向坂拓斗の私的な一見解
「お客様ですと、こちらの色の方が……」
店に入った途端に金魚の糞みたいに付いてきて離れない店員が黄色いシャツを差し出しながら言った。自社ブランドで身を固めた三〇代の男だった。
手に取った服は確かに俺向きではない色だった。ついでに言えば、俺には似合わない高い値段。
「俺のじゃないんです。その……大事な人にあげるつもりなんで」
「ああ、プレゼントですか」
得心したと頷きながら、シャツを引っ込めた。慇懃な微笑みは何でだか感じ悪かった。
横浜のランドマークは、どちらかといえば観光地で、生活圏ではない商店街。高級品は扱うけれど、取っつきはあまり良くない店が並んでいると思えるのは俺だけだろうか。
さっき別れてきたばっかりの恋人が、ここで買い物する姿を思い浮かべてみた。彼ならそんな風には感じないかも。実際俺は、彼にプレゼントされた、このブランドの服を何着か愛用していた。
「身長一九〇で、結構胸板の厚い人なんだけど、これより大きいサイズ、ありますか?」
店の前を通りかかったとき、目に留めていた服を指さした。それを着た彼を想像して、すごくセクシーだと思ったスーツ。
店員が探しに行ったのを待っている間。急に可笑しくなって、俺は笑いを漏らした。
まさか、この俺が男をセクシーだと思うなんてね。
俺は向坂拓斗。今年の春から晴れて医大生となった。現役だけど、小学校の時に二年留年してるせいで、もう二十歳過ぎ。ついこの間までストレートの、ただの男だった。
そんな俺がセクシーだなんて思う彼は、桂川龍樹さん。俺の大切な恋人で家族。
惚れられて、ほだされて、愛するようになった。見た目は笑わなければ冷たく見えるほど整ったギリシャ彫刻みたいなくせに、可愛くて、大人と子供が同居したような不思議な人。ついでに言えば、喫茶店のマスターやりながら、時々は外科医としてアルバイトしてる変な人。女なら誰でも夢見る三高で超絶美形だけど、俺なんかに惚れちゃったホモで……。見た目じゃ推し量れないほどスケベだったりする。
スーツに身を包んだスケベな恋人を思い描いていた俺は、店員の足音に慌てて笑いを押し殺し咳払いした。
「……こちらになりますが」
出してきてもらったスーツはまさしく彼に合いそうだった。
合わせた色のシャツを一緒に買って、店を出た。彼から渡されているクレジットカードは使わずに自分の金で。
最近の俺は生活のほとんど全てを彼に頼っている状況だが、プレゼントに関してはどうしてもこだわりたいから。
誕生日とかではないけれど、今日は特別な日だ。
期せずして俺は、彼の母親に『息子さんを下さい』なんて言ってしまって、実質的な結婚宣言をした日なんだ。
成り行きだったんだけど、言った俺も彼も泣けてくるほど感極まってしまって、恥ずかしい話だが、特別な気分でホテルに飛び込んでしまった。とにかくめちゃくちゃに愛し合いたくて。家に帰って普通にするのではとても足りないと思ったから。
インターバルに食事に出て、二人で買い物して。また部屋に戻って……なんて予定でいたのに。
閉店間近になったショッピングアーケードを見渡した。
家路を急ぐ人、これから過ごす店を物色する人、別れがたさにホールにたたずみ見つめ合う恋人たち。
俺だけが取り残された気分を味わいながら、俺と龍樹さんの分の下着の替えを買い込んだ。
彼のはブルー、俺のは白。大きさもワンサイズ違う。
重くなった荷物をぶる下げたまま、俺はふらふらとランドマークのフロアをさまよった。
