スペシャルな憂鬱・第七回



 ビリビリ言う耳障りな音に、俺は嫌々目を開けた。
「朝っぱらから、なんだよう」
 頭ががんがんする。毛穴という毛穴からアルコールが昇華して行くみたいにゾクゾクして。身震いしたまま俺はのろのろと音の発信源まで這いつくばった。
 携帯を耳に当てた途端に甲高いがなり声が聞こえた。
「高津さんっ! 何やってるのぉッ?」
 げっ
 荒崎女史の声?
 てことは……
 慌てて目覚まし時計を見る。
 ぶっこわれてた。
 壁に叩きつけたらしい。
 なんで? 俺、昨日何かした?
 いくつもの空の酒瓶に蹴躓いて二度ほど転んでから、腕時計にたどり着き、大遅刻なのに気づいた始末。
(やっべぇ……)
「ああ、ごめん。その……ちょっと……体調が悪くて」
(……何故かはともかく、それは本当だから……寒気が停まらないんだ)
「とりあえず、今日の分は渥美君にやって貰うように手配したけど。無断欠勤はやめてよね」
 厳しい口調でそこまで言ってから、クスッと笑った。
「渥美君にも、たまには……ね」
 ああ。
 そう言えば、そういうフォロー、あいつの方は初めてだ。
 とたんに俺は自分の顧客のことが心配になったんだけど。
「何があったのか知らないけど。今日はゆっくり休みなさいよ。高津君でもそういうことあるんだって、ちょっとホッとしちゃった。人が悪いね、あたし。高津君のお客様達には電話入れといたわよ」
 女史はちゃんと読みとってくれていた。
「……ありがとう」
 心からの礼の言葉が口をついて出る。
「でもね」
 いきなり潜めた声にこちらまで緊張する。
「珍しく杜野所長がすごく機嫌悪くて。そっちは自分でフォロー入れておきなさいよ」
 ああ。徹の方が問題か。
「うん。わかった。荒崎さん、迷惑掛けてごめん。明日はちゃんと出るから……」
「一昨日言ってたお店のケーキでいいわよ」
「あはは。あっち回った帰りに買ってくるね」
 少し乾いた笑いだったかも知れない。
 荒崎女史は小さな溜息をついてからお大事にといって電話を切った。
 クラリと目眩がしたのは、女史のせいじゃない。
 俺はバカになっている。
 仕事に差し支えるなんて。
「最低だ」
 躓いて蹴り飛ばした酒瓶を脇に寄せながら呟く。
 どうやら在庫を全部飲み尽くしてたらしい。
 急性アル中になるほどの量を常備しておかないでよかった。
 温風ヒーターを最大温度にしてその前にしゃがみ込む。
 とにかく寒くて。
「情けねーカッコ……」
 くそう。
 鶴母さんを恨んだってしょうがない。
 分かってるんだけど、悔しい。
 誰かを好きになるほどに自己嫌悪になっていくなんて。
 そうやってグルグルしているうちに腹の方までグルグルしてきた。
「うっ」
 慌ててトイレに駆け込む。
 汚い話だが、昨日の夜から口にしたものがまんま出た。
 かきピー以外は、ほとんど水分。
 ここ数日セックス無しだったから助かったが、それでも尻はヒリヒリと痛んだ。
 未消化の固形分が粘膜を傷つけ、そこをアルコール混じりの水グソが逆撫でしたんだ。
「くうううっ」
 尻を洗う温水までがしみやがる。
 便器に座り込んだまま、頭を抱えた。
 あんなに飲んだのに。
 鶴母さんの言葉は相変わらずわんわんと頭の中で響いてる。
『君、佳織さんと結婚しない?』
 その言葉に耳を貸してしまった途端に口元が自然に歪んだ。
 泣き出すときの歪み。
 戦慄きが不随意運動のように襲ってきた。
 頬を伝う涙は、止めどもなく勝手に溢れ出てくる。
「くやしいっ。何で俺ばっか…………っ」
 誰もいないここでなら、声を上げても大丈夫。
 そう思ったけれど、自然に声を殺して泣いた。
 既に癖になってるんだ。
 いつも寂しかった。
 徹がすっきりした顔で帰っていく背中を見送るとき。
 先輩が、結婚するんだって言いながら女の写真を見せたとき。
 一人で飯食いながら、テレビの向こうで寄り添う恋人達を見たとき……。
 みんながつがいで嬉しそうにしてる。
 俺の横には誰もいないのに。
 紅乃みつるの本に出てくる男は、けして女を強姦したりはしなかった。
 女がその気になるように、巧く盛り上げていく。
 足を開いて、男を誘い込むようにさせるんだ。
 なのに、何で書いてる本人はああなんだろう……。
 そう思った瞬間、ピクッと身体を戦慄が走った。
 後に続く尻のヒリヒリ加減が、やった後を思い出させた。
「ふ……」
 思わず声が出る。なんで?
