冷たい媚薬・第12回

 
あの女……ふざけたことをする。
何故言うことを聞かない?
何故勝手なことをするんだ?
もう一度立場を分からせてやらねば……
 
 
 倉敷駅について。予約しておいたホテルは駅と直結なので、先にチェックインし、手荷物を置くことにした。
 案内された部屋はシングルとダブル。
 拓斗は荷物だけをおいて貰った鍵を手に龍樹の後に付いていく。
 覗き込んだ部屋の広さに目を見開いた。
「ダブルなの?」
「うん。シングルだとちょっときついから……」
 細身とはいえ身長に見合ったがたいの龍樹なら、当然かも知れない。
「大きいと、大変だね」
「うん、まあね」
 くすぐったそうな笑みを浮かべて頷いた龍樹が、とてつもなく綺麗に見えて、拓斗はポカンと見とれてしまった。
「ここからなら歩いて美観地区も行けるけど、観光したい?」
 龍樹の呑気な声音で途端に現実に戻る。
「何言ってんだよ。すぐ行動開始って事でいいよ」
「じゃ、十分後にロビーで」
 そんなやりとりをドアの前でして、自分の部屋に入った。
 途端に溜め息が出た。
 ビジネスホテルに毛の生えたような物だから仕方ないが、殺風景な部屋もシングルルームとなると尚更である。狭い暗いで息が詰まりそうな雰囲気。
 トイレとバスは人一人で満杯のユニット式。シャワーにしか使えそうもない浴槽。
「一緒にツインでもよかったかなぁ……」
 ボソッと呟いてみて、危険な発想だと頭を振った。
 彼がいつでも紳士でいるのは分かっているが。
「参るよなぁ……」
 荷をクロゼットにしまい、鍵と財布を握りしめて部屋を出た。
 ロビーにおりてみたら、龍樹は背広とネクタイといういでたちに着替えていた。
「どうしたの? その格好」
「一応、親戚に顔出すから……。子供の頃は夏休み一杯世話になってたんだ。毎年ね」
「それで中華饅買ってたのか……。手土産……だよね?」
 横浜駅で買った包みを見ながら言った。
 ふわりと優しげに微笑んだ龍樹は軽く肩をすくめて歩き出す。
「伯父の好物なんだ。行こう」
 駅前からタクシーに乗った。
「町外れにね、佐伯酒造ってのがあって。そこの隣が伯父の家。母の兄なんだ」
「あ、あれ、そう?」
「うん」
 車窓で確かめた佐伯酒造の看板。ずらりと並んだ蔵が見える。
 川向こうにそれを認め、タクシーを降りた。
 近くの橋は昔のもので、車は通行禁止である。車で遠回りするより、歩いた方が早い。
 きしみ音のする板張りの橋をおっかなびっくり渡りながら、延々と連なる塀の向こうを見渡した。
「すっげー。ここって今でもバリバリ?」
「ああ、うん。富錦って酒、ここのだよ」
「ふうん」
「日本酒はあんまり飲まないんだっけ?」
「一応俺、まだ高校生だしね」
「今時は飲む子、いっぱい居るじゃない?」
「まあね。年上を意識して、未成年ぶってたって言うか……。特に好きじゃなかったんだろうな……」
「タバコも?」
「あー、小学校の頃、吸ってみてさ。気持ち悪くなってからだめなんだ。俺って結構嫌煙家なの。龍樹さんは?」
「煙草って、舌が鈍るし、手に臭いが付くでしょ。仕事柄手が出ないんだ」
「料理人の台詞だ……。やっぱすごいね、龍樹さんて」
「すごくない、すごくない」
 照れくさそうに笑った龍樹の表情を、拓斗はぼんやり見つめた。
「龍樹さんって……」
「え?」
「綺麗だね」
「は?」
「あ、前々から綺麗だとは思ってたんだけど、そういうんじゃなく。なんて言うか……自然な綺麗さで。いいなって……」
 ぽうっと赤らんだ龍樹の頬を見て、拓斗の声はボリュームを落とし始めた。
 拓斗が口を閉じてしまったとき、龍樹は耳まで真っ赤になっていた。
「あの、ごめん。変だよね? こんな、赤くなるなんて……」
 黙ってしまった拓斗に、慌てて龍樹は縋るように話しかける。
「龍樹さん。俺こそごめん。不用意だった……」
「そんなこと言わないで。嬉しかったんだ。それだけだよ。いこ」
 龍樹は佐伯酒造の連なる塀に背を向けて歩き出した。
 趣の違う石塀に囲まれた平屋の日本家屋が見えてくる。
 門構えまでたどり着くのに三十歩。
 表札は森元となっている。
「すげー。玄関が見えない。こっちの家は何してる家?」
 首を伸ばして覗き込む拓斗の様子に苦笑が漏れた。
「医者。江戸時代の頃から。今は病院を別の所に建ててやってるんだ」
「御殿医みたいなの、やってたの?」
「さあ、どうだろ……」
「龍樹さんちって、根っからの医者一家だったんだね」
「母は医者じゃないよ。母の兄が医者で、この家を継いでる」
