冷たい媚薬・第四回

 
何故あいつが?
何故?
嫌、嫌、嫌……。
また、誰か殺される。
だめ………………!
 
 
「長谷部……」
 龍樹の震える声に、長谷部は意外だというように目を見開いた。
「名前で呼んでくれないんだな、龍樹」
 六年前と同じように、龍樹を呼ぶ長谷部の声は甘く響いた。
 あの声で耳元で囁かれる度、龍樹は頭の芯が痺れ、男の腕にその身を委ねてしまっていた。
 六年前までは。
「何で……!」
 吐き出すように言葉をぶつける。
「さっきいた娘、泉だな? ずいぶん変わったもんだ」
「誰のせいだと!!」
 長谷部はからからと笑った。
「俺のせいだって言うのか? お前のせいだろう?」
 じりじりと龍樹に近寄り、長谷部は龍樹の顎を捕らえた。
「この綺麗な顔で、俺を誘ったのはお前だったよな、龍樹」
「止めろ……」
「自分の妹から俺を寝取ったんだよな」
「……」
「そのくせ、妹にばれた途端、俺を捨てた……」
 龍樹は長谷部の勝手な言いぐさにあきれてしまった。
 泉に見られた後、長谷部は大笑いしたのだ。こんな面白いショウはないと。おそらく、その時間に泉が訪問したのは偶然ではないと龍樹は推測していた。わざとかち合わせて、その様子を見ようとしたのだ。
 なんて悪趣味なんだろう。
 そういう、人の心をおもちゃにするようなところが長谷部の嫌なところだ。そんな思いで彼を見ると、すべてが醜く見えてしまった。自分が酔わされていたものがただの想像の産物に過ぎず、長谷部はそれを投影したものでしかなかったことに気づいた。
 長谷部とは、当時龍樹のアルバイト先であるカラオケボックスで知り合った。仕事の上でも先輩の長谷部は、何かと龍樹のフォローをしてくれていた。
 龍樹が、自分は男に惹かれてしまうのだとはっきり自覚したのは彼との出会いを通してである。
 危険な想いであると、心密かに悩んでいた龍樹だが、長谷部も同じように思っていてくれたと知ったときは天にも昇る心地だった。
 長谷部とのセックスは、あらゆる意味で新鮮な体験だったし、龍樹の身体は長谷部によって開発され、馴らされた。
 今となっては唾棄すべき思い出であるが。
 泉との交際は、泉の通う学習塾で長谷部が講師のアルバイトをしていた時かららしい。
 兄妹ともに、特に龍樹は自分の交際相手に関しては秘密を通してきていたため、接点を見いだせる立場にいたのは長谷部だけであった。
 長谷部から去ったのは確かに龍樹である。しかし、龍樹を去らせたのは長谷部だ。
「泉も、僕も、あんたとのことは忘れたいと思ってるんだ。それなのに……、何だって今頃現れる?」
 長谷部は龍樹をじりじりとカウンターの方に追いつめた。
 その瞳の危険な光は、切なさを含めて龍樹を貫く。低く響く甘い声は、相変わらず媚薬でも含んでいるかのようだ。それをわずかに震わせて、龍樹にぶつけてくる。
「偶然……だよ。もちろん」
 クッと口もとを歪ませて頭を振った。
「いや、神様のお導きって奴かな……。お前が突然俺の前から消えた後、俺がお前を捜さなかったと思うか? お前は家にも寄りつかないで、住民票も移さずあちこち転々としてたよな。おかげで、こんなに会えるのが遅くなっちまった……。龍樹、俺はお前を愛していた。泉じゃなくて、お前をだ! 泉に俺をあきらめて欲しかった。だから……」
「だからあの日、泉をあそこへ呼んだっていうのか? 馬鹿を言うな」
「お前達が兄妹じゃなかったら良かったのにな……。なあ龍樹、もう一度やり直さないか? 俺はお前が忘れられない……」
 そう言いながら、ゆっくりと龍樹を抱きしめた長谷部は、容赦の無い力でカウンターに龍樹を組み敷くと龍樹の股間をまさぐり始めた。
 五年前と同じように。
 その感触は龍樹の身体も覚えていた。無抵抗のまま長谷部の動きを観察しながら、意志に反して自分が熱を持っていくのに嫌悪感を感じる。
