冷たい媚薬第二回
 
 
夜の闇は私を包み隠す。
私にとって、夜は暖かく、母のような存在。
それも、とびきり優しく甘い。
足音。
アスファルトを蹴る音は甲高く、ハイヒールのようだ。
あの女がハイヒールとは珍しい。
女を確認する。
あの女。
私は手の中の剃刀を握りしめる。
闇から抜け出た私は女の口を押さえ頸部に剃刀を一閃させる。
手早い仕事は、より美しい描線を描き出すのだ。
ぱっくり開いた切り口は、私を歓迎しているかのように笑いかける。
ひとしきり噴出した後、伝い落ちていく力を失った赤い滴の鈍い輝きが、とても美しい。
それを指ですくい取り、味わう。
私の中で、幸福感が膨れ上がっていく。
……気持ちいい。
 
 
「一寸、唐突だったかな……」
 拓斗が飛び出していったドアで揺れるベルを和んだ瞳で眺めながら龍樹は呟いた。
「だめだよ、純真な青少年からかっちゃ……」
 背後の非難を含んだ声に、視線を鋭くして振り返る。
 私室への出入り口に寄り掛かるようにして佇む女が、金色がかった瞳をいたずらっぽく輝かせて龍樹に微笑みかけた。
「何だ、泉、今頃……。いつから見てた?」
 拓斗が先輩と呼んでいたのは妹である。
 泉は龍樹に顔立ちが似ていて、もっと線の柔らかい雰囲気を持つ。やはり金色がかった褐色の髪を耳元までのパンキィに仕上げたショートボブにしていて、化粧っ気のない素肌がみずみずしい。少年ぽい容貌が、その立ち居振る舞いで強調されている。そのせいか男女の違いがあるはずなのに、余計に似ているのだ。
 どの客も、一目見れば「兄妹か?」と聞いてくるのだが、拓斗は気づいていないのか尋ねてこないし、態度も変わらない。相変わらず兄の方はマスターと呼び、妹の方を先輩と呼ぶ。紹介し損ねてそのままになっているのだ。
 泉が無造作に龍樹の後れ毛を摘んで引っ張った。つんと痛みが走る。
「失恋の痛手を吐き出してる少年にキスしようとしたとこから。……ああいうまじめな男にそういういたずらは、かわいそうだよ」
 泉の手をはずしながら龍樹は呟いた。
「いたずらじゃ……ないよ」
「じゃあ、向坂が怖がって当たり前だわ」
「怖がる? 僕を?」
「怖がってたじゃない? 向坂はねぇ、本当に純情な男なの。男に粉かけられて軽く受け流すなんて、とってもじゃないけど無理よ。かわいそうに、ただでさえ急に女にふられて何がいけなかったんだろって悩んでるとこに、こんな変態から迫られたら悩み倍増じゃない?」
 『変態』というところに力が入っている。龍樹は片眉を上げて、妹を見つめた。
「妹に変態呼ばわりされるなんてな……」
「……兄貴みたいのを変態って言わないで、他にどんな変態がいるっていうのよ、ねぇ?」
 泉の意地悪い口調には理由がある。蒸し返したくはないのだが。
「……お前、まだ僕を許す気なかったんだな」
 泉の表情が強ばった。
「何を許すって言うの? あたしの彼と寝たこと? 許すも何も、あんな男に引っかかったあたしがバカだっただけよ。兄貴とあいつを天秤に掛ける気もない」
「泉……」
 泉の頬に伝い落ちる涙は、龍樹の胸を締め付けた。そう言いきれるようになるまでに要した月日を知っているから。
 少年のような細身の身体をゆっくりと抱きしめる。身長からいっても、痩せすぎている。そう、以前よりもずっと痩せている。
 龍樹は泉の痛手をその身体に感じ、抱きしめる腕に力を込めた。
「泉……ごめん、バカな兄でごめんよ……。僕はお前の言うとおり変態だよ……。だけど、どうしようもないんだ。僕……、僕が惹かれるのは……」
「だめよ」
 泉の断固とした声が龍樹を固まらせた。龍樹の胸に顔を埋めたまま泉は言う。
「向坂はだめ。あれはあたしが先に目を付けてたんだから……。あの子は、あたしのオアシスなの。穣(ゆたか)のせいで、男性不信になってたあたしに、こういう奴も居るんだなって思わせてくれたんだから……」
 拓斗の邪気のない微笑みが脳裏に浮かび、龍樹は口元を歪ませて笑った。
 ああ、そうだな……。泉のいうことも分かる。
