3
 
 静まり返った茶室で、誰かの息を飲む音が聞こえた。そして、それに続くいくつかのため息。あたしも、ひろしも、そんな事全然意に介さず、どんどんお点前を進める。
 ひろしは、お点前の時は三割方かっこよく見えてしまう。凛々しいっていう言葉が良く似合うの。
 うん、こうして冷静に見てると、真剣な顔したひろしは、顔立ちの整った美形なんだ。正統派の…。
 それにしても、みんな、どのくらいちゃんと頭に入ってるんだろ。ひろしを見る目がトロンとしてるぞ。
 だいたい、うちの学校の茶道部は女生徒しかいないから、男のひろしのお点前は、直接的なお手本にはならないんだけどね。客としての作法は、あたしの方見てなきゃ解らないのよ、お嬢さん方。
 ああ、それにしても、ひろしの点てたお茶はおいしい。どろっとした濃茶は特に、苦みの中に不思議な甘味があるんだけど、ひろしの出す味は絶妙なバランスで苦みと甘味が溶け合っているの。
 次客になってた顧問の先生は、やはりひろしのお茶に魅せられている一人。
「本当に惜しいわ。茶道部に入ってもらえたら、どんなにありがたいか…。ねえ、さやかさん、どうしても入部してもらえないかしら。あなたからも勧めてもらえない?」
 将を射んとすれば、まず馬を射よ。ってか。そんなのあたしに言われても困るのよ。家で死ぬほどやらされてるのに、誰が、唯一息の抜ける学校でまでやるかっての。
「……まず無理でしょうね。申し訳ありませんが、ひろしはお弟子さんも持たされてますので。クラブ活動の時間がとれそうもないんですよ」
 あたしは、言下に却下してやった。先生、甘いよ。
 あたしはどうせ外へ出る身だから結構勝手気まましてるけど、ひろしは違う。今からいろんな仕事を手伝わされて、生徒も持たされ、家元街道まっしぐら。中学の時まで好きでやっていたサッカーもやめ、家に帰ればお茶一色の生活が待っている。なまじお茶が好きなだけに、逃げだそうなんてしないから哀れを誘うってものよ。
 一通りお点前を終わらせると、茶室の中の空気は一転した。途端にドヨドヨし始めたの。
 ひろしから発散されていた気持ちの良い緊張感みたいなのが、スーッと消えたせいだろうか。大きく息をついている子もいる。
 茶道を堅苦しいものとしてイメージしている人には、たしかに、息が詰まるように受け取られるかも知れない。けど、あたしはこの緊張感が好き。思わず居住まいを正したくなってしまう程改まった感じなのに、決して威圧するような重苦しいものじゃなくて、余裕を持ってしとやかに振る舞えるような気にさせてくれるから。
 茶道に限らず、作法をきちんと行うのって、型をただ覚える事より精神を鍛えて心を向上させる事に意味があるんだと思う。改まった雰囲気って、たまには必要よ。
「さやか、そろそろ帰らないと……。生徒が集まる時間だろう?」
 まとわりつく先生達をあしらいながら、ひろしがあたしの腕をとった。
「あ、そうね。急がないと……。じゃ、先生、あわただしくて済みません。失礼します」
 取り付くしまもないみたいにして、あたし達は、茶室から脱出した。
 教室から鞄を取ってきて、校門を出たところで二人一緒にため息をつく。
「だいたい、今日のって新入生勧誘のオリエンテーションでしょ。これって詐欺だよね。部員じゃないあたし達にやらせてみせるなんてさ。ひろし目当てで入る子だって、いるんじゃない?」
「ばぁか…、いるわけねーよ」
 ひろしはちょっと照れて、軽く肩で笑った。
「いるよ、きっと。あんたが嫌がるから断るようにしてるけど、ラブレターとか、よく頼まれるもの。受け取って、ちゃんと返事してくれると、あたしも楽なのに」
 ひろしは、むっとした顔になって、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「そんなもん、人に頼むものじゃねーよ。自分で渡しに来れば、その場で返事できるだろ。手紙は手間かかって迷惑だ」
「返事って……?」
「断るの! 俺には、好きな娘がいるんだよ。だから、そいつ以外からの手紙なんて、うれしくもなんともない」
 あたしの目の高さに、ひろしの肩がある。その肩が急によそよそしく見えて、あたしは、体の中にすきま風が通っていくような気がした。
「……好きな娘って? ……誰?」
 あたしの声、震えがきてる。
 ひろしは歩調を早め、前へ出た。ひろしと肩を並べて一緒に帰るのは、とっても久しぶりで、何となくうれしかったのに。学年が一つ違うだけで、全然スケジュール合わないのだもの。慌ただしい朝と違って、ゆっくり歩くと、何時もと違うことが見えてくるような気がする。
 本当に……。
 今のひろしは、まるで違う人みたい。ひろしの背中からいつもと違う空気が立ちのぼって、あたしを受け付けないでいる。
 あたしの質問に、ひろしはしばらく答えなかった。
「ひろし……?」
 小さなため息をついて振り返ったひろしは、いつものひろしに戻っていた。