ホテルの部屋で彼の帰りを待つ時間はなるべく短い方がいい。
この日三時にチェックインした後、部屋に案内してくれたボーイが出ていって、ドアの閉まる音を聞いた途端に言葉はキスと喘ぎにすり替わってしまった。
存分に互いの体をむさぼって、とりあえずは落ち着きを取り戻したとき、腹が鳴って空腹を訴えた。ルームサービスを取ろうという彼を遮って外に食事に出たのに。
店の選び方がまずかった。
ランドマークとつながったクイーンズイーストの入り口にその店はある。値段は安くはないが、アメリカの店と同じようなメニューでハンバーガーを出す店。ホームシックに陥ったアメリカ人とかが寄ったりする。だから、その男との出会いは単なる偶然だが、その店を選んだ時点で出会いの確率が上がったんだった。
食事を終えてそろそろ店を出ようって時に、龍樹さんが急に慌てだして。
「……どしたの?」
聞けば入り口の方を横目で伺うようにしながら無理矢理な笑顔を作った。
「あ、いや。買い物行こう」
そう言っておきながら、席を立とうとした俺を制止した。
「待って、その前に水飲んでから」
グイッと解けかけた氷の浮かぶ美味くもない水をあおった。
「龍樹さんたら……急に変だよ」
その慌てぶりは本当に変で。いつもの彼とは違うって言う新鮮さが笑わせてくれたんだけど。
「タツキ!」
ウエイターが案内してきた客の一人がいきなり声をかけてきたとき、龍樹さんは「最悪だ」という風に眉根を寄せた。強ばった肩を溜息一つでほぐし、悠然と振り返って。
意外だというゼスチャーを大げさに声の主に対してして見せた。
龍樹さんほどハンサムじゃないけど同じ様な背格好で、金髪碧眼。日焼けした肌に真っ白な歯が嬉しそうな笑顔をまぶしいものにしてる。
ラフに着崩した高そうな服。周りの男たちを追い払う仕草からしてトップに立つ奴だって分かる。
「マイオリエンタルドラゴン!」
早口の英語で何か甘く囁きながら人目も気にせず龍樹さんにキスを迫ってきた。
「ス、スティーブ! ちょっと待て!」
龍樹さんは男を押し戻しながら、俺のほうにチラッと目を縋らせた。俺がどう思うか心配だって。
今、名前で呼んだね。親しい人みたいに……!
俺は思わず龍樹さんを睨み付けてた。
「龍樹さん、その人誰?」
俺の恋人を呼び捨てにしてキスを迫るその男に、即座に敵意を持ったから、声音も驚くほど不機嫌に呼びかけた。
ギクリと硬直した龍樹さんは困り果てた様子で俺に奴を紹介した。
「あ、スティーブだよ。スティーブ・ヒクソン。ほら、コルベットの……」
ああ、賭けの相手か。龍樹さんにご執心な奴だってのは想像してたけど、横浜まで追っかけてくるなんてね。
俺は奴を改めて観察した。外人の年なんてわかんないけど、そこそこに若く、逞しくて働き盛り。整った面差しはちょっと荒削りな感じだけど、鼈甲縁の眼鏡がソフトに見せてる。青い瞳は透き通ってて無邪気そうな輝きに満ちていて。しゃくだが俺よりずっと魅力的な男だ。
紹介されて初めて男は俺に一瞥をくれた。ほんとにチラッと。
視線はすぐに龍樹さんに注がれ、甘く輝いた。
「可愛いな。弟?」
じゃねーよ!
俺が何か言う前に、龍樹さんが俺の肩を抱いた。
「スティーブ、彼は拓斗。僕のライフパートナーで……」
今度はスティーブが硬直する番。ギロッと凍てつく視線で睨んできた。龍樹さんの口調があんまり甘くて、俺も呆れたけど。
「ライフ……パートナー?」
(こんな奴が龍樹の?)
