冷たい媚薬・第十回
あの人がいろんな事を聞いたのはどうしてだっけ。
落ち着くからって言ってたけど……
眠くなって、疲れた感じになる。
あの人は何で近づいてきたのかな。
「……家帰ったら1時半だったです。……それで風呂入って寝たので……」
考え考え、拓斗が言った。
「なんです? またアリバイですか?」
眉をひそめてとがめるような視線を向けた拓斗を、紫関は頭を掻きながら見据えた。
「いや、君じゃなくて。龍樹なんだよ」
危うく落としそうになった盆をあわてて持ち直す。
「まさか……」
落とさないうちにと、紫関の前にコーヒーを置いた。
即座に啜って、ふうと溜息をつく紫関は、かなり困惑しているようだった。
「龍樹が昔……その、付き合ってた奴がね……」
「って、長谷部さん?」
「知ってるの?」
「俺の予備校の講師です。この間……店に来たから……」
「いつっ?」
「えっと……紫関さんが亜紀美のことで学校に来た前日。日曜日です」
何だというようにソファに沈み込む。
「ああ、あの日? 俺も会った」
「あ、そうなんだ……」
「険悪なときに首つっこんじまってあせった。長谷部の奴、俺のことを龍樹の恋人だと思いこんじまってさ、すげー迷惑」
「ぶっ」
「龍樹の奴も酷いよな。否定しなかったんだぜ。思いこませとけばいいとか言ってさ」
紫関の憮然とした表情から、龍樹の態度を想像して拓斗は腹を抱えた。
おそらく肩をすくめながらごめんねと悪気なさそうに謝ったのだろう。
龍樹にとって、紫関は本当に親しみのこもった友人なのだ。
拓斗はほんの少し嫉妬を感じ、紫関を笑うことで腹いせにしたという自覚を持っていた。
「ぶははっ、し、紫関さん、ストレートなのにね」
「そんなに笑うなよ」
「あは、あはは、すみません」
笑いが絞り出した涙を手で拭いながらも、きちんと頭を下げる。
紫関は謝罪を受け入れて話題を進めた。
「それで、長谷部ってどんな奴だった?」
「あ……俺はよく知らないんです。あの人現国と古文だから、習ったことなくて。店で一度と予備校の前で一度、会ったきりです」
「印象は?」
「あー、迫力な感じ……。面白そうな人だと思ったんだけど、龍樹さんは質悪いから近づくなって言ってました。泉さんも、なんか顔見ただけで吐いてた……」
「泉ちゃんが?」
「ええ。何か……あったみたいですね」
「君は知らないこと?」
「龍樹さんは泉さんから聞いてくれって言うし……。一回喋りそうになった龍樹さんを泉さんがひっぱたいて止めさせてたこともありました。だから、聞かずじまいです」
「ふううん……」
しばらく考え込んでから、紫関は立ち上がった。
「分かった。邪魔したね」
「いえ。あの……」
「なに?」
「龍樹さん……大丈夫ですか?」
「ああ。うん。多分……。気になるんなら店に顔だしてやって」
「そうですね。直に見に行ってみます」
紫関が龍樹のアリバイを調べるなんて、何かそれなりな理由があるはずだから。
刑事を送り出してから、すぐに家を飛び出した。店はまだ開いていない。そっと窓から覗き込んだら、龍樹が見えた。
窓を軽くノックしてみる。
ハッと顔を上げた龍樹と目があった。
「拓斗君! どうしたの? こんなに早く」
慌てて招じ入れてくれた龍樹の疲れた顔を見上げ、口を開いた。
「紫関さんが家に来たんだ。龍樹さん、大丈夫?」
「あ……ああ。心配してくれたの?」
歯切れの悪い返事に拓斗は眉をひそめた。
「長谷部さん、死んだって……」
「部屋で……殺されたらしい。僕の名前を書き残してたんだって。君と別れた後、朝まで一人だったから、死亡時刻のアリバイを証明できないんだ」
「……でも、やってないんでしょ?」
「うん。信じてくれる?」
「もちろん。紫関さんも信じてるって。調べに来るのは、仕事だからしょうがないよね」
