ゆっくりと伝い落ちる赤い滴。
青白い象牙色の肌に描かれるフレキシブルな赤い描線。
私の大好きなもの。
血。
口に含むと、甘く、そして海水のような味が広がる。
ほら、考えると口の中が唾液でいっぱいになる。
また欲しくなる。
夜はこれからだ。
拓斗はFM局のスイッチをCDに切り替えた。
チューニング時の耳障りなノイズはすっぱりと消え、突然静けさを取り返した部屋は妙に肌寒く感じられる。
しかし、CDケースから今聴きたい曲を探し出すのも骨折りな気がして、側のベッドにゴロンと横になった。
腕を枕にして天井のレリーフ風の唐草模様を目線でたどりながら口をついて無意識に出る言葉は、
「クリスマスなんて、クソ喰らえだ!」
……だった。
ラジオから流れる曲が聞き飽きたクリスマス向けのもの一色になるのは結構早い。
クリスマスが近づくにつれ周りの空気が浮ついていくのを、受験生である拓斗は眩暈を感じながら毎日見続けていた。
学校や予備校の行き帰りに通り過ぎる商店街などでも、FM局と似たような選曲でもってあおり続けるから参る。
プレゼントを買おう。
ごちそうを食べよう。
大切な人と過ごそう。
特別な日にしよう。
……クリスマス気分という奴。
「俺には関係ないよな……」
拓斗の声は、部屋に虚しい響きを与えた。
向坂拓斗、高三。
射手座のO型。
両親と十歳離れた妹の四人家族だった。今は、その同じ家で一人暮らしをしている。
父親の海外出張で、向坂家は受験を控える拓斗を残して引っ越してしまったのだ。
「どーせ、受験生だもんな……」
ストレートパーマをかけたように真っ直ぐな髪を軽く掻き上げてつぶやいた。耳が隠れるほどに伸びた髪。意識したわけではないが、亜紀美の好きなアイドルに何となく似てしまったヘアスタイル。
そろそろ床屋へ行く時期だろうかと、ふと思った。
「今日失恋したばかりだし……」
何を世をすねているかといえば、そういうわけだ。
『受験も本番近いし、やっぱり別れた方がいいと思うの……』
肩下で揃えたサラサラの髪を揺らしながら申し訳なさそうに言う亜紀美の瞳には、拓斗への想いなんてかけらも映していなかった。
『ごめんね、拓斗の走る姿、大好きだったわ』
あっさりとした言い方。簡単な別れ。
二年の春休みに彼女から連絡してきて、交際が始まった。
軽い気持ちでつき合い始めたのだが、それなりに楽しかったから、突然の亜紀美の破談宣言には拓斗も驚いた。
納得のいく理由ではなかったのだ。受験の天王山である夏休みを普通に過ごしておきながら、今更、交際が受験のじゃまになるなんて。事実、拓斗にしろ亜紀美にしろ、席次は上がりこそすれ下がってはいないのだ。受験生カップルらしく、図書館などをデートの場にも選んだりして、結構周りにも気を使っていたつもりだ。
「……どーせ、俺なんか、陸上部を辞めれば他に何の取り柄もなくなっちまうよな」
後ろ向きな気分になっても、誰も責められないと思う。
好きと言いながら瞳を潤ませていた亜紀美の顔が思い浮かぶ。入学したときから見つめていた、拓斗しか目に入らなかったと、告白された。
亜紀美は、見た目も結構可愛い部類だし、そんな風に言ってもらえるのはこそばゆいが嬉しかった。
それが何故?
何か、嫌われるようなことをしただろうか?
過去のあれこれを頭の中で検索してみたが、どうも思い当たらない。
ついこの間まで、クリスマスをどう過ごすか計画を立てていたところだった。
拓斗の誕生日がクリスマスの少し前にやってくる。誕生日も一人なのだと思い当たり、深々とため息をついた。
初めて彼女と二人の「クリスマス&誕生日」というものを過ごせると、心密かに楽しみにしていたのだから。
それでも、納得のいく説明を亜紀美に要求することは出来なかった。
亜紀美の表情から、追っても無駄ということだけは読みとれたから。
理由は拓斗への想いがもうないということだけ。話し合って修復が出来るような状態ではない。
「つまんねーっ。最低のクリスマスになりそう」
気になるのは半年で亜紀美を変えたファクターだ。
自分のどこが悪かったのだろう?