奴にしてみれば、意外としか言いようがなかったんだろう。露骨に、俺なんか龍樹さんに似合わないって、目が言っていたから。
俺はまともに睨み返してた。この勝負だけは負けられない。龍樹さんは渡せない。他のこと全部負けても龍樹さんだけは。だって、彼が選んだのは俺だもん。
龍樹さんが愛撫するようにうっとりとした顔で俺を見つめ、甘い口調のまま俺のことを指さして英語で何か言った。マイハニーだのダーリンだのと聞こえて、かなり恥ずかしい。不機嫌になってる新旧の恋人前にして、よくこんな惚気声出せるもんだ。多分、俺がスティーブと戦う気でいること、喜んでるんだろう。
「ふ……うん……。ヨロシク、タクト」
瞬間殺しかねない視線で俺を貫いたかと思うと、親しげに微笑んだ顔で手を差し出してきた。
とりあえず握手。龍樹さんがホッと溜息ついたけど、俺はムカムカしていた。野郎、思いっきりの力で俺の手を握りつぶそうとしたんだ。
契約書で相手を縛る嫌がらせ……こいつならいかにもやりそうだよ。
俺は嫉妬している。態度から言っても過去に恋人の類の関係だったってのは確かで。
今でもまだ龍樹さんに未練たっぷりで。
俺よりも自分のほうが龍樹さんに相応しいって考えている。挑戦的な力を込めた握手で、それをはっきり伝えてきた。
俺は痛みを全部押し隠して、とっておきの笑みを見せてやった。奴には優越感の固まりに見えるようにね。
その瞬間、龍樹さんをスティーブといういけ好かない野郎に貸してやることに決めた。この際龍樹さんの意志は無視。どう考えても、龍樹さんはスティーブが入ってきたとき俺をごまかそうとしてたから。ちょっと意地悪してやりたくなったんだ。浮気亭主の下手なごまかしみたいな態度に腹立って。
「龍樹さん、もう少し話あるでしょ? 俺、買い物一人でも出来るから。先、部屋に帰ってるね」
「た、拓斗っ?」
ホントにびっくりして、立ち去ろうとした俺の腕を取った。放せよと軽く引き留めの腕を払って。
龍樹さんの感じるスポットである耳たぶをきゅっとひねり、かがませて俺の口元に耳を持ってこさせた。息がかかるように囁く。
「あの人、アメリカから来たんだろう? 旅行客には優しくしてあげなきゃ。少しだけ、彼に龍樹さんを貸してあげるんだ。その代わり午前様なんかになったら婚約解消だからね」
情けない困惑の瞳で俺を見下ろした龍樹さんは、すぐにうるうるしはじめた。
俺はお構いなしにスティーブの方に余裕の笑みを送って立ち去った。
むかついてたのもあるけど、龍樹さんは俺のものだという自信があったせいかもしれない。
本当を言うと、店を出た途端に後悔した。龍樹さんが追いかけてこなかったのがショックで。俺の態度に怒ったのかも知れないって思ったり。龍樹さんもまだスティーブのこと気になるのかもとか……。
自分でし向けといて、馬鹿みたいだよなぁ。
こんな、下着まで買って、龍樹さんが戻ってこなかったら、無駄になっちゃう。このきらびやかな通りは一人で歩いていたってちっとも楽しくない。
そんな時、背後から肩をたたかれた。
「君、時間ありますか?」
振り返ればスーツ姿の男が俺を覗き込んでいた。背丈は俺と同じくらい。二十代後半の、がっちりした体格だ。銀縁眼鏡の奥で、誘い目になってるちんまりした瞳が俺を突き通すように見つめてた。
「良かったらお茶でも」
かさつくような高いかすれ声が耳障りだった。
「時間、無いんです」
即座に立ち去ろうとすると、グイッと腕を捕まれ、持ってた荷物がばさばさと足にぶつかった。
「何するんですかっ?」
「さっきから物欲しそうにブラブラしてたじゃないか。時間、あるだろう?」
「男とお茶する時間はないんだよっ」
「嘘つけ。さっき食事……してただろう? あいつに振られて、持て余してんじゃないのか? その腰つきはどう見たって男喰いまくってる尻だ」
後つけられてた?