「うん……」
「元気出して! 俺にコーヒー、飲ませてよ」
「うん!」
にっこり笑った龍樹に優しく微笑み返し、拓斗はカウンターに座った。
「マンデリンとモカの七対三、二人分入れて。俺が奢るから、龍樹さんも一緒に飲も」
「え……?」
「付き合ってくれてもいいだろ? まだ開店前だし」
「……ありがとう」
念入りに煎れたコーヒーをもって、二人掛けのテーブルに移動した。
「たまにはこの席もいいかもね」
「うん、こうして飲むと自分の入れたものでも違って感じる」
相手が君だから。と、言いたげに見つめてきた琥珀の瞳に負けて、拓斗は俯いた。
「長谷部はね。昔、僕の恋人だったんだ。いろいろあって別れて、この間君と泉がいたときに偶然再会した。ここでしか会ってないのに、何であいつ、僕の名前なんか残したんだろう……」
唐突に話し始めた龍樹の、落ち着いた声音は、寂しげに響いた。
「より戻したかったんじゃないの? 紫関さんのこと、勘違いしてたって」
「うん。でも断ったんだ。もうそんな気にはとてもなれないから」
「紫関さん、迷惑だって愚痴ってたよ。そうまでして避けたかった相手なんだね」
「うん」
「泉さんも吐いてたものね」
「泉は僕の顔見ても吐いてたんだよ、以前は」
「……え……?」
「それで僕は、アメリカまで逃げ出したんだ」
「……理由は泉さんから聞かなきゃいけないんだろ?」
「うん……」
「でもまあ……泉さんはもう許してるんでしょ? でなきゃ、店手伝ったりしないよね」
「そうならいいんだけどね……」
沈み込んだ瞳のまま、俯いてカップの底を見つめた。
拓斗は、龍樹のそんな姿に胸の痛みを感じ、首を傾げた。その感触が同情とは少し違う気がして。
「……壊れる前はさ、すごく綺麗なときもあるよね。そういうのだけ思い出すと、もう一度何とかなるんじゃないかって思ったりして……。俺なんて、一方的にふられるばっかりだから、諦めつくまでは、そんな期待すること多いんだ。長谷部さんもそうだったんじゃないかな」
「……奴は君みたいに純真じゃないから……」
「俺が純真? 買いかぶりだよ」
「純真じゃない奴はそんな事言わない」
揺るがぬ視線と有無を言わさぬ口調に、拓斗は黙った。
自分が純真かどうかで議論をしたくはなかったから。
「……泉さんは? 知ってるかな」
「どうだろ……。今日は二限までの日だから、一時からなんだ。そういや、君、学校は?」
「選択授業ばっかの日だから」
「サボったの?」
「取っては見たものの、使えない授業ってあるじゃん。別に出なくても平気。ここにもっと良い授業してくれる人がいるから」
ふふっと微笑みかけて、龍樹が固まったのに気づいた。
「あ、ごめん。依存するつもりじゃないんだけど」
「うん。分かってるよ。今日も問題……やってく?」
「いいの? 開店早々俺が陣取ってたら、邪魔になるよ」
「混んできたら奥の事務室の机を使ってくれればいいよ」
それでは身内扱いである。
「そんな……。俺、問題貰って家でやってくる」
自分の置かれている立場上、拓斗は固辞するしかなかったのだが。
「だめ。テストは参考書なしで解いて。分からないところはとばして後で聞くこと」
有無を言わさぬ教師の口調で龍樹が言い切った。
「カンニング防止?」
「側にあると、つい見たくなっちゃうだろ?」
大きく頷く龍樹は、大まじめだった。
「……うーん。じゃ、すみません、お言葉に甘えます」
ぺこりとお辞儀をして、カウンターの隅に移った。
客達のおしゃべりも、食器の音も、集中してしまえばただのBGMになる。
会社の昼休みに当たる時間には、席を一つでも回転良く使いたいだろうと誰でも思うほど混む事も、この時間にいたせいで初めて知った。
さすがに集中力も続かなくなり、拓斗は奥の部屋に勉強道具を置くと、龍樹に声をかけた。
