冷たい媚薬・第十一回

 
イヤイヤイヤ。
殺せば済むなんてウソなんだから。
ダメなのに。
邪魔なもの全部殺してたら、周りに誰もいなくなっちゃうよ?
あの人の言うこと信じちゃダメッ
 
 
「拓斗ぉ!!!!」
 咆吼に似た叫びが迸り出た。
 もっと酷い怪我人を、数え切れないほど診てきた。応急処置も十分心得ている。出血は傷の程度から言っても致命的ではない。にもかかわらず龍樹は動転してしまったのだ。力の抜けた身体を抱き上げ走った。
 血だらけの男を抱いて駆け抜ける美貌の人に、道行く人は誰もが振り返った。
 そうやってたどり着いた先は最寄りの外科医院。院長は『ElLoco』の常連の一人である。
 穏やかな微笑みしか見た事のない院長は、ベソかき顔で極度に興奮したマスターの急な訪問に、目を丸くした。
「通り魔に襲われたんです。すぐ処置をしないとっ」
「そりゃ大変だっ」
 龍樹の調子にあわせて拓斗を診察する。患者よりもマスターの方が危ないと考えたのだった。
「傷はそんなに深くない。出血はどのくらいだった?」
「そ、そうですね、いや、そんなには」
 冷静さを少しずつ取り戻すにつれ、龍樹の頬は紅潮していく。取り乱してしまった自分を恥じていたのだ。
「大きいところだけ縫って、痛み止めをうったから、後は頓服で飲むようにね」
「ああ……すみません。どうも血を見た上に彼が気絶してしまったので動転して……。ご迷惑かけました」
 手を洗っている医師に、龍樹は深々と頭を下げた。
「いや。また美味しいコーヒーを飲ませてもらえればいいよ。よっぽど彼のこと、大切なんだな」
「は?」
「君のコーヒーの味は、彼の存在に左右されてるみたいだから」
「……!」
「弟みたいにかわいがってるものね」
「……ええ」
 安堵の溜息を吐きながら頷いた。
 電話を借りて警察に連絡してから、拓斗を抱きかかえて医院を出た。
 ホッとしたせいか、行きには感じられなかった拓斗の感触に、龍樹は高揚している自分を感じた。
 思ったよりも軽い。贅肉のないうっすら筋肉が付いた細身。
 ぐったり力が抜けた彼は、無防備に龍樹の腕に身を預けている。今なら……。
「拓斗……」
 起こさないように囁きながら、そっと拓斗の唇に己の唇を重ねた。触れるだけのキスである。
 薄紅色のふっくらした唇。その感触は無反応であっても柔らかく龍樹を刺激した。更に口づけを深めてみようかとついばんだ先で、ぴくっと唇が動いた。
 ハッと見つめる。
「ふ……」
 小さな吐息。目覚めてしまうらしい。
 キスできないのは残念だが、幼く無垢な表情での目覚めは清純な色気に満ちていて、龍樹の片恋心をいたく満足させたのだった。
「……? 龍樹……さん!」
 ガバッと起き出した場所が不安定な腕の中だったために、拓斗が瞬間パニックに陥った。ジタバタしながら、下ろしてと請う。
「あのっあのっ、なんでっ?」
 真っ赤になってしまった拓斗を、熱い視線で見下ろした。
「君が気絶をしてる間に手当をして貰ったんだ」
(それと、とっても美味しい唇をいただいた。つまみ食いしてごめんね)
「貰ったって……。外沢先生に?」
「うん。僕はヤブだから、何にも役に立たなかったよ」
 拓斗だからこそ。
「俺を運んで走ってくれただけでも、すごいことだよ」
「知ってたの?」
「今こうしてるんなら、行きだってそうだろ? また迷惑かけたね」
「迷惑なんて……。君の怪我は……」
「だめ。それは言わないで。本当に龍樹さんのせいじゃないよ」
 キュンと胸が痛んだ。何度も何度も、拓斗には惚れ直してしまう。
 タイヤのきしみ音が聞こえなかったら、立場を考えずに拓斗を抱きしめていただろう。
「龍樹!!」
 荒げた声で呼ばれ、思わず振り返った。
 車からあわただしく降りてきたのは紫関と太刀村だった。
「どういうことだっ!」
「……拓斗君が斬りつけられたんだ。泉に……」
 紫関が眉をひそめて首を傾げた。
「はあ? お前、通り魔だって言っただろうが!」
「だから、泉が……」
「まさか!」
 怒ったように言われて、紫関が泉ファンだったと言うことを思い出す。
 拓斗が脇から口添えをしてくれたのも、紫関の勢いのせいだろう。
「紫関さん、俺も見たんです。変な仮面かぶってて、黒いコートで……。龍樹さんが来てくれたから、逃げてったんだけど、そん時仮面が外れて……泉さんだったんですよ」
「コートに仮面……? ってことは」
「柏木先生を襲ったのと同じ……かもしれません」
「泉って?」
 太刀村の怪訝な声に、龍樹は勢いのまま素直に答える。
「僕の妹です」
 閃いたという表情で、紫関は龍樹の袖を引いた。
「……龍樹! 泉ちゃんの行ってる大学、何処だっけ?」
「聖蘭女子大だよ。そこの国文科」
「聖蘭て……。柏木先生の居る学校だろう?」
「そうなんですかっ?」
 拓斗も目を丸くする。そんなに近くにいたとは、思いもしなかったのだろう。
「だからうちの店にも……? 泉の奴、店で会ったとき挨拶もしなかったのに……」
 そう。泉は「だれ?」と聞いたはず。何故だろう?