ニヤリと笑いかける男の顔が不気味に見えた。
「俺のも喰ってみろよ」
グイッと腕を掴まれて、人通りのない物陰に引っ張り込まれた。
誰も来そうもない、どっかの会社の通用口しかない通路。この時間には間違っても人は来ない。
俺は荷物をそっと置いた。
男は無抵抗の俺を、そのままいいように出来ると思ったのだろう。早くも股ぐらを邪魔そうに膨らませていた。
「俺……そんなに物欲しそうに見える?」
「ああ、色っぽい。これが好きなんだろう? 舐めてみろよ」
チーッとチャックをおろして、プリンと出したのは真っ赤に充血したペニス。俺のよりも小さい。
「……こういうの、好きじゃない」
壁にもたれたまま男を見つめた。
勤勉そうに見えるスーツ姿の、股間だけが下品に淫ら。でも、色気も何も感じない。気色悪いだけ。
「じゃあ、つっこまれる方が好きか?」
腰に手を伸ばされて、俺は身を引いた。
「変なもん出してるなよっ。気色悪い!」
俺に向かって伸びてきた腕を逆手にとって投げ飛ばして。
龍樹さんに教えられた、簡単な合気道の技。冗談で教えてくれたやつだけど、内緒で練習しておいたんだ。
立ち上がろうとして出来ない男をじっくり見つめた。
背中と腰をしこたま打ったらしい。痛みに震えてる。さっきまで元気だったそこも、萎えかけてた。俺が、こんなもの欲しいと思うわけ無いじゃないか。
「……むかつくんだよ、あんた」
「はうっ」
変な叫びは俺が奴のペニスを軽く踏みにじったから。感じたのかな?
「俺の、どこが男喰いまくってるって見える?」
「あっふん」
ぐにゃっとした肉の感触は靴底を介しても不快感として感じる。ムカムカしながら先を捻ってやった。
「腰つきで分かるって? どういう腰つきだよ」
「ひいいっ」
ぎゅっと踏んだら、出しちまった。
「あー、堪え性がないなぁ。あいにく、俺、好みうるさくてさ。基本は女の方が好きなんだなぁ。あんたみたいのは勃ちもしないんだ」
靴に付いた奴の精液は背広の裾にこすりつけて拭かせてもらった。奴自身はワイシャツもズボンも飛沫でぐずぐずだったけど、自分のだしいいよな。
「人を口説く時は、もっと誠意を示せよな」
荷物が汚れてないか確かめてから人がこない中にそこを立ち去った。
八つ当たりにしてはちょっとひどかったなと思いながらも、俺のことを娼婦扱いしたのが腹立たしかった。
男喰いまくってる腰つきに見えるなんて、ちょっと落ち込むよ。俺が喰ってるの、龍樹さんばっかりなのに。
「龍樹さんとやりすぎたのかなぁ」
『護身術だけで君の貞操が守れるとは思えない』
すごく真剣な顔して言われたのを思い出した。
俺が脅し半分でもぎ取った護身術を教わる件。喧嘩したあげくだった。
技を一つしか教えてくれないで、俺が習いたがってもすごく渋ったんだけど。これからは、いろいろ教えてもらう予定でいる。
今日の事件は内緒にしておこうと思った。絶対叱られるし、やっぱり教えないって言われそうだもん。
今日の俺。今までなら考えられないようなことをした。
奴に大人しく付いていったこと自体、変。ホンのちょっぴり技を試したい気持ちもあったし、奴なら大丈夫だと思ったわけで。
もし奴が刃物を持ってたり、見ため以上に腕があったりしたら、今頃俺は犯られてたわけで……。
龍樹さんが心配してたのはこうなる可能性。
軽率な行動とそれによるツケ。
「……反省……」
壁に手をやり、どっかの猿の真似。
『しょうがないなぁ……』
頭の中で、ギリシャ彫刻のような恋人がふわりと柔らかく微笑んだ。
