拓斗サイド

 

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 甘い気怠さを引きずったまま睡魔が遠のいた。ほんとに怠い。それ以上に今の心地よさから離れるのが辛い。ボーっとしたまま目だけ開けた。
 うー、また寝ちゃいそうだけど……。
 視界を埋めていたのはギリシャ彫刻の顔。天井も、壁紙も見えないぐらい近く。
 綺麗なフォルム。冷たく見えるほど整った……。琥珀の瞳に俺が映って……。
 俺……?
「うわあああっ! 龍樹さんっ」
 俺は飛び起きた。仰け反って間合いを取った龍樹さんは、まだ観察の目で俺を見てる。
「おはっおはっ」
 あ、朝の挨拶、しなきゃっ。
 俺はパニックに襲われていた。
 桂川龍樹さん。
 覗き込んでたのが彼だって分かった途端に、昨日の夜の全てが俺に襲いかかってきた。恥ずかしくって、苦しくて、でも幸せな……、何とも熱い夜。
 同じベッドで二人とも裸で……。今も裸で……。龍樹さんの肌にも俺が夢中でしたキスの痕が付いてたりして……。
 恥ずかしいよぉっ!
「…………はよっ」
 やっとの事で絞り出して俯いた。
「おはよう……」
 低く穏やかな声が微笑みを含ませて挨拶を返し、同時に肩を抱き寄せられた。
 当然のように唇をふさがれ、舌を差し込まれ……。俺は羞恥心に苛まれながらも直ぐにとろけさせられて……夢中で応えてた。
 とても出来ないって思ってた事を平気でしてる。男同士でキス。それ以上も……しちゃった……。
 遠慮を捨てた龍樹さんは激しくって。俺の体中に龍樹さんの感触が残ってる。それはキスだけで俺をとろけさせてしまうほど深く刻み込まれた感覚で……。
 俺、元々そういう素質を持ってたんだろうか。して見れば、こだわりは残ってるけど龍樹さんに抱かれることは嫌じゃない。どころかキスだけでまた……。
「龍樹さん……俺……」
「ん……?」
 優しく覗き込む龍樹さんに縋った。頭の中の混乱は、あの熱いときよりも少し冷えた今の方が酷い。俺、確かにストレートなはずだったのに……。
「俺、変じゃない? 今の俺……変だよね?」
 俺はすっかり変質してる。龍樹さんの愛情っていう甘い毒が隅々まで染み込んで……。
 そんな俺に更に染み込むべく優しい腕が俺を抱き締めた。
「どこも変じゃないよ。向坂拓斗という、ものすごく魅力的な男が僕の前にいるだけで」
 しちゃった後でもそういうこと、言うんだね。俺を甘やかす優しい声で。
 龍樹さんに甘やかされて、随分嫌な奴になっちゃった気がするよ。俺がどんな仕打ちしても俺のことあきらめないでいてくれたんだよね。俺がストレートだからって、気を使って……。なのに……。
「俺……、今ね、世界で一番恥ずかしい男になった気分……」
「どうして?」
 龍樹さんの声が暗く沈んだ。
「後悔……しているの?」
 震えた声が忍んできて。
(僕を捨てないで!)