 身体の反応とは別に、頭の中は氷で冷やしたように冴え冴えとしていた。
 長谷部が口づけをする度に生理的嫌悪感が増していく。
「俺は今だってお前が欲しいんだよ。お前だって……。こうされるの、好きだったじゃないか……」
 長谷部は龍樹を抱いてしまえば全てが水に流せると、たかを括っているのだろうか。
 龍樹が素直に受け入れると思っているのだろうか。
 ばかばかしい。
 体格では、確かに長谷部の方が勝っている。
 しかし……。
 龍樹は冷たい視線を一人で興奮している長谷部に向け、ゆっくりと囁いた。
「お前なんか、いらない」
 長谷部の手が止まった。
「僕は、お前なんか欲しくないね」
 念を押すように龍樹の声が冷たく響いた。
 強ばった長谷部の下から抜け出すと、拓斗が座っていた椅子に馬乗りに腰掛けた。
「僕が今一番望んでいるのは、僕の前からお前が消えてくれることだ。僕は、お前なんかと二度と寝るつもりはない。顔も見たくない」
 長谷部によって火を点けられた身体は、拓斗の椅子のかすかな温もりでもって鎮めることができる。
 拓斗の存在が、龍樹の心を強くしてくれた。
 龍樹が店を開いたとき、最初に長谷部でなく拓斗を寄越してくれたことを神に感謝すべきだろう。
 長谷部は龍樹の反抗に目を見開いて驚きを表した。硬く握られた拳がぶるぶると震えている。
「龍樹……、貴様……」
 長谷部は、このような拒絶のされ方には慣れていなかったらしい。先ほど愛していると口にした同じ唇が、今は憎々しげに歪められている。
 龍樹は、わざと人を傷つけるように何か言うということに慣れてはいなかったが、今回に限っては、それに注意を払うよう努力していた。
 出来れば長谷部にも忘れて欲しかった。
 龍樹のことを嫌いになって、二度と会いたいなどと思わないように、うんと嫌な奴になってやろうと心に決めていたのだ。未練を微塵も残さぬように。
「僕のこと、憎いと思うか? 僕達兄妹を弄び、泉を傷つけたお前が、このくらいで憎いと思うのか?」
 泉と龍樹の関係を知らなかったとは言わせない。
 性別による相違以外はほぼ相似形の兄妹である。
 塾の講師なら、身上書を目にしたこともあったはずだ。有名大の医学部にストレート入学した兄がいることを、進学塾がチェックしないわけがない。
「お前は僕を愛しているわけじゃない。捨てる前に捨てられたから未練が残ってるだけだ。お前のプライドが我慢できないだけなんだろう? プレイボーイさん。生憎、今の僕は、プレイボーイの相手をするほど暇じゃないんだ。さっさと出ていってくれ」
 長谷部は唇を震わせたまま龍樹を射るように見つめた。
 沈黙のまま、一歩龍樹に歩み寄る。拳がゆっくり持ち上げられた。
 殴られてやろうか。
 一瞬龍樹の頭にそんな考えがよぎった。事実、長谷部はそういう意味でも手の早い男であったから。
 龍樹は椅子に座ったまま軽く身構えた。
 ドアベルの可愛らしい音が、二人の間の危険な沈黙を間抜けなものに変えなかったら、実際殴ろうとしたであろう。それも、長谷部が綺麗だと言った顔を。
「よ、龍樹! コーヒー、いつもの奴!」
 言いながら入ってきた男は、二人の男の視線を集めてしまった自分をオロオロと検分した。
「な、何だよ。俺に何か付いてるか?」
 龍樹を呼び捨てにする男の出現に、長谷部の顔色が変わった。
 それは、どちらかと言えばずんぐりむっくりとした、動物に喩えるならカバかサイを誰もがあげるであろう容貌の持ち主だった。
 人の良さそうな柔らかい表情がちんまりとした目元に浮かんでいる。
 それが、心ならずも足を踏み入れてしまった決まりの悪い状況に困惑を示していた。
 長谷部は男を上から下まで舐めるように見つめ、観察した。その目に侮蔑の色が浮かぶ。
「ずいぶん趣味が変わったもんだな、龍樹」
 声に笑いを含ませ、長谷部が露骨に男を指さした。
「ああ。……お前よりも、ずっと魅力的だよ」