そうだ。龍樹さんがとっくに帰ってるかも知れない……。部屋で、俺がどこ行ったか心配してるかも。
俺はホテルの部屋に戻ることにした。
カードキイだから、フロントによる必要はない。宿泊客用のエレベーターを待って乗った。
一緒に乗り合わせたのは中年の男と、二〇代の女。
俺の存在を意識しながら乳繰りあってるのが、はっきり分かる。心の中で舌打ちしながら、早く降りるべきフロアに着かないかなって思ってた。
奴らの降りる階について、ホッとしかけた矢先。
エレベーターの扉が開いた途端、降りかけた二人はぎょっと立ちすくんだ。
正面におばさんが仁王立ちになっていたからだった。
若い女は男の腕にしがみついた。
おばさんの方は、男のことを睨み付け、女の頬を張り飛ばして。
「このっ! 泥棒猫!!」
「やめんか!」
「きゃーっ」
突然の修羅場はエレベーターの扉に挟まれながら始まってしまった。俺の乗ったエレベーターは二人にぶつかる度に扉が開閉し続けて、そのフロアに停まったまま。
「あの、すみません、乗るか降りるか、してもらえますか?」
今時こんなシチュエーション、安手のドラマでもつかわねーよと思いながら、声をかけた。
三人からギロッて睨まれたけど、おばさんが旦那の胸元をつかみ取って引きずりおろした。若い女を腕にぶら下げたまま。
エレベーターは無事に扉を閉めて上昇を開始した。
不倫……なんだよな。きっと。
俺の立場は……どっちに当てはまるんだろ。
俺たちは誰一人不倫て言う表現が当てはまらないけど、浮気って表現でくくってしまえば……成立するかも知れないんだ。
スティーブは傷ついた表情をしていた。
あのおばさんと同じように、悔しい、悲しい、不愉快……そんな様な気持ちの。
龍樹さんを奪われたくない俺は、あの女と同じようにしがみついていなきゃいけなかったかも……。
敵に塩送ってどうするよ?
部屋に入ると、出かける前に付けまくった絨毯の恥ずかしいシミは、見事龍樹さんのまいた薬品のおかげで消えていて、少し湿っていた。
臭いはない。
誰もいないし、殺風景。
ルームメイドが入ってくれたのか、俺たちの愛し合った痕跡は見つけられなかった。
ベッドの冷たさが寂しい。
腕時計に目をやって、二時間近くたってるのを知った。
龍樹さん、スティーブと何してるんだろう。午前様なんて言わずに短く時間区切ってやれば良かった。
スティーブは絶対龍樹さんとより戻そうとするに決まってる。龍樹さんが誘惑に負けたら……。あいつと寝たら。
俺は悔しくて龍樹さんを恨んでしまうだろう。セックスは、必ずしも恋愛とイコールの価値を持つものではない。気持ちと体は別物だって知ってる。
心は誰にでもあげられるもんじゃない。体を動かすのは心だから、やっぱり体だって、誠実でいるべきだ。
俺が強姦されたこと、龍樹さんは許してくれた。でも、その時の悔しさも悲しさも、怒りも、起こる前にはなかったもので、多分俺を抱く度に意識してるはずだ。
龍樹さんの本音は、俺の首を絞めたときの怒りが表してると思う。
きっと俺が責めればそれを引き合いに出してくる。
信用してないって怒るだろう。
でも俺は疑うし、嫉妬する。龍樹さんが他の男と仲良くしてれば不安で押しつぶされそうになる。
なのに馬鹿な意地張って、龍樹さんと離れて。俺ってどうしてこう、鈍くさいのかなぁ。
部屋が明るすぎるとよけいに寂しいので、電気を消した。さっき使ったベッドの方に転がって目をつぶって。二人だけの時間をもっと大切にすれば良かったって考えた。
……浮気なんかしないよな?
