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悲しい試薬・第八回
「……拓斗……いい?」
麗花の声。
起き出してドアを開ける。
料理の皿と酒やグラスを盆に載せ、麗花が立っていた。
かすかに足を引きずりながら、華麗な元モデルが入ってくる。
「夕食に来なかったけど、お腹減らないの?」
「あんまり……」
「少しだけ、食べない? それとお酒……。ちょっとつきあってよ」
麗花の気遣いに、拓斗は笑みを浮かべてうなずいた。
「……いいですね。お母さんの様子はどうでした?」
「疲れてらしたみたいよ。さっきそっと伺ったら、よくお休みのようだったわ」
「覗いたんですか?」
「……普通のお客じゃないからね」
苦笑しつつ、イヤな顔はせずに麗花がグラスに酒をつぐ。
「いろいろご迷惑おかけしました」
「いいえ。楽しませてもらってるから」
くすくす笑いながら酒をあおった。
「龍樹の周りはいつもそういう事があふれかえってるのよね」
「え……?」
「あの子はね、自分では自覚無いけど、トラブルメーカーだもの」
「そんな……」
否定しにくいのは、確かにそういうところがあるからだ。
「何でだと思う?」
「……もてるから?」
「……1%くらいはそれもあるかなぁ」
「1%ですか?」
「あいつは殻が固いのよ。親しみやすそうにしていて、絶対間の壁崩さないからね。壁の向こうに入れる人間は、龍樹が選んだごく一部だけ。ものすごく警戒心が強くて。うち解けるのに時間がかかるのよ」
「へえ……」
「あ、拓斗は感じなかったでしょ? 龍樹が口説いたそうだから」
「……ああ、うん……俺も……固い方ですから」
「ふううん……」
観察される視線の痛さを、拓斗はグラスの中の透明な液体に目を落として耐えた。
「龍樹に近づきたい人はいくらでもいるけど。拒絶されるから腹が立つのよね」
麗花の笑いを含んだ声音は柔らかく拓斗を逆撫でる。
龍樹だって悩んでいるし、ただ拒絶したいわけではないのを知っていたから。
「……でも、人が多すぎて、見分けるのが大変だってのもありますよね」
「……まあね。あの子ね、私の担当医になったときも、私がゲイだってわかるまで相当緊張してたわ。確かに、モーションかけてくる患者さんも多かったから、無難にさけるのに心を砕いていたのかもしれないけど」
「……怪我……なさったんですよね?」
「……うん。ショーの時に開く予定のない奈落への蓋が開いていて、落ちちゃった。頸椎損傷ってやつ。危うく首から下が動かなくなるところだったわ。龍樹のおかげなの」
「……すごい怪我だったんですね……」
「あいつ、腕はいいからね。確かに、もったいないわ。貴方の言うとおり」
つまみに用意されていたのは柔らかめのビーフジャーキーと、カナッペが数種だった。カナッペを口にして、拓斗は目を見開く。
「……龍樹のレシピよ。そのサーモンクリーム」
「あ、そうなんですか?」
二人はどういう関係だったのか、問いただしてみたい気もする。
それが顔に出ていたのか、麗花はにっこり笑って尋ねてもいない質問の答えを口にした。
「……あたしたちは、取り決めをしたの。龍樹と恋人の振りをするって。結構長く一緒にいたのよ。ルームメイトだった時期もあったわ。そのうち、あたしに恋人が出来て、別れたけど。お互いに煩わしさからの解放が目的。うまくいってたのよね。龍樹が仕事やめる前に、ストーカーにあってるって愚痴ってたときには、自分だけ幸せで悪いなって思ったくらい」
「実質、姉弟みたいだったそうですね」
「うん。あいつはかわいい弟って感じね」
「……ちょっと妬けます」
「あらあら」
「多分……麗花さんは、俺よりも龍樹さんの近くにいるもん」
「なんで?」
「龍樹さんは俺には気を遣うから。……俺の顔色を窺うんですよ。卑屈なくらいに」
「……鬱陶しい?」
「ていうより、悔しい。俺、あの人のこと、可愛いと思ってるけど、尊敬もしてるから。一番近くにいたいのに、なんだか遠く感じちゃうんだ」
「……好きだから。怖いのね。貴方に嫌われるのが」
「……同じかな。俺も……怖いもの」
「誰かを好きになると、嬉しいのと同じくらい、怖くなる。表裏一体ってやつね」
「嫌われるファクターは、一掃したいと思ってしまうくらい。なのに……」
