冷たい媚薬・第三回
 
 
私は吸血鬼。
そう、吸血鬼なんだ。
だから、また欲しくなる。
当然だ。
血は私の身も心もリフレッシュさせる。
私の好みは、美しい者。
それも、飾り気のない、本質的な美しさを持つ者。
美しい者を探す。
それが私のルチーンワーク。
私は吸血鬼なんだから……
 
 
「どうしよう」
 拓斗は足取り重く、それでも『El Loco』に向かうのを抑えられなかった。
 『El Loco』の朝食は魅力的だ。朝からあのうまいコーヒーにありつけることが出来るとしたら、大変幸運なことなのだ。
 だが、場所が悪い。
 あのマスターと二人……。昨日の今日。
 マスターの怪しい瞳の輝きに何故か恐怖して逃げ帰ったあげく、死体に出くわして散々だった夜。事情聴取やらで、実際自由になれたのは明け方だった。
 焼き付いた女の死に顔が真っ暗な闇にさえ浮かび、一睡も出来ずに朝を迎え……。それでも腹だけは元気よく空腹を訴えていて。
「けどなぁ……」
 あのマスターと二人きりでなんて。
 拓斗は食欲と恐怖感との間で揺らぎ続けながら一歩一歩店に近づいていた。
 多分、マスターはただの親切心で言ってくれたのだろうと思う。行かないのは失礼に当たる。でも、万が一迫られたら……。
「ちょっと怖いよなぁ。そ、そうだ、店まで行って、胃の調子が悪いからって断ろう。んでもって、中に入らないで帰ってくれば……」
「さ、き、さ、か!」
「そうだよ、うん、こう、胸の下あたり押さえてさ……」
「何ぶつぶつ言ってんの?」
「何……って。え? ひっ」
 肩を掴まれ振り返った拓斗は、一瞬マスターに捕まったかと思って小さな悲鳴を上げた。
 だが、マスターにしては、自分よりも低めのところに目線が……。
「なっ? ……先輩? 何で今頃ここ……に」
 泉は朝にふさわしい明るい笑顔を浮かべた。
「今日は向坂が朝食食べに来るって言うから、一緒しようかと思って店に泊まって待ってたんだよ」
「と、泊まって?」
 とっさに同じベッドで寝る二人を想像して赤面した。
 泉は眉をひそめてそんな拓斗をのぞき込む。
「ちょっと、何考えてんの? 知ってると思ってたけど、マスターはあたしの兄貴だよ?」
「へっ?」
「まさか、ほんとに気づいてなかった?」
「あの。はい、すみません」
 ぶっと吹いて笑い出す。
「らしくって、おっかしい!」
 ひとしきり笑った後、泉は心配そうに眉をひそめた。拓斗の目元にクマを見つけたのだった。
「向坂調子悪いんじゃ……」
「あああっ、違いますっ。大丈夫ですっ」
 天の助けとはこのことである。泉が一緒にいてくれるなら、朝っぱらからマスターも迫っては来ないだろう。いや、自分の考えすぎに違いないが、とにかく安心である。うまいコーヒーと、うまい料理。昨日の恐怖と愚痴を吐き出す相手もできた。期待は大きく膨れ上がる。
「向坂……、もしかして、兄貴のこと怖がってる?」
「えっ? えぇっ? いやっ、そんなことっ」
 図星を指されると、どうしても狼狽して巧く対処できなくなる。冷や汗が一筋、こめかみを伝い降りた。
「向坂ってば、ホントに変わらないね。思ってること顔に丸だし!」
 面白そうに大きな色素の薄い瞳を輝かせ、泉は拓斗の顔を間近で覗き込んだ。そのまま拓斗の視線を真っ向から捕らえると、急に真剣な瞳になって囁いた。
「気をつけてね、うちの兄貴、ホモだから。向坂、狙われてるよ」
「はぁっ??」
 泉は、以前からエキセントリックな感じではあったが、そう言う冗談を言って人をからかうタイプではなかった。
 まさかと思って打ち消していたことを、当人の妹だという人物が肯定している。