 俺は前で項垂れてる筈の息子を見つめた。
 ぐぐっと立ち上がり始めるそれは、思い出した雌の感覚に誘発されたもの。
 一緒にアナルがひくついた。
 ……どうしよう……急に欲しくなった。
 滅茶苦茶に身体を痛めつけたい衝動にかれらた気分。
 頭に徹の置いていったバイブが浮かんだ。
 グリングリンとどでかいかま首を回転させる凶悪なもの。
 でも、今は糖蜜のように甘い期待を起こさせる。
 あれ……いれたい……。
 そう思った途端に俺の前は完全に硬くなっていた。
 あれを、ローション無しで突っ込んで……ぐちゃぐちゃに動かして…………
 痛くってもいいんだ。どうせ俺なんか……
 俺はバイブを探した。
 どうもしまった記憶がなかったから。
 クローゼット、タンス、果てはキッチンまで。
 ゴムやローションと一緒にもしてない。
 ……ベッドの下か?
「おっかしいなぁ」
 床に這うようにしてベッドの下をのぞき込む。
 よく判らないので、結局マットレスまでひっくり返してみた。
「無い……無いよ」
 無いとなると、何故かよけいに欲しくなる。
「……どうしようっ俺……」
 体が変だ。
 熱くて……とても熱くて……誰もいないのに焦らされてるような気分。
 慰めの指を自分のに絡めながら、バイブを探し、やがて観念した。
 無いものは……無い。
 考えられるのは……鶴母さんが持ち帰った可能性。
「……っ」
 俺は切ない気分で更に奥に指を這わせた。
 腕が、張りつめたペニスを擦る。会陰から、指先を這わせながらそこを探った。
 くちゅっと湿った音。
 がくりと膝の力が抜けた。
 ずぶずぶと指を差し込みながら、肩が引きつれる思いで床にはいつくばった。
 尻だけを高くかかげて。
「うっはあっんん」
 俺のここは、こんなにも雄を欲しがってる。
 何も付けなくたって、こんなに濡れるほど。
 肛門部は、さすがに堅くこわばっていても、中は……欲しくて、マグマが煮えたぎる様子にたとえたくなるほど。
「ああっ、鶴母……さ……んんんっ。邦……お……さあああんっ」
 中指と人差し指を根本まで突っ込むと、俺の腕はペニスと睾丸を押しつぶすように突っ張る。
 自然に腰が揺れ、動きと共に指が出入りしてしまう。
 足りない……足りないようっ。
 おっきいのが欲しい。もっと奥に、熱くて太いアレを……!!!
 俺は何度も鶴母さんの名を呼んだ。
 昼間は、両隣が留守だから、声を出したって大丈夫。
 がくがくする腰を思いっきり振りながら、それでもイけないもどかしさに涙が出た。
 かつんと甲高く無機質な音にハッとする。
 足が、隅に置いた空き瓶に当たったらしい。
「あ……あ……あ……」
 先走りだけが床に模様を作ってる。
 内股は、アナルからの分泌液がほんの少し垂れ落ちてきていた。
 なんて、今の俺、みっともない……
「くうっうっうぅっ」
 苦しさだけじゃない涙があふれ出た。
 こんな俺、誰も愛してくれる分けない。
 こんな……みっともない俺………………
 俺はどっぷり自己憐憫と自己嫌悪に浸ってしまった。
 だから、その音に気づかなかった。
 カチャッと鍵の回る音に……。
 いや、その前のインターフォンの音にも。
「陽介君!」
 その低くマイルドな声が俺を呼んだ瞬間、俺は固まった。
 全身凍りつき、指を尻にはめたまま涙に濡れて歪んだ画像しか写さない目を、声の主に向けた。
 あこがれの美貌は、目を剥いたまま凍りついて俺を見下ろして……
 喉から、空気が抜ける音がした。
 悲鳴……?
「うわあああああっ」
 声が出せた瞬間に、俺の金縛りは解け、慌ててぬめった指をパンツで拭きながら座り込んだ。下着を上げ損ねて、妙な皺が出来てしまったけど。
 とりあえず息子を隠れさせることは出来た。
「なっなんで入ってくんですかっ?」
 さ、最悪。
 バイブ転がして座り込んでるのよりも、アナルに指突っ込んでるとこの方が更に……最悪の場面じゃないか?