「どうしたの?」
「俺の……子供が……」
「え?」
「女の子だそうです。龍樹さんは一緒に育てようって言ってくれたけど。俺……自信なくて……。お母さんに預けることにしちまったんです。顔も見ない内に……最低だ」
肩を震わせて俯いてしまった拓斗を、麗花はまじまじと見つめた。
「お母さんて……龍樹の?」
「……俺と、泉さんの子供だから……。龍樹さんの妹なんです」
「じゃ……あの……」
「龍樹さんが……実際子供を見てどう反応するか……怖くて。とても……」
「問題の泉さんは……?」
「心が壊れてるので。病院にいます」
「子供って……難しいわよ。バランス良く育てるのって、とても難しい……」
「子供って、見てないようでよく見てますよね。大人のこと。俺は……手本になれるかどうかは自信なくて……」
「手本はともかく。心のよりどころは必要よね。任せるんじゃなくて、みんなで育てるんだって意識を持てばいいわ。昔はね、社会が子供を育てたの。いろんな大人が、いろんな姿を見せてね。貴方だって……親だけじゃなかったでしょ? 見てきた大人は。一人で育てようなんて考えるから荷が重くなるのよ。必要なときに逃げ帰る場所を作って置いてあげればだいじょうぶよ。まあ、手本て意識は大事よね」
くすくす笑いながら麗花が言った。おもしろそうにくるくると瞳を輝かせ、拓斗を見据えてくる。
「……な、なんですか?」
「貴方、若いのに、恥ずかしいほど親父臭いと思って」
「えっ?」
「龍樹が惚れた理由が少しわかったわ」
ニコニコしながら、伸びやかな指先が頬を撫でた。
「いい子ね。龍樹がうらやましいくらい……」
「あ、あの……」
赤く染まった唇が近づいてきて、拓斗はあわてた。
身をすくませていると、額にチュッとなま暖かい感触が押し当てられて去っていった。
「貴方なら、ちゃんとやれるわよ。きっと。安心なさい。それと……」
麗花は盆の下に置かれていた封筒を取り出した。
「示談書。スティーブから、好条件でもぎ取ってきたわ。お金が全てじゃないけれど、無いよりはあった方がましだし。あなた達にもう手は出さないって誓いもさせたわよ」
「……金は受け取れませんよ。俺、まだあいつらの事許せてないし」
龍樹を失うかもしれないと思ったとき。拓斗は言い様のない不安感に包まれた。
暗く底の見えない淵に追い込まれたような。
全ては、スティーブの我が儘から発した事。
甘やかしていた王河の事も、許せない。
「あいつ……俺から龍樹さんを、文字通り奪おうとした。金に飽かせて。龍樹さんの意志を無視して。……むかつく。思い出しただけで吐き気がする……」
「拓斗……」
むせび泣くように肩を震わせる拓斗を抱きしめて、麗花はやんわり揺すった。
よしよしと、赤ん坊をあやすように。
「……くやしいんだ。俺、何にも出来なくて。スティーブの目には、俺って人間が龍樹さんには相応しくないって写ったんだよね。悔しいけど、本当に俺は……」
「バカな事言うもんじゃないわ。相応しいとか相応しくないとか。そんなの、誰も決められない。必要か必要でないかだけよ。龍樹は、貴方を必要としてる。貴方が龍樹を必要としてるように」
「……本当にそう思う? 龍樹さん……俺のせいで怪我したんだよ? 俺は……疫病神じゃない?」
「龍樹が貴方にとって疫病神だって言うなら、ちょっとうなずいちゃうかも」
くすくす笑って麗花は拓斗の頬をぴちぴちと軽くたたいた。
「貴方は天使なんですって。あの子にとって。だから、どんな目にあっても手放す気はないってね。貴方が迷惑がったとしてもね」
「迷惑だなんて……」
「一生そう言えるといいわね」
「……はい」
眠れそうもないと思った夜をぐっすり眠って過ごした拓斗は、晴れやかな気分で窓から外を眺めた。
龍樹の母は、昼食を摂ってから日本に帰っていった。
拓斗との妥協案を胸に。
いつでも会えるようにすることが条件の、桂川家での子育て。親権は拓斗に。
養育費は折半。泉に関しては、よくなり次第彼女に選択させる。
ついでに龍樹との同棲も認めさせた。
全ては麗花が手配した弁護士による正式書類付き。
何もかもがあまりにも短時間ですませられたので、拓斗は目を白黒するばかりだった。
龍樹が聞いたら、なんと言うだろうか?