 龍樹のあっさりした言い方は、長谷部の胸をかえって深く抉ったようだ。
「っ!」
 ふるふると抑制に全てのエネルギーを集中しているかのように硬直して立つ長谷部と、冷たい笑いを浮かべる龍樹を交互に見比べ、男はゆっくりとドアの方に後ずさった。
「あ……、何か取り込み中……なのかな」
「ああ、紫関、待って! 用はもう終わったんだ。コーヒー、急いで煎れるから待っててよ」
 慌てて立ち上がると、龍樹は紫関の定番のブレンドを用意し始めた。モカとブルマンを各一、キリマンジャロを八の割合で煎れる。
 紫関は、長谷部を気にしながらもカウンター席に腰掛けた。
 背を向けている間に、乱暴にドアをたたきつける音がして、長谷部は姿を消していた。
 ドアベルの音が、いつまでも龍樹を責めるように店内に響いた。
「俺、タイミング悪く邪魔しちまったみたいだな。なんだい? 痴話喧嘩か?」
 長谷部を見送りながら紫関は煙草に火を点けた。
「悪かったな、嫌な感じだったろ? お前のこと、新しい恋人かって訊くから、とりあえずそうだってことにしといた」
 紫関がブッと吹いて、火を点けたばかりの煙草が、吹き矢よろしく飛んだ。
 龍樹の指先が、ひょいと、その煙草をとらえる。
「な、何考えてんだよっ」
 紫関は顔を朱に染め、上目遣いに龍樹をにらみつけながら、煙草を受け取ってくわえなおした。
「だいたい、お前のその腕なら、あんな奴に素手だって負けないだろが。何のためにいろんな武術習ったんだよ?」
 そうは言うが、空手やボクシングの類は素手でも武器を持ったことになってしまうのだから、腕にものを言わせるわけにはいかないし主義にも反する。
「だから、悪かったって言ってるだろ。勝手に勘違いさせとけばいいと思ってさ。あいつ、しつこいんだよ。力尽くじゃ解決しないんだ」
 紫関は深々と溜め息をついた。
「ったく、しょうがねえなあ……。中学の時、あんなに女にもててたのに、何だって男の方がいいなんて事になっちまったんだよ?」
「さあな……」
 そんなことは自分でも分からないのだ。何故と尋ねられても苦笑するしかない。
「とにかく、今はお前が来てくれて助かった。迷惑はかけないからさ。すまん!」
 両手を併せて拝み倒す。
 紫関は中学の時の友人で、職業は刑事である。あくまでも友人であって、恋愛の対象ではない。
 中学卒業以来、龍樹がこの町で店を構えるまで、紫関とは年賀状以外はほとんど音信不通であった。お互い遠くの学校に進学し、それぞれの生活のリズムが出来上がると、どうしても疎遠になるものである。それが生まれ育った町以外で仕事に就き、偶然出会った。
 先ほどの長谷部といい、この『El Loco』には、昔の知己を呼び寄せる何かが有るんだろうか。
 再会の当初、紫関は龍樹のカミングアウトに、かなり狼狽し戸惑いを見せた。
 龍樹があくまでも昔ながらの友人としての関係を望んでいるのを知ると、あからさまにホッとした顔をした。
 龍樹も、紫関の親しみを込めた笑顔に心底ホッとしたものだ。友人というものは、何にも代えられぬ宝物である。
 龍樹は、紫関が昔から事実を忠実にとらえ、公平な目で物事を見る質であることに賭けたのだ。友人を失う可能性も一応覚悟していた。
 紫関は若くして県警の捜査一課に配属された男である。彼の観察眼はなかなか鋭い。お人好しの固まりのように見えて、けっこうその草食動物のような瞳にはシビアな光が隠れているのだ。
「あいつ、何か危ない奴だったよな。龍樹、あんなのと付き合ってたの? 女と付き合った方が、よっぽど良さそうだけどなぁ」
 事あるごとに、「女と付き合ってみろ」と、言うのが紫関の癖になっていた。
「……昔は優しくてイイ男だと思ったんだよ。頭いいしスマートでさ、僕が初めて付き合った奴なんだ。ま、いろいろあってさ」
「元凶か、あいつが……」
 紫関の舌打ちする表情に、龍樹は苦笑した。
