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悲しい試薬・第四回

「……何だか拍子抜けだ」
 車が走り出すとすぐに王河の薄い唇から呟きが漏れた。
「なにが?」
 運転席とは仕切られた、狭いながらも豪華な車内のシートに埋もれながら、龍樹は冷たい声音で尋ねた。
 王河はクックと鼻から笑いを漏らす。
 龍樹はその仕草が大嫌いだった。
 アジアの人間を、表情が無く何を考えているのか判らないと欧米人はよく言う。
 が、龍樹からしてみれば、顔の作りに対する認識不足と性格の問題だろうと思うのだ。表情の豊かな人間は何処にでも存在する。かわりに、王河のような蝋人形のような人間も何処にでも居るのだ。
「あなたを連れ出すのには、もっと手間がかかるかと思ったんですよ」
 いや、蝋人形は言い過ぎだ。
 龍樹は考え直す。
 王河は嫌みなだけ。
「餌が拓斗なら、何処にでも簡単についていくさ。僕は拓斗の犬だからね」
「居直られても困るんですが……」
「居直ってるわけじゃないよ。僕は事実を言ってるだけ」
「どうしてあなたはそういう言い方しかできないんだろう。スティーブだって、挑発されなければ……」
「挑発なんてした覚えないよ。僕らはとっくに終わっていたはずだ。君とスティーブの愛し合ってる姿を見た時点で」
「……ただの遊びでしょう? 大人げない」
「君は……本当にそう思っているのか?」
 王河の眉がぴくりと動いた。
「……ええ。ビジネスですから」
「雇い主に請われるままに身体を与えることがビジネスだと?」
「私にとってはね。身体の関係なんて、大したことじゃない」
「それでいいのか?」
「いいんです!」
 不機嫌な声は、あまり肯定的な返事に聞こえないのだが。
「……僕はダメだ。大人げなかろうと。拓斗は、そんな僕を受け止めてくれてるよ。だから僕は……」
「人間一人、独占できると本気で思っているんですか?」
「独占出来るわけないだろう? それはスティーブに言ってやれよ。彼こそ独占欲で動いてるんだからな。僕は彼のコレクションになる気はない」
 王河が辛そうに溜息をついた。
 固定されていたかのような眉が歪められている。
「あの人が本気で欲しがったものは、あなただけなのに……」
「手に入らないと思うから、執着してるだけさ。そうでなければ、僕が側にいるときに片っ端から他の男に手を出すわけがないだろう? あの頃は確信が持てなかったけど、今ならはっきり言えるさ。本当に好きな恋人なら、もっと大事にするはずだ。スティーブは、僕を恋人じゃなくて従属物だと認識してた。彼とは対等な関係にはなれない」
 王河は否定しなかった。黙って目をつぶり俯く。
「……君と違って、ビジネスも関係ないしね」
 念押しのように囁けば、腰の向こう側でぎゅっと拳が握りしめられるのが見えた。
「だが、あなたは今でも金を受け取っている」
「返せと言うならそっくり返すよ。手はつけてない。振り込まれた口座にそのままにしてある。僕が金を要求したことはないだろう?」
「……あなたって人は……」
「金で本当の心を買うことは出来ないよ。僕が心を捧げられるのは拓斗だけだもの。だから、返して欲しい。無傷で。でないと僕は、何をするか分からない」
「脅しですか?」
「ちがう。拓斗が絡むと自分でも怖いくらいに反応するんだよ。抑制するのが難しいと言ってるんだ」
「僕が行った時点で、拓斗に一つでも傷が増えていたら、覚悟したまえ。全てを捨て去っても君たちに復讐するつもりだからね」
「何故そこまで……」
「身体の関係までビジネスだと言える人たちに理解できるわけないな。僕から拓斗を盗ったら何にも残らないんだよ。それくらい、心の依存度が高いんだ」
「いつか彼自らが逃げ出すんじゃないですか?」
「ああ……そうだね。その可能性は大いにあるだろう。そうなったら僕はまともな人生を送れなくなるだろうね」
 龍樹は自嘲的なクスクス笑いで言葉を切った。
「先なんて分からない。でも、今の僕にはそれが真実。これから先どう変化していこうと受け入れるつもりだけど。他人による外力で歪められるのだけはお断りだ!!」
 言いながらギラギラした目で睨め付ける。
 思わず怯んだように身を引いた王河の、常になく見開かれた瞳に、龍樹は満足した。
「君がどう生きていこうと、僕には関係ない。君たちも、僕らにとっては邪魔なだけ。手を出すのをやめてくれないかな? 拓斗を返してくれ、お願いだ」
 優しく微笑みさえ浮かべて王河の黒い瞳を見据える。
 龍樹の「お願い」に首を横に振る人間は少ない。
 王河は、縦に振りそうになった首を慌てて横に振った。
「私にはその権限はありません」
 努めて冷たく言い放つ王河の瞳には、まだ狼狽の色が残っている。
 龍樹はふうと小さく溜息をついた。