 拓斗の心臓はばくばくと早鐘を打つように声高になっていった。
「ホ……ホモ……? って……??」
 狙われているという表現はいったい……。
「泉!」
 中から飛び出してきたマスターが、泉の腕を捕らえた。いつもは穏やかな低い声が、苛立ちのせいで少し甲高くなっている。
「なんて事言うんだ? 言っていいことと、悪いことがあるだろう?」
「あら、本当の事じゃない? 兄貴、いい? 今から宣戦布告するからね。向坂、あたしはあんたが好きなの。あんたが嫌じゃなかったら、お付き合いして欲しいと思ってる。ど?」
「泉っ!」
「せんぱっっ!」
 マスターと二人、声を揃えてしまう。
 いくら休日とはいえ、店の外なのだ。朝なのだ。人通りも多い、駅までのメインストリートなのだ。
 泉の率直さは以前から定評があったが、さすがの拓斗もこれには参った。
「ど? じゃないよっ。いいから二人とも中入りなさい」
 やや頬を赤らめたマスターは、泉と拓斗の背を抱えるようにして店の中に押し込んだ。
 拓斗の肩を抱くマスターの腕は、見た目よりも逞しい。細身ではあるが、長身なだけに、一つ一つの造りは大柄なのだ。
「来てくれて嬉しいよ。昨日は君、一寸変だったものね。泉の言うことは気にしないで」
 マスターが小さな声で耳打ちした。
 何気ないふれあいなのに、泉の台詞が頭に張り付いているため何となく意識してしまう。だが、思ったより嫌悪感はなかった。やはり「親しみやすいお兄さん」であることに、変わりはない。
 店に踏み込んだ途端、煎れたてのコーヒーの芳醇な香りが拓斗を迎えて、それだけで来て良かったと感じた。
 店の一番日当たりのよいテーブルに三人分のランチョンマットと食器が置かれている。
 絞りたてのオレンジジュースに、完熟トマトを添えたグリーンサラダ。ボイルされたジャーマンソーセージとカリカリに焼いたベーコン。ブルーベリー入りのパンケーキと自家製のブリオシュ。
 泉は、勝手知ったるという調子でカップを三つ出し、拓斗の分のコーヒーを注ぎ分けた。
 次にフライパンを取り出し、火にかける。
「向坂は、卵、どういう風にする?」
 泉が卵を片手でお手玉しながら尋ねた。その側で、マスターが食パンを分厚く切り分け、拓斗の大好きな厚切りトーストを作ろうとしている。
「あ、目玉……。出来たら二つで……」
「OK、兄貴はスクランブルだったね」
 たった一人、客として席に着いた拓斗は、泉とマスターを交互に見つめた。
 何故、今まで気づかなかったんだろう。マスターを初めて見たとき既視感があったのは、この先輩の面影が重なったからだったのだ。しかも店で何度も会っているのに。二人を並べて見ようとしたことがないと、初めて気づいた。
(いつもカウンターに座っちゃうから、マスターの方しか目に入らないのかな)
 客席から客席へと飛び回る泉とは話す機会もあまりない。
 拓斗の前に初めて立ったときの泉は、女にしておくのはもったいないほど裁けた先輩に見えた。色気よりもさわやかさが似合う、友達のような親しみやすさ。
 多分造りからいうと、それなりの格好をすればかなりな美少女として学校のマドンナ扱いされてもおかしくはなかったのだ。
 ひそかに憧れる男達は結構いた。拓斗もご多分に漏れなかった口である。どう考えても自分たちの手に負える女(ひと)ではないが、どんな男が彼女を女っぽく変身させるのだろうかと、仲間内で想像を巡らしたこともある。
「そっくり……だな……」
 無意識に口をついた台詞に、二人の手が一瞬止まった。
「なにが?」
 二人の声が高低入り混ぜてハモる。 
「やっぱり、兄妹だなって思って……。男と女の差はあっても、そっくりですよ。二人……」