母は、息子よりも孫をとった、なんて……。
「不肖の息子……だもんね」
苦笑しながらつぶやいてみる。
かつんと音がしてハッと下を見るまで、のんびり雲の流れを見つめていた拓斗は、音の主を見とがめて眉をひそめた。
「ヤア、タクト」
スティーブが見上げている。にやりと笑って。
「……何の用? っと、日本語で言ってもだめか?」
「ダメジャナイヨ。スコシ、ワカル。キテ、ハナシ、アルヨ」
「麗花さん! 麗花さん!」
拓斗はダダッと階段を駆け下りた。
フロントにいた麗花を引っ張り出し、外に出る。
「なあに? あらやだ」
スティーブの顔を見たとたんに麗花が眉をひそめた。
「ソンナカオ、ナシね。レイカ、ビジンナクナル」
偉く失礼なことを片言で言いながらまたにやりと笑った。
「だから……」
何の用だ?と口にする前に、スティーブがひざまずいた。
高価なスーツが土に汚れるのもお構いなしに。
恭しく、土下座スタイルを決め込む。
誰に教わってきたのか、地面に頭をこすりつけて。
「ごめんなさい」
正しい抑揚の言葉は、かなり練習してきたようだった。
「なっなにやって……」
「タツキノパートナー、ドラゴンでしたね。キトゥンちがうこと。オミソレしましたの」
「知ってて言ってんのか?」
ぶっと麗花が吹いた。
「王河に言われたんでしょう? スティーブ、許しをもらえないとどうなるの?」
「……オウカ、オカエリするですした」
「ぶっ」
拓斗も吹いた。
ムッとしたスティーブが、きらっと睨む。
「ヒトサマがマジメしてるのわらうよくありませんでした」
確かに大まじめなのだが、言葉遣いに引っかかってしまう。
「あ、あー、ごめん」
肩を震わせ、笑いをこらえようとする拓斗を見て、スティーブもくっと笑い、早口の英語で麗花にささやいた。
「拓斗、アジアの底力を見た気がするって。王河も含んでね。今まで自分は特別な人間だと思ってきたけど、神様はみんなに特別を分け与えてるんだって分かったって」
「特別?」
「龍樹には貴方。貴方には龍樹……。私ももう一度原点に返ってみようかなぁ」
「え?」
「拓斗と一緒に帰ろうかなぁ、日本……。私の特別も見つかるかもしれないじゃない?」
寂しそうな麗花の笑顔に、拓斗はいわれのない申し訳なさを感じる。
申し訳ないと感じること自体、失礼なのかもしれないけれど。
「だって、ペンションは?」
「売りに出せばすむことだもの。ここって、元は恋人だったサリーの物で。サリーが事故で死んだ後、私に残されたのよね。なんとなく続けてきたけど……ちょっと最近疲れを感じるようになったし。変わるなら今かなぁって思って」
「完全に吹っ切るって事?」
「吹っ切れてはいるんだけどね。そうね、そういうことになるのかな」
「タクト……」
「あー、はいはい。拓斗、スティーブが答えをおねだりしてるわよ」
「……まだ、許せないけど。許せるように努力するてのでもいい?」
「過分なくらいね」
麗花はぴしりと言葉で叩くようにスティーブに拓斗の答えをぶつけた。
「許しちゃったのと同じだよ……」
スティーブとの一部始終を聞いて、うんざりした口調で龍樹がつぶやいた。
子供のことを話す気にはなれなかったので、スティーブのことだけを伝えたのだった。
「君は誰にでも優しすぎる」
恨めしそうな目線に情けない気分になってベッドサイドに腰掛け、龍樹の髪に手を伸ばした。
「龍樹さんにだけ厳しいんだもん、俺。龍樹さんにだけ、本音言えるんだから」
「喜んでイイのかな?」
「うん。特別だからね」
「でも、たまには優しくして欲しい……」
「いいよ」
チュッと唇を額に押しつける。
「ここにもして」
指先が誘ったのは唇。半開きで、ちらりと覗く赤い舌が、拓斗の舌を待っている。
「甘えん坊だな」
微笑ませた瞳のままに拓斗は龍樹の舌に自らのを絡ませた。
クニュリクチュリと絡み合い、唇を捕らえあう。
「……患者の特権だもん」
龍樹の舌が伸びて、拓斗の喉を舐めた。
