スペシャルな憂鬱・第五回
「高津悦子の弟です。そちらこそ……どなたですか?」
こんな時でも営業感覚のしゃべり方になる。
相手が誰だか判らないから。
俺の名乗りに、向こうは瞬間息を呑んだ。
「とにかく、お入り下さい」
鈴を振るように響いていた声は、低く疲れたようにそう言った。
エントランスを通り抜け、エレベーターで6階へ上る間に、動悸がどんどん大きくなっていく。
声の主を確認したくもあり、怖くもあり。それに……腹立ち。
あの女……なんなんだよっ。
声の感じでは、可愛い系のノリだ。悦ちゃんとは全然違うタイプ。
鶴母さんと、どういう関係?
605号室の前で深呼吸した。
再度呼び鈴を押す。
「はい……」
ああ……今度は鶴母さんの声だ。
今、この中には少なくとも二人……
そんなことぐるぐる考えてたら、ドアが開いた。
その向こうに憧れの微笑みがあった。
「やあ、陽介君、急にどうしたの?」
どうしたの? じゃありません! 中にいる女はなんですか?
鶴母さんに姉妹は居ない。弟が一人居るだけ。そういうデータが全部空で言えるくらいには、彼のファンなんだ。
両親は健在で、北海道に住んでるはず。
そんなところに結婚相手じゃない女って言ったら……従姉妹?
いや、仕事関係……。
そうだよ。なにも疑うような関係ばっかじゃないじゃん。
俺ったら、邪推ばっかして嫌な奴だ。
そう思ったら、急にカアッと頭に血が上った。
「あの……」
ん? と覗き込んでくる気配を感じながら、俺は俯いて握りしめていたケーキの袋を見つめた。
「あの…………」
ケーキを一緒に食べたかったなんて言えねー。
「姉は……いますか?」
ガキみたいな台詞だよ。気のきかない……。
クスって声が聞こえた。ホントに微かに、息が漏れるように。
「とにかく入って。悦子は買い物に出てるだけだから、もうすぐ帰ると思うよ」
ああ……さっきのインターフォンでのやり取り、聞かれてるんだ。
うわーーーーーっはずかしいっっ!!!
俺は、中に入らずに持っていたケーキだけを鶴母さんに押しつけた。
「え?」
「あのっ、美味しいケーキ……悦ちゃんが好きだから。食べてください! それだけなんで……」
尻がどんどん後ずさりする。
「俺、この辺で……」
脱兎のごとく、逃げ出し……たはずだったのに。
腕を掴まれていたんだ。
鶴母さんの温もりが、じーんと腕から広がっていく。
「放してください!」
心にもないことを叫んだ。
……俺だけを抱きしめてくれたら……どんなにすばらしいだろう。
実際には、パッと手放されて、ガクンとつんのめった。
途端に寒くなる。
「陽介君、出来れば悦子が帰るまで居てほしいんだけど」
低く囁かれた声と一緒に、息がかかって飛び上がった。
鶴母さんは、自分の方が外に出てきてしまったんだ。ケーキを片手に持ったまま。
思わず見上げた先には涼しげな瞳が微笑んでる。
くらーっと来て、思わず頷いていた。
「中の彼女ね。ちょっと変わってて。二人で気詰まりだったから、助かったよ」
助かった? 俺が役に立つの?
すげー、うれしい!
内心スキップ踏みたい気分で、俺は神妙な顔のまま中に入った。
以前来たときに座ったソファまで案内される。
俺は無意識に女の姿を探していた。
気詰まりだと言われるその人は……鶴母さんの何?
親戚じゃないよね。
鶴母さんは俺の持ってきたケーキをキッチンに持っていったんだけど。
雰囲気から言って、彼女はキッチンにいるらしい。
ふうん……キッチンに入れるくらいの人なんだ……。
やがてお茶と一緒に現れたその人は、声とイメージの合う雰囲気だった。
いうなればパステルカラーな人。
くりっとした瞳とか、フワリとした雰囲気とか、レースと生クリームが似合うアイドルによく居るタイプ。
彼女を見たとたんに俺の胸がちくりと痛んだ。
あまりにも彼女が、高校時代に好きだった友人の好みのとそっくりだったから。
「どうぞ」
屈んでお茶を置く動作もしっかり綺麗。
こんな人と比べたら、悦ちゃんががさつに見えちゃうよ。
「あ、どうも」
おたおたと礼を言った。
彼女はフワリと微笑んで、俺の顔を覗き込んだ。
「初めまして。佳織です。こちらのお隣に住んでますの」
ホホホと効果音が付きそうな語り口に面食らう。
「は、ども、俺、いや僕は……」
「高津陽介さんでしょ?」
クスクスと笑いを漏らして立ち上がる。
「おねえさんにそっくりなんですね」
「え、そ、そうですか?」
ガキの頃はよく言われたけど。性別的なことがしっかり特徴になって出てるから、今はそんなに似てないと思うんだ。
「目元や口元と、雰囲気がね。姉弟だってすぐ判ります」
ニコニコしながら言われて、何となく恐縮。
お嬢様っぽいんだよ。それも、ちゃんと作法の身に付いた本物……。
うんや、それ以前に、お隣のネーちゃんがなんでここでお茶入れてんのさ?
鶴母さんは気詰まりだって言ってるし、まさか誘惑に来てるわけ?
それにしても、二人ともよそよそしいよなぁ。
「陽介君はどれにする?」
ケーキサーバーと皿とフォークをそろえて、鶴母さんが箱を開けた。
ああ……5個買ってきてよかったな。
一人に一個ずつなんて事にしたら、足りないところだった。
「いや、俺は、どれでも平気ですから。最後に……」
だって、ケーキ選ぶ時って、自分の嫌いなものは選ばないだろ?