「……手伝おうか?」
めまぐるしいほどに忙しいのに、龍樹は眉をひそめて覗き込んできた。
「テストできたの?」
「分からないとこ以外は。ちょっと疲れたから気分転換代わりにウエィターやらせて。昼休みの時間帯だけでも」
困るけど嬉しいと顔に書いたまま龍樹が微笑んだ。
「……じゃあ、泉が来たら交代して。すまないね」
戦争のようなランチタイムも一時の時報と共に急に席ががらんどうになる。
近所の会社の昼休みが終わるためだ。
残っているのは女子大生や主婦達。とたんに龍樹が拓斗を呼んだ。
「もういいよ。勉強に戻って」
「でも、まだ泉さん来てないよ?」
「この程度なら僕一人で大丈夫。君は勉強しに来てるんだから」
叱られた気分で拓斗は頷いた。
借りていた泉のエプロンを棚に返し、拓斗は事務室に入った。
「あらぁ、可愛いウエィターさんはもう上がっちゃうの?」
ガラガラ声の主婦が笑いながら言えば、
「あいにく彼は受験生でして。一打席だけのピンチヒッターなんですよ」
なんて答えている。
「それに、可愛いなんて言うと、彼、怒るんです」
(おいおいおい……)
それでも、自分の言ったことを龍樹が覚えていたことを嬉しく感じ、拓斗はまたもや首を傾げてしまった。
どうしてあいつは邪魔ばかりするんだろう。
いつだって、躓く石はあいつが置くんだ。
『ElLoco』を貸し切りにしての誕生日パーティは、盛況のうちに終わった。
料理は全て龍樹の手作り。
大量に作られたそれらも、拓斗の友人達によって精力的に消化され、ほとんど捨てるものがない状態。誰もが上機嫌で、中でも主役の拓斗の嬉しそうな様子が、龍樹を満足させた。
ただ一つの気がかりは。
彼らに声をかけた泉だけが、その場にいなかったこと。
「……結局、泉さん来なかったね」
宴も終わりに近づいた頃、ワインで染まった頬も色っぽく拓斗が、ドアを見ながらつぶやいた。
「先輩はどうしたんだって?」
艶やかな黒光りの巻き毛を揺らしながら拓斗にからみついた少年を、ハッとして見つめる。背後から抱きつくようにしている彼の、拓斗への好意を腹立たしく想いながら龍樹は拳を握りしめた。
「ちょっ、畑山ぁ。重てーよっ。来ないから心配だってーのっ」
「……へんだなぁ。今日、プレゼント買ってたぜ」
「……今日?」
「昼間。横浜で見かけた。ちっくしょ。いつの間にか先輩モノにしちまいやがって」
ぐいぐいと首を締め付けられて、拓斗が軽く咳き込んだ。
「んもう! やめろって!」
ぶんと軽い頭突きを食らわせて拓斗が抜け出す。
畑山はギャハハと笑いながらワインを煽った。
拓斗の顔は真っ赤になっている。
(子犬のじゃれ合いみたいだな)
クスッと笑いを漏らした瞬間、後ろからごんと衝撃を食らった。
「無防備すぎ! 客の前だぞ」
振り向けば、かざした拳のまま、紫関がにらみあげた。
かあっと熱くなった頬を手のひらで隠す。
「酒入ってると、顔もゆるむんだよ」
「それより。ホントに泉ちゃんどうしたんだよ? 彼女目当てで顔出したのに」
紫関は、仕事の合間に顔を出したのだ。すぐに戻らねばならない。
「うん。家はちゃんと出たって言うんだ。あいつ、結構気分屋だから。どっかで引っかかってるのかも知れないけど」
「嫌な事件が続いてるんだ。行き先はしっかり把握するようにしろよな」
「うん。母にいっとく」
ひょいと側にあったカナッペを口に放り込んで、紫関は出ていった。
それが合図になったかのように、次々と客は帰っていく。
人ごとにありがとうと声をかけ、最後に残ったのは食べ散らかされた食卓と拓斗。
ほうと溜息をついて座り込んだ思い人の前に、龍樹は即座にコーヒーを置く。
「あ……ありがと……俺、どうやってお返しすればいいか……」
縮こまったまま肩を震わせる拓斗は、うつむいたまま顔を見せてくれない。