「ふうん……」
 龍樹の後から大きな門をくぐり、拓斗は庭の広さに簡単の溜息をもらした。
 純和風にしつらえられたそれは、美しく苔むした、時代を感じさせるものだ。
「すごい庭……だね」
「ああ、うん。その辺の苔は触ると怒られるくらい大事にされてた。……今でもだろうね」
「龍樹さん達、ここでどんな遊びしたの?」
「かくれんぼ、虫取り、川遊び。花を摘んで押し花を作ったし……。近所の子達と缶蹴りとか……。ほとんど外遊びだったな」
「泉さんも?」
「うん。僕の後をついて歩いてたから」
「懐いてたんだね」
「仲はよかったな。みんなも泉のことはかわいがってくれたし」
 言いながら、玄関に足を踏み入れた。
 ごめん下さいの声へのいらえは嗄れた女性の声。
 パタパタとすり足の足音が聞こえ、やがて姿を現したのは小柄な女性だった。
「あらあら、龍樹ちゃん、すっかり大人ねぇ」
 懐かしそうに目を細め、両手で龍樹の手を握ると上がるように促した。
「ごぶさたしてます。ああ、こちらは向坂君です。友人の」
 土産の包みを渡しながら、拓斗を手招きする。
 おずおずと龍樹の横に並べば、女性がにっこり微笑んだ。
「あらまあ、遠いところをようこそ。ささ、おあがりになって」
「ああ、おばさま、すみません。泉がお世話になっていると聞いて伺ったんです。会わせていただけますか?」
 単刀直入な龍樹の申し出に嫌な顔もせず、すまなそうに首を横に振る。
「それがねえ。朝から出掛けたきり、帰ってこないの。お夕飯までには帰るかしらね」
 だから、帰るまでは中に居ろと言いたげである。
「泉は……どんな様子でした?」
 震えた声での問いに、伯母は眉をひそめた。
「何かあったの? そんな顔して。まあとにかく玄関じゃなんだから、お上がりなさい」
 客間らしい和室に通されて、茶を振る舞われた。
「のんびりしてる場合じゃないんだが……」
 ぼそりと呟く龍樹をそっと盗み見た。
 悲しい瞳だった。
 何も知らないらしい親戚に、説明することは出来ないだろう。
「龍樹さん、俺、観光行きたいな。やっぱり。泉さんの様子聞いたら、行ってもいい?」 内緒話の囁きは、勿論口実である。それは伝わったのだろう、龍樹がにっこり微笑んで頷いた。
「泉ちゃんねぇ。随分雰囲気が変わっちゃって。気分ムラがあるみたいだったわ。話したくないみたいだから、詳しいことは聞かなかったけど。のんびり静養が必要なのは確かね」
 一人頷きながら、お茶をすする。
「……泉は、何か口走りませんでしたか? いきなり黙って家を出まして、こちらにお世話になっているのも、今朝知ったんです」
「口走るというか……。しきりにどこかに電話で話していたわよ」
「……電話?」
「携帯電話よ。立ち聞きするのも悪いから、聞いてはいないけど。少なくとも、聞こえてきた口調ではお友達とかじゃなくて、ええと、そうね、上役と話してるみたいな感じだったわ」
「上役ですか?」
「女子大生だと、先生……かしら?」
「先生……?」
 龍樹は、しばらく考え込み、伯母を見据えた。
「……柏木律子という女性をご存じありませんか?」
「……柏木……? 律子……ねぇ」
 記憶を探るような顔つきは、顔かたちが似ていないのに、龍樹とそっくりに見える。
 密かに拓斗は笑みを漏らしていた。親戚って面白い。どこかで血が繋がっていると感じさせるものがあるから不思議である。
「律子律子……ああ!」
 ぽんと手を叩き、それから顔を曇らせた。
「名字が違うけど、お隣の最初のお嫁さんがそんな名前だったわ」
「……最初?」
「ええ、十六でお嫁に来て、子供を一人産んで。どうもお姑とそりが悪くて、返されちゃったのよ」
「今、幾つくらいで?」
「ええと。四十代後半……かしら」
「返されたのは?」
「確か二十七の時。栄太ちゃんは当時十歳ね」
「栄太! そういえば、そんな人いたね」
「龍樹ちゃんは、嫌ってたわよね」
「だって、変な人だったよ。子供心に、近づいちゃダメだって勘が働いたもの」
「あの子は、十九で死んだのよ。蔵の火事で」
「……そうなんですか?」
「蔵を個室のようにしていたからね。長男てことで我が儘いっぱいに育てられて。今家を継いでるのは次男の方だけど、おかげでお家は安泰って感じでね」
「死んで都合がよかったと?」
「いけない考え方だけど、事実よ。栄太ちゃんが継いでたら、今頃お隣は別の人だったわね」
 確信を持った言い方に龍樹から苦笑が漏れる。
 拓斗は、昔話に興味を持てなかった。柏木女史に、どういう関係があるというだ? 今は泉のことが先決ではないのか?