「俺の……、片思いなんだ。だから、言えない」
 寂しそうな微笑み。だのに、それを見てあたしは、ほっとしている。変よね、あたし、とことん嫌な奴になっちゃったみたい。
「ごめん、変なこと聞いて……」
「いや、いいんだ」
 とてもフランクな表情。こういうひろしは、とても魅力的。誰だか知らないけど、ひろしに片思いさせて、こんな顔させてしまうなんて。
 あたしはその人に嫉妬を感じていた。
「…………想いが通じるといいね」
 今のあたし、無理してる。でも、言いたかった。寂しいけど、言わなければって、あたしの中で誰かが言うから。
 ひろしは、何故だかさっきより寂しそうな笑顔を見せて、黙って頷いた。
 しばらく二人とも言葉がつげられずにいた。足音だけが前進していることを伝えている。
 空気の重さに耐えきれなくなって、あたしはいきなり立ち止まった。
 ひろしが振り返った。
「どうした?」
 ふつうに、ふつうに。
 あたしは、にっこり笑って見せた。
「ねえ、ひろし、今日はお教室ある日だったっけ?」
 これは、あたしの休戦(?)の合図。
 ひろしは、ぶっと吹いて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「大嘘。早くあそこから逃げ出したかったんだ。あのままいたら、入部しろコールに巻き込まれそうだったからな」
「やっぱりい? 変だと思ったんだ」
「合わせてくれて助かったよ」
「感謝してる?」
「してるしてる」
 うん、いいテンポ。久しぶりだな、こういう感じ。
「じゃ、今日はあたしに付き合いなさい。予定はなかったわよね」
「なんだよ」
 怪訝そうな顔しながらも嫌そうにはしていないので、あたしはひろしをグイグイ引っ張った。ひろしの手は大きすぎて、あたしの手には納まりきれなくって、あたしは指を何本か握りしめた。
 小さい頃とは違うね、やっぱり。こんなに近くにいるのに、遠いな…。
「ちょっとちょっと、さやか? どこ行くんだよ」
 黙ってあたしは、ひろしを電車に引きずり込んだ。ああ、ひろしの戸惑った顔がうれしい。
「一つ前で降りてどうするんだよ。何があるわけ?」
「この近くの河川敷きっていえばわかる?」
「まさかおまえ…」
「たまにはいいでしょ」
「今更、俺に何させようっての?」
 そう言いながら瞳をうれしそうにきらめかせて河川敷きの方を見つめるひろしを見て、あたしも、にまにましてしまった。
 ひろしはサッカーが大好きだったの。あたしがサッカーに興味を持ったのも、監督やってるのも、ひろしの影響なんだから。
 河川敷きでは、子供達がボールを追っている。
 もともと、このチームはひろしが入っていたところ。その時あたしは、マネージャーとしてチームにいた。小学校を卒業して引退してからも、あたしはマネージャーを続け、ひろしはコーチとして顔を出すようにしてた。義父(ちち)が中学でのクラブ活動を禁じたから。
 高水流における義父の決定は絶対だったから、ひろしが好きなサッカーを少しでも続けるには、少年サッカーのコーチしか道がなかったの。
 ほんとならそれも許されなかったと思うんだけど、チームを作ったその時の監督に義父は恩義を感じていて(監督は、若いけど優秀な外科医で、義父の癌の手術を成功させて、完治したから)ひろしがどうしても必要だって、説得されたらしい。
 一年前に監督が留学しちゃって、その間の中継ぎにあたしが監督を引き受けたって訳。
 義父はいい顔しなかったけど、ひろしは高校入ってからはコーチも辞めさせられちゃったし、あたしだけがサッカーとひろしの繋ぎ目になったような気がして、絶対続けてやろうと思ったの。あたしはひろしのプレイ、好きだったから。
「すっげーっ」
 頭の上でひろしがいきなり叫んだので、あたしはぶっとんだ。ひろしの黒い瞳はいちだんと輝きを増して、一点を見つめている。
 ひろしの視線の先では、夕陽を背にして長身の青年が、子供達に混ざりボールを追っていた。金茶に輝く髪をなびかせ、秀でた額は透けるように白い。遠目でも夕陽によって映し出された陰影が彫りの深さを物語っていて、一見して外国人と判る風貌をしている。
 どこかの制服のような紺色のブレザーを片手に握り、葡萄茶のネクタイをゆるめた格好は、飛び入りそのもの。上着と同色のスラックスと、黒い紐靴は、土ぼこりで白っぽく変色している。優雅なダンスをしているような動きと、回りの子供達との身長差が、『白雪姫と小人』を連想させる。
 白雪姫をとりまいてボールをカットしようと躍起になっている小人達は、どの子もチームの中で実力のある子ばかり。
「さやかっ、あいつ誰だ?」
 知らない、知らないっ。
 あたしはもう、びっくりしちゃって、ひろしの問に首を横にぶんぶん振るばかり。
 子供だっていっても、うちのメンバーは結構強者ぞろいで、これからが楽しみな子ばかり。それを簡単にあしらってるあの人は、何者?