「龍樹さん……帰ってこいよ。早く……帰ってこいよ……」
テレビをつけた。誰の声でもいいから人声が欲しくて。
たまたま点いたチャンネルは、連ドラの修羅場の真っ最中。
『どんな言い訳しようと騙されないわよっ! あの女といたんでしょっ』
ヒステリックな女の叫び、困惑した男の溜息。
『千津美……、彼女とはもうなんでもないんだ。とっくに別れて、今は友達だ』
『うそぉっ』
殴りかかる女のアップにドキッとして、別のチャンネルに切り替えた。
『……本日7時、タレントの賀谷真弓さんが十二年の結婚生活にピリオドを打ち、記者会見を行いました。原因はプロダクション社長の夫による浮気と暴力、同プロダクションの業績不振などが重なったためと発表されています』
涙を拭うタレントの、濡れてはいない厚化粧の頬をぼうっと眺めて、またチャンネルを送った。
『君のわがままにはもう、ついていけない』
ぎくっとした。
それは古い映画。洋物だけど日本語吹き替えで、話している声優の声は龍樹さんの声にそっくりだったから。
「……どいつもこいつも……。どうせ、俺が悪いってんだろっ」
テレビを消して呟いた。
間が悪いのか、天の配剤か。とにかく龍樹さんに謝って、仲直りをしなければという気になった。しかし、肝心の彼が帰ってこない。
別れてから二時間はゆうに過ぎてる。徒歩圏の移動時間はほぼ考慮に入れなくてもいいわけで。
「ショートなら、龍樹さんだったら三発はいってる時間だ。もっと搾っときゃ良かった」
口にして眉をしかめた。
「下品……だな」
ポトッと握っていたリモコンに何か落ちた。涙だ。
「女々しいよ。こんなの……」
自分を叱ってみても、涙は止まらない。
「畜生……鈍くさすぎ……」
ごしごし擦って、バスルームのティッシュを取りにいった。鏡が目を真っ赤にした情けない男を映し込んでて。
女より質悪いよ、今の俺。いざとなると素直になれない、そのくせ焼き餅は一人前。
龍樹さんが俺と同じようにしてたら、絶対成り立ってない恋愛関係だと思う。
始まりこそは俺が受け入れた形だけど、今は……。俺の方こそ彼じゃなきゃ嫌なんだ。
そんな風に思った途端にご褒美みたいに電話が鳴った。フロントからで、在室確認だった。
受話器を置いてすぐに。
ピンポーン……。
部屋の呼び鈴がやけに明るく響く。
ドアに飛びつくようにして開けた。ちょっとの隙間だけで滑り込むように入ってきた細身の長身にしがみついた。
「遅いよっ。待ちくたびれちゃったじゃないか」
優しい腕はしっかりと俺を抱き留めてくれた。
「……泣いてるの……?」
俺の声が涙でかすれてたのを聞き取って、心配そうに囁いてきて。
「君が相手しろって言ったのに……」
責めているつもりではないらしい声の甘さに、俺はまた甘えてしまった。
「二時間もなんて言ってないもん。あのかっこいい人、龍樹さんの何? 俺のこと睨んでたよ。ライフパートナーって紹介された途端に……」
髪にチュッとキスされて腰を抱かれた。
ソファに誘われ、膝の上に抱き上げられて。俺の背中や腰を撫で回しながら何度も額や頬にキスしてきた。
龍樹さんの温もり、唇の感触。俺を包んで幸せな気分にしてくれる。愛されてるってくすぐったい。
「……MS社の会長。名前、聞いたこと無い?」
俺の問いに対する答えは甘いキスの合間に与えられた。龍樹さんていう俺にとっては滅茶苦茶淫靡な誘惑の美酒による酔いも、その答えで吹っ飛ばされた。
思わず目を見張って彼を見つめて。動揺したときには金色に輝く瞳は、落ち着いた琥珀色で俺を見据えていた。
あいつ……親父の会社のオーナー?