どうもその辺から思考が動いてくれないので、拓斗はすっぱり勉強するのをあきらめ、立ち上がった。
「コーヒー、飲みに行こ」
誰に断るわけでもないのに呟くと、ブルゾンをひっかけた。
行く先は決まっている。駅前通りの『El Loco』と言う茶店である。
6月に開店した店だが、そこのマスターの入れるコーヒーは絶品で料理も美味いため、結構繁盛しているようだ。
拓斗も、ことあるごとについ『El Loco』に寄ってしまう。
だいたい、一人暮らしをして何が困るって、毎日の食事なのだ。自分で作るほどマメじゃない拓斗は、どこか外で食事を調達するしかなかった。
コンビニの弁当というのは確かに悪くはないが、油のしみこんだレタスや一緒に温まってしまう冷たいままで食べたい付け合わせのサラダを口にする度、一人の侘びしさを感じてしまう。『El Loco』は、そんな拓斗を満足させる食事を提供してくれていた。
さすがに毎日毎食というわけにはいかないので、コンビニに飽きると食事を注文する事にしていた。それ以外では、おいしいコーヒーを食後に飲むことで心を慰めるのに通っていたのだ。
「いらっしゃい。今日は元気ないね」
店に足を踏み入れたとたん、落ち着いた穏やかな声音が拓斗に呼びかけた。
時間が遅いせいか、がらんとした店内に客は一人もいない。BGMも切られている。そこで初めて腕時計を見て、オーダーストップを過ぎていたのを知った。
「ごめんマスター、もうお終いだよね」
「ああ、いや、構わないよ」
『El Loco』は、店の名のように、店内も何となくスペイン風の家具や調度が多用されている。その中にとけ込むようにたたずむマスターは、柔らかなウエーブを持つ褐色の髪を揺らし、金色がかった色素の薄い瞳を和ませて、拓斗に微笑みかけた。
歳は二四、五くらいだろうか。一九〇センチはある長身にもかかわらず、ギリシャ彫刻のように整った女性的とも言える顔形のせいか、その笑顔は華奢で優しげな感じを見る者に与える。拓斗は何故かこの若いマスターには何でも相談できるような親しみを感じるのだった。丁度、兄が出来たような。
「……先輩も帰っちゃったんですね」
陸上部で二つ上の先輩が、ここでウエィトレスをしている。開店当初は違う女の子だったのに、夏休みに入る頃には変わっていた。
女子大生のバイトなので午後3時以降じゃないと現れないが、よく気がつく美人の看板娘という事になっている。拓斗も彼女のファンだが常連なのは彼女が入ってくる前からだから、気づかれていない。
「ああ、今日はサボりだ。困ったことに無断欠勤」
「へえ……、あの人にしちゃ珍しい。時間にうるさかったのに……」
マスターの微笑みに誘われるようにカウンター席のいつもの位置に陣取ると、マスターは黙って拓斗の定番のコーヒー、トアルコトラジャとキリマンジャロの八対二ブレンドを煎れ始める。
「……ふられちゃったんだ……」
カウンターに這わせた腕に半ば突っ伏すように頭をのせ、サイフォンを見つめながら拓斗が呟いた。
拓斗の低くかすれた声音に反応し、マスターは一瞬手を止めたが、ゆらりと移動して戸棚からウエッジウッドのカップを取り出した。
「この間つれてきた……あの子?」
拓斗に背を向けたままマスターは言った。
「うん……受験に専念したいってさ……。ちょっと納得行かないんだ」
コポコポとカップにコーヒーを移す音だけが、拓斗の声に相槌をうった。
やがて差し出されたカップを受け取りながら拓斗は大きなため息をついた。最初の一口で温度を確かめ、後の二口でコーヒーを飲み干す。温度まで拓斗の好みなのには、いつも驚かされる。コトリと置いたカップはまだ暖かく、悴んだままの指先にしみこんで来る熱を楽しんだ。ほんの少しクリスマスソングが遠のいたような気がする。
「受験を理由にされた割には、なーんか、かえって勉強、手に着かなくなっちゃってたんだ。俺、何か嫌なことしたかなぁって気になって……。でも、マスターのコーヒー飲んだら、少し落ち着いたみたい」
「ふーん、拓斗君、……本気だったんだ、彼女のこと……」
「うーん、変な話、最初よりは本気になってた。つきあい始めの時より、あいつのこと分かってきてたし。でも、ホントに分かってた訳じゃないんだな。多分。だって、分かるくらいなら、今こうしていないよね。それに、本気だろーが、冗談だろーが、ふられるのって、いい気分じゃないもん」
「まあ、そうだね。女心ってのは男には一生分からないよ」
「……、マスター、面白がってない?」
「いや、そんなことは……」
瞳に笑いを浮かべてそう言ったマスターは、急に黙って拓斗の顔をのぞき込んだ。カウンター越しにも関わらず、長身のマスターが身を伸ばす様にして乗り出すと、唇を奪われんばかりの近さになってしまう。
光の当たり具合で金色に見える瞳を真剣な色に染め、
「慰めてあげようか?」
と、言った。
「え?」
マスターの顔は、近くで見ても綺麗だったが、拓斗はのけぞって間合いを取った。
