スペシャルな憂鬱・第二回

 「ただいまぁ」
 誰もいないって分かってるのに、つい言ってしまう。
 ドアを開ければ、即全部見渡せてしまうワンルームが、俺の住処だ。
 徹に殴られた痣が、既に変色して黄色の状態になるまで、俺は姉と連絡を取っていなかった。
 留守電の点滅は、姉からの電話しろコールに違いない。
 溜息をつきながら再生を押す。
「こら陽介ッ! 何回メッセージ入れたら連絡よこすのよ?」
 なんて言う怒鳴り声から始まって、くどくどと生活上の色んな指図をし、最後に
「……とにかく電話ちょうだい」
 で、締めくくられる。
 だから、俺は姉の口まねでぴったりハモるように、その言葉を口にした。
「とにかく電話、出来ないんだからしょうがねーじゃん」
 鶴母さんが出るかも知れない。そう思うと、どうしても電話を掛ける気にはなれないんだ。
「鶴母さんが気を悪くしないうちにね」
 悦子の声が響いてドキッとした。
 まだ留守電はつづいていたんだ。
「んなこと言ったってなぁ」
 ピーという音と日時を知らせる無機質な声音の間に呟いてみる。
 次のメッセージは無言だった。切るときのガサガサ音の前の長い間。
 直感的に徹を思い浮かべた。
 徹は、仕事上はなんの感情も浮かべずに俺と接してくれてる。やっぱり好きになっただけのことはあるなって、身勝手なこと思ったり。
「徹……ごめんね」
 口をついて出るのはそんなことばっかりだ。
 本当に俺って、思いつきとか気まぐれで行動しちまうどうしようもない奴……。
「……なにがごめんねだよ?」
 ガシッと背後から抱きしめられて、耳元で吹き込まれた言葉に俺は飛び上がった。
「っ?」
 留守電が答えるわけはない。まして俺を拘束することなど……。
 あ。合い鍵、返して貰ってなかった。
「徹、鍵、返して」
「やだね」
 どこにいたんだろ。トイレ? バスルーム?
 そんなこと、この際関係ない。今俺を押さえてる腕は、けして好意的じゃないって事。
「徹……なんで……」
「俺は納得してないって事だ。鶴母ってのが兄貴か? 連絡すら取れない相手に懸想して、身体保つのか? 俺のこと振って、後悔してただろう?」
 耳たぶをねぶるように囁かれて、ゾクッとした。
「ほら、このくらいで感じてる」
 徹は乱暴に俺のシャツを引きずり下ろした。ボタンが吹き飛んで、肌を殴る布の感触は灼けるように痛い。袖のせいで、腕が自由に動かなくなった。
 ひゅっと脚に絡まる電気コードに、焦るばかりでまともな反応は出来ない。
「……なにするんだよ?」
「そろそろ溜まってるだろう? 抜いてやろうと思ってな」
「やっやだっ」
 俺は、縛られてやられたことなんて無いんだ。
「徹、お願いだから止めて」
「お願いされてもなぁ。お前の身体は止めてって言ってないぜ」
 ツンとつつかれた乳首は、確かに色濃くなって立ち上がっていた。
「……な?」
「お前の身体は、まだ俺が必要だって事だ。それが分かるまで待ってやってたんだぜ」
 ベルトとズボンのボタンをはずしながら股間の中に手を突っ込んできた。
「あっ」
「ここだって、すぐ堅くなる」
「ああふっ」
 徹は俺の扱いを心得てる。何処がどのくらい感じるか。だから、的確に勃起まで追いつめられて、思わずやばい声を出してしまった。
「……ほらね」
「やっやだやだやだーっ」
 生唾を呑み込み、身をよじって。徹から逃げなきゃ。また、あの冷や水を掛けられたような気分を味わうのは嫌だ。
 なのに、一本脚状態の俺は、上手に跳ねることもままならず、電話の前で転んだ。
 電話台の角に頭をぶつけながら。
「陽介っっ」