「繋がりありって事は、動機ありかも……って事だな」
「君との繋がりは?」
 太刀村の事務的な視線が拓斗を刺すと、恥じ入ったように俯いてしまった。
 ほんの少し肩を震わせる思い人が痛々しくて、自分までやりきれない気分になってくる。
「……俺、泉さんの期待に応えられなかったから……」
「泉の片思いなんです」
 拓斗に言って聞かせる気分でくちばしを差し挟む。
(そうだよ、君が気にする事じゃない。自分の気持ち優先で、いい筈なんだから)
「でも俺っ。寝ちゃったんだ! 泉さんに酷いこと……したんだよ」
「酷いって、無理矢理やったのか?」
「違うよっ! 誘ったのは泉だっ」
「俺は向坂君に訊いてる」
 紫関の鋭い視線に貫かれ、龍樹はオロオロと拓斗をうかがった。
「泉さんのこと、好きだけど、そういう対象としてみれないと思ってたのに、結局つけこんじまったんです」
 紫関はまじまじと拓斗を見つめ、やがて肩を竦めた。
「ま、責める権利があるのは彼女だけだから。据え膳喰うときは気をつけるんだな。トラブルの元だぜ」
「……はい。……それにしても……」
「なに?」
「泉さんのニヤッて笑った顔……違う人かと思うほどだっから。泉さん、大丈夫なんでしょうか」
「! そう、そうだよっ。泉が正気で拓斗君を襲うわけないっ」
「まずは彼女を捜すことだな」
「探すことなら任せとけ。警察力を舐めるなよ」
 バタバタと駆け去る紫関達を見送る。
 残ったのは長身の刑事、太刀村だけだ。
「君たち、現場に戻れるかな?」
 龍樹は拓斗の顔をのぞき込んで意向を伺った。
 拓斗は疲れた笑みを返しながらもうなずく。
「はい、大丈夫です」
「じゃ、行こう」
 歩きながら携帯で連絡を取る太刀村の後を、龍樹は拓斗を支えながら歩いた。
 
 
何処へ行けばいいんだろう……。
あたしの居場所は何処?
あの人は、言うことを聞けば全てよくなるって言った。
ちっともいいこと無いじゃない?
あの人の目、怖かった。もう、あたしには居場所がない。
 
 
 泉の姿が消えて一週間以上が過ぎた。
 年末の慌ただしさがいよいよ本格的になってきたその日。
 定休日にもかかわらず龍樹は店で決算処理をしていた。
 税務は年末が締めで、申告を三月までに行うためである。
 後2日で、今年も終わる。
 泉が消えてから、連続した事件は起こらなくなっていた。
 警察力も未だに見つけることが出来ず、悶々と毎日を過ごす。
 探しに出歩きたい反面、彼女を見つけるのが怖い。
 警察としての見解は、やはり泉犯人説。ただ、殺された女達との関わりがはっきりしないため、名を伏せた参考人扱いなのだった。
(泉じゃない……そんなはず無い……)
 自分の妹が、本気で殺人者とは思いたくないのだ。たとえ、ナイフを振りかざしたところを直に見たにしても。
「……そうだよ。あれはどちらも未遂だ……」
「……え?」
 呟きにいらえが来て、ハッと顔を上げた。
 小首を傾げた拓斗が、こちらを見ている。
 相変わらずテスト問題に取り組んでいるのだった。
「ああ、ひとりごと。泉がね、全部の犯人とは思えなくて」
 拓斗の眉をひそめた表情は、けして否定的なものではなかった。
「あのさ、泉さんて……その……」
 言いよどむその先は。言葉が違っていたとしても同様の意味合いで。
「壊れてるかもしれない……」
 龍樹が発した答えに、異論を唱えないのがその証拠。
「もしそうなら……僕のせいだ……」
「なんでさ? 泉さんは許してくれたんでしょ?」
「……理屈と感情は違う。僕は……泉から長谷部をとったんだよ。二人でいるところを泉に見られて……」
「……それが泉さんに聞けって言ってたこと?」
 もっとすごいことかと思ってた……という声が聞こえてきそうだった。
 言葉にしてしまうと、二言三言で終わってしまう理由。当事者でなければ、そんなものだろう。
「……そうだよ。それだけ……。でも、泉はすごく傷ついたんだ」
 拓斗は、何度も瞬きをして、フワリと笑った。
 ドキリとしてしまうほどの色気が立ち上る。
「……龍樹さんもでしょ? それとも、知っててとったの?」
 龍樹は黙って頭を振った。
 知っていたら……あの時だったら押しとどまったかも知れない。
 でも、今は…………止まれないという自信ならある。
『好みじゃなくても手を出すだろうな。お前が目を付けたんなら』
 不意に長谷部の囁きが耳元を掠めた気がした。
「泉とは、本当に仲がよかったんだ。小さい頃は、いつも僕の後をついてきててね……」
