スペシャルな憂鬱・第三回

「……俺、ホモなんです。気持ち……わるいでしょ?」
 長い長い沈黙が耐えられなくなって、俺は呟いていた。
 ただのマゾだと思われるよりは、この際理解を得たい。
 隠せる状況じゃないんだから。
 そういう気持ちが働いた台詞だったと思う。
 シーツをかぶっていて、鶴母さんを見ないままだったから言えたのかも知れない。
 けれど、鶴母さんの気配は相変わらず固まったままで。
 言わない方がよかったと思い始めた頃。
 フワリとシーツ越しに頭を撫でられた。
「そんな言い方は……しないほうがいい。君は自分で自分をおとしめている」
 掠れて苦しそうな声音が辛かった。
「無理しないでいいですよ。慣れてるから。ただ、悦ちゃんは知らないので。義理の弟がこんなじゃ嫌かも知れないけど。俺、近寄らないようにするから」
 だから、俺を見ないで。嫌わないで。
 頭撫でてくれただけで満足です。汚いもののように蹴り飛ばされなかっただけで嬉しいから。
「帰ってくれませんか?」
 鶴母さんが何か言おうとする前に、俺はまくし立ててた。
 あの艶やかなバリトンを聞いたら、また腰が砕けちゃう。
「いやだね。用がまだ済んでない」
 鶴母さんの断固とした言い方は、怒ってるみたいだった。
 やっぱり俺のこと、いやなんだな……。
 今日は最悪。何もかもが最悪だよ。
 徹を捨てた罰なのかな……。
 俺だけの恋人を望むのはそんなに罪なの?
 ううん。姉ちゃんの旦那になる人に懸想したからいけないのかも。
「……じゃあ、早く用を済ませてください」
 でもって、帰って。一人になって泣きたいんだから。
「そのまえに。お茶でも入れようかな。君、夕飯は?」
 俺は黙って首を振った。喰ってないし、要らないんだよ。
「全く。悦子が心配するわけだ……」
 はあと溜息をついて呆れたような声音と同時に俺はフワリと抱えられた。
「ななななっ……! なにすっなっなに?!」
「何時までもそんな格好でいられちゃ困るんだよ」
 汚れた洗濯物のようにシーツごとバスルームに放り込まれて。
 初めて俺は布から顔を出して彼を見つめた。
 無表情に強張った顔の、目だけが悲しそうに見えた。
 ツキンと胸のあたりに痛みが走る。
「シャワーを浴びてきたまえ。その間に用意しておく」
 くるっとむけられた背中のたくましさに、ドキッとする。
 真っ白なポロシャツとカーキ色のチノパン。適度に緊張している布地が、豊かな筋肉のうねりを教えてくれる。キュッと締まったウエスト、すんなりとした腰のライン。まっすぐな長い脚……。完璧だ。その上、声は腰に響くし。こんな状況なのに、冷静でいてくれる。
 あの人を独占できる姉に嫉妬を覚えた。
「……女に生まれてたら……悦ちゃんの代わりになれたかなぁ……」
 呟いてみて、無理だと思った。
 人間が違うよ。勝ち気だけど思いやりいっぱいで。根性あって優しくて。
 見た目が似てたって、全然中身が違うんだ。
 どうすれば俺は変われるのかな……
 そんなことを考えながら、のろのろと身体を洗った。
 最後に残ったそこに触れたとき。また胸がキュッと痛んだ。
 そっと扱いてみて、さっきの熱が舞い戻ってくるのを感じた。
「あ……あ……んくっ」
 シャワーを最大量にして、熱い雨の中に身を委ねた。両手で包み込むように揉んでみる。ギュギュッと力を込め、亀頭を指で擦りあげてみて。
「ああっいいっ」