 瞳だけが叫んでる。
「違う! そうじゃないっ!」
 慌てて硬い筋肉質の背中にかじりついた。
「あー、もうっ。俺ってどうしてこう、口下手なんだろ。ね、俺、ほんとに龍樹さんが大好きなんだよ!」
 言葉じゃらちがあかない。俺の変質した身体を押しつけた方が伝わり易いと思って力一杯彼を抱き締めた。
「龍樹さんが俺を変えちゃったんだ。龍樹さんにキスされた途端に俺……」
 さっきから龍樹さんが欲しくなってた。そんな自分に驚いて自己嫌悪になって。
「恥ずかしい。こんな……、簡単に変な気分になるなんて。きっと、みんなにも分かっちゃうよ。今の俺、そういう顔してるもん。きっとしてる」
 泣き出したい気分だった。
 だって俺は、絶対受け入れられないって思って、龍樹さんに酷い仕打ちしてきたんだよ。食わず嫌いだったと言えばそれまでだけど、こんなに変わり身が早いなんて、自分でも好きになれない。
「俺ったら、あんな龍樹さんを悩ましてた癖にっ! まるで……まるで……、色情狂みたいじゃないかっ」
 言った途端に押し倒された。
 露骨に俺が欲しがってるのが分かっちゃう。俺のは重力に逆らって龍樹さんに向かって突き出てたから……。
 俺は恥ずかしさに顔を背けた。
 龍樹さんの息が荒くなって、苦しそうに聞こえるけど嬉しがってるって分かる声が言った。
「……恥ずかしいことなんてないよ。君のここがこうなのは……」
 キュッと握られた。
「はんっ……。いや……だ……」
 ぞくぞくっと背筋に戦慄が走った。思わず仰け反ってしまうほど。
 触られるだけでも感じてるのに龍樹さんの手は優しく俺をしごきはじめて。
「君が僕を好きでいてくれている証拠なんだから……」
 言いながら昨日みたいに俺の身体にキスを降らせ始めた。
「昨日の今日だし、疲れてる君のために我慢しようと思ってたのに……とても出来そうもない……。また欲しくなった。……いい?」
 そう尋ねながら手はもう始めてる。昨日の今日……。ほんとだよ。まだ朝だよ。なのに……。
「あ……んっ」
 夜と同じに恥ずかしい声を上げてる俺。どんなに抑えようとしても気がつくと出ちゃってる。龍樹さんの愛撫はほんとに気持ちよくって。俺の感じるとこ、全部頭にインプットされてるらしく……。
 抑えようと思ってた気持ち、どっかいっちゃう……。
「だ……め……」
「……な様にも見えないけど……やめる?」
 龍樹さんが手を止めた。
「んっ。やっやだ!」
 俺の内股にキスしていた頭を掴んでしまった。もっとしてと言うように。やっちゃってから自己嫌悪になる。けど、そんな後悔も龍樹さんにされてるうちに忘れてしまうんだ。
 龍樹さんは俺が押さえたせいで、そのまま俺の恥ずかしいところに指や舌を入れてきた。
「ああっ! 龍……樹……さんっ!そこっ……んんっ」
 うう、また認めたくない声を……。
 やめる気なんてないくせに、龍樹さんは意地悪だ。あくまでも俺の合意のもとにってのにこだわっていて……。どうしてだか、ベッドでだけは意地悪。俺がどうしようもなくなるまで追いつめてくる。その手管は呆れるほど豊富。たった一晩で、一体幾つの体位をやらされたんだか。恥ずかしいも何もないって所まで俺は理性を失ってしまって、後で我に返ったときの恥ずかしさったら……。
 それで俺はちょっぴり復讐されてる気分になる。救いは龍樹さんがひたすら嬉しそうにしてるってこと。
「あああああんっ」
 龍樹さんが俺のをしゃぶった。絶妙な舌技が俺を叫ばせて。悲鳴が俺を我に返らせた。声をかみ殺そうと歯を食いしばった。
「君は……誰にされてもこうなる訳じゃない。僕だから……僕のキスだからこうなるんだろう? 君を狂わせるのは僕だけ……そう言ったじゃないか。君は……僕だけのものだ。僕だけの……」
 龍樹さんの愛撫はどんどんエスカレートしていき……。
「あっあっあっ……やっだっんんっ」
 俺は龍樹さんの熱さに火を点けられたように身悶えするしかなくて。
「んっんくっ……。ああああっああぁん」
 為す術もなく俺は絞り出されるままに龍樹さんの口の中に出してしまった。龍樹さんはごくりと飲み込み……、至福っていう表情で俺を覗き込んできて。
 萎えた俺に熱くて硬い肉杭を擦り付け、この先の快楽を予告してきた。
「は……う……」
 指が突き込まれた。二本……三本?
 そんなに早く入りたいの?