 流れるようなドリブル。正確なコントロールで、ボールがあの人の足につながってるみたいに見える。シュートはせずに、タックルやチャージングをかわして楽しんでいる。
 あたし達は、コートの外で見守っている子達の側に駆け寄った。
「あっ監督ぅっ、ひろしコーチもきてくれたんだね」
「殴り込みだよぉ」
「いきなりボールとられちゃったんだ」
 口ぐちに訴えられ、あたしは目を白黒させてしまった。
「要するに誰も知らない奴なんだな」
 ひろしはそう言うと、駆け出した。
「俺が取り返してやるっ」
 言葉の割にうれしそうな顔して。
 多分、あの人の方がひろしよりずっとテクニシャンだと思うけど、ひろしにとってはなかなかない機会だから、偶然とはいえ連れてきて良かった。子供達にしてもそうだけど、上手な人とふれあうのって自分の上達につながる。ひろしみたいに閉ざされてる場合でも、好きな事で挑戦できる機会は大切だと思うから。
 ひろしとの競り合いになって戦線離脱した子供達が、あたしを見つけて駆け寄ってきた。みんなの顔が輝いている。
「すごいんだ、あの人。あんだけ駆けまわって、息も乱してないんだ」
「僕もいつか、あんな風にボールを好きなように出来るかな
「練習すればいい。頑張ろうね。最上(もがみ)監督が帰ってきたら、びっくりさせてやろ」
「うんっ」
 あたし自身はテクがないから、励まして見守るしか出来ないけど、この子達の素直な向上心がすごく助けになっている。
「さて、練習するためにはあの二人を止めなきゃね」
 あたしは笛を構えて大きく息を吸い込んだ。けれど、笛を吹こうとした瞬間肩をポンと叩かれ、吹きそこねて咳きこんでしまった。
 誰だろうと振り返ったあたしは絶句した。そこに立ってたのは、一人別世界を持ってる王子様。
 ……みたいな人。
 細身の長身をブルーブラックのシックな三揃いとシルクのドレスシャツで包み、その立ち姿は頭の先からつま先まで優雅な空気をまとわりつかせて、まるで映画の中の貴族みたい。
 良く櫛の通ったナチュラルブロンドは真ん中分けにされてウエストラインのあたりまでのび、風になびくと本当に金色に輝くし、美しい弧を描いた眉(柳眉ってやつね)の下で、ブルートパーズの瞳がきらめいてる。絵に描いたような形の良い唇は、うっすらほほえみを浮かべ、バラ色。……ノーメイクなんだよねえ。信じられないけど。
 ただ変なのは、どう見たって十八、九なのに、目の感じが冷めてるっていうか、発辣としたものがないの。若さがない。……っと思わず観察してしまったあたしは、不用意に彼の瞳をとらえて思わずドッキリ。目があった瞬間冷たさは消えて、瞳が甘く若やいだ輝きを浮かべたから。
「連れが迷惑をかけているようだね」
 彼は、見た目と不釣り合いなほど完璧なアクセントで流暢に日本語を話し、またまたあたしを絶句させた。
 声はベルベットのような感触の甘い低めのテノール。彼は、それをはりあげて一声鋭く叫んだ。
「ロイッ!」
 ただそれだけで、ひろしをあしらってた青年はヒールキックでひろしをかわし、思いっきり高くボールを蹴り上げ、試合(?)に終止符を打った。ボールは大きく弧を描いて飛び、すっぽりあたしの手の中に納まった。
 まるで生き物みたいに、自分から入り込んできたの。すごいコントロール。あたし達は一斉にボールに視線を注ぎ、ため息をついた。
 ロイと呼ばれた青年は、ひろしと少し言葉を交わしてからあたし達の方へ走ってきた。本当に息をあらげていない。後ろから歩いてくるひろしは、肩で息してるってのに。
 ロイは、王子様に二言三言何か言われると、少ししゅんとしてあたしたちのほうを見た。英語だったから細かいことは解らないけど、乱入したのを怒られたみたい。同世代のはずなのに、あの二人には大人と子供のような上下関係が存在してるように見える。