 二人は顔を見合わせた。
「あ、いまさらですね。俺、間抜けだから、言われるまで気づかなかったけど。ほんと、すぐ分からなきゃおかしいのに……」
 あまりにも沈黙が長かったので、拓斗は居心地の悪さを感じながら言ってみた。
「いや別に。ただ、お互いは見慣れてるせいか、そんなに似てると意識したことないのでね……」
 取り繕うように笑顔を浮かべたマスターの説明は、泉の虚ろな表情が否定していたけれど、立ち入ったことのような気がして、そのまま受け流した。
 旨いはずの朝食が、悲しいくらいに味を感じさせない。
 泉の急な告白やら、マスターの事やら、昨日の事件も含めて気を取られてしまうことが山積み状態の拓斗の頭は、味覚を認識する回路が遮断されてしまったかのようである。
「……、おいしくない?」
 心配そうな泉の声に、拓斗は目玉との格闘を止め、泉の綺麗な顔に視線を移した。色の薄い茶色の瞳が、窓から射す光で金色に輝く。
「おいしいです……。どして?」
「よかった!」
 泉が両手をぱしっと合わせて微笑んだ。心からそう言っているのが分かる。拓斗は泉の笑顔に見とれたまま考えた。
 どうしてこんなに綺麗な人が、自分なんかに交際を申し込んだりするんだろう。自分のどこにそんな魅力があるというのだ?
 それとも、亜紀美のように、しばらくつきあったらサヨナラされてしまうのだろうか。
「先輩……」
「泉って呼んで。何か先輩って言葉、年上を意識させられて嫌だな」
「ごめん……でも、その……」
 拓斗のしどろもどろの態度に、泉は急に不安そうな顔を見せた。
「あたしのこと……、嫌い? さっきのこと、迷惑なら、はっきり言って欲しい。あたし、本気だから……、向坂も本気で答えて」
 泉のりんとした率直な声は、二年前の大会の時を思い出させた。
 拓斗が、一年生にも関わらず選手に抜擢されたことで萎縮し、出番を前に冷や汗をかいていたとき。ポンと肩を叩かれ、振り返った目前に泉の笑顔があった。
「向坂は、向坂らしくやればいいから。それで十分だよ。何にも考えずに走っておいで」
 軽く押された背中の感触がよみがえる。
「俺……、せんぱ……いえ、泉……さんのこと、好きです。だけど……」
 一瞬嬉しそうに顔を輝かせた泉の表情が曇った。マスターと泉、二人の金色の瞳が拓斗に集中している。
「つきあうとか、そういうの。俺には自信ないです。俺、ふられたばっかだし。先……泉さんだって、俺のことすぐに嫌になるかもしれない……」
 マスターが、拓斗の頭をおもむろにグシャグシャッとやった。
「後ろ向きな考えは良くないぞ。だけど、そんなにすぐ答えられるわけもないよな。拓斗君には寝耳に水だったんだから。泉、少し待ってやりなよ」
「分かってるわよ。向坂、嫌じゃなかったら、友達から! OKなら握手して」
 マスターをほんの少し横目でにらみつけてから、泉は色白の細い腕をしなやかな動きで差し出した。にっこりと微笑みかける。
 拓斗は泉の本気をほんの少し疑っていた。あまりにもあっけらかんとしている。その態度が、拓斗に気後れさせていた。からかわれているだけかもしれないと思えて。
 だが、泉の腕がかすかに震えているのに気づいた。
 もしかしたら精一杯平気に見せているだけかもしれない。
 瞳に失望の色を露にして引っ込められかけた泉の手を、拓斗はあわてて捕まえた。
「あのっ、とりあえず友達なら……。大歓迎ですっ」
 泉はパアッと顔を輝かせた。
 そんな返事は、本当なら分不相応な贅沢なもの。部の仲間に言っても、すぐには信じてもらえないだろう。
 桂川泉……。卒業後も試合の時などによく顔を出してくれていた。女子大生ってものになっても、相変わらずのあっさりした雰囲気。