口蓋の敏感な部分をなで上げながら、龍樹は拓斗の頭をしっかりと抑えてむさぼった。
唇が離れた途端に荒い息で拓斗が睨む。
「……病人とは思えない。こんなやばいキス」
拓斗の股間は、すっかり使用可能になっていたのだ。
「だって、病人じゃないもの、怪我人だもの。ここも……吸いたいなぁ。きゅってしぼりながら。僕だけの特効薬なんだけど」
露骨に物欲しそうに、龍樹はそっとテントの頂点をつついた。
毎日のようにフェラチオをしてくれる拓斗は、けして自分のを龍樹にさせなかったのだ。
「そろそろ……飲ませてくれても良いじゃない?」
「……腹こわしても知らないよ」
龍樹の指がからみついていたテントを、拓斗はそっと解放した。
下着を分け入って性急な動きで龍樹が拓斗の分身を掴み出す。
「……良い色だ……すごく……色っぽい」
息も荒く、龍樹が身を乗り出す。
ドクドクと脈打つ拓斗の勃起を、そっとしごきあげながら、チュッと鈴口を吸い上げた。
「あっんっ」
むしゃぶりつく勢いの龍樹を押しのけようと、拓斗の手がさまよう。
「やっ」
生唾を飲み込みながら、あらがいの声を上げる。
あまりに性急なフェラチオに、拓斗は戸惑っていた。
「龍樹さ……だめっ」
立っていられないほどに膝が笑っている。
拓斗は、片膝をベッドにつきながら、ヘッドボードに捕まった。
龍樹の喉を犯すように突き上げる腰の動きは、多分無意識。
「あんっあああっ」
「拓斗……拓斗……もっと啼いて……」
「ばっばかっんっ………………っ」
拓斗が果てた瞬間に、がらがらっと病室のドアが開けられた。
「!!!」
襟首を持たれて拓斗が引きはがされた。慌てて股間に手をやり、ジッパーをあげる。
腕力のある、黒人看護婦が、すごみを浮かべて龍樹を見下ろした。
「なにやってんのよっ?」
英語だろうが何語だろうが、そういってるのだけは拓斗にも分かった。
龍樹が決まり悪そうに作り笑いをする。
しかし、効果はなく、看護婦は片眉を上げてにらみ据えたままだった。
口元から白い液体がしたたっていては、色男も台無しである。
「……俺、これでお出入り禁止なんじゃない?」
「それはこまる」
「……でも、今日はとりあえず……帰るね」
「あっ拓斗!」
有無を言わさずつまみ出される形で、拓斗は病室から追い出された。
龍樹の呼び声に、笑顔だけは向けることが出来たが。
龍樹と看護婦の論争の声が響いてきたが、拓斗は振り返らずトボトボと病院を後にした。
どうあっても、看護婦の方が正論。
龍樹のはわがままなのだから、致し方ない。
(……帰るべきなのかもしれない)
拓斗はふと思った。
龍樹を置いて。先に。
滞在予定期間はとうに過ぎているのだし。
龍樹の依存度の高さに、拓斗は怖れを抱いていた。
かけがえのない恋人が、もしかしたら自分のせいでダメになるのでは? などと。
今でも、自分を庇って倒れていったときの龍樹の笑顔が残像として張り付いている。
文字通りの盾となり守ってくれた恋人の情熱が嬉しくも怖かった。
大切で、大好きで……だからこそ苦しい。
「……冷却期間……必要かも」
逃げ出すわけではないし、問題を最小限におさえて距離をおける今が、チャンスといえばチャンスである。
結果的に龍樹の目が別の誰かに向けられたら。
きっとそう考えたことを後悔するかもしれない。
「それこそ、信じるべきだよな……」
自分を納得させるように呟いた。
麗花が手紙を持ってきたとき、龍樹はそれだけで眉をひそめた。
「……拓斗は?」
「先に読んで」
麗花のペンションの便箋と封筒を、かさつかせながら開く。
指が震えて上手く開けず、いらついてくる。
「……龍樹、何を震えてるの?」
「拓斗……どうしてこないんだい?」
「手紙を読んでよ。判るから」
麗花の言い方は意地悪だと思う。悪い方に想像力が働き始め、暴走し始めるのを自覚した。
目頭が熱くなる。
日参してくれていた恋人は何故来ない? 何故手紙なんだ?