 それにしても。
 あの亜紀美という少女。拓斗を惜しげもなく振ってくれて……。こんなにも欲しがっている龍樹には振り向いてもくれないのに、あの落ち込み方は見ていても痛々しかった。あの少女は人を見る目がないというか。
「あんなにいい子を振るなんて、もったいないよな」
「向坂の相手、知ってるの?」
「うん、何度かここに来てた。サボってばかりいるから会い損ねるのさ。ま、あの娘に拓斗君は出来過ぎだから、壊れたこと事態は別に構わないけど。あんな風に落ち込まれると……ね。君がそんな風に思ってやる価値はないよって言いたくなってさ」
「兄貴、それって焼き餅?」
「何とでも言ってくれ。だけど、ホントにいい子じゃなかったんだ。今日だって、拓斗君を振ったその足で店に来て、僕に粉かけてきてね」
「それはそれは……。要するに、向坂は、兄貴のせいで振られたわけだ」
「やめろよ、そういうの」
 ムッとした口調に、泉はフンと鼻で笑った。
「兄貴が向坂を虐めるわけないもんね。そういう子なら、兄貴に会わなくたって、向坂は直ぐ振られるわよ」
 泉の瞳が真剣な光に燃えていた。拓斗がそんな女に引っかかったことを龍樹と同じように腹立たしく思っているらしい。
 そう、いつだって本当に欲しいものは、その価値を知らない者が所有しているものだ。
「拓斗君に……言うつもり?」
「言わないわよ。そのかわり、明日向坂が朝食食べに来たら、あたしも同席させてもらおっと」
「……、泊まっていくつもりか?」
「こんな遅い時間に可愛い妹を追い出す気? 今、通り魔殺人とかよく起こってるのに。第一もう家の方はバスはないし、タクシーは嫌いなのよ。昔、変な所連れてかれそうになって。明日は日曜なんだもん、いいでしょう?」
「送ってくから……」
「い・や! 兄貴の車は嫌い! タクシーも嫌なの!」
 龍樹は軽くため息をつき、泉の肩を抱いた。寝室へ誘う。
「ベッドは、お前に渡す。シーツでも何でも勝手に出して使え。僕はソファで寝るから。店かたづけたら行くから、お前は先に風呂に入るなりしてなさい」
「うん……。! 兄貴!」
「ん?」
「大好きだよ」
「ああ」
 泉とは仲のいい兄妹だった。龍樹にとって、大切な妹。たまたま好きになったのが男で、しかも寝た後で妹の彼氏だったことが判明した。よくいる両刀使いって奴だったのか、どうやら、兄妹そろって同じ奴にバージンを捧げてしまったことになる。
 六年前のことだ。
 泉には、その男・長谷部穣の部屋のベッドで、絡み合っているところを見られてしまった。
 龍樹が家を出たのはそれからすぐである。
 事件以来、泉は龍樹の顔を見る度に吐いたのだ。とても同じ屋根の下では暮らせなかった。五つ年下の妹の激しい一面を目の当たりにし、逃げ場のない我が家に帰るのが辛かったのだ。それに、受験をクリアした安堵感からか、色恋沙汰に浮かれている級友を見るのさえ辛い。
 ほとんど登校はせず、友人の家、ホテルなどを転々として暮らした。
 それから、逃げでしかない留学のチャンスに飛びついた。新横浜で総合病院を経営する父親の、医学部時代の友人の誘いが以前からあったのだが、意を決したのは明らかに逃避が理由だったように思う。
 行きはよいよい帰りは怖い。そんな小難しいアメリカの大学で、煩わしいことは一切考えずに勉強しようと思った。誰も自分のことを知らないところで暮らしたいとも思った。
 勝手に大学を中退してしまったのだが、その意向を父に語ると、父は喜んで口をきいてくれた。親バカというやつだろうか。
 リンカーン記念堂の近くの総合病院で外科部長をしていた父の友人は、龍樹が暮らしに慣れるまで何かと面倒を見てくれた。
 最初の三ヶ月は彼の家にホームステイをして学んだが、後にアパートを借りた。留学の理由が理由なだけに、仕送りに頼るのも気がひけ、アルバイトも幾つかこなした。そうして忙しく過ごし、見るもの触れるもの、全てが目新しく感じる生活は、龍樹を救ってくれたのだった。