「自慢のお兄さんてやつ?」
 自分で肯定するのも恥ずかしいが、拓斗があんまり爽やかな声音で言うから、ついはにかんだ笑みを浮かべて頷いた。
「だから、僕がそういう人間だって事自体、ショックだったんじゃないかな」
 泉に変態と罵られるたびに縮こまっていった思いが少しずつ殻を破り始める。
『同性愛者であることを特別隠そうとも思わない。宣伝はしないが自分に誇りを持っている』
 そんな胸の張り方が、半ば虚勢であったこと。いざとなれば、ただの一言でいじけた顔を見せるのを、龍樹はたった今自覚した。
「……でも、人を好きになる気持ちは同じでしょ? 世の中には沢山の人がいて、でも、好きになるのは誰でもいいわけじゃなくて。男が好きでも、男ならOKてわけじゃないんでしょ?」
「……うん……」
「泉さんのイメージ通りの龍樹さんである必要は無いじゃない。イメージと違って驚いても、時間が解決してくれる。だって、大好きな兄さんだったんだから……」
 拓斗は、なんでこんなに真剣に慰めようとしてくれるんだろう。
 それが、今の龍樹にとって、どんなに…………。
 無意識の残酷。
 望みを持たされてしまう。いつか、手にはいるかも知れない夢と。
 それとも、無理矢理にでも手折ってしまうか……。
 感激が暗い思いにすり替わっていく。
 ぴくりと体中の筋肉が震えた。
 行動を起こそうか。
 彼はどんな顔をする?
 どんな喘ぎを…………?
 けたたましい電話の呼び出し音さえならなかったら、龍樹は拓斗に襲いかかっていたかも知れない。
「はい。『El Loco』です」
 獣に成り下がらないで済んだ安堵感を息に吹き込みながら応えた。
《兄貴……?》
 か細い、荒い息混じりの声……。
「泉ッ?」
 ガタンと椅子を蹴る音で、拓斗が立ち上がり駆け寄ってくるのが分かった。
「泉ッ何処にいるっ? どうしてるんだ?」
《兄貴……。あたし……ダメかも知れない……》
「なにっ? 迎えに行くから、居所教えなさい!」
《やだ……怒られる……》
 いきなり口調が幼くなって、違和感を感じる。
「おこらないよ。大丈夫。ね?」
 合わせるように言って聞かせる口調に変えると、泉の吐息が聞こえた。
《……おじちゃんとこに……・だまんなっ》
 ガチャッと切られた。
「いっ泉ッ? 泉!!」
 叫んでみても、電子音しか聞こえない。
「だまんなって言ってなかった?」
 耳を寄せて聞いていた拓斗が不思議そうに尋ねる。
「ああ。尋常じゃない声だった……でも、泉の声だ」
「……どういうこと?」
「わからん。とにかく行かなきゃ」
「は?」
「伯父の所に。あの子がおじちゃんて言うのは、倉敷の伯父だ」
「……待って、電話、してみようよ」
「ああうん。そうだね」
 龍樹は、拓斗の一言で潮が退くように落ち着いていく自分を、苦笑混じりで受け止めた。
 伯父の家の電話番号は、すぐに思い出すことが出来た。
 あまりにも久しぶりだったのだが、伯父は笑いながら龍樹の近況を尋ねてきた。
 もどかしく思いながらも受け答えしつつ。泉について触れてみる。
 やはり泉は倉敷に現れたらしい。
 この数日泊まっているとのことで、龍樹は足止めをするように頼み、受話器を置いた。
「いたの?」
「ああ。これから迎えに行く。君、一緒に行ってくれる?」
「……俺が?」
 拓斗の意外そうな応えに、自分の口走ったことを後から考えた。
「あ……いや。どうしてもってわけじゃ。ただ、僕だけじゃ泉が言うこと聞いてくれるか不安だっただけで……」
 半分本音で半分は言い訳。
 当然断られるだろうと覚悟して、彼の様子をうかがった。
「いいけど……。旅費後からでもいい?」
 あまりにも簡単にイエスの返事を貰えたので、それがそうとは認識できなかった。
 何度も何度もパチクリしながら拓斗の黒目がちの眸を覗き込む。
 大まじめに見返しながら、更に拓斗が口を開いて。
「部屋は別だよね?」
「ああ……僕が頼んでるんだから旅費も考えないで……」
 勢いで頷いた。
 部屋が別……。いいとも。一緒に行ってくれるだけでもありがたい。
「じゃ、支度だ。一時間後にここで」
「うん」
 即座に私物を片付け店を出た思い人の背中を見送って、龍樹は自分の肩を抱きしめた。
「拓斗……」
(君が好きだ。何故も何処もなく、どうしようもなく……。
 君に甘えて、君に優しくして貰うたび苦しくなるのに、余計に好きになってしまう)
「僕は……どうなっちゃうんだろう……」
 龍樹は身震いして店のドアに鍵を掛けた。