「スティーブは、もっと真剣に周りを見るべきだな。僕なんかにかまけている場合じゃないのに。因果応報って言葉、知ってるだろ? あいつに教えてやってくれよ。それとも、完全な従属物の言葉には耳を貸さないかな?」
 王河の頬がカアッと紅潮した。
「君のそのプライドを、彼はちゃんと認識してるのか?」
「……」
「むりか。黙ってて伝わるほど君に注意を向けているようには見えないものね」
「……!」
「甘えさせるだけじゃだめなんだよ? ちゃんと伝えないと」
 瞬間視線を泳がせてから、王河はプイッと顔を背けた。
 軽いGがかかって、車が停止したとき、二人は決裂状態で互いに顔を背けあっていた。
 窓を開けて周囲を見る。
 眼前にそびえるビルは、周りの草地や海の背景にはそぐわない金属色の尖塔型だった。
「何だ、岬の向こう側か?」
 そこから車は緩やかに建物の駐車場にと滑り込んだ。
「ぐるりと回るから、結構遠くに来た気がするでしょう?」
 音もなく開く銀色の扉の奥にはエレベーターが一機あるだけの小さなホール。
 王河はIDカードを通してから指紋と網膜チェックを受けた。
 ビジターである龍樹を先に通す。
 龍樹は柔らかい感触で上昇し始めるエレベーターの、シンプルながらモダンなデザインを眺め回した。
「これは会社の持ち物かい?」
「……ええ、もちろん。開発のメインをこちらに持ってくる予定ですよ」
「予定?」
 龍樹のひそめられた眉に、フッと王河が微笑んだ。
「ええ。予定です。今は、私たちしかいない」
「……警備員はいるんだろう?」
「いえ。全てがコンピューター制御です」
「そりゃ危ない場所だな」
「後悔しましたか?」
「いや。スティーブの性格上、拓斗がここにいない可能性は低いしね。僕は拓斗を連れ帰るために来たんだから」
「強気ですね」
「そう言うわけではないが。”虎穴にいらずんば”だよ」
「彼が今回はどう出るか分からないとしても?」
「ああ……覚悟してるよ。前置きはいいから。会わせてくれないか?」
「では……こちらへ」
 無表情に作った顔で、王河がすっと壁面を押した。
 電子音の後に壁に亀裂が入る。
 デスク、電話、コンピューター。
 ややサイケデリックな配色ではあるが、無機質な部屋に、一歩踏み込んだ途端、龍樹は硬直した。
 部屋の半分向こうで白い羽が舞い踊っていた。
 ときおり青白い火花が中を飛び交っている。
 羽根吹雪の中で、白い固まりが見えた。
「……ああ、まだご機嫌斜めのままだ。あの羽根は枕のでしょう。彼は結構癇癪持ちですね」
 のほほんとした口調で王河が言った。
 シーツを巻き付けている人型は……つまり……
「た、拓斗っ!」
 駆け寄ろうとしてバチンと弾かれた。
「およしなさい。死にたいのですか?」
 王河の制止の手をはね除けた。
 足下で焼け焦げた鎖と首輪の残骸を目にし、龍樹は初めて立ち止まった。
「ふざけるな! さっさとここを解除しろ!」 
 その声が伝わったのか、拓斗が龍樹に気づいた。
 駈け寄って来て差し出された拓斗の手が、火花を散らしながら焼け焦げた。
「だっだめっ! 離れて! 拓斗!」
 後ずさりながら、拓斗が泣き出しそうに顔を歪める。
 シーツに包まれた身体は、それ以外のものを纏ってはいないようだ。
「……この首輪、拓斗につけていたのか?」
 龍樹は憎々しげに鎖を蹴り飛ばした。
「彼は、すぐ自分ではずしましたよ。なかなか行動力がおありですね」
「……前置きはいい。こんなことして、僕に一体何をさせたいんだ?」
「……見せたいものがあると言ったでしょう?」
 囁くように言った王河は、足下のボタンを踏んだ。 
 軋むような響きを持って、拓斗側の壁の一部が開いた。
 大きな犬を連れた男が入ってくる。
「……なにさせるつもりだっ?」
 拓斗は犬嫌いではないが、連れている男がスティーブなだけに、犬から離れるように壁に身を寄せた。じりじりと背を這わせながら移動している姿に、龍樹は拳を強く握りしめる。
「……先日スティーブが気に入って購入したペットなんです。ペニスが大きいというのが選んだ理由だそうです」
 しれっと冷たく言い放つ王河を信じられない思いで見つめる。
「君は……そこまで?」
「……私は従属物ですから」
 龍樹は視線を走らせた。
 どこかにあるはずのコントロールパネルを探すために。
「無駄なことはおやめなさい。彼はあなたがどう出るかシュミレーション済みです。ここは一つ、彼の用意したショウを大人しく見物して下さい」
 王河の微かな頷きが合図だったのか、スティーブの背後から二人の男が現れ、拓斗を左右から押さえつけた。
 スティーブ自身はペットのペニスをさすり、使用可能なまでに育て上げる。
「龍樹……絶対浮気をしないという君の恋人を試させて貰うよ」
 含み笑い混じりのスティーブの声は、やけに透明に響いた。