「龍樹、そんな顔しないの。そんなに悪い手紙でもないわよ」
「……知ってるの?」
「ううん。でも、大体のことは聞いたから」
龍樹は文面に目を落とした。
拓斗の文字は、大きめでおおらかだが、揃っているので読みやすい。
素直な筆跡は、性格そのまま。
それが、半ば震え、ときおり並だのシミなどもあるのだから、文面よりも先に、先入観を持ってしまう。
「龍樹さんへ……」
一行目を声に出してみて、先を読むのが嫌になった。
膝を抱え、手紙を伏せたまま毛布を手繰った。
「……読みたくない」
「読まなきゃ始まらないわよ?」
腰に手を当てて、麗花が小首を傾げる。
「拓斗は? 教えてよ。どうしたの?」
だだっ子のようだと我ながら思う。
麗花は、溜息をついた。
「変な先入観持つよりましか……。日本へ帰ったの」
「えっ?」
ガバッと起き直る。
「いつっ?」
「さっき発ったのよ。イイから、手紙読んでよ。読めば分かるから」
だから嫌なんだと顔に書いて言う。
「……拓斗に、あなたの返事を電話することになってるんだけど。いいわ。明日来る。じっくり読んで考えなさい」
言い置いて、麗花はそそくさと出ていった。
ぎゅっと握りしめてしまっていた便箋を、ぼうっと見つめる。
「拓斗……僕を見捨てるの?」
口に出してみて、違和感を感じた。
麗花もそんなに悪い手紙でもないって言ったではないか。
龍樹はごくりと生唾を呑み込む。
怖いものでも開くように、便箋をおそるおそる広げた。
――――龍樹さんへ
直に言いにいけないでごめん。
今朝、この間の看護婦に見つかっちゃって追い返されちゃった。
だから、これ書いて、麗花さんに託します。
俺は、先に日本に帰ることにしました。
でも、泣かないで。
向こうで待つことにしただけだから。龍樹さんが帰ってくるのを。
「急にどうしたんだ?」って思ってるだろう?
看護婦さんに叱られて、考えちゃったんだ。
俺達、今のままでいいのかなって。
龍樹さんに怪我までさせちゃって……。
俺のために死なれたりするの、嫌なんだ。怖いんだよ。
あの時、何よりも、龍樹さんを失うことを恐ろしいと思った。
一緒にいて、どんどん龍樹さん無しじゃ生きられなくなっていく自分を自覚して。
龍樹さんが、多分同じように俺のこと思ってくれてるんだろうなって思うと……それも怖い。
だからね。これは冷却期間てやつ。
だけど、全部冷ましたりしないでね。
俺は龍樹さんに今でも愛されたいって思ってる。
あ、字で書くとすごく照れくさいけど。
俺もね、ちゃんと龍樹さんのことを愛しいって思ってるよ?
互いを見ればさかってばっかりいる俺たちも、少しは進化すべきだなって思ってさ。
こんなこというの、変かな?
