばなくなったのは……」
「泉さんに何かあったって考えてるの?」
「君は泉の態度に違和感を覚えたことはないか?」
「あー、えっと。時々別人のように見えるほど雰囲気が変わるなぁって思ったことはあったけど……」
「僕はずっと自分のせいだって思ってた。泉が昔の僕に似せて男っぽく造ってたりするの、僕への意識の現れだって……」
「……そうだったの?」
「……君は昔の泉を知らないんだったな。あの子は大人しくて引っ込み思案で、少し幼いほど女の子女の子してたんだよ」
「……信じられない……。俺の知ってる泉さんは、凛々しくて、さっぱりした人だった。そうだ、龍樹さんに似てる」
「僕に? 似てないよ。僕はさっぱりなんてしてないもの」
「そうなの?」
「ああ。かなりしつこくてウエットな男だよ」
 深読みして怯えた表情になった拓斗を一笑し、龍樹は上を見上げた。
「泉、ロープ、しっかり縛った?」
 ちょいと顔を覗かせた泉の表情は、確かに見たことのないあどけない表情をしていた。
「太い木に二重に結わえたよ」
「ロープ、下ろしてみて」
 するすると降りてきたロープはなかなかに頑丈そうだった。
「君はロープ登りは得意?」
「……あんまり……」
「じゃ、僕が先に上るから。引き上げるまで待っててくれる?」
「あ、うん。大丈夫?」
「ああ」
 龍樹は軽く頷き、ロープを引いてみた。
 すっと良い方の脚を絡ませ、腕を高みに伸ばすようにしてロープを握ると一気に腕の力で上り始めた。
 拓斗はあんぐりと口を開けてそれを見守った。
 速いテンポであっという間に上ってしまった龍樹は、余裕の笑みで拓斗を見下ろした。
「ロープを腹に巻いてきつく縛るんだ。引き上げるからしっかりつかまってて」
 ずるっ、ずるっと身体が持ち上がっていく。
 後少しというところで、いきなりがくんとロープがたわんだ。
「た、龍樹さんっ?」
「ああ、ごめん。……拓斗君、大丈夫?」
「うん。龍樹さんこそ……」
「しっかり……つかまってて……後少し……」
 龍樹の喘ぎ混じりの声を聞いて、拓斗は掴まるだけでなくロープの上方に手を伸ばした。
 龍樹がしていたように腕で身体を引き上げる。井戸の縁に手をかけて息を付いた。
「龍樹さん、ありがと」
 よっこらしょとよじ登り、地面に転がりながら龍樹を探した。
「ひっ?」
 井戸の縁に這いつくばるようにしてロープを支えている龍樹を見つけて叫びをあげた。
 拳の血のにじみは拓斗の重みのせい。しかし肩や背を濡らす血は?
「龍樹さんっ!」
 わたわたと這いつくばりながら側により、龍樹の頭を膝に乗せた。
「拓斗……気をつけて……もう、泉じゃな……」
 へ? と固まり、ハッと顔を上げた。じゃりっという足音に、本能の方が反応したのだった。
 泉がナイフを振りかざしていた。
「いっいずみさっ」
 思わず拓斗は龍樹をかばうように背を丸めてしまった。
 ざくっと肩を切り裂かれた。
「うっ」
 焼けるような痛みの後、感覚が鈍磨した。肩が別人のものになったような気がする。
 拓斗の血を頬に受けた龍樹は、突然電流を受けたように飛び上がった。
「だめだ!」
 龍樹の動きを、拓斗は認識できなかった。
 結果的に泉の腕は龍樹にねじ上げられ、拓斗の膝元に押し臥せられていたのだ。
「お、おにいちゃまっ痛いっ痛いよぉっ」
「泉、ごめんね。泉の中に悪い人が隠れてるんだ。危ないから、ちょっとの間我慢しておくれ」
 優しく囁きながら、それでも龍樹は力を少しも緩めなかった。
「龍樹さん……怪我……」
「それより、ロープ取って」
 言われるままに手繰ったロープを手渡すと、龍樹は容赦なく泉を縛ってしまった。
「泉、こんなことしたくないけど、許してくれよ」
「拓斗君が大事だからなの?」
 嗚咽で震わせた声でそんなことを言う。龍樹と同じ金色の瞳は泣き濡れて、縋るように見つめてくる。
「泉も大事だよ。泉が怖い人に支配されないように、こうしておくんだ」
「拓斗君は死ななきゃだめだって、デボラが言ってた」
「デボラはどうしてそんなこと言ってたんだい?」
「泉から本当におにいちゃまを取っちゃえるのは拓斗君だけだから……」
「そんな……」
「でもね、タツキがそれだけはだめだって、デボラを止めるの」
「誰?」
「カタカナのタツキ。拓斗君が好きなの。ホモなのよ」
「君は女の子だよ?」
「失礼だな。僕は男だ」
「泉……」
「タツキ! タツキだよ」
 挑むような顔つきが、泉の顔を別人のように変える。それでいて、拓斗には優しく微笑むのだ。
「ああ、拓斗……ゴメンね。でも君も、こんな男をかばうからいけないんだよ」
 口調を真似られて、龍樹はずきんと胸の痛みを感じた。
 泉は龍樹に成りきっている。
「お前……」
 わなわなと唇をふるわせて、口の端を歪めて笑う妹の顔を見つめた。
「お前なんか、いなくなっちゃえばいい!」
 龍樹に向かって吐き付けるそばから、慌てて、悲しそうに頭を振る。
「だめ! やだ! おにいちゃまなんだからっ」
「泉……」
「ちょっと、いたいじゃないの! ほどいてよ、これっ」
 ついていけないめまぐるしさで、泉の態度は変化する。
 拓斗は、そっと彼女の側に跪くと、真正面から龍樹にそっくりな金色の瞳を覗き込んだ。
「泉さん……。泉さんは、本当はどうしたいの? 他の人たちはともかく、泉さんは……?」
「……助けて……。あたし……」
「何があったの? 一人でこっちへ来た夏休みに……」
 拓斗と一緒に覗き込んだ兄の顔を、泉は縋るように見つめ、ふいっと不安そうに目を泳がせた。
「だめ。あの人が誰にも言っちゃだめだって」
「あの人?」
「……おじちゃん」
「何処のおじちゃん?」
「蔵の」
「だれ?」
「さえきの蔵」
 記憶を辿って思い当たった顔に、龍樹は思いっきり嫌悪感を覚えた。
「あいつか! 何されたんだ!」
 泉がビクッと身をすくませ、口をへの字に閉じた。
「ああ、ごめん、泉を怒ってるんじゃないんだ。大丈夫、あいつ……栄太なら、もうとっくに死んじゃったはずだよ」
「う、うん……そう、そうだよね」
 こっくり頷きながら語りだした泉の表情は、ただあどけなさだけを浮かべていた。