 ロイはあたしに向かって軽く頭を下げると、申し訳なさそうな顔をして、
「練習の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
 と、言った。
 これまた上手な日本語。だけど、ちょっぴりなまってて、外国人のだなぁって感じ。
 あたしは、気にしてないと言うつもりで軽くかぶりをふった。そして、めいっぱい気持ちを込めて微笑みかけた。
「サッカー、上手ですね」
 彼は、ちょっと驚いたみたいに眼を見開き、すぐにはにかむように眼を伏せた。
「みんなが楽しそうだったから、つい、懐かしくなってしまってね。…何年ぶりかなぁ。やっぱりサッカーはいいね」
 透明で、艶っぽいバリトンの声。こんな声で耳元で囁かれたら、クラクラしてしまいそう。でもきっと御当人は、自分の声にそんな効果があるなんて、気がついていないわね。朴訥そうな物言いは、声の効果に頓着していない事を示しているもの。
 亜麻色の髪が柔らかく額にかかり、それをかきあげながら穏やかな感じで話すロイは、地味な顔立ちだけど誠実そうに見える。青磁のように白い肌は王子様と一緒だけれど、いつもはにかんでるような温かい鳶色の瞳は、正反対の印象を与える。うーん、不思議に安心感を与えるひと。 
「あの、また来てもいいかな」
 だめだしされるの覚悟みたいな、気づかわしげな視線を受けて、あたしは首を縦に振った。ひろしが横からつついてるけど、いいわ、あたしが監督なんだから。
 もちろん、今日みたいな乱入は困るから、付け足すのを忘れなかった。
「コーチとしてならね」
 ロイはうれしそうに何度も頷いて、あたしの手を取り握りしめた。とても、とても冷たい手。
「ありがとう、僕、できるだけの事するよ」
 ちょっぴりハイになってるロイの肩に手を掛けて、王子様が言った。
「ロイ、時間がない。そろそろ失礼しよう」
 王子様は、あたしににっこり笑い掛けた。
「今日は本当にすみませんでした。僕はチャールズ・ストーカー、彼はロイ・カッシング。この向こうの洋館に越してきました。いつか、遊びにきてください」
 あくまでも物腰優雅。社交辞令とはいえ、尻尾振ってついて行きたくなる程魅惑的。それでいて、他人を寄せ付けない高貴な雰囲気が、常にまとわりついてる。
 あたしはつい、硬くなって、横のひろしをひっつかむと言った。
「あっはい。あたしは高水さやか、こっちは弟のひろしです。うちは、茶道の先生してます。いつでも遊びにきて下さいね」
 ひろしはぶっきらぼうに、会釈しただけ。
 なにむくれてんだか。
 チャールズは浅く笑うと、ふわりときびすを返した。それをロイが追う。何度も振り返りながら、手を振っていた。
 ひろしが、じいっと彼らの後ろ姿を見送ってから、ささやくように言った。
「変な奴らだよな。あいつ、なんて言ったと思う? 俺に」
「え? 誰?」
「ロイって奴。無事生き残って良かったな、とか、なんとか」
「どういう意味? それ」
「知るかよ。言ったときの顔つきからして、嫌みとか、そういうんじゃないってことは分かるんだけどな。初対面じゃないって暗に言われてるみたいで、気持ち悪いや。確かに、前に会ったような感じさせる奴だったけど、そんなわけないし」
「………」
「変な外人だよ。さやか、あんまりつき合わない方がいいかもよ。騙されるのがオチだぜ」
 ひろしの口調には刺があったけど、それは黙殺した。ふたりの上って行った土手を見つめながら、あたしは、ロイに握られて体温を失った手をこすっていた。
 何処かで会ったような気がする。そんな引っかかりが、ひろしに向けられた謎めいた言葉で倍増した。ひろしが小さい頃、何度となく運が悪ければ死んでいたかも、という事故にあっている事、知っているみたいに思えて。変ね。