 ゾクゾクと体中を走る戦慄に、膝頭が緩んだ。
 ガクガクとする身体を壁にもたれさせれば、冷たさが敏感になっている肌を刺して更に煽ってくる。
「あぁぁっあっく……邦夫……ん……邦夫……さ……んんっ」
 あの人の腕……力強かった。あの腕に抱かれたい。全身で体温を感じたいよ……。
 身体に残る微かな腕の感触を頼りに、俺はフィニッシュを決めた。
 ドピュッドピュッと出続ける欲望の証をへたり込んだまま見つめる。これが赤かったら、動脈切ったみたいに見えそう……。
「最低だ……」
 やっと出せた安堵感と一緒に自己嫌悪の波が襲ってきて、快感ではない戦慄が走った。
 時々、しょうもないこの身体が疎ましくなる。身体の欲望って、時には間違いを犯させるだけのエネルギーをもってるよな。
 萎えて縮んだペニスをぼんやり見据えた。縛られたときの痣に、まだ徹の呪縛を感じる。
 いや。自分自身のだな。徹は許してくれたんだ。出勤して来いって言ってたもん。
 シーツを洗濯機に放り込み、側にしまってあったバスタオルを取り出した。
 とりあえず腰に巻いて部屋に戻る。ワンルームって、こういう時困るよね。
 下着のしまってあるクロゼットまで、歩くだけで、彼に観察されてしまうんだ。
 視線を感じて羞恥の炎が燃え上がった。
「……今日はどうしたんです? いきなり……」
 彼の方を見ずに尋ねてみる。
 下着と着替えを出しながら、ふと扉についた鏡に映り込んだ彼を見た。
 ベッドの横の折り畳みテーブルを出して脇に胡座をかいていた彼は、コクリとビールを飲んでた。
「……悦子に頼まれてたんだよ。君の栄養状態が気になるって。君、電話もしなかったんだってね。さっき掛けてみたら不通になってるし。心配になって慌てて来てみたんだ」
「電話……? あ……」
 電話機を見たらコードが抜かれていた。
「あーあ、徹のやつぅ」
 慌てて繋ぎ直していたら、タオルが落ちそうになってドキッとした。まあ、身体の傷は丸見せだけど、やっぱり局所はまずいでしょ。
「それ……恋人?」
「……でした」
 怪訝そうだけど落ち着いて優しい聞き方だったから、気づけば素直に答えていた。
「過去型かい?」
「ええ。最近そうなりました」
(あなたに出逢ったから……)
 言えない呟きを秘めたまま、俺は脱衣コーナーに戻って服を着た。
「……じゃあ……みあるわけだ」
「は?」
「いや……なんでも」
 微かな呟きだったけど……望みあるって言わなかった?
 なんの?
 どういうこと?
 ドキドキしてるよ俺。
「……とにかく、もう大丈夫なんだね?」
「ええ、はい」
 俺の返事に、彼はにっこり微笑んだ。なんて涼しげに笑うんだろう。
「じゃ。僕はこれで……」
「え……?」
 もう帰っちゃうの?
 さっき帰れって言っといて変だけど、まだ彼と一緒にいたかった。
「急だったから、近間で買った弁当だけど、よかったら食べてください」
 立ち上がった彼の横にビールとコンビニの袋が置いてあった。
 よく見ると、そこには二人分……。
「ま、待って! 待ってください!」
 俺は彼のシャツをひっつかんでいた。
「あの、一緒に食べていって貰えませんか?」
 見開いた眸に見据えられ、俺の勢いは急激にしぼんでいく。
「あの……、もし、嫌じゃなかったらだけど……」
 ああ、言わなきゃよかった。
 貶めるなって言ってくれたその人の前で、萎縮していく自分を止められない。
 彼はなんて答えるだろう?