人に贈るときだって、自分の苦手なものは避けちゃうよね。相手の好物とかなら別だけど。
ああ、鶴母さんの好物って……なんだっけ?
えっとえっと……
あ、苦手なものなら……キウイフルーツ……だったっけ。
ふと見て、果物系のケーキにはほとんどにキウイがのっていた。
俺は、慌ててキウイが沢山のった奴を選んだ。
佳織さんはチョコレート系、やっぱり鶴母さんは酒が強そうなサバラン系を選んでる。
「あ〜! ずるい〜」
悦ちゃんの叫びは、まさに俺達が一口目を口に入れそうになっていたときに響いた。
「悦子のもあるよ。二つのうちのどっちかえらんで」
鶴母さんが微笑みを含ませた口調で言った。
「うーん、じゃあ、チョコの」
「うん」
返事は鶴母さん、でも、動いたのは佳織さんだった。
「はい、悦子さん」
おい? 今、ハートが付いてなかった?
しかも、瞬間鶴母さんを睨まなかった?
咄嗟に俺は鶴母さんを伺った。
鶴母さんは、俺に向かって目配せするように微笑んだ。
(ほらね)って、言ってる。……多分。
わ……。気詰まりって……そういうこと?
この女、俺と同類か?
「陽介さんが買ってきてくださったんですよ」
悦ちゃんが帰ってきた途端、はしゃいだ様子を見せる佳織さん。
まさか……。
「あの、佳織さんて、ただのお隣じゃないでしょ」
姉を廊下に連れだして、問いただしてみれば。
「ああ見えて医者よ。大病院のお嬢様。同じ職場なの。粗相のないようにね。どうやらあんたのこと気に入ったみたいだから」
ウインクをして言う姉の様子は、面白がっているようだった。
「だけど、あれ……」
「ちょっと変わってるけど、いい子よ」
変わってるって……ねえ、姉ちゃん狙われてるよ?
いいたくても言いにくかった。
なんでわかるの? って聞かれても、同類だからとは言えないじゃん。
「……鶴母さんは気詰まりだって言ってたよ。大丈夫なの?」
「彼はいいのよ。わかってるもの。佳織ちゃんもそのうち判るわ。あんたこそ、どうした風の吹き回しよ?」
「今日、仕事でやなことあってさ。でも、別の所でケーキごちそうになって、そこのが美味しかったから……姉ちゃん達にもと思ってさ」
「それはそれは……。この間彼が様子見に言ったときは、ちょっと風邪気味だったんだって? 電話、ちゃんと出るようにしてよね」
「うん……ごめん……」
鶴母さんたら……そういう言い訳してくれてたんだ……。
「なんかね、迷惑掛けちゃったから、お礼も兼ねてたり」
ぺろんと舌を出す。照れくさいときの俺の癖。
「数は多めにしといて助かったな」
「うん。そうね」
ニッと笑った悦ちゃんは、何となくニヒルに見えた。女の癖に、ニヒルって……。なんだかね。
「えつこさぁん」
ああ、またハートつきの声が。
悦ちゃん、ちょっとやばいかも……
「二人でなんの内緒話?」
佳織さんが割り込んできたので、俺達は話を切り上げ、リビングに戻った。
鶴母さんが、俺達を目で追ってるのを感じた。
俺を見てるんじゃない。きっと、悦ちゃんを見てるんだろうに。
それでも俺はドキドキしてしまう。
「邦ちゃん、そっちのも一口!」
姉が突き刺すフォークのために、皿を差し出した鶴母さんは、優しげな笑みを浮かべてた。
くそう、ラブラブじゃん!
そう思って、二人を見たんだけど。
なんか変な感じ。
悦ちゃんと鶴母さん……結婚前なんだよね?
なのに……何となく……。
ラブラブな筈の光景の、全体色は寒色系だった。
ゾクリと背筋を走ったのは、何とも言えない悪寒。
俺の中の醜い部分がそう思わせたんだろうか。
鶴母さんが、悦ちゃんのものなのが悔しくて仕方のない俺の……
喉を通った気のしないケーキが、胃の中深くでぐずぐずに焼け焦げていくような気がした。
「陽介さんは、この結婚に賛成なの?」
結局夕飯も食べた後、605号室を出た途端、一緒に出た佳織さんが言った。
「俺に口出しする権利はないんですよ」
佳織さんは小首を傾げて俺を見つめてる。なんで俺にそんなこと聞くんだろうね。
だから、思わず付け加えてた。
「……あなたにもないはずですよ」
形の良い小さくて厚ぼったい唇が、クッと歪められた。
「……そうね……」
身を翻すように隣の606号室に入っていく後ろ姿は、何だか寂しい。
同じような立場のあの人に、俺は意地悪を言ってしまったんだな。
「でもさぁ、ノン気に惚れても……辛いだけなんだよ?」
その呟きは、何よりも俺自身をばっさり切り開いたのだった。
とぼとぼとエントランスを抜けて、アパートへ帰る。
車は近くの100円パーキングに止めた。深夜は割安になるしね。
ずっと頭に張り付いてとれないのは、あの訳の分からない肌寒さ。
佳織さんがいたせいだろうか?
ぼんやり考えながら、玄関までたどり着いて、人の姿を見つけた。
「遅くまでどこ行ってた?」
俺を認めると、よく通る声がそう言った。
徹……。なんで?
その場で立ちすくんでしまった俺に近づいてきた徹は、何だか悲しげな微笑みを浮かべてる。
俺はただ、徹の顔を見つめてた。
何でとどうしてと、今更って言葉がぐるぐるしてる。
徹の腕がグイッと俺の身体を抱き込んだときも、俺はまだでくの坊のままだった。