 俺は龍樹さんを待ってるのに。早くしてって言ってしまいそうなほど。言葉にはしないですんだけど、その分変な喘ぎをしてしまって。
「僕だって……君じゃなきゃこんな風にならない。君だから……僕は……」
 言いながら苦しそうに息を詰め、一気に俺の中に……。
「ひあぁっ」
 ひきつれる痛みに悲鳴を上げた。
「拓斗、君を愛してる。愛しているんだよ」
 慌てて宥めるように囁いてきた。囁きながら突き上げてきて……俺の腰も自然に動き始める。その方が楽だって昨夜知った。楽な上に、気持ちいいんだ。龍樹さんを嬉しがらせることもできる。夢中になってしまうほどの快感。
「あっあっあっ……やんっ……たつ……っきさんっ。っもっと! もっとぉ!」
 よくって、よくって、それは俺の奥深くに染み込んで、もう無しで生きていくのは無理だろうと思うほど。
 そんな自覚が出てくるほど俺は変わっちゃったんだ。
「あああああん。い……いぃっ……っやだ……こんな……俺……どうかしてるよぉっ」
 馬鹿な叫びは自分のはしたなさをなじっていたわけだけど、龍樹さんはまた気にしたみたいだ。いい加減集中してくれってのか、ただでさえイきそうになってる俺に手を添えてきてしごき始めた。俺を突き上げながら……。
 堪えきれないくらい追いつめられてるって知らせるために龍樹さんを締め付けてやった。
 嬉しそうなうめき声。だけど、やっぱり先に出したのは俺だった。力の抜けてく俺の中で龍樹さんは爆発して。大事そうに口づけをしながら俺を抱き締めてゆっくり横たえてくれた。龍樹さんはそっと俺から出て行って。
「ああ……んっ」
 恥ずかしいことに俺はまだ抜かないでって言うように声出してた。俺ったら、ほんとに色情狂になっちゃったんじゃないだろか。
 自分が怖くて毛布の中に隠れようとした。龍樹さんの唇も避けようとしてしまった。
 瞬間固まった龍樹さんは俺の肩にキスしてから透明な微笑みを浮かべていった。
「朝御飯……何がいい?」
 俺は、また彼を傷つけた?
「あ……何でもいいけど……」
「そうだな……、僕は今朝はワッフルって気分かな。旨いジャムが手に入ったし、フレッシュバターと、……好みでメイプルシロップもあるよ。カナダの友達が送ってくれたんだ。それに、君は二つ目玉のベーコンエッグでしょ。あー、野菜どうしようかな。サニーレタスとオニオンスライス、ラディッシュあたりでいい? 温野菜もつけようか」
 俺の顔色を伺いながら、俺の好きそうなものを並べ立てた。
「うん!」
 途端に元気に返事してしまう。
 キャッシュな奴と笑われてもしょうがないけど。俺が要らないなんて言ったら龍樹さんの顔は曇っちゃうから。
 でも……。これから作るんだよなぁ、全部……。
「龍樹さん……具合、どうなの? 熱は?」
 龍樹さんが熱出したからそばにいて看ていたいって言ったのに。まあ、龍樹さんの希望は看病より添い寝だったわけだけど。
 龍樹さんの手が俺の頬を撫でた。添えられた微笑みは俺を愛してるっていってる……。
「もう大丈夫。現金なものだよね。君っていう極上の薬を飲んだら、治った……」
 龍樹さん本気でそういうこと言う?
 つまり、熱出すほど俺が欲しかったっての?
 は、恥ずかしいじゃないかっ。
「起きれる? 朝食、ここに持ってこようか?」
 赤面して黙ってたらそんなこと言われて。まるで、具合悪かったの俺の方みたい。ヴァージンを気遣ってのこと?