頭の中でこれは危険だと信号機が瞬く。何が危険なのか、はっきりとは認識できないのだが、とにかく本能的に避けてしまったというのが実際だった。
マスターは端正な顔を傷ついたというようにほんの少し歪ませ、すぐにいつもの親しげな笑顔にすり替えた。
「何……考えたの?」
「え……? っと、そのぉ」
マスターが怖かった、とは言いにくい。それも、キスされるかも、という意味では……。
「キス……されるかと思った?」
拓斗の空のカップを取り上げながら、笑いを含めた声で言うマスターは、先ほどの妖しさを露ほども感じさせない。
拓斗はホッとしながらも、マスターにからかわれたのかと思うと不快な気分になった。
「思わないよっ」
自分でも何故こんなに腹が立つのか分からなかったが、怒りが露骨に顔に出てしまっているのは分かっていた。よくよく考えて見れば、全部自分の勘違いかもしれないのだ。自意識過剰と、笑われても仕方ない。
マスターに瞬間よろめいてしまった自分に気づき、拓斗は顔を赤らめた。
「ごめん、マスター、今の無し!」
そんな拓斗を横目で見ながらクスッと笑い、マスターは安定した手つきで素早くコーヒーのお代わりを煎れる。
「これは僕のおごり。君の良さ、ホントに分かってくれる人がきっといるから。元気出して」
差し出された二杯目をぐいっとあおって。空になったカップを両手で包み込むように持ち、底を見つめながら拓斗は呟いた。
「ふられ男には、こんな慰めもぐっと来るな……。マスターのコーヒー、おいしいから……」
「嬉しいこと言ってくれるね……」
瞳を和ませ、慈しむように拓斗を見つめるマスターの顔は、拓斗の頬をいわれのない紅潮で染めさせた。
頬の熱さを振り払うように、プルプルと頭を振ると立ち上がった。ポケットから出した小銭を並べる。
はっとしたように、マスターが拓斗の席に視線を合わせた。
「マスター、閉めかけてたのに、ごめんね。コーヒーありがと。お勘定、ここに置くから」
奇妙な重圧が店内に走る。いつでも暖かく迎えてくれるはずのこの店から、今は一刻も早く逃げ出したかった。駆け出したい衝動に駆られるのをかろうじて抑え、ゆっくりと戸口に向かった。
「拓斗君……?」
マスターの声に怪訝さが加わっているのを感じ、拓斗は更に頬の熱が上がるのを自覚していた。
「ごめ……っ、俺、今日、変なんだ。気にしないでくれよっ! おやすみ!」
後から、マスターの穏やかな声音が追いかけてきた。
「拓斗君、君、疲れてるんだよ。栄養バランス、悪いんじゃないか? 良かったら明日の日曜、朝食を食べにおいで。特別に開けておくから……、九時頃にね」
返事は出来なかった。
深くレリーフを施したオーク材の扉を勢いよく閉め、背をもたれさせて息をつく。
本当に、どうかしている。拓斗は胸の動悸を抑えようと、幾度か深呼吸した。
マスターが、怖い。
取り返しのつかないことに填ってしまいそうな気がして。
マスターの男にしては細いが、長く男らしい筋張った指先が自分に絡みつき、奈落に引きずり込みそうな気がして、ただ怖かった。
また、何の確証もないのに、変な考えにとりつかれている自分が怖かった。
拓斗は家に向かって全力で走った。逃げ出せるわけもない自分から逃げたくて。
閉店時間を超してシャッターの閉まった寂しげな商店街、更に駅前を駆け抜け、公園をよこぎる。
公園横の稲荷神社を通ると近道なのだ。
暗がりが続くので常に駆け抜けることにしている。拓斗は更に加速するよう脚に命令した。
走りのリズムも心地よく、恐怖が薄らいできたのを意識した途端、ズシャッと石畳にスライディングする羽目になった。
「ってーっっ」
足を引っかけたもの。柔らかめの異物を確かめようと、打ち身に痛む膝や腕をさすりながら後戻りする。
闇に目が馴れてくるにつれ、その異物が服を着ていると認識できてきた。つまり、人間……。
拓斗はポケットを探った。
目的は『El Loco』のマッチ。一昨日『デザインを新しくしたんだよ』と、マスターがくれたものだった。
煙草を吸わない拓斗には、無用の長物であったが。
「こんな所で役に立つとは思わなかったなぁ……」
探り当てたマッチを点ける。シュッと火薬の焦げるにおいが香った。
風を避けるように仄かな明かりを守りながら異物に目を凝らした。
赤いニットの服、胸元の膨らみ……。暗い赤のネックレス……ではない。
「ひっ?」
じゅっと取り落としたマッチの炎が消えた。
「うっわあああああ!!!」
しりもちを付いて後ずさりながら脳裏から消えない画像を振り払おうと頭を振った。
若い女だった。
ニットの赤と同色の口紅をひいた口元をだらしなく開いて。凍りついた瞳はなにも映してはいない。
血の気のない真っ白な肌。
ネックレスと間違えたのはパックリと喉に開いた別の口だった。
固まりかけた黒い血の中で肉の隆起が鈍く光る。
来た道を戻るしかない。駅前には交番がある。
とにかく誰か…………!
拓斗は警察に知らせるんだという言い訳を自分に与えてその場から逃げ出した。