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悲しい試薬・第七回


「龍樹!」
 ヒステリックに叫びながら飛び込んできた母親に冷ややかな視線を送った龍樹は、拓斗の、メッと言う窘めの表情に、慌てて笑みを浮かべた。
「全くあなたって子は! いったいどのくらい心配かければ気が済むのっ?」
 泣きながらすがりつくように枕元にひざまずいてしまった母親を、困惑して見つめた。
「心配なんてしてくれなくても良いんですよ。僕のことは忘れてくれたっていい」
「龍樹さん!!」
 拓斗の怒声に身を縮ませた龍樹をかばうように母親が立ち上がった。
「いいの! いいのよ」
「でも……」
「この子がこんな風にいうのは、やはりあたしのせいなのよね」
 悲しげな吐息に拓斗の心配そうな慈愛の眼差しが注がれ、龍樹は嫉妬した。
「しおらしい振りしたって今更信用しませんからね」
 言えば拓斗に叱られると分かっていて口をつぐむことが出来ない。
 しかし予想に反して拓斗はクスッと笑った。
「龍樹さん、甘えてる。お母さんに当たるのって、甘えてるからだ」
「ばっ……!」
「病人て、わがままなもんだよね。どうしてだか素直になれなくなっちゃうんだ。……俺もそうだった……」
 優しい眼差しを龍樹に送ってから、拓斗は桂川夫人に向き直った。
「だから、割り引いて考えたげてください。龍樹さんは本気でお母さん達のこと嫌いなわけじゃないんです」
「あなた……」
「医者の仕事だって嫌いじゃないんだ」
「嫌いだよっ」
「うそ。ものすごく真剣に人を助けるくせに。俺にだって医は仁術だって言ったじゃないか」
「っ」
「ただ、人に命令されたり縛られたりが嫌なんだよね。レール通りの人生が嫌なんだ」
「自分で選択していれば医者だって続けていたと言うこと?」
「選択はしてたんだよ。留学しても医科に進んだんでしょ? 可能性はいくらでもあったのに、龍樹さんは医者を選んだ。お父さんの命令でも、お母さんに縋られたんでもない。自分で選んだんだ」
「そんなんじゃないっ! 僕はただ……」
「龍樹さんは料理も好きだけど、外科医の仕事もけして手を抜かないだろう? 患者とのつきあいが苦手でも、医療行為自体は嫌いじゃないんだ。そういうことさ」
「勝手に決めつけないでくれよ」
「無理に認めろとは言わないよ。ただ、俺は龍樹さんみたいに出来る医者になりたい。龍樹さんは俺の目標なんだって事、知っておいて」
「龍樹、形勢不利よ。あなたの恋人は、本気で信じてるんだから。あたしも拓斗の味方だし」
「麗花!」
 ニヤニヤする麗花と、真剣な眼差しの拓斗、泣きそうな顔の母親に囲まれ、龍樹は小さく肩をすくめた。
 拓斗に目標だなんて言われてしまうと、否定の気持ちすら崩れそうになる。
「さあて。後は拓斗に任せて、あたし帰るわ。ディナーの準備をしないとね」
 のんびり伸びをしながら麗花は病室を出ていった。
「お母さんはいつまで居られるんですか?」
 拓斗が訊ねれば、ぴくりと身を震わせた母親は、じっと龍樹を見つめたまま答えた。
「この子が帰れるまで。と言いたいところだけど」
 くるんと拓斗の方を向く。
「貴方の子供がもうすぐ産まれるの。泉についててやらないと」
「……具合、悪いんですか? さっき、そんなようなこと、麗花さんと話してましたよね」
「……心配?」
「……はい」
「だったら……一緒に日本に帰りましょ。あなたがここにいたって仕方ないでしょう?」
「あ、あの……でも……」
 瞳をすがらせる拓斗は、困惑していた。
「俺……龍樹さんの傍に……」
 居たいですと言う言葉が、出そうになったとき、母親は拓斗から背を向けた。
「ええ、あなたはそういう人よね」
「母さん! 僕が頼んだんです。僕の傍にいて欲しいと。新婚なんですよ、僕たちは」
 カアッと赤面する拓斗には、ごめんねとアイサインを送り、龍樹は母をにらみつけた。
「頼むから……、僕らの邪魔をしないで」
「あなたは……自分の妹が心配じゃないの?」
「もちろん心配ですよ。……優先順位があるだけです」
 必要以上に冷たい声音だったからなのか、桂川母は、瞬間的に龍樹の頬を張り飛ばしていた。
「あなたにはまともな情ってもんがないのっ?」
「わざわざ海を越えて僕を殴りに来たのですか?」
「ええそうよ。くだらないことを言う限り、何度でも打ってあげるわ」
「あなたに情を諭されるとはね。あなたの言うくだらないことに、僕は命を懸けているんですよ。泉も分かってくれていると思いますが」
 だからこそ、あそこまで追いつめられたのだと龍樹は考えていた。
「……あなたに理解して欲しいとは思っていません。邪魔をしないで欲しいだけです」
「泉は……泉はどうなるの?」
