スペシャルな憂鬱・第六回

「なんで……」
 俺の中には二度と入らないって言った。
 俺の鍵を投げつけてきた癖に。
 なんで抱きしめたりするんだよ。
 俺はぐっと腕を突っ張らせて徹をひっぺがした。
 たったそれだけのことで、徹は傷ついたような表情をする。
「こんな所で、何やってんですか?」
 わざとつっけんどんに聞いてみる。口調も仕事の時と同じに。
「そう出るか……」
 徹はふっと溜息をついた。瞬間胃液の混じったアルコール臭。
 酔っぱらいだよ、こいつ……。そういや、徹っていっくら飲んでも顔色かわんなかったっけ。
「俺、何か仕事残してましたっけ?」
 そう。徹とは仕事だけにしなきゃ。身体だけってのは止めたんだから……。
「どうした? ……肩、震えてるぜ」
 笑みを含んだ声音が癇に障った。
「かっ関係ないじゃないですかっ」 
 嫌だ。酔っぱらいの癖にいつもと同じ余裕の響きの低い声。勝手に身体の方が反応してる。
 全身にやばい戦慄が広がっていくのが抑えられない。
「そうだな……。関係ないよな」
 クックと笑いながら、もう一度俺を引き寄せた。
 あらがう俺の力をものともせずに。
「……片思いは辛いだろ?」
「……やめてください!」
 寄せてくる唇を避け、徹を突き飛ばそうとした。
 ガッと腕をねじ上げられ、逆に深く貪られる。
 徹は俺の弱点をよく心得てる。
 悔しいよ。身体が反応するなんて。
 やっぱ俺……
「おまえ、やはり淫乱だな。もう火がついただろう?」
 自分で思ってたことでも、人に言われるとカッとする事ってあるよね。
 俺は、徹の囁きがなかったら墜ちてたかも知れない。
「……バカ野郎!」
 渾身の力を込めて奴を突き飛ばした。
「いッ淫乱だってなんだって、やなもんはやなんだよ!」
 徹が好きだった。
「そっそんなふうに言う徹なんて……!」
 本当に好きだったのに。
「きっ嫌いなんだからっ」
 ぴくっと歪ませた徹の顔つきは、ものすごく痛い打たれ方をしたって言ってた。
 ガッと地面を蹴る音に俺は身構えたのだけど。
 徹は俺の足下に取りすがった。
「陽介……! 俺といてくれ! 女房とは別れるから! 何もかも捨てるから!」
「なっ何言ってんだよっ! 子供! 子供居るだろっ」
「いいんだっ。あいつは女房が引き取るからっ」
 俺は顔もよく覚えていない親父を思い浮かべた。
 俺達を捨てて他の女の所に行った親父……。
「そんな身勝手、俺は嫌いだ」
 低く響いた俺の声。ブリザードが吹き荒れそうなくらい冷たかったと思う。
「徹さ、酔っぱらって血迷ってるだけだよね。後でそんなこと言ったこと、絶対後悔する。徹の子供を、俺みたいに親父の居ない子供にしたくないよ。頼むから、俺のことはもう……」
 鍵を投げつけたときの徹は、かっこよかったのに。
 今の徹は、酒に支配されてるんだ。
 徹は何か言いたげに潤んだ眸で俺を見上げたけれど。
 カタンと音がして、俺達は飛び退いて離れた。
 音の方向は、隣家のドア。そっと隙間から覗いていた影があった。
 やばい。聞かれてたかも。
 ワンルームなだけあって、住んでいるのは独身の社会人か学生ばっかりだが、そこだけは夫婦者だった。名字違うから内縁かな?
 すっと動いた影の感じでは女の方。
 やばいよ。あの女、ラウドスピーカーじゃなかったっけ?
「徹、お願いだから帰って」
 徹も、女の気配に慌てて立ち上がった。
 そそくさと帰っていく姿は、やはり以前と同じだ。
 明日……会社ではどうなるかなぁ。
 徹がどう出るか、少し不安。
 場合によっては俺、会社やめなきゃかも。
 ずーんと気分が重くなったまま、俺は自分の部屋に入った。
 火がついたはずの身体は冷え切っている。
 留守電の再生ボタンを押しながら、俺はネクタイを解いた。
 幾つかの無言のメッセージ。
 さすがに今日は悦ちゃんのメッセージはない。
 一つ一つ確かめては消去していく。
 最後の再生は……と。
 こほんという咳払いが微かに聞こえて、俺は硬直した。
「ああ、鶴母です。今日はありがとう。今日一緒にいた佳織さんのことで話がしたいんですが。電話まっています」
 つつつっ鶴母さんから電話っ!
 俺はいっぺんに石化した。
 佳織さんとの事って何?
 電話……俺からの電話を待ってるの?
 俺は、震える指先で、そっと暗記している電話番号をプッシュした。
 どっちが出る?
 今夜は二人ともいるはずで……
 5回目の呼び出し音で、俺は気が遠くなりそうになってた。思わず切ってしまいそうになるほどに。
「はい。鶴母です」
 低い張りのある声が出て、心臓のバクバクが一段と大きくなった。
「あ、あの、陽介です。今、留守電聴いたんですが」
「ああ! さきほどはどうも」
 途端に一オクタープトーンが高くなって、朗らかな声になった。
 鶴母さんが、俺を身内として認めてくれるんだって言うフランクな声。
 それだけで、俺は口元に笑みを浮かべていた。
「あの……佳織さんの事って、何ですか?」
「うん……それがね……」
 あ、また沈み込んだ。なんで? 嫌なこと?
 たっぷり2分間ほどの沈黙の後、鶴母さんの声はおずおずとした調子で響いた。
「君、彼女と結婚する気ないかな?」
「はあっ?」
 俺の素っ頓狂な声は、とがめ立てする響きを隠せなかった。
 だって……鶴母さんは知ってるのに。
 俺がゲイだって事。ちゃんと告白したのに。
 俺の言ったこと、何にも頭に入ってなかったって事?
 それとも、俺も彼女も邪魔だから、まとめてやっかい払い?
 ぐるぐると、そんな考えが浮かび上がってはふくれていく。
「……何で……そんな……」
「ああ、いきなりそれはなかったか。すまん。説明させて」
 ……なんて声は言ってたけど、俺は受話器を置いた。
 後で悦ちゃんに叱られたら、ちゃんと言おう。
 鶴母さんだってひどいんだって。
 俺のことも……告白して置いた方がいいかな。
 佳織さんのことはおいといても。
 ああ。
 今夜は踏んだり蹴ったりだ。
 仕事もやばい。
 好きな人はデリカシーに欠けてる。
「……バカ野郎……。みんな、バカ野郎だ……」
 その日、俺は秘蔵のブランデーを出してきて、一人ストレートで煽った。
 ベロベロになるまで……。