「別に、僕がこうなのは、あいつのせいじゃないけど……。現に今だって、好きな奴いるんだ。年下で、しかも片思いだけど……」
 紫関は、頬を赤らめた龍樹の表情をじっと眺め、カウンターで頭を抱えた。
「……、嬉しそうに言うなよ。やんなっちゃうよな、もう」
 龍樹の差し出したコーヒーをぐいっとあおる。
「ま、どうであれ、お前って昔からコーヒー煎れるの上手かったなぁ」
 溜め息一つ。
 中学時代、剣道部で紫関と共に過ごしたときは、自分でも今の自分を想像することは出来なかった。紫関の驚きや戸惑いは理解できる。しかし、そういう状況になってみて、他人が言うほど自分では変なこととは感じなかった。とにかく、女性に特別な興味を持てないだけで、他は何ら変わっていないのだから。
 自分は、いわゆるオカマではないと思う。女性のように振る舞いたいとか、そういう願望は龍樹にはない。好きな人に愛されたいと思うのは同じだろうが、自らを女性と認識することは出来なかった。龍樹の思いは能動的に働く。従って、長谷部との時だってイニシアチブを長谷部がとっていたとしても、受動態に徹することはなかった。
 ともかく、とりあえず友人を続けてくれる紫関には感謝すべきなのだろう。
「……おかわりいる?」
 うむと頷く紫関に二杯目を煎れてやり、すっかり乾いてしまった泉達の使った食器を片付けにテーブルへ向かう。途中、ドアにかかっていた準備中の札を営業中に換えた。
 はたと紫関の方を振り返る。
「それにしても、こんな時間にその格好、仕事?」
 紫関の背広姿は、お世辞にも格好がいいとは言えない。休日の紫関の服装は、釣りキチらしいアウトドアなタイプである。また、その方が紫関には似合うのだ。
 紫関は特大の溜め息をついた。
「夜勤明けというか、休憩時間というか。……また殺しがあったから。とりあえず、コーヒー飲んで眠気を払って、もう一仕事ってとこ」
「殺しって?」
「例の通り魔だよ」
 紫関は自分の短い首に手刀を持っていくとさっと横に振って掻き斬る真似をした。
「この近くにお稲荷さんが有るだろう? そこの裏手でね。自分の家の目と鼻の先でやられたんだ。綺麗な娘でさ、スポーツクラブで水中エアロビのインストラクターやってたんだと。今度結婚するんで仕事仲間が祝いの席を設けてくれたんだが、その帰りにな……。ああ、もったいねぇ」
「かわいそうにね……。家族や、婚約者、泣くに泣けないよな。泉にも、遅くに出歩かないように言っておこう」
「その方がいい。泉ちゃん、綺麗になったよな。昔っから可愛かったけど」
「そうか?」
「あぁっ、これだからやだっ。泉ちゃんなんて、極上ものなのに。……そういや、よくここに来てる坊や、向坂くんだっけ」
「拓斗? なに、どうかした?」
 急に真剣な瞳で食らいついてきた龍樹に、紫関は疑り深い光を瞳にうかべた。
「今度の殺しの第一発見者だけど……。……まさか、片思いの相手って……」
 ハッとした龍樹は首筋まで紅潮させて俯いた。
「……分不相応だと思う?」
 長い沈黙のあげく発せられた消え入りそうな呟きに、紫関がげんなりした声で言った。
「思うね。あの子は妙に律儀だ。遊びで付き合えるタイプじゃないぞ」
「遊びじゃないよっ!」
 龍樹の勢いに思わず身を仰け反らせて後退した紫関は困ったように笑って肩をすくめた。
「本気なら……大切にしてやれ」
「言われるまでもない。あの子は違うんだ。今までとは全然違う」
「せいぜい慎重に近づくことだな」
 紫関は首を振りふり立ち上がった。
「ごっそさん、仕事戻るわ」
「ツケにしとく?」
「恋人から金とんの? ああ、冗談。ツケにしといて」
 軽く手を振り、紫関は出て行った。
 揺れるドアベルを見つめ、長谷部を見て気分悪そうに出ていった泉を思い出す。今頃どうしているだろう。
 心配しながらも、拓斗に接近する機会を得た泉を妬ましく思う自分を発見した龍樹は、硬く拳を握りしめた。