「俺……こんなん初めてなんだ。誕生日会なんて……ホント初めてで……」
掠れたつぶやきは、涙混じりのようだ。
龍樹はそっと彼の髪を指ですきあげた。
びくっとそびやかされた肩の力が、だんだんと抜けるまで。
「君の生まれた日をお祝いできるのは嬉しいよ。みんなが楽しそうに祝ってくれたことも嬉しい。だから、お返しなんていらないんだ」
「そ……なこと……ったって……」
「お返しに君が欲しいって言ったら?」
ヒッと目を剥いた表情に、苦笑いを漏らす。
「……ね? お返しなんて、無理矢理貰うもんじゃないんだ。僕は、無くても嬉しいよ。君が喜んでくれただけで満足」
冗談だったのかと肩をおろす拓斗を、少々恨みに思うときもある。
龍樹は本音を吐いたのだから。望んでも得られないとあきらめてる夢を。
片づけを手伝うと言う拓斗をそうそうに追い出したのも、そんな燻りのせいだったかもしれない。
だめだ。
やはりあれは邪魔。
消去せねば。
誕生日会から二日後。
その日、帰った拓斗を追ったのは天の配剤としか言えない。
拓斗が置き忘れたノート。
翌日来たときに渡せばいいものだった。次の課題は渡してあったのだから。
だが、龍樹はこの機会を逃す気はなかった。
店の外で、プライベートを強調した会い方が出来る。嬉々として店を飛び出したのだった。
「わあぁっ」
拓斗が死体に躓いたという神社裏にさしかかったところで、その声を耳にしたとき、危険予測なしに龍樹の脚は速まった。
「なっなにするっっ」
ハッとして目を凝らした。
拓斗の慌てたふためいた声には、恐怖の響きがあったから。
小柄なマント姿が拓斗と争っていた。
月明かりにひらめいた銀色の光。
ナイフ!
龍樹は植え込みを飛び越えて、もみ合う影に体当たりした。軽い感触で影は身を翻し、銀の光が円を描く。
倒れかけた拓斗を抱き支えたまま、振り向きざまの回し蹴りで、影の頭部を狙った。
パシッと軽い手応えで、し損じたことを知った。
過剰防衛を避けて蹴りを加減しすぎたのだった。
小さく舌打ちしながら、影に立ち向かった。
「龍樹さん、俺、立てるよっ」
足手まといを意識して、拓斗が身を離したのを機に、もう一度影に蹴りを入れた。敏捷な影は小柄な身体を駆使して、飛びすさった。
しかし、触れていないはずの頭部が揺らいだ。龍樹の蹴りは衝撃波を発していたのだ。
ずるっと仮面が半分裂け落ちた。
ハッとして固まった龍樹達にニヤリと唇を歪めて笑いを送ると、影はそのまま駆け去った。
「いっ今のっ」
龍樹はよろめきながら叫ぶ拓斗を抱き留めて出血個所を押さえながらしわがれた声を出した。
「ああ。泉だな」
龍樹はシャツの袖を引きちぎって傷を縛った。
「なんでっ? 何で俺をっ?」
「分からない……分からないよ。ただ……長谷部が……」
「あの……?」
「泉が狙うのは、僕が好きになった人だって……」
「そんな……」
「どうしよう……本当にそうなら……君に僕はなんて詫びたら……。君に好きだなんて言わなければ良かった……」
ぶるぶると震えながら涙声になる龍樹を、頭を振りながら見上げた。
「謝らなくていい。龍樹さんのせいじゃないよ。たとえ、泉さんがそのつもりでも龍樹さんのせいじゃない……。第一、あのやり方……もしかしたら他の通り魔も、そうかもしれないじゃないか。そしたら長谷部さんの説は変だ。龍樹さんはあの女の人たちのこと好きじゃなかった……でしょ?」
「あ、ああ……」
拓斗は頷きながらも暗い翳りを振り払えないでいた龍樹の頭を抱きかかえた。
「大丈夫。龍樹さんのせいじゃない。大丈夫だから」
拓斗は自分でも気づかずに甘いテノールを響かせて囁いていた。それが力を失っていく。
「だい…じょ……………」
拓斗は龍樹を抱きしめるようにしたままぐったりと気を失った。