「龍樹さんこそ……。その……、疲れてない?」
「心配してくれるの? 何ならもう一ラウンドいく? 君が相手なら、僕はまだまだいけるよ。十回でも……」
 どひゃぁーっって感じ。龍樹さんて、こういう人だったんだなぁ。
 マジな顔で言わないでよ、もう……っ。
「ば……っ……か……。死んじゃうよ……」
 思わず呟いていた。だって、俺の方が壊れちゃう。龍樹さんのって、でかくって勃つとすごいんだ。コンプレックス持っちゃいそうな程。中学の頃、何人かの友達と比べっこなんかした時、俺だって割とでかい方だったんだけどな。
 身長が一七八の俺と一九〇の彼で比べようったって無理か。龍樹さんは身長に見合った鍛え抜いた身体を持ってる。それも筋肉デブじゃなくて、逞しいって程度にすんなりした、まさにギリシャ彫刻。
 そのギリシャ彫刻がくしゃっと微笑んだ。
「さて、君を見てるとまた食事作るの忘れてしまいそうだ」
 ベッドから降りてパジャマの下だけ履いた。上は俺に着せかけてくれて。唇がまた近づいてきたけど額を目指してたからそのまま受けた。
「超特急で作ってくるから、もう少し寝ていなさい」
「ん…………」
 龍樹さんを見送って、もう一度横になった。龍樹さんの匂いの中で眠るのは好きだ。一人でいても、一人じゃないみたいに安心できる。
 癖になりそうな安堵感。
 後悔しないって気分はそういうことから来るんだろう。確かに俺は昨日の夜幸せだった。
 龍樹さんは俺を愛してくれてる。大切にしてくれてる。俺が距離を置こうとすると泣き出すのには参るけど。親よりも俺を大事にしてくれて……俺を必要としてるって……。そんな人を俺も失いたくなくて、龍樹さんの気持ちに応える気になったんだよな……。
 
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「拓斗君! ご飯だよ」
 華やいだ龍樹さんの声に起こされた。考え込んでるうちにまた寝ちゃったのかな。
 のろのろと起き出し、パジャマに腕を通すと、ベッドの上で胡座をかいた。
 テーブル代わりの広めの盆には綺麗に盛りつけられたさっきのメニュー。
 味もだけどホントに盛りつけも上手いよな。食欲をそそられつつ最初に手を着けるときにはちょっと勇気が要る。綺麗な細工物を壊すような罪悪感があるんだ。
 ワッフルにバターをつけ、半分溶けかけたとこでメイプルシロップをかけてパクついた。
「おいし……!」
 頬張ったまま、思わず龍樹さんに笑いかけてた。
「よかった……」
 龍樹さんも嬉しそうに笑った。
 龍樹さんの料理は特別に旨い。それは俺の主観じゃなく、龍樹さんの店『El Loco』の客全部の意見。喫茶店なのに、結構食事に来る人多いんだ。もちろんコーヒーは絶品。
 最初は俺だってコーヒー目当てで通ってるつもりだったんだ。そうだな、龍樹さんの料理にもきっと毒が入ってたんだ。俺を狂わせる毒が。少しずつ蓄積して、変化させる毒。龍樹さん無しじゃいられないようにする……。
 でもいいや。美味しいものは美味しいんだから。
 んなこと考えながらバクバク喰ってたら、龍樹さんはボーっと俺を見つめてた。
 よくペットに飯喰わせてるときに可愛いなーって見てる飼い主いるよな。あれみたいな表情。
「そんな見ないでよ。俺、龍樹さんに餌付けされてるペットみたいだ」
「あはは、ペットは酷いな。知っているかどうかは知らないけど、君は食べている時が一番幸せそうに見えるから……。その表情見たさに僕が料理に力入れてるって言ったら、信じるかい?」
「ん……」
 俺は頷いた。照れくさいけど、それは分かるから。仕事で手抜きをしないのは当たり前として、こうして食べさせてくれる料理の一つ一つが見た目も味も力入ってるって分かるものだったし。
 俺ってそんなに喰うとき嬉しそうなのかな。やっぱペット扱いされてるような気がしてきた……。一瞬むかっときて、でも、喰うことに集中することにした。んなこと言って絡んでみても、龍樹さんは泣きそうな顔するだけだからな。
 龍樹さんの悲しそうな顔ってのは、妙に罪悪感をあおり立てるんだ。龍樹さんの場合は泣く理由が一つだから。俺が冷たくしたときだけ。マジで泣いたのは俺が「嫌い」って口にしたとき。
 そんな龍樹さんがルンルン顔で俺を覗き込んできた。
「今日の予定は?」
 答えようによっては今日も一緒にいようって言いそう。下手するとずーっとベッドで、なんてな……。嫌じゃないけど、そういうベタベタって、照れくさいよなぁ。
「えと……、親父の会社に行く」
「会社?」
 ほら、がっかり顔。
「親父が頼んどいてくれた人に保証人のサインとハンコ、貰いに行くんだ」
 龍樹さんの表情が急に引き締まった。
「何の保証人なの?」
