スペシャルな憂鬱・第四回
「こんにちはぁ」
挨拶は元気よく、が、俺のモットー。
俺の顧客である歯医者さんは、結構わがままも言う。
材料紹介や調達以外に、引っ越しの手伝いやら、飲みに言った先から帰る時の脚代わりに呼び出されることもあり。特に年輩の先生にそういう人は多いんだ。
材料屋なんて、捻ってつぶせる人種だと思ってる人もいる。
それでも、にっこり笑って善処すれば、少しずつあたりは柔らかくなるもんで。
「あれ? 高津さんご機嫌ですねぇ」
受付の女の子が笑いながら院長に取り次いでくれた。
大きな荷を納品の時は、上がり込んで奥まで運び入れることもあるけど。
大抵は先生が受け取りに出てくる。
「済みません。ご注文のスポンゼルの納品が、来週になっちゃうんですが」
「うわ、きついなぁ。ちょっと足りないかも知れないよ」
さして困っても居ない口調で院長がいう。
ドクター一人に女の子二人で椅子3台という一般的な個人開業医で、結構ハンサムな青山先生は、独身でもあり女性患者が多い。
俺なんかに時間を割くほど暇な訳じゃないのにね。
「高津君が入り次第届けてくれると嬉しいなぁ」
つまり、決まった曜日以外に来いってことね。
「わかりました。入荷次第お届けします」
注文をうけて、さようなら。
そうやって、日に何件も回る。
俺の顧客はまあ、いい人の方が多くて、大変助かってるのだ。
この日はコンビニで昼飯を買って、日陰に車を止め、食事をしてから昼寝をした。
昨日の夜は眠れなかったんだ。
鶴母さんが部屋にいてくれた。
泊まってくれなかったけど、俺の部屋に座って、呼吸して、飲み食いしたんだぜ。
バスルームまで赤ちゃん抱っこで運ばれたりもした。
空気が全部鶴母さんがらみで、興奮していたんだと思う。眠れたのは三時過ぎだった。
俺は夢で彼に抱かれ、しっかり下着を汚しながら目覚めた。でも、気分は幸せ。夢の余韻で、朝から鶴母さんの名を呼びながら二回も出しちゃった。
ご機嫌なのが読みとれちゃったのは、ちょっとまずいけど。
徹だって気づいたはずだから。
でも、徹は何も言わなかった。
あんな事の後じゃ、お互い気まずいというか。やっぱり、視線を合わせるのは避けちゃった。徹にしてみれば、俺が妙に機嫌よくて気持ち悪かったかも知れない。
携帯がブルッて、俺は起こされた。
「はい?」
「高津さん、今どこ?」
忙しない口調は荒崎女史だ。
「あ、青山先生のとこの近くだけど?」
「緑園の波崎先生の所に、デントロイド、届けてあげてくれない?」
「って、渥美は?」
「病欠。顧客に電話連絡だけはしたらしいけど、急ぎだって噛みつかれちゃったのよ。あそこ、一つもまともな注文しないくせに、こういうときになると大騒ぎするのよね。あなた、持って出たのがあったでしょ? 行ってよ」
「だって、それ、三宅先生の所の分……」
言いかけて、まだ余裕があるという言葉を思い出した。
「わかった。まわっておくよ。三宅先生の所には明日届ける」
「わるいわね」
「いや、相身互い」
俺は電話を切って、伝票を取り出した。三宅先生の分を書き換え、波崎先生のを作る。 こんなことはありがちだ。
今回のようなこっち都合じゃなくても、よくある話。
俺達は、頼むの忘れてたけど、すごく急いでるなんて言われても、最善の努力を強いられんだ。
俺はいつものルートの途中に、遠回りの形で波崎歯科に寄った。
「ああ、君、渥美の変わり?」
まず、渥美と呼び捨ての時点でかちんときた。
波崎先生は、フフンと感じの悪い笑みで口元を歪ませてる。
三日月顎が、自信家なんだろうなって思わせて、目に付いた。
俺は、精一杯の親しみを込めた笑みでそれに応酬した。
「はい、高津と申します。ご迷惑おかけして済みませんでした」
頭を下げながら注文の品を渡す。
「病気だか何だか知らないけど、いきなり来れないじゃ困るんだよね。他の品は?」
「ああ、申し訳ありません、出先で連絡を受けたもので、デントロイドしかお持ちできなかったのですが」
「つかえネーなぁ、ガキの使いじゃあるまいし」
吐き捨てるように言われて、ぐっと来た。
「申し訳ありません、明日用意させていただきますので」
更に深々と頭を下げる。
(お客様は神様、お客様は神様……)
「ねびき、してよね」
う。既にここには3割引で納品しているはずなのに。
「申し訳ありません、本社にて検討させていただきますので」
「君ね、そのくらい自分の裁量で出来ないの? 迷惑掛けたんだからさぁ、当たり前でしょう?」
「僕にその権限はないんです。出来る限りはさせていただきますので、お許し下さい」
頭を下げつつじりじりと後ずさり、何とか確約せずに出てきた。