 それでも、うっすらと化粧を施した唇に、私服姿に、大人へのステップをいち早く上り始めたことを匂わせた泉は色っぽかった。
 しかしこの日、拓斗が出会った泉はいつもより少年ぽく押しが強かった。それが拓斗を戸惑わせたのだ。
 マスターに向かって宣戦布告という言葉を使っていたっけ……。
 ふとマスターの方を見ると、かっちり視線が合ってしまった。瞬間刺すような痛みを頭に感じた。
 何故だろう。瞳の色のせいではない。泉の瞳と同じ色にも関わらず、この兄の瞳には拓斗の中の何かを鷲掴みにするような妙な力を感じる。
 マスターは拓斗が固まってしまったのに気づくと瞳を和ませて拓斗を解放した。
「僕も、仲間に入れてもらおうかな」
 マスターの唐突な言葉に泉の表情が変わった。そんな泉をちらっと横目で見て、ふっと笑う。
「友達なんだから、いいじゃないか。拓斗君、僕には龍樹って名前があるんだ。名前で呼んでくれよ」
「は……あ……」
 そうは言われても、はいそうですかと呼び方を変えられるほど拓斗は器用ではない。
 しかし、マスターの綺麗な顔でにっこり微笑まれたりすると否も応もないのだった。
「……向坂は、志望校どこにしたの?」
 泉の唐突な質問は明らかに兄への牽制だった。拓斗にして見れば、助かったというのが本音である。
 マス……龍樹さんは、いい人だと思う。
 けれど、自分の中でやばい世界と認識しているところへ誘い込みそうなあの妖しい微笑みは、拓斗にとって危険きわまりないものだった。
 だから、拓斗は泉の話に飛びついた。
「早光大が第一志望です。あそこの医学部に……。浪人覚悟ですけどね」
「医者になるの?」
「はあ、出来れば……なりたいと思ってます」
 金色の目同士が目配せしあった。こう言うときのタイミングは、良く気の合う兄妹である。
「早光大の医学部じゃ、兄貴の後輩になるのね」
 泉の一言で、拓斗は目を見張った。
「え……? マス……龍樹さん、医学部だったの?」
 ほんの少しだけ恨みがましい視線を泉にくれてから、龍樹は言った。
「うん……まあ。だけど、中退しちゃったから……」
「留学して、あっちでスキップしまくって免許取ったのよ。こっちでも国試は通ってるから、医師免許は持ってるの」
「泉! ……免許持ってたって、だめなんだよ」
 苦い笑いを浮かべながら、龍樹が言う。
「何で、喫茶店なの? 医者の仕事、嫌いなの?」
 拓斗は信じられない面もちで龍樹を見つめた。早光大の医学部というのは、私学の中ではエリート中のエリート医学部である。私学にしては安価な授業料のせいか、まず国公立以外で何校も受かった者なら大抵は早光大を選択する。
 そういうところを蹴って留学したあげく飛び級で若いうちに医者になり、こっちの国試も受かってすんなり免許を手にしておきながら、その職業に就かないなんて。
 拓斗にして見ればもったいなく、また理不尽な選択にしか見えない。
 龍樹は言われ馴れている台詞がやはり拓斗の口からも発せられたのに苦笑した。
「……むいてないと思ってね。人を治す事なんて、僕には出来ない……。今のこの仕事の方が好きだな」
「でもっ」
 龍樹はやんわりため息混じりの微笑みを浮かべ、ゆっくりと言った。
「費やした歳月は無駄じゃなかったよ。結果医者にならなかったとしても、僕の中にはその積み重ねが残ってるからね。勉強はマジメにやったんだ。実家が病院だったから、親の跡を継いでやろうとか考えていたんだけど。……五年かけて、僕には向いてないって分かったから正業にしなかった。それだけだ」
 そんなことがあるんだろうか?