俺、このままアメリカにいても麗花さんやみんなに面倒かけるだけだし。
店も心配だし。何よりも、龍樹さんが元気になる邪魔をしたくないし。
だから。俺は俺のフィールドで龍樹さんが帰ってくるのを迎えたいって思ってるんだ。待ってるから。なるべく早く帰ってきてね。
俺の首がろくろ首みたいにならない内に。
それと、俺のスケベ袋がはち切れないうちにね。
勝手なことばっかり言ってごめんね。
俺、龍樹さんが撃たれたとき、何も出来なかった。
医者になるって勉強始めて、でも何も……。もっとがんばろうって思ったよ。
がんばるためにも……帰ってくるべきだって。
海を越えて離れても。龍樹さんと一緒にいるつもり。
龍樹さん、すぐ帰ってくるよね?
後一週間くらいだって看護婦さん言ってたもん。
それでもちょっとつらいかなって思ったけど。追い返されたし。
だったら、本当に近づけない方がいいし。
ね? とっても短い冷却期間でしょう?
だから俺、やれると思う。
ちょっとだけ一人になって、自分の足で立ってみようってさ。
それと。
もう一つ。
どうしても言えなかったことがある。
あのね。俺と泉さんの子供のこと。
龍樹さんのお母さんに預けることにしちゃったんだ。
龍樹さんは絶対怒ると思うけど。どうしようもなかった。
九十%以上の確立で女の子だって聞いた途端にね。俺は怖くなったんだ。
ごめん。龍樹さんは絶対嫌だって言うだろうけど。
お母さんのいいところも見て欲しい。
俺には、そんなに悪くみえないんだよ。
龍樹さんのことも、結構分かってる人だったよ?
だから。俺は親権を放棄しないし、養育権も折半にしてもらったけど、基本的にはお母さんのところに預けて、口を出していくことにしたんだ。
見捨てた訳じゃないよ。
龍樹さんは店があるし、俺は学校がある。
昼間、見て貰えるのは有り難いじゃないか。
麗花さんが弁護士立ててくれて。ちゃんとした約束にしてくれたから、龍樹さんが心配してるようなことはないと思う。
子供に、俺達はいつでも手をさしのべることが出来るよ?
……ダメかなぁ。
……あー、結局分けわかんないことかいてるね、俺。
作文苦手なんだ。でも、分かってもらえるって信じてる。龍樹さんだから。
じゃあね。龍樹さん。大好きだよ。
本気で愛してる。絶対絶対まっすぐ帰ってきてね。
バイバイ。
―――拓斗
「拓斗……拓斗……拓斗……」
便せんに頬刷りしながら、思い人の名をつぶやいた。
拓斗が書いた冷却期間という言葉に龍樹は身震いする。
言われて自分の依存度の高さが、拓斗の重荷になっていたことを自覚した。
それでも逃げ出すのではないらしい。
知ってくれと彼は言っているのだ。
受け止めるつもりで。
しかし。母に預けるというのは頂けない。
子育てが無理でも何でも、母を介在させるのだけは……
「……君は……分かってない……」
呟きが悲しさを増す。
「何故僕に相談しなかった?」
……相談できる状況とは思えなかったから?
「あいつの正体を知らない癖に……」
口に出してみてハッとした。
「僕が意固地になっているって思ってるのか?」
……外面いいからなぁ。あの女……
「しょうがない。いつかひっくり返してやるよ、拓斗。君を苦しめる未来にはさせないから」
ふと鏡に目をやった。
そこには、別人のような自分が映っていた。
意志を強固にした瞳が爛々と燃えている。拓斗がよく、金色だと表現するのはこの色なのか?