「あ……」
「そうよ、あなた! 泉を孕ませておいて、兄の方と結婚ですって? 子供は引き取るけど、泉は捨てるというの?」
 拓斗の胸をトンとこづいて母が言う。
 顔を強張らせ、潤んだ瞳だけを大きく見開いた拓斗の手を、身を伸ばしてたぐり寄せた。
「拓斗のせいじゃない!」
 龍樹の声はかなりヒステリックに響いた。
 瞳を潤ませながら拓斗を見つめる母の本性を知っている。
 拓斗は騙されている。
 (あの女はそんな殊勝な女じゃない)
 龍樹は自分に似た母の、女の部分を憎んでいた。
 拓斗を取り込もうとしているのだ。
 泉と結婚させ、子供の父親として桂川の籍に入れるのが目的。
 全ては世間体のためだ。
「……耳を貸しちゃダメだよ、拓斗。君を縛ろうとしているだけなんだから」
「龍樹!」
「龍樹さん!」
「叱られたって、こっこればっかりは譲れない。絶対に。君は僕のだ! 僕のなんだから!!」
「龍樹さ……だいじょうぶ。俺は離れたりしない。大丈夫だよ」
 温かな囁きと共に、ぎゅうっと抱きしめられて、龍樹は嗚咽を呑み込んだ。
「……何にも要らない。他には何にも要らないから……拓斗……君だけは……」
「わかってる。わかってるよ」
 子供のように泣き出してしまった息子を、母は薄気味悪そうな表情で見つめた。
「……龍樹……?」
「……すみません」
 遮るように発せられた拓斗の声は、母に向けられたもの……。
「これ以上龍樹さんを興奮させないでください。体に悪い……。話し合いは宿で……」
 それを聞くと、龍樹は慌てて拓斗にしがみついた。
「っ、やっやだ! 拓斗、側にいて」
「こら……ガキみたいな事言うなよ」
 拓斗の指が、そっと髪を掻き上げる。
 こうなるとどっちが年上か分からなくなってくる。
 龍樹は横目で母の表情を盗み見た。
 呆れつつ、薄気味悪そうにしてる様子は妙に溜飲が下がる。
「君が説得されちゃったら嫌だ」
 情けなく見えるほど甘ったるく、龍樹は拓斗の手を握りしめた。
「大丈夫だって! お母さんを送ってくるから。ね?」
 拓斗はクスクス笑い始めていた。龍樹の異状に、わざとらしさを感じているようである。
「……明日も来てくれる?」
 上目遣いで見上げれば、黒い瞳は微笑み返してきた。
 赤い舌がぺろりと唇を舐めてキュッと閉められた中に帰っていった。
「うん。ちゃんとアレもしてあげるからね」
「ん……」
 拓斗の唇が降りてきた。そっと触れ合う唇をチュッと吸い上げて、名残惜しげに引き離す。母の前でのキス。拓斗の、意思表示だ。
 龍樹は幸せそうな微笑みを浮かべ、拓斗の手を放した。


 ペンションまでのタクシーの中で、先に口を開いたのは母だった。
「あんな龍樹を初めて見たわ……。子供みたいにあなたに甘えて……」
 毒気を抜かれた桂川夫人の、呆けたような言い方に、拓斗はそっと笑いをかみ殺した。
「俺の前では大抵あんなですよ」
「……そうなの? 鬱陶しくない?」
 眉をひそめた母の言に、拓斗も眉をひそめた。
「……鬱陶しい……ですか?」
「気持ち悪いほどべたべたしたがってるように見えたわ。あなた、逃げたくならないの?」
「……俺は、可愛いと思っていますから」
 胸を張って言い切ってから、フッと溜息をついて呟いた。
「何でもひとりで出来る龍樹さんが、俺しか要らないなんて……真顔で言うんです。鬱陶しいなんて言ったら罰が当たりますよ。もっとも、最初は逃げようとしたんですがね」
「あら……」
「龍樹さんの気持ちが重すぎて……俺にはどのくらい返せるか分からなくて」
 拓斗はじっと見つめてくる母の瞳を避けるように俯き、ためらいがちに続けた。
「逃げてみて分かったんです。ホモセクシャルな関係になっても側にいたいって。泉さんとは、そう言うふうに思えませんでした」
「どうして?」
「そこまで望まれていませんでしたから。彼女が本当に必要としていたのは……龍樹さんだけなんじゃないかって……」
「あの子は……龍樹を憎んでいるわ」
「いや……それだけ激しく彼を愛しているように見えますよ。俺に身体を投げ出したのだって……多分……」
「泉の中で、色んな人格が相反する感情を持っているわ。そうした誘いに、あなたが乗ってきたのを悲しむ人格もいたのよ」
「すみません」
 拓斗は困惑したまま頭を下げた。
 龍樹の母の言は、自分の中でもずっと「なぜ?」という項目のファイルから削除されない思いだったから。
 元は妹の方にあこがれを持っていたはずである。
 ベッドを共にしたときも、その思いが背中を押したのだと最初は思った。
 しかし後日、進んで彼女を抱きたいとは思わなかった。
 欲望はあったが、彼女に触れてはならないと囁きかける理性が強かったのは。
 兄の存在があったから?