学生時代に興した会社が、世界的に有名になって、今じゃ億万長者だっていう……。
「あ……まさかねって思って……。あんな若いのに?」
「若いって言っても……えーと、三十は越えてるんじゃないかな。あるゲイのカップルの結婚式で知り合った。そういう所って出会いの場所でね。半年くらい……付き合ったかな。あの通り若々しくて頭も切れる男だから結構おもしろかったんだけど……。独占欲強くて。ま、僕も人のこと言えないけどさ」
肩を竦めて言う口調に後ろめたさは全然ない。
「……コルベット賭けた相手……でしょ? どんな賭けだったの?」
照れくさそうにうつむいて、それでも渋ることなく口を開いてくれた。
「冗談だと思ってたんだけど、プログラミングの勝負。一ヶ月で一本、ソフト開発して、どっちがより良いものかで勝ち負け決めて。もちろん誰の手も借りないでだよ」
コンピューターを触ったこと無い俺でも知ってるソフトの名前が飛び出してぶっ飛んだ。
「あれ……龍樹さんが作ったの?」
俺の唇にしぃっと人差し指を当てて微笑んだ。
「……内緒だよ。著作権はMS社に帰属させてあるし。それでも上がりを僕にもわけてくれてるんだ。遊び半分で作り始めた物なのにね」
どうでもいいように言う。やっぱり普通じゃないよ、この人……。
「もしあの人が勝ってたら……?」
俺のつっこみに、初めて彼は渋い顔をした。
「一週間旅行に付き合うって事になってた。その間僕は彼の奴隷。かしずく相手は選びたいじゃない? だからどうしても勝たなきゃいけなかった。後半は死にもの狂いって所」
ほんと、勝てて良かったよ。龍樹さんが彼を振ってたって事、はっきり分かる。ソフト開発なんてそんな生やさしい事じゃない。本当に死にものぐるいでなきゃ無理だろう。あの人の奴隷になることが、それだけ嫌だったって事だ。
「龍樹さんのことオリエンタルドラゴンて呼んでたね」
気障ったらしくてクサい呼び名だって、初めて聞いたとき思ったんだ。俺の恋人を自分流の呼び名で呼ぶ男の存在が気にくわなかった。
「僕の名前がドラゴンて書くって教えたし。拳法やってたのも知ってるから、ブルース・リーと重ねたんじゃないかな」
なんのてらいもなく分析して説明する無邪気さに、親しみを感じた。この人、思ったより鈍感かも知れない……。
「今は俺のドラゴン……?」
「うん。君だけのだよ。君になら無条件でかしずいてもいい」
甘い口説き文句に思わずマジな反応を返していた。
「……やめてよ。家族はかしずいたりしないよ」
「君ならそういうと思った」
嬉しそうにクスクス笑って、手がシャツの中に進入してきた。やわやわと俺の感じるように撫でさすってきて。
「だめ。あいつを触った手で触んないでよ」
本当はすごく嬉しくてビリビリに感じてたんだけど、またひねくれた反応をしてしまった。手を押しのけちゃったんだ。
「握手しただけだよ。君だって握手……したでしょ?」
「やだったら……」
熱い囁きに掻き口説かれながら、口とは裏腹に俺の体は彼にすり寄っていた。
龍樹さんの膝にまたがって、彼の唇をむさぼって。今の俺なら、娼婦だって言われても否定しない。淫らな気分でゾクゾクしながら導かれて触らされた熱いしこりが欲しくて。
「僕をこんな風にするのは君だけ……。君を待たせた二時間分……、取り戻したい」
熱っぽいねだり声は俺を素直な獣に変えていく。
「うんと気持ちよくしてくれなきゃヤだからね」
「仰せの通りに……」
感激に潤んだ瞳は欲情のうねりで輝いていた。声は熱くかすれて、深い響きが更に色っぽい。
声だけで感じてしまう。欲しくて欲しくて、早く一つになりたくて……。
龍樹さんのくれる快感を全て感じたくて……。
俺は前戯ももどかしく俺の中に彼を導いた。