 編入した大学は飛び級制度を採用していたので、学べば学ぶほどに進むことが出来、それが励みとなったのだ。
 実際、この大学には十二才で物理学の博士号を取った者もいる。
 称号が目的ではなかったが、次々と吸収するべき知識に出会うのは楽しかった。学ぶことに二年、経験を積むことに三年。
 結果として。
 龍樹は医師免許を取得した。
 アメリカにおける医師免許は州ごとのものと、連邦共通のものがある。もちろん、共通の上級免許を目指した。
 勝ち取ったライセンスは親たちを喜ばせはしたが、龍樹にとっては只の結果でしかない。外科を専門に選び、救急センターで忙しく働きながら、それでもこれが天職であるとはどうしても思えなかった。
 治療行為はどうという事はない。
 だが、患者を診て会話する、そんな基本的なことが苦痛だった。
 毎日のように、直面するヒトの生死。親族との対応。忙しさにかまけているうちに、少しずつ人がヒトとしてしか見えなくなっていった。即物的に目の前に届けられたヒトを診断し、治せる部分は治し、無駄な努力には時間を費やさない。冷静といえば聞こえは良いが、物扱いしているだけのような気がしてきた。
 心のどこかが麻痺してくるのを感じ、このままで良いのだろうかという疑問が頭をもたげて……。
 そんなとき、初めて泉からの手紙を受け取った。
 簡単な葉書だった。
『会いたいな』
 たった一言しか書いていない絵葉書は、それでも龍樹にとっては癒しに満ちたものに見えた。
 夏期休暇の前に辞意を表明し、夏の終わりには矢も楯もたまらず荷物をまとめて帰郷した。
 変わらぬ町並み、家のたたずまい。
 だが、五年ぶりに会った妹は、以前に比べ、かなりボーイッシュに変貌していた。少女らしい花とフリルの似合うタイプだったはずが、スポーツ一筋という、女からラブレターの来そうなタイプに。態度まで男っぽく作っている。つまり、六年前の龍樹にそっくりなのだ。鏡を覗く度、その中に龍樹を見つけ、吐き気を克服したのだろうか。
 傷ついた妹を思うと、龍樹の目頭は熱くなる。
 それなのに。
 また同じ事が起きるのだろうか。
「妹と男の奪い合いなんてな……。笑い話にもならない……」
 初めて拓斗が店に現れたときから、龍樹の生活は変わってしまった。
 日焼けした健康そうな素肌。手ぐしでも整ってしまうほどサラサラの髪。ほんの少し気弱そうでいて直情的な黒目がちの瞳。すっと通った鼻筋や、掌に収めたらしっくり填りそうなまろやかな卵形の輪郭。口元はほんの少し口角が上がっているせいで、いつでも優しげな微笑みを浮かべているように見える。ほんのり赤みを残した唇は上下の厚さも程良いバランスでもって、無意識の誘惑を仕掛けているとしか思えない。えくぼが左頬にだけ現れる屈託のない笑顔。笑うと目に付く大きな白い前歯。敏捷そうな細くしなやかな肢体。素直な親しみやすい性格。生真面目で誠実な人柄……。
 拓斗は魅力的だった。
 その真っ直ぐさが龍樹を強く惹きつけたのだ。
 ややもすると、拓斗が現れるのを心待ちにしている自分を見つける。
 拓斗がストレートなのはすぐ分かったのに。見つめるだけと自分に言い聞かせ、気取られないように拓斗に接して。
 他の男達とは一切遊ぶのを止めた。拓斗でなければ意味がない。
 禁欲的な生活が、龍樹には快感になりつつあった。
 いつか拓斗をその腕で抱き締める。
 一生叶わない夢かもしれない。それでも、その夢を思うだけで、全身が幸福感で満たされるのを感じる。
 そんな折り、拓斗の無防備さを前にして龍樹の中のどこかが切れた。
 拓斗が欲しいと思う。
 泉を傷つけたくはないが、譲れるかどうかは自信がなかった。簡単に譲れるようなら苦労はしない。
 年甲斐もなく盲目的な熱情を抑えきれない自分がいる。まるで十代の頃のような。物わかり良さそうな大人の顔をして、そのすぐ裏側に拓斗を欲してやまない獣が隠れている。
 解き放たれるのを夢見る獣が……。
「いつか、僕の方を見てくれよな」
 龍樹は、拓斗の使ったカップにそっと口づけ、洗い桶に放り込んだ。