客の前では笑顔忘れず。
なんて呪文のように唱えて、深呼吸。
「渥美〜。恨むぞぉ」
大体、渥美の病欠なんて、大抵は二日酔いなんだから。
「なんで俺が、渥美のせいで使えネーとか言われなきゃなんないわけっ?」
そんな愚痴を、以前は徹にぶつけていた。ベッドの中で。
今は……ラジオの音を大きめにした車の中でぶうたれる。誰にも聞こえない、俺だけの空間で。
三宅先生にも頭を下げ、回る日じゃないけど納品に伺う確約をした。
「え? いいよぉ、次の火曜日で。明日は別の所まわるんでしょ? うちはそんな急いでないもん。ねえねえ、それより、お茶、飲んでかない? 今日は患者さんがケーキくれたの。あたし達、二個ずつ食べそうに見えたのかなぁ」
そんなことを言いながら笑っている。
のんびりやの女医さんは、アシスタントの子達とお茶の最中だったらしい。
「うわ、ぼくなんかにいいんですか?」
「いいよぅ。手伝って貰えれば御の字だもん。ほら、全部食べたら太っちゃうじゃん」
グイグイ引っ張り込まれた狭い医局で、紅茶とケーキの箱を出された。
「緑園のケーキ屋だけど、結構美味しいとこなのよね。どれにする?」
並んだケーキは三個。チーズもの、チョコもの、フルーツものの三つ。
「あたしら一個ずつ食べたから、好きなの選んでいいよ?」
ホントにどれも美味そうだった。
で、俺はフルーツものを選んだ。先生がキウイ苦手だって行ってたのを思い出して。
「じゃ、これ。でもホントにいいんですか?」
「どうぞぉ!」
アシスタントの子がケーキを更にとりわけてくれてる間に、患者が来たらしく、先生ともう一人は診療に出ていってしまった。
独特な機械音の間で、患者らしき笑い声も聞こえてくる。
「先生、また変なこと言ってるんですよ。ほら、言い回しが変でしょう? それが患者に受けるらしくて」
残った一人の解説を受けて、俺は紅茶をすすりながら様子をうかがった。
本当に、歯医者って個性があるよな。
そこのドクターによって、全部雰囲気が違うんだ。
大抵は従業員や患者とうまくいってれば雰囲気が和やか。
と言っても、三宅先生のはちょっと、らしくなさ過ぎかなとも思うけど。
大体、食い道楽だから、患者も気を遣うんだろう。
紅茶はフォションのオレンジペコ。ケーキは無名だけど、噂になる程度に評価を貰っているところらしく、確かに美味い。
これは、こんな緊張の場じゃなかったら、もっと美味しかったろうに。
そう、好きな人とお茶……あの人、ケーキ好きかな。
ここのなら、そんなに甘すぎたりしないから、きっと……
そうだ、昨日のお礼に……。
「緑園の店って言ってましたよね、場所教えて貰えませんか?」
俺は食べ終えた途端にアシスタントの一人に尋ねていた。
「駅から車で一分くらいですよ。サンステージのマンション群を越えて信号右折したらすぐ角です。結構遅くまでやってますよ」
「ありがとうございます!」
俺は仕事抜きで頭を下げていた。
(今日の帰り、行ってみよう)
悦ちゃんだって好きだったもんな。ケーキ。
るんるん気分で残りの仕事を済ませ、今日だけは残業抜きで帰らせて貰った。
教えて貰った店は、悦ちゃん達の新居に行くのに、ちょっと遠回りすればいいところ。
さすがに夜遅くなると種類はすくない。それでも常時50種類と謳うだけあって、20種類くらいは並んでいた。
俺の好きなタイプのフルーツもの。悦ちゃんの好きなチョコレートもの。鶴母さんはなんだろう?
そうだな、お酒の効いたタイプのを……
注文を済ませ、包んで貰ってる間、俺はにやけてしまう顔を片手で拭いながら考えた。
ついこの間まで絶対近づいちゃいけないって思ってたのに……。
ケーキなんか買っていそいそ訪ねようとしてる。
行けば悦ちゃんとイチャイチャしてるかも知れないのに。
俺……まっすぐ見てられるかなぁ。
ふと不安に駆られた。
でも、ブレーキを踏もうとは思えない。
ちゃんと今夜を過ごせれば、あの人を兄さんて呼べるかも知れないじゃん。
うん。うだうだしてないで、確認しよう。
それで、あきらめるんだ。
車の中でひとりごとを呟きながら、新婚の新居にたどり着いた。
エントランスに入って、部屋番号を押す。
禁断の……6・0・5……
ぷるるるるる……
インターフォンの呼び出しは電話みたいだ。
そういや、この間は悦ちゃんの鍵で入ったんだっけ。
しばらく呼び出し続けたあげく、ガチャッと受話器をあげる音が鈍く響いた。
「はい?」
訝しげな声。女の……。
俺は瞬時に固まり、自分の押した番号を液晶画面で確認した。
605……確かに……
「どちらさまですかぁ?」
悦ちゃんじゃない声が、念押しのように響いた。