「あ……あっ…………」
「う……んっ」
擦れる痛みは龍樹さんと繋がれたという確かな実感として認識した。
全部入れてもらって見つめ合った。
ドクドクと龍樹さんの脈動が俺の中から伝わってくる。
体中が嬉しいって叫んでる。それをもっと確かに感じたくて、目を閉じて龍樹さんを感じることだけに集中した。ただ入ってるだけでもすごく気持ちいい。こうしてることが必然て気がしてくるから不思議。
「俺……何時だって龍樹さんが欲しいっていう体になっちゃったらしい……。どうしよう。俺のアソコって、使い道間違えちゃったよ、完全に」
「はうっ」
キュッと力を入れて龍樹さんを締め付けたら、龍樹さんが切なげにうめいた。
「そんな声、他の誰にも聞かせちゃだめだよ……」
「……たりまえ……だ……」
呟いて俺の乳首に食らいついてきた。
「あン……」
甘咬みされてびくんと背が引きつった。不随意のうねりが彼を引き絞ってしまって。
異物感は龍樹さんの存在をあらためて感じさせる。
「う……っ」
俺の美獣は堪えるように唸った。
そうさ、まだ出しちゃだめだ。俺がもう少し楽しめるようにね。
「……今日の君はすごく挑戦的だ……。いいの? 僕をそんなに挑発して……。泣いても許してあげないよ……」
「積極的な俺じゃ嫌……?」
「嫌なわけないでしょ。僕の理性が全部飛んじゃったら……君が困らない?」
「いいよ……龍樹さんのしたいこと、全部しても……いい……」
自分から腰を使って彼を搾りあげた。全部自分に跳ね返ってくる惑乱の元だって知っていて。
「これは俺だけのものだ……誰にも使わせない」
もう一度唇を求めて呟いた。
龍樹さんをイかせる。泣かせて、一滴も出ないほど搾り取って……。俺のことしか抱けないように。
龍樹さんが導くままに体位を変えていく。苦しかったり辛かったりするけど、同時に新たな快感が走っていったりして……。
「ああっ……いいっ……もっとして……もっと……!」
狂ったように欲しがる俺に、彼は与え続けてくれた。何度も何度も……。
持続するためのあらゆる手管を尽くしながら。
「ねぇ……今の僕を見て。君のドラゴンになった僕だけを……見て」
俺の不安を言い当てるように、突き上げながら囁いてきた台詞は、龍樹さん自身の不安を伝えてきていた。
信じて欲しいって……。
過去を消す事なんて出来ないから、こだわったりしちゃいけないんだよね。
焼き餅焼きな俺を許して。
わがままで、意地悪な俺を許して……。
未熟者な俺を…………。
スティーブが納得してくれるくらい、俺も魅力的な男にならなきゃいけない。
明け方近く、どろどろに疲れ切った眠りにつきながら考えて。
またひねくれてると思われそうだから、心の中だけで頑張る宣言をした。
まずは医者になる。龍樹さんが認めてくれるような実のある医者に。
ああ、プレゼント渡し損ねちゃった。明日あれを着てもらおう。股下寸法、計って貰ったけど大丈夫かな。
セクシーな龍樹さんに寄り添って歩く姿を想像して照れくさい笑いが漏れた。
「……なに……?」
眠そうな声で言いながら腕枕で抱きしめてきた。汗ばんだ胸に額を押しつけ、乳首にチュッとキスして。
「龍樹さんは俺のハニーでダーリンなんだなって……」
「うん。そうありたい」
穏やかな声がしみじみと返事を返してきて。ほんわか暖かい気分。
「愛してる?」
「うん。愛してる」
当たり前だろって言うようにぎゅっと抱きしめられてホッとする。
「よかった。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
眠そうなあくび混じりの声。否応なく眠りの世界に引き込まれていく。
お休みなさい、俺のパートナー。
明日も二人で戦っていこうね。
了
ふりだしにもどる