 徹の叫びが遠くで聞こえた。
 
 
 冷たい感触に目が覚めた。
 頭……痛いな。
 さすろうとして、手が届かないのを知った。
 冷たい感触は、徹が押し当てている濡れタオル。で、俺の腕は……。
「な……んだよ? これ……」
 写真で見かけるような、特殊な縄の縛り方で、俺は全身を縛られていた。
 ご丁寧に、大事な息子まできっちり縛ってある。
「徹って、こういう趣味あったの?」
 徹はタオルをもつ手を止めて、ニヤリと笑った。
 今まで見たことのない悲しそうな笑顔だった。
「趣味じゃないけど、お前には向いてると思うよ」
「俺、マゾじゃないぜ」
「知ってる」
 言いながらぺろんと乳首を舐められた。
「あ……」
「ほら、もうそんな声出す。お前は淫乱だ。淫乱マゾだよ」
 徹の舌はめまぐるしく回転するように俺の乳首をなぶった。
「あ……い……嫌……」
 身をよじったら、股間がきゅんと絞まった。
「ひっぅ」
「ああ、不用意に動くと大事な息子がちぎれるぜ」
 俺の息子に絡みついてるのは縄だけじゃなかった。雁首の所に絡みついた細い革ひも。何故か俺の胸元のロープにつながっている。身動きするたびに革ひもはいたずらに俺の先っぽをいじめるんだ。
「やだ、やだやだ、取ってよ」
「お前がおとなしくしてれば問題ないだろう?」
「だって……徹が変なとこ舐めるから」
「じゃあ、こっちを舐めてやろう」
「はふぅっん」
 革ひもで縛られて鬱血し始めた亀頭を舌先でつつかれ、思わず声が漏れる。歯をかみしめて声を抑えようとしたけど、変な声になるだけだった。
「色っぽい声だなぁ。いつもよりも色っぽい。お前、認めなくても絶対淫乱マゾだぜ」
「ち、ちが……」
 う、と言い損ねてのけぞった。
 徹こそいつも以上にねちっこくいたぶってくる。意志に反して身体はとうに徹の与える快感に従順に反応し始めていて。
 どんどん膨らんでくるそこが苦しくなってきた。縄も革ひもも、グンと食い込んできている。
「い……いた……くるし……よぉ」
「あーあ、育っちゃったなぁ。スゲー元気じゃん」
 くすくす笑いながら、俺の足を持ち上げた。
 徹だって、あそこにでっかいテント貼ってる。そうだよ。俺がおねだりすれば、すぐ可能になってつっこんで来るんだから。
 俺は徹がその気になって縄をほどき、いつものセックスをしてくれるんだと期待した。
 膝裏に棒を挟まれてストッキングで縛り付けられたときも、まだ高をくくっていたんだ。
 棒は俺の首の方と縄で繋がれた。必然的に膝を掲げて尻の穴を丸出しする体制になる。
 苦しいけど、徹がつっこんでくれば、それもありがちな体位だし。
 でも、徹は冷たい笑いを浮かべたまま俺を見下ろしていた。
「ストッキングなんて。お前、女装癖もあるのか?」
「悦ちゃんのだよ。前に泊まったとき洗濯して忘れてったんだ」
「でもつかってたんだろう? ここだって女みたいにぬるぬるだぜ」
 空気に曝されて乾ききっていたはずのアナルに、徹の指が差し込まれた途端、グチュッと音がした。
「あうっ」
 引き出された指と一緒に尻を伝ってひとすじ流れ落ちる感触……。
 俺は唇を噛みしめて、覗きこんくる徹の、軽蔑の視線から目をそらした。
 確かに、俺のそこは、女並に濡れていた。
 初めての頃の引き裂かれる痛みと出血は、当に忘れたくらい、俺のそこは性器としての役割になれていたのだ。
 腸の奥から、内壁を擦られて快感を貪るときの感覚のフラッシュバックとともに分泌されるのは、女とは違う成分の愛液だ。
 俺よりも遥かに男性遍歴のあるらしい徹によれば、そういう性質は誰でもじゃないらしい。