「入学手続きに、一応親以外の保証人の欄があって……。要するに授業料支払いの保証だと思うんだけど……。俺んち、親戚ないし、誰かに形だけ書いて貰わないと……。他の手続きは済んだんだけど、その書類だけなってくれる人探すのに手間取って……。事情話して待って貰ってるんだ」
「それ、いつまで?」
「二十五日まで……」
 尋問受けてるみたいだよ〜。
 俺がちょっと退いちゃったのを察して、いかにも無理矢理っぽく微笑んだ。
「……そういえば。健康診断書とか、色々あったね。思い出した。僕の頃もなんだかんだと揃えたっけ……。うーん。それって、その人じゃないとだめ?」
 考え込んだあげくって感じでそう言った。
「え?」
 聞き返しながらも俺は龍樹さんが何言い出すか予想していた。急に顔色が変わったあたりで。
 案の定……。
「保証人には僕がなる。なりたい。……君の、そんな大事なこと、いくらお父さんが頼んだ人でも全くの他人になんてやらせたくない。僕の知らない奴になんか……」
「龍樹さん……?」
「これから君んち寄って書類取ってきて、その足で学校まで出しに行けばいい」
「ちょっ、ちょっとちょっと、お店どうすんの?」
「拓斗のためならいつだって定休日!」
「だ、だめだよっそんなの。俺……、なんて言うか……」
「ねえ、僕にやらせて。大丈夫。そのくらいの資産はあるから」
「龍樹さん!」
 そういうのって、恋人関係でなるもんじゃないよな。
「会社のその人だって、形だけだからって事でなってくれることになったんだろう? 僕は……本当に必要になったときはちゃんと保証人やれる。万が一の時……、ちゃんと出来るよ」
 これには俺も、うっと詰まった。
「でも……」
「君をそれで縛ろうとかは思ってないから……。ねえ、そうして」
 以前に、龍樹さんが中学時代から友達づきあいしている紫関さんが言ってた事を思い出した。
 龍樹さんは言い出したらきかない奴だって。
 うんという返事しか受け付けないぞって、縋る瞳のまんま俺のことをじっと見つめてる。断ったらまた泣きそう。
 俺は龍樹さんのそういう顔に弱い。本当に弱いんだ。
 仕方なく頷いていた。名前だけで済むようにしなきゃ……。
「龍樹さんに迷惑かけないようにするね……」
 パッと花が咲いたように嬉しそうな笑顔を浮かべ、俺を抱き締めてきて。
「ありがとう……」
「それは俺の台詞だと」
 言いかけた口をチュッと塞がれた。
「……嬉しいんだ。君の役に立てるのが……。……今年のホワイトデーは一生忘れられない日になったな……」
「別にお返しのつもりだったわけじゃないよ。龍樹さんが熱出したからだもん……」
「恋人だって、思ってもいい?」
「何?」
「君を……。君は僕だけの恋人だって……思いたい。いい?」
 今更何言い出すんだよっ。俺がどういうつもりでこういう事したと思ってるわけ?
「拓斗君……?」
 俺のムッとした表情に気づいた龍樹さんは瞳を忍ばせて俺を覗き込んできた。
 俺は身を乗り出して龍樹さんの唇をとらえた。驚いたように固まった歯の間を割って舌を差し込み、龍樹さんに教えられたように彼の口の中を愛撫した。龍樹さんは直ぐに反応してきてやがて主導権を奪われてしまったけど。息苦しいほど長いキスの後、恥ずかしさに燃える頬を見せないようにそっぽを向いて呟いた。但し龍樹さんにしっかり聞こえる音量で。
「俺、ただの友達とこういう事する趣味ないから……」
 言って横目で伺った龍樹さんはもうデレデレで。これだとまた押し倒されちゃいそうな気がして先手を打つことにした。
「龍樹さん、シャワー、借りてもいい?」
 龍樹さんは二三度瞬きして答えた。
「あ……いいよ。場所、分かる?」
「うん」
 言いながらベッドを降りて。腰に力が入らないのを知った。
「拓斗君!」
 よろけて転びそうになった俺を逞しい腕が支えて分厚い胸に抱き込んだ。
「無理しちゃだめだよ」
 優しく囁きながら、抗いようの無い力で抱き上げてきて。
「龍樹さん? 待って! まっ……!!」
 赤ちゃんみたいにダッコされた俺は、抗議の視線で龍樹さんを見上げたのに。
 龍樹さんはさっきのデレデレ顔のまま俺に微笑みかけてきた。
「風呂場まで運んであげる。階段落ちなんかされたら堪らないからね。大丈夫、心配しないで。風呂で戯れるのは今夜の楽しみにとっておくから……」
 囁かれながらまたディープなキス。
 龍樹さんの腕の中で逃げ出すこともできずに長々と。唇も舌も、触れ合った瞬間から別物のように敏感になる。全身から力が抜けてしまうほど奇妙な快感で一杯になる。
 だから、龍樹さんのキスはちっとも嫌じゃないけど、感情的にはちょっとこだわりがある俺だった。
 風呂で戯れる……って……マジで遊ぶ事じゃないよな。それって、今夜もするって事? 昨日みたいに、何回も……。
 かーっ! 俺、ホントに壊れちゃうよぉ!