「ここのところだらしない顔ばかり見せていたかな」
クッと口元を歪ませて笑う。
「退院、早めて貰わなきゃ……」
龍樹はすっくとベッドから降り立った。
一週間後。
龍樹は成田空港を歩いていた。
到着ロビーは、お盆休みのラッシュを越えたとはいえ、まだまだ混んでいた。
「あっすみません」
荷物が龍樹の足にぶつかったのだ。
真っ黒に日焼けした少女が謝ってきた。
「いえ、だいじょうぶです」
微笑みかけた途端に、彼女は固まった。ぽうっと頬が染まる。
龍樹は即座にその場を立ち去ろうとした。
「あのっ」
少女が腕に手を掛けてきた。
「あのっもしよかったらお名前と電話番号を……」
真剣な瞳は可愛らしかった。だが、魅力は感じない。
「……僕は妻子持ちだから。疑われるようなことはしないんだ」
左手の薬指に光る指輪を見せつけるように手を振った。
拓斗は妻だなんて言ったら怒るかも知れない。
いや、それよりも何よりも、内緒で帰って、果たして家に拓斗がいてくれるかどうか。微かな不安もある。
ロビーを急ぎ足で突っ切り、リムジンバスのカウンターに向かうつもりだった。
ゲートを出た途端。
「あのっお名前と電話番号を教えてください」
拓斗に似た声に溜息をつく。
こんな風に男に声を掛けられた経験はあまりない。大抵はアイサインから始まるのだから。
「失礼、僕は妻子持ち……」
振り返りながら言いかけ、固まった。
「誰が妻?」
不機嫌そうな声に飛び上がる。
「た、拓斗?」
黒目がちの瞳が微笑みかけてきた。
「子の方は、後一週間は待たないと出てこないぜ」
わなわなと唇を震わせて、恋人を見つめる。
「おかえり、龍樹さん」
細くしなやかな腕が広げられ、吸い込まれるように龍樹は拓斗を抱き取った。
「拓斗! 拓斗!」
やや軽くなった体を抱き上げたまま、くるくると回る。
「目、目が回るよ」
微笑みを含ませたままの抗議に龍樹はゆっくりと恋人を下ろした。
「どうしてここに?」
コツンと額をぶつけて見つめ合う。
キスをしたいところだが、気にするくらいの理性はあった。
イタズラっぽい光が巡る黒い瞳は無限の誘惑をしかけてくる。
「龍樹さんのことは、お見通し」
黒い瞳がチラッと周りを見回してから、唇が龍樹の唇を掠めた。
「うそ。麗花さんのリークだよ」
「あいつ……」
「少しでも早く龍樹さんに会いたかったんだ。龍樹さんは……どうして?」
「君の驚く顔を見たかったし。会えば……思いっきりキスしてしまいそうだったから」
「してないじゃない?」
「我慢してるんだよ。これでも」
語り合いながら、荷物を預け、リムジンバスに乗り込んだ。
最奥の席に落ち着くと、龍樹はゆっくりと拓斗の手を取る。
指先に音のないキスを与え、そっと指輪をはめこんだ。
「これ……?」
銀色のシンプルな指輪は、綺麗に研磨され、二人の顔を小さく映し出す。
「結婚指輪。やっぱり作っちゃった」
努めて冗談ぽく、龍樹は語る。拓斗が指輪はいらないと以前言っていたから。
キラキラと光を当てながら、拓斗は自分の手を眺めた。
「綺麗だね」
「ずっとはめてろとは言わないから。持ってて欲しい」
「……うん」
拓斗の手が龍樹の手を握りしめてきた。ぎゅっと握り合い、指を絡め合った。
「ずっとはめてる。離さない」
ぽそっと出された言葉に龍樹は舞い上がる。
「帰ったら、二人だけでパーティだね。店はいつからにする?」
「……そうだなぁ明後日から。今夜は眠れないから、明日は休んで、準備して……それから。パーティのメインは……君でいい?」
「ばか……」
たしなめるほどの強さがない口癖と一緒にギュッと拓斗の手に力を込められた。
「当たり前なこと訊くなよ」
目元を赤らめての呟きは、まだつづいた。
「俺からしてみれば龍樹さんがメインなんだぜ。たっぷり喰わせてもらうから」
龍樹は家路を急ぐ九〇分間を苦しいほどの締め付けを耐え抜く覚悟をした。
果たして「冷却期間」の意味があったのかは分からない。
今もこうして会えばさかってしまう自分がいる。
それでも以前とは違う感触に、龍樹は満足を感じていた。
拓斗がまた一歩近づいてきてくれた。
一歩一歩近づいて、とろけあって、一つになる過程こそが美しい。
ときめきの続く時間が長くありますように。
龍樹は指輪に口づけながら願をかけた。