 徹は、俺の鼻先に、ねとねとの指をくっつけた。ピトッと冷たい感触。
 独特の臭気が鼻をついて、俺は眉をひそめた。
「嫌な顔するなよ、お前のだぜ? 指入れられただけで、こんなになるなんて。お前って、本当の好き者だな」
「そ……な事……ったって……」
 俺の意志には関係ないんだ。身体が覚えてる快感を欲しがってるだけで……
 徹が一度抜いて冷たくなった指を、何度も俺の中に突き立てるので、俺はだんだん気が遠くなってきて。
 縛られて解放できない熱は、爆発寸前の苦しさ。徹の指に犯されるそこは、物足りなくもどかしい。
 それが、先日切り捨てたばかりの男のものでも、何でもよかった。
 ただ、指よりも太く、熱く、俺の中で暴れる確かなものが欲しかった。
 突き上げられて、擦られて……
 そんな欲求だけが、今の俺を支配してる。
「あああっはぁっはっ、やだ……それ、やだっ」
「指じゃものたりないだろう? 捕まえようと必死にひくついてるもんな。……欲しいか?」
 興奮で息を荒くしてるクセに、やけに冷静な口調で囁いてきて。
 同時にぐぐっと、指が俺のやばいところを押した。前立腺。徹は、ピンポイントスポットを、簡単に見つけるんだ。
「はひいっ」
 快感であるはずのそこは、せき止められてる苦しさのせいか、認識誤認を起こして辛かった。
 仰け反った拍子に更に革ひもがしまって、激痛が走った。
「いたいっいたいようぅっ。紐ほどいてっイかせてえっ」
「なあに言ってんだか。お漏らししてるじゃない」
 ぱちんと指ではじかれて、今度は声にならない悲鳴がほとばしり出た。先走りが流れ落ちて、ぎとぎとになっている。
「出の悪い噴水みたいだな。いやらしいほど真っ赤になりやがって」
「ああ、止めて……もう……お願い……」
 侮蔑的に発せられる言葉で、俺はぶたれ疲れていた。身体は欲しいものが貰えずに震えが来てる。
 ああ、だめっ。
 欲しいけど、それを得たら、また俺は更に深い暗闇に落ちることになるんだ……。
「ああっふあっ……っ」
 徹の指が3本に増やされた。中で動かされても、俺はもう……
「陽介……? もうギブアップか?」
 すっと指を抜き取られてひんやりと風が俺の内壁を掠めた。
「ひぁっ?」
 無くなってしまった感触を求めて、大きく俺の肉がうねる。
 同時に俺の息子を縛り上げていた紐がはずされた。
 突然の自由に安堵を覚えるまもなく。そこは破裂寸前にも関わらず出すことが出来ないでいた。
 ああっイきたいっ。出して開放感に浸りたいっ。
 気づけば俺の口は意志とは関係ない言葉を吐き出していた。
「…………ねが……」
「ん? なんだ? はっきり言え」
「……れて……徹のを……」
「聞こえないぞ?」
「徹の……肉棒を……俺の中に入れてっ」
「そんなお願いの仕方あるか? お前にはこれで充分だろう?」
 突然無機質な堅さのものがグンと差し込まれた。いきなり引き裂かれるような痛みに慌てる。ブイイイインという鈍いモーター音と同時に身体の内部から小刻みな振動が走る。
 特大バイブってやつ。
 振動は小刻みすぎてそこを麻痺させるような効果しかない。
 堅くて太いだけじゃダメなんだ。微妙な肉のうねりが、俺のイイ所をついてこなくちゃ……嬉しくない……。
 俺は多分、恨みがましい目で徹を見ていたと思う。
 徹は今までこんなことしたことない。
 そういう趣味じゃないはずだ。それが、めいっぱい勃起した自分のを我慢して俺をこんなにするなんて。
 そんな我慢、する必要ないじゃないか。
 俺が憎いだけなら、自分まで……
 屈折してるよ。それだけ憎しみが深いのかな。