 もし、自分なら……。
 多分、向いてないという思いがあっても医者としての道を歩むだろうと思う。それだけの思い切りが自分に出来るとは思えなかった。医者になるためのその年月は振り切るには長すぎる。
「マ……龍樹さんて、すごいな……。そんな風に思い切れるなんて」
 感嘆を声にのせ、拓斗は呟いた。
 龍樹は拓斗が尊敬のまなざしを強めるほどに苦痛を綯い交ぜにした笑みを深め、淡々と語った。
「……すごく親不孝で我が儘なんだ、僕ってやつは……。僕にとって早光大医学部はただのハードルに過ぎなかった。そういう理由で進学した人間の末路だよ。あそこは本当に医者になりたい奴が行くべきなんだ。僕みたいに何の目的もなく親の敷いたレール通りに進んだだけってのはだめだ。留学だって同じ事だ。拓斗君は何故、医者になりたい?」
 不意の質問に、拓斗は言葉に詰まった。
「何故……って……」
 沈黙が拓斗の次の言葉を促す。
「……笑わない?」
 泉と龍樹がゆっくりと頷いた。
「俺、小学校の時に二年留年してるんです。小さい頃、腎臓悪くて。毎週透析とかして、病院とはもう、大の仲良しで……。汗かけないから運動もしちゃだめとか、とにかく制約多くて一寸辛かったんだけど。そこの医師(せんせい)が、俺に腎臓一つくれたんです。不思議だけど、親とも型が合わなかったのに全く他人の医師(せんせい)が俺と適合したんですよ。俺に、思いっきり走れるようにって腎臓をくれた医師(せんせい)を、一生忘れちゃいけない。俺みたいな病気の人たちを一人でも多く治す手助けが出来たらって思って……」
「医者がドナーを……ね。そんなことあるんだ……。そういう人に出会えて、拓斗君は運がいい」
「うん。俺もそう思います。ホント言うと自信ないんだけど目的のために頑張ろうと思って、……一応国公立の医学部もマークしてあるんです。俺んち、あんまり高い授業料は払えそうもないから……」
 泉の視線が真っ直ぐ自分に注がれているのを意識して、拓斗の頬には火が点いていた。
「向坂って、あたしと同い年だったんだ……。それに思ってたよりずっと……」
「え……?」
 泉の形の良い唇が軽くすぼめられた。透明な高めのアルトの声が、優しく響く。
「クールな奴! 年上とか遠慮しないで、もっと早く唾付けとけば良かったなぁ」
 そんな風に言われるとは思っていなかった。こういう話は、受験に勝ってからしたいものだ。
「そういうの、俺が受かってから言って下さい。俺、舞い上がって勉強できなくなりそうです」
「僕がみてやろうか? 理数系ならまだいけると思う」
 申し出は、大変ありがたかったのだが……。
 龍樹の甘い話し方は、泉のさっぱりした話し方よりどぎまぎさせられる。あの、男にしては綺麗すぎる顔を更に甘くして言われた日には、素直に「お願いします」と言えない拓斗だった。
 言葉に詰まる。
「あたし、英語なら文法自信ある。兄貴からは会話習うといいよ。ここで一緒にみてあげる。良かったら……だけど」
 泉の視線は、「それなら安心でしょ?」と、語っていた。
 泉が天使に見える。
「……お願いします」
 朝食の味が少し蘇ってきたような気がする。
「ホントに何から何まで、俺、どう感謝していいか……」
「そういうの、それこそ受かってから言って」
 泉が軽くウインクした。
「あたし達は動機不純なんだから……。向坂は気にしなくていいのよ」
 泉はからからと笑いながら立ち上がった。
「さあて、お腹も一杯になったし、あたしは帰ろうかな」
「あ……、俺も。ごちそうさまです」