「……俺は、どの泉さんをみていたんでしょうね……」
「え?」
「泉さんの病気のこと、知らなかったもんで。彼女が見せてくれるいろんな影が、俺を混乱させました。からかわれてるんだとか、そんな風にも思えたし。その一方で、情熱的に俺だけを見つめてくる人が居た……。俺に、彼の愛情を自覚させたのは泉さんなのかもしれない。……結果的には申し訳ないことをしました」
 拓斗の揺るぎない決意を、小さくうなずいた母が理解したのかどうかはわからなかった。
「……泉が……治る可能性は低いそうよ。あの子が龍樹そっくりに振る舞うのを見るたびに頭が痛くなるわ。それだけあの子が龍樹を見つめてきたのはわかります。あなたが言いたいことも……わかるつもり。でもね。子供には親が必要で。家庭が必要なの。あなた達だけで子育てをやり通せるとはとても思えないわ」
「片親だけでも立派に育っている人はたくさん居ますよ」
「桂川家の孫をあなたには渡しませんよ。冗談じゃない」
「しかし……」
「あなた、学生でしょう? 経済的にも無理ね」
「ですが……」
「認知はもちろんしていただきます。でも、親権は放棄して欲しいわ。桂川の籍に入る気がないのなら」
「そんな……」
「……女の子なの」
「えっ?」
「あなたの子供よ。90%の確率で女の子。貴方と龍樹の家庭において、まともに育つと思う?」
「……」
「泉の二の舞にならないかしら? それに龍樹も……。あの子の独占欲は知っているでしょう?」
 やはり母だと、拓斗は思った。
 うまくいってないにしても、幼い頃から子供を見てきた目は持っている。
「私に任せなさい。学生の貴方は、勉学に集中すべきだわ」
「貴方こそ……泉さんを見捨てているのですね」
 龍樹が以前に母について語っていたときのことを思い出す。
 娘の治る可能性は否定し、孫を手にしたいという気持ちだけでいっぱいの母を。
「泉さんが……どうすれば治るのか、俺にはわからないですが。龍樹さんだけを見つめてきた彼女が、もっと大きな視野を持つためには……彼女自身が自覚をしなきゃだめだし、そのための手伝いなら、いくらだってします。でも、俺と結婚することが治療になるとは思えません。泉さんが、お兄さん以外に目を向ければ、もっと幸せになれる道があるはずなんです」
 龍樹の心にくるまれて、自分が前向きになれたように。
 自分と居ることで、嬉しそうに微笑み暮らす龍樹のように。
 その人それぞれに、補い合い、高めあえる半身はどこかに必ず居るはずだと、拓斗は思う。
「俺は……泉さんにもぴったりの人がいるはずだと思っています。ちゃんと高めあえる、同じ空気を持つ人が……」
「……そうだといいんだけどね」
 ぽつりとつぶやいた母の寂しげな表情は、以前見かけた龍樹の表情にそっくりだった。拓斗が龍樹を避け続けていたときに多く見かけた、あきらめの入った笑顔。
 寂しさや心の平安は、所有するものの量とは無関係なのだと、拓斗は一人うなずく。
 タクシーを降り、麗花のペンションに足を踏み入れるまで、沈黙は続いた。
「おかえりなさい」
 麗花の明るい声かけに、微笑みを浮かべるだけですませた拓斗は、ふと立ち止まって後に続く母を振り返った。
「……確かに俺は学生ですから。頼ってしまうことになるかもしれませんが。親権は手放しませんよ。俺にとっても……最初で最後の子供って事になりますし。俺も龍樹さんも、いつでも会えるようにして置いて欲しいです。子供の目に恥ずかしくなく映る親になる努力はします」
 桂川母は、瞬間微笑んで、コホッと小さく咳払いすると、つんとあごをあげ、麗花に部屋への案内を頼んだ。
 好奇心に瞳を輝かせながらも、麗花は黙って母を用意して置いた部屋へ連れて行った。
 拓斗は龍樹と二人で泊まっている部屋へ直行する。初日だけ一緒に眠ったベッドに身体を投げ出し、窓に繰り広げられる海のパノラマを見つめる。
 夕日に染まりながら色濃く変化していく海。
 まっさらな子供は、周りに染まりながら変化していく……。
「女の子……か……」
 龍樹はなんて言うだろう?
 子供を母に渡してしまうことにした自分を。
 女の子と聞いて、引き取って育てる自信をなくした。
 指摘される全てが手痛い事実だったから。
「自分の妹でさえ理解不能だったからなぁ……」
 自分自身がまだ不完全な人間であることを考えると、子供をまっすぐに育てることは至難の業に思えてくるのだ。
 小さなノックに遮られるまで、拓斗は子供のことを考えていた。