 そう考えたら、だんだん悲しくなってきた。苦しいのも辛いのもあったけど、それだけの涙じゃなかったはず。
「徹……ごめん。俺が酷かったのは認めるから……」
「だからイかせろ? ざけんな。お前の中なんか、二度と入ってやるもんか」
 徹も泣いてるみたいに目が濡れてた。
 バイブのスイッチが切られ……。
 徹がナイフを取り出したとき、本気で刺されると思った。
「徹ッ」
 ぎゅっと瞬間縄がしまって、ぱらりと何かが落ちていく感触と、開放感。
 自由になった腕は、痺れて咄嗟には動かなかった。
「徹?」
 徹は、ニヤリと笑うと、俺に向かって何かを投げつけた。
 ピシリと頬を打ったそれは、鍵。俺の部屋の。
「徹……」
「そのバイブはお前にやるから。せいぜいそれ使って、兄貴をオカズにセンズリ扱いてろ」
「徹ッ!!」
「お前なんか、忘れてやるさ。明日サボったら、残業記録ゼロにしてやる」
「〜〜〜〜〜っ」
 バンとドアを叩きつけるようにして徹が出て行ってしまった。
 俺は呆然とドアの方を見つめていた。ケツにバイブを入れたまま。
 やがてズリッとバイブが抜け落ちた感触が、俺を我に返らせた。
「う……あああああっ」
 ほとばしり出る声は自分のじゃないみたいだった。
 徹、ごめん。
 酷い傷つけかたした……。
 俺なんか、人を好きになる資格無いのかも知れない。
 イきそこねて澱んだ熱さえ忘れて俺は泣いた。

 
 インターフォンの電子音が響いて気づいた。
 俺、泣き疲れて寝ちゃったんだ。
 起きあがろうとして、体中が軋んだ。
「いっつう……」
 膝にとれかかった棒がストッキングと一緒に引っかかってる。
 分泌物の乾いた匂いが不快だ。体中に残る縄の痕。
 脇をつつくのは鍵。
 ああ、夢じゃないんだな。徹の恨みを込めた行為は、パリパリになった液カスがついたバイブが象徴してる気がした。
 もしかしたら、本気で奥さん達を捨てて、俺の側に来てくれたかも知れないんだな。
 いや。だめだ。
 たぶんきっと。
 徹は帰っていく。だから。
「これでいいんだよね」
 酷いけど、勝手だけど。
 ピンポンピンポン……
「うるさいなぁ、留守ですよぅ」
 小声で言った。こんな格好で出られるわけない。
 やがて静かになって、ホッと息をついたんだけど。
 ガチャッて音で、頭だけ飛び起きた。
 鍵!!!!
「……陽介君……? いるんだろ?」
 その声に、更に飛び上がる。
 なんで? どうして?
 か、隠れなきゃ。
 靴を脱ぐ音が聞こえて焦る。
 ベッドを降りようとして、まだ脚が痺れていたことを知った。
 どすんと大きな音を立てて転げ落ちる。
「陽介くんっ!?」
 ワンルームなんて、ここまで直通で。
 万事休す。俺はせめてもの気持ちでシーツをたぐり寄せて、ぎゅっと目をつぶった。
 息を呑む音。ばさっと何かを取り落とす音。
「陽介君!」
 性急な声音は驚きと心配。
 腕を掴みあげられて、痛みに声が漏れた。
「君……」
 震える声は、相変わらず艶っぽいバリトンで。
 たったそれだけで俺の背筋をゾクリと欲望が走るのが悲しい。
 恥ずかしい……。
「っ、見ないでッ見ないでぇッ」
 俺はシーツをひっかぶったまま叫んだ。
 シーツを引っ張ったときにまたゴトンと音がして。
 運の悪い時って、ホントに重なるもんだよな。
「これ……?」
 彼の声がかすれて聞こえた。そっと隙間から盗み見た先には転がり落ちた余韻で揺れるバイブ……
「うわあああああああっ」
 慌てて俺はそれに手を伸ばした。
 でもそれは、彼の手に落ちた。
 不思議そうな目でバイブを見つめる鶴母さんは、相変わらずストイックなムードでシャープな顔つきだった。