「龍樹さん、どうして柏木先生が出てくるの?」
「……気になるんだよ。伯母さん、その律子さんの旧姓って、分からない?」
 龍樹の考えが分からない。ゆったり微笑みかけ、また伯母との話に戻ってしまう。
「ああ、なんだったかしらねぇ。写真なら、あるかも知れないわね」
 席を立って写真を探しに行った伯母を見送り、龍樹が拓斗の頭をクシャッと撫でた。「ごめんね、拓斗君。君が柏木先生を大切にする気持ち、分かってるんだけど。泉との繋がりが気になるんだ。大学だけじゃ、弱いんだよ。どうして今、泉がこっちに来たのかも分からない。柏木先生を襲った泉の気持ち、納得できないから」
「う……うん。俺も気になる……かも……」
 出された菓子をつまみつつ、十分ほど待って、伯母特有のすり足の足音が聞こえてきた。
 見せられたアルバムは、相当に古びてはいたが、中の写真の保存状態は良好で。
「ほら、夏祭りの時なの。その小さいのが栄太ちゃん、隣の団扇をもってるのが律子さん」
 縁台で浴衣姿の集団写真。栄太の年齢からいって、この後すぐに彼をおいて出ていったことになる。にこやかな笑い顔の、目だけが寂しげな女性は、確かに柏木律子そっくりだった。
「先生だ……」
 拓斗の溜息は疲れを響かせた。
「泉さんは、なんで先生を襲わなきゃならなかったんだろう……」
「拓斗君!」
 龍樹の窘めでかき消された言葉。伯母の表情は微妙に歪んでいた。
「泉ちゃん、何かしたの?」
「あ……まだなんとも。それを確かめたくて、探してます」
「泉ちゃん、毎日佐伯さんの所に寄っていたみたいよ。あちらの裏山とか、思い出が多いからかと思っていたけど……」
 伯母が考え考え呟いた途端、龍樹は立ち上がっていた。
「探してみます」
 拓斗はそんな龍樹についていく形で森元家を出た。
「どこから探すの?」
「そうだなぁ。佐伯さんちの山……行ってみようか」
「勝手に入っていいの?」
「山だからね。近道になれば、通る人だっているよ」
 実際、森元家の裏を歩いていたら、いつの間にか敷地は佐伯家のものだった。真冬の散歩向きではないが、側に建つ酒蔵からは、不思議と甘い匂いが漂ってくる。
「酒って、醸造用アルコールで調整するまではとても甘い匂いだよね。アルコールの刺激臭が無くって」
 龍樹が形のよい小鼻をひくつかせてから呟いた。
「……そっちの道、入って」
 獣道を指差す。
「奥に小さな井戸と小屋があるんだ。もっと手広くやっていたときに職人を滞在させていたところらしいけど。僕らが来るようになる頃は、ただの遊び場だった」
「泉さん……居るかな」
「どうだろ。昔は何かあると隠れてたけどね」
 きょろきょろと見回しながら歩く。龍樹の目指す方角に小屋は見えない。やがて、うっそりした茂みの間に開けた場所があるのを見つけた。
「土台だけになっちゃったみたいだな」
 雑草の間から見え隠れする四角い石畳は、丸いへこみなどがあって、土台を思わせるものだった。
「ここかぁ、でも、井戸は?」
「そうだな、こっちが入り口だとすると、裏手だから……」
 首を巡らせながら言いかけて、人の気配に固まった。
 ガサササッと鈍い葉擦れの音、枝を踏みしめる鋭い音。
「誰っ?」
 音のする方に走った龍樹は、突然姿を消した。
「……た、龍樹さん?」
 驚いたのは拓斗である。龍樹がおったはずの人の気配はなくなっていて、龍樹の気配すら消えてしまったのだから。
 慌てて龍樹の消えた方向に走り寄り、何かに蹴躓いた。
 もんどり打って転ぶときの衝撃に瞬間目をつぶる。
 衝撃が来ないことに驚いて目を開ければ。
 まだ自分は落下中だった。
「???っ」
 真っ暗な場所。やがて鈍い衝撃を全身に感じ、拓斗は視界を失った。