スペシャルな憂鬱・第十回
電話がけたたましく鳴った。
我に返った俺は、ずっと立ちつくしてたのを知る。
鶴母さんはまだぐったりしたまま。
いつまでも鳴りやまない電話に業を煮やし、俺は受話器を取った。
「陽ちゃんっ? 邦ちゃん、そっちに行ってる?」
いきなりそんなことを叫ぶ声は、もちろん姉のもの。
「……なんで?」
反問したのはまだ迷っていたからだ。
こんな時間に鶴母さんが俺のところにいるなんて、まずいんじゃないか? とか。
「まったく。締め切りすぎてるとかで、編集の人が来てるのに。行方不明なんて困るわ」
「えっ?」
「いつも早めに渡せるくらい、仕事は速いはずなのに……」
「……っそんな……」
「ちょっと、陽介? 邦ちゃんはいるの? いないの?」
「……いる……けど……」
「かわってよ」
「……ダメ。今……」
「どうしたの?」
「……殴ったから、気絶してる」
言った途端にがちゃんと切れた。
「……悦子が来るのか?」
掠れた低い声に驚いて振り返れば、鶴母さんが首を振りながらゆっくりと身を起こしていた。
「君のパンチ、意外に重いね」
冷静な瞳で、俺のことを見つめてくる鶴母さんに、殴った俺の方が身の置き所のない気分にさせられた。
「……とりあえず、服を着たまえ」
言われて、下着も付けてなかったことに気づく。
慌てて身仕舞いをしながら、俺はやけに冷静な鶴母さんを眺めた。
「悦子は、なんて言ってた?」
「……編集者が来てるって。締め切りが……」
フッと肩で笑って鶴母さんが乱れた前髪を掻き上げた。裸の胸に軽くシャツを羽織って、ジーンズのボタンもはずれたまま。ちょっぴりBVDが顔出してる。
顔は……眼窩の形を教えるように赤黒い痣が……
痛いだろうに、全く気にしてない風にニッと微笑みかけてきた。
……よく分からない人だ。
「たまには人並みにギリギリを目指させてくれないのかなぁ」
呑気なぼやき。
……じゃなくて。悦ちゃんになんて言おう……。
「……何考えてんですか? 悦ちゃん、ここに来るかもしれないんですよ?」
「……かもしれないじゃなくて、来るね。確実に」
何でこんなに落ち着いてるんだ〜っ。
「俺、いやですよ。悦ちゃんに罵られるの。今からでもいい。さっさと帰ってくれませんか?」
「何で? いい機会じゃないか。悦子だって、言いたいことがあるだろうし」
そこまでしれっと言ってから、ぁ……と小さくつぶやいた。
「……話、聞いてないんだっけ?」
おもむろに鶴母さんは俺の電話に歩み寄った。
「あ、佳織ちゃん? もうすぐ、悦子がこっちに来るんだけど。君も出てこれるかな? 陽介君のアパート」
目を剥いた俺に、にやっと微笑みかけた。
「面倒な話はいっぺんにすませた方がいいだろう?」
佳織さんが電話の向こうでなんて答えたのかは分からないけど。
「じゃ、待ってるから」
なんていう応えで、来るのが決定だって知った。
「何で……そこで佳織さんが出てくるんです? 関係ないじゃないですか」
「関係は……大ありさ。悦子の希望が完全に通るためには……ね」
やけにまじめな瞳で俺を見つめてきた。
鶴母さん……貴方が分からない。
「……そんな泣きそうな顔するなよ。悦子が来るって時に、僕を誘う気?」
「っ! 誘ってなんか……っ」
そっと気遣うような優しい口づけが、瞼に落ちてきた。
「やっ」
「そういいながら、君は誘ってる。どうして?」
もうっ! 聞きたいのは俺の方だっての。
鶴母さんはそんな俺の無言での答えを、ちゃんと読みとってるらしい。クスって笑う表情が、面白がっているようにさえ見える。
案外意地悪だ……。
「僕としては、悦子の口から聞いて貰いたいんだ。この際。僕が知ってることを話しても、君は信じない気がする」
いったいこの人、何が言いたいんだろう?