「あ……あの、二人分も食べれない……から……」
 ちらりとコンビニの袋に目を向けた瞬間、肩に手を置かれた。ズキンときたのは股間。
 つうううんと走るその痛みを何とか体の中で押さえ込む。
 俺にだって、我慢、出来るんだから。
 今は、彼と時間を共有できるだけでいい。
「……じゃ、お言葉に甘えて」
 微笑みを含んだ声は、それだけで俺をホッとさせた。
「あ、俺、みそ汁作ります。すぐやりますから!」
 バタバタと台所に走った。
 誰かのために作るって、何だか嬉しい。冷蔵庫を覗いてビールの数も確かめた。
 徹の好きな銘柄ばっかりのビール。片付けた後は俺の好きなものだけにするんだ。
 簡単なつまみも、作り置きの常備菜で何品か作った。
 みそ汁はいりこ出汁で、具は揚げとネギ。
「美味い……」
 素直で自然な呟きが、俺のみそ汁を一口飲んだ後で漏れた。
 舞い上がっちゃうほど嬉しいよ。
 だから、思わずにっこり笑いかけてた。
 鶴母さんは、眸を見開いて固まった。なれなれしかったかな。
 話題を変えよう。
「あの、今日は悦ちゃんは?」
「夜勤だって。看護婦さんて大変だよね。彼女の働き方見てると、時間が僕の倍あるんじゃないかと思うよ」
 あ、今、肩の力抜いた。鶴母さん、俺とだと緊張しちゃうのか……。そうだよね、ノンケの人って、ゲイと一緒にいるとなんかされると思うっていうし……。
 ああ、それとも、俺の気持ちがばれちゃったのかな。
 あの人の温もりだけで抜いちゃった俺を……。
 俺はビールを煽った。酒に頼ったっていいこと無いけど、手持ちぶさただったんだ。
「悦ちゃんは強いから。お袋とオヤジの代わりをしてくれたんだ」
「ああ……」
「大学も行かせてくれたし……」
「学費は自分でバイトしてたんでしょ? そう聞いてるけど?」
「……自分の分だから、当然です」
「ふうん……そういう君だから、彼女も頑張っちゃったんだね」
 簡単に「偉いね」って言わない鶴母さんが好きだ。
 俺の作ったもの美味しいって食べてくれる。黙ってそこにいてくれるだけで、何だかあったかい気分になる。
 こういう気持ち……初めてだ。
 俺は、これからも何かあるたびに彼を好きになっていくんだな。
 予感ではなく、確信。
 またリスクのある思いに溺れていくんだなぁ。
 分かってるのに、逃げ出すことも出来ない。本当に俺って懲りない男。
 ビールだって、もう何本?
 ああ、やばい。体が熱くなってきた……。
「……介君? 陽介……くん?」
 ああ、揺すらないで。今、すごく気持ちいいんだ。
「んん〜ん」
 ぐずるような呻きは自分のじゃないみたいに甘い。そう思ったとたんに俺、目が覚めた。
 やばい! また俺ッ
 飛び起きて顔を上げたら、優しい切れ長の眸が覗き込んでいた。
 ま、まさか、俺……?
「……大丈夫? 飲み過ぎたみたいだね。眠いなら、ちゃんとベッドで寝ないと」
 ああ……。
 鶴母さん服着てる。俺も……服着てるよ。
 そうか、ノンケなんだ……彼となら、飲んでも大丈夫……。俺が酔って誘っても、彼はこんな風に微笑んで介抱してくれる。ちょっとがっかりで、けど、何だかホッとした。
「……済みません。俺、寝ちゃって」
「いや、少し気を失ってたって感じみたいだよ。疲れたんじゃない?」
 ちょっとだけ、甘えてもいいのかも知れない。お兄さんなんだし。
「うん……。今日はちょっと……」
 てへへと笑って見せた。
 特別色んな目にあったし……って意味もあって口にしたんだ。
「じゃ、休んだ方がいいよ。僕はこれで失礼するから。ああ、タクシー、呼ばせて」
 爽やかな笑みを浮かべたまま彼は帰っていった。
「泊まっていってくれたらいいのに……」
 一緒にいれば欲しくなるに決まってるけど、もうちょっと一緒にいたかった。
 あの人も帰っていく人なんだなぁ……。
 俺はエントランスまで送りに出て、彼の乗ったタクシーが見えなくなるまで見送った。 テールランプの赤に、ウインカーの黄色。
 サヨナラって点滅してる。
 唐突に頬を伝う感触が、首筋にまで流れた。
「俺も帰っていく場所が欲しいなぁ……」
 夜風って、優しくて冷たいや……。