 拓斗はもちろん後かたずけを手伝うつもりだった。メニューに無い食事だけに、それくらいしか返す手段がない。
 使った皿を合わせ、持ち上げようとしたところ、龍樹が穏やかにそれを制した。
「いいんだ、かたずけは僕がやるから……」
「でも、それじゃぁ……」
 申し訳ないではないか。
「君は、僕が招待した客なんだから。いいんだよ。……勉強しに来たときは、やってもらうから」
「気にしない、気にしない。それより向坂、今日はこの後予定ある?」
「ありません……けど……」
 受験勉強は、有って無い予定みたいなものだ。
「じゃ、今日は遊びに行こう!」
 泉は拓斗の手を取り、ぐいっと引っ張った。
「泉? 拓斗君は!」
「分かってるわよ。日曜にこうして出て来てるんだもん、気分転換して、明日から頑張ればいいじゃない? 兄貴はお仕事、してらっしゃいな」
 泉は、龍樹に冷たい流し目をくれた。何となく、亜紀美を思い出す。
 龍樹はしょうがないなと苦笑を浮かべながら肩をすくめている。
「あの……」
「向坂は、どこ行きたい? 映画? カラオケ? 温水プールや遊園地……。ゲーセン……。ね、どこにする?」
 泉のはしゃぎ方は、拓斗の目にはいささか不自然に映った。
「あの、泉……さん。俺、今日は、図書館へ行こうかと思います。昨日も勉強進まなかったし……。気分転換ならその後にしようかなと……」
 拓斗の言葉に泉は一瞬表情を失ったが、軽く頷き、改めて拓斗の手を引っ張った。
「分かった。あたしも行く。勉強しよう! で、テキストとかは今持ってるの?」
「あ、いえ。取りに行ってきます。ここで待ってて下さい」
 拓斗が言い終わらないうちに、ドアベルが鳴った。
「すみません、まだ準備中な……!」
 言いながら振り返った龍樹が固まった。
 そこには、ぴしっとした三つ揃いのスーツを着込んだ長身の男が立っていた。
 胸板が厚くてスーツが似合う、がたいの良い男だ。龍樹より頭半分背が高い。
 漆黒の髪をきっちりオールバックに整え、端整な顔立ちではあるが切れ長の瞳は眼光鋭く、形の良い眉が驚きのために大きく持ち上げられている。
「これはこれは……」
 地を這うように低い声が、ゆっくりと男の口から漏れた。
 重苦しい沈黙が店内に広がってしまった。泉は拓斗の横で小刻みに震えている。
「向坂、あたしも一緒に行く。ここからすぐ……出たいの」
 声を震わせて囁き、泉は拓斗の腕にしがみついた。顔色は真っ青で、今にも倒れてしまいそうである。
 龍樹が男と泉の間に立ちはだかり、拓斗の方に目線を送った。その目が、泉を連れて早く出て行け、と言っているように思えた。
 泉の肩を抱き、拓斗は扉に向かった。
 男の横を通り過ぎる時、男の視線が一瞬拓斗を貫いたが、無事に外へ出ることが出来た。
 背後で龍樹の声が聞こえた。なんと言ったのかは聞き取れなかったが、それは今までに聴いたことがないほど冷たく響いていた。
「……大丈夫ですか?」
 泉は依然気分が悪そうである。
「ごめ……、だめみたい。気持ち……悪い……」
 額に玉のような脂汗をいくつも浮かべ、泉は、それでも微笑もうとしたが、失敗していた。
「俺んち、すぐそこですから来て下さい。家で吐いちまえばいいですよ」
「ん……ごめん……。ごめんね」
 泉は強い人だと思っていた。それが今は拓斗に身を預けている。か弱く儚げな泉は、いつもと全く違う魅力を持っていた。肩を抱く手に力が入ってしまう。
 ふらつく泉を半ば抱えるようにして、拓斗は歩を早めた。