 俺は身をよじって唇をもぎ離すと彼の胸板に頬を押しつけるようにして顔を隠した。
「んもう! 龍樹さんがこんなにエッチだなんて思わなかったよ!」
「だって……、一年だよ。一年の間我慢して……。あきらめかけてた夢が叶ったんだ。もう少しの間、僕に幸せをかみしめさせてよ」
 龍樹さんの甘え声は俺に違う恐怖を思い出させた。
 龍樹さんの幸せって、俺を抱くこと?
 俺とセックスできればいいの?
 胸の中でだんだんそんな燻りが煙を上げ始めてしまって。
 そんなんじゃないはずだって思いたいのに、否定できるだけの材料を俺は持ち合わせてなくて……。
「やだ……」
 言った途端に龍樹さんの身体からルンルン気分が抜け落ちた。
「拓斗君……?」
 不安を露にした問いかけ。それでも俺の中の燻りはちっとも消えない。どころか、油を注がれたように訳の分からない感情が盛り上がってきて……。
 俺は瞬間的に以前付き合ってた彼女の、別れ話の時の豹変ぶりを思い浮かべていた。
 好きだったわと言いながら、何の感情もない眼で俺を見た。気持ちって変わるものなんだ。
「龍樹さんは俺のこと離さないって言った。ほんとにそう思うなら、少しの間じゃなくって。俺のこと、そんな風に急いで食べちゃって、直ぐ飽きちゃったら……そしたら……俺……」
 いいながら俺は泣きそうな顔していたと思う。
 そうなんだ。
 龍樹さんが俺から去る恐怖。ふと頭に浮かんだ燻りの火元はそれだった。
 俺は龍樹さんが好きで、こうなって、また好きになって……。多分これからも好きで。
 でも龍樹さんは……?
 さんざん彼を苛めた俺なんか、やるだけやって飽きたら厄介なだけのものになっちゃう。
 俺は龍樹さんに何もあげるものを持ってない。心と身体以外は。それが要らなくなっちゃえば、龍樹さんには何のメリットもないんだ。
 それが悲しい。
 俯いて彼の胸に顔を押しつけ、自分の嗚咽を抑えようとしてた。
 俺を抱く腕に、ギュッと力が込められた。
「飽きないよ……。そんなこと出来ない。出来る訳無いだろう?」
 龍樹さんの声は相変わらず甘くて優しい。俺が急に泣き出したので、少し戸惑ってるみたいだ。
「ねぇ、拓斗、僕は肉欲のために君を愛したんじゃない。君が好きで好きでたまらないから君が欲しくなってしまうだけで……。だから……。君が望むなら二度とキスとかしたりしないから。我慢するから……。僕を信じて」
 俺の不安をもろにとらえてる。龍樹さんにはそんな感情もお見通し?
 この人を失いたくない。本当に、心の底から思った。
 信じるしかないのかな。先を心配するよりも今を大切にしなきゃだめなのかな。
「龍樹さんたら…………」
 真剣な瞳に見据えられて、この贅沢な愛され方を幸せに感じてる俺を見つけた。
 照れくさくて、恥ずかしくて……嬉しい。
 龍樹さんの吸い付くように滑らかな頬をそっと撫でた。
 俺の恋人は、何でも持ってる綺麗で逞しい男。優しくて、穏やかで、俺を愛してくれてる。
 時々獣モードにはいるけど、それも俺を愛してるから……。
 階段を下りる振動を感じながら、龍樹さんが獣モードを抑えようとしてるって分かった。
 泣き出した俺のために。
「シャワー浴びたら出かけよう。今日の仕事は今日の内に、だよね」
 風呂場の前でそっと降ろされた。まるでお姫様扱いされてる感じ。やっとの事でバランスを取って立った俺を瞬間見とれるように見つめ、龍樹さんは風呂場のドアを開けて俺を誘った。
「着替え、用意しとく」
 キスしてくるかと思ったら、くるりと背を向けて階段に向かってしまって。
 ホントに龍樹さん、我慢してる。
 俺のために。
 そう思ったら、自然に身体が動いてた。
「龍樹さん!」
「え?」
 呼び止めておいて振り向きざまに彼の首にしがみつくようにして唇を盗み取った。
「俺も……愛してるから」
 言うだけいって、風呂場に駆け込んだ。腰がガクガクして、風呂場のドアを閉めた途端、俺は座り込んでた。
 目を丸くした龍樹さん、可愛かった。
 初めてちゃんと声にだせた『愛してる』って言葉。
 実をいえば俺は嫌いなんだ。お手軽すぎて声に出すほど嘘臭く聞こえてきて。ドラマや、映画でそんな台詞が続くと興ざめしてしまう。
 でも。
 言葉は感情を載せて出せばちゃんと伝わるんだって分かった。龍樹さんの俺への『愛してる』は、同時に切ない、苦しい、嬉しいって……訴えかけてくる。それは俺だけに向けられた言葉で、受け取るのも俺だけで。だから他の奴に嘘寒く聞こえたって気にしない。
 俺も口に出せたのはそう言わなきゃ苦しかったからだ。ちゃんと伝えなきゃって。龍樹さんの表情を見て、言ってよかったと思った。思いがけないプレゼントを貰って呆けてる子供みたいな顔をしてたから。
 龍樹さんのベッドでのテクニックはそれだけの経験を物語ってたし、俺と同じように抱かれた知らない男達のことを教えてるような気がして、少しショックだったんだ。
 俺は見たこともない人達に嫉妬してる。
 不安なのはそうした男たちの数に俺も入ってしまうかもって事。
 だから龍樹さんの表情は俺に救いの糸を垂らしていたんだ。俺の一言であんな顔してくれるなら、まだ俺は彼と一緒にいられるなって嬉しかった。
 
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龍樹さんが俺んちの庭を見渡して言った。
「お父さん……何してる人なの?」
 俺んちは結構敷地がでかい。家も結構大きめで、瀟洒だって言われる。俺んち見た人は大抵、金持ちなのか? って感じで親父の職業を聞いてくるんだ。
「サラリーマン。外資系の。この家は母さんの親の土地。爺ちゃんも婆ちゃんも両方とももういないけど、援助して貰って建てたって。家建てた頃は一緒に住んでた。……俺一人になってから一年……だな。龍樹さん、中見たら驚くよ。スゲーちらかってんだ。ここ広すぎて、掃除とか行き届かなくて……」
 鍵を開けながら説明した。
 玄関をくぐってからも、龍樹さんはボーっと辺りを見回しながら、そのまま佇んでいて。
「どうぞ。あがって! 汚くて恥ずかしいけど」
 言った途端に我に返ったように微笑んだ。優雅に靴を脱いで上がってきて俺の肩を抱いた。
「ああ……。君が言うほど汚れてないなって思ってさ。結構一人で頑張ってるんだ、拓斗君……」
 お世辞でも嬉しかった。龍樹さんのマメさを知ってる俺は、この程度のハウスキーピングで合格点がもらえるとは思ってない。頑張ってるんだって分かって貰えればよかった。
 んにゃ、誰かにそう言って誉めて欲しかっただけかもな。母さんがいたときは何にもしなかったんだし。
 思わず照れ笑いしてた。
「えへへ。俺、家事の中で料理が一番苦手なんだ」
「舌は肥えてる方みたいなのに……。ああ、一年前まではお母さんの料理食べてたのか。じゃあ、得意は?」
「得意って言えるのはない。……龍樹さんみたいに何でも上手い人は尊敬しちゃうよ」
「一人暮らし歴の違いさ」 
「それだけじゃないと思うけど」
 コンプレックス混じりにちょっと睨んでしまってから、最初の用件を思い出して奥のダイニングの棚から書類袋を出してきた。
 龍樹さんはソファに座って待っていたのでその前に問題の書類をおいた。
「これなんだ。ここに住所と名前、それとハンコ」
「よし、さっさと書いちゃおう」
 龍樹さんの作業が終わる間、何の気なしに電話に目を遣った。
「あれ? 留守電入ってる。昨日は入れてない筈なのに……」
「え?」
 龍樹さんに聞きとがめられて俺は赤面してた。
「あ……。か……帰る前に外から入れるんだ。ただいまって言っても誰も出ないだろう? 留守電のメッセージランプが点いてると、ちょっとホッとするから。ば、バカみたいかもしれないけど、俺……」
 ホント、馬鹿みたいだよな。必ずメッセージランプが点くとは限らないから予防として自分でかけるなんてさ。
 けど、そんなことも龍樹さんになら正直に言える。恥ずかしいほど寂しがり屋だって告白してるようなもんだけど。
 笑われるかと思ったら、ギュッて抱き込まれた。
「一人暮らし一年生だもんね。分かるよ。僕には分かる」
 熱い息混じりの真剣な調子で囁かれて返って恥ずかしくなった。
 龍樹さんの腕に力が入って……。キスされそうだなって思った。寂しがり屋で甘ったれの俺は龍樹さんの腕の中にいて、キスを受けたいと思ってる。でも、もう一人の俺は早く抜け出せって俺に命令してきた。
 瞬間龍樹さんに身体をもたれさせてその感触に満足し、彼の腕を外した。
「留守電……聞かなきゃ……」
 再生ボタンを押した。
「……MS社の藍本です。ご両親と妹さんが事故に遭われました。至急こちらに連絡下さい。電話番号は……」
 …………何のこと?
 早口すぎて分かんないよ。両親と妹って……俺の?
 電話がピーって言ってまたメッセージが流れた。
「藍本です。ああ、まだ帰らないのか。拓斗君。ご両親はあちらの病院で先ほど息を引き取りました。君の連絡があり次第、社の者が付き添って向こうへ飛びたいと思っています。連絡を……」
 息引き取るって……何?
 膝がカクッていった。壁も電話もぐにゃりって歪んだ。
「向坂です。いえ、僕は代理の者です。彼は今ショックを受けて自分を見失っている状態で……。メッセージを今聞きましたので。……どうすればいいですか? はい。そちらへ? 場所は? ……分かりました。直ぐ連れていきます」
 誰か喋ってる。俺の横で。
 電話……?
 腕を抱え上げられた。
「拓斗、直ぐ出かけるから。パスポートは持ってない? ああ、大丈夫、こういうときはなんとかなるから。鍵出して。開けたのは玄関だけ?」
 忙しない口調で言うのをぼんやり聞いてて。なんか分かんないけど頷いて。
 だって……両親と妹って……。事故って……。息引き取るって……死ぬこと……?
 ドクン、ドクンって身体に震動が来る。
 俺……車に……?
 窓の外はどんどん景色が変わっていく。空の青、雲の白、時折高いビルに派手な看板。全てが背後に去っていく。
 ノンストップの直線的な道路。
 震動は高速道路の継ぎ目……?
 頭の中では電話の声がわんわん響いてて、身体はドクンドクンいったまま。
「…………そ……だ……」
 声出すことで頭の中の声を消せるかと思った。
「……そ! うそだ! うそぉ!!」
「そう、何かの間違いかもしれない。それも向こうへ行けば分かる。だから……出来るだけ落ち着いて。泣くのは本当に確かめられてから。ね?」
「っ! だって……」
 とっさに言いかけて声の方を見て固まった。
 龍樹さん……?
 龍樹さんがいる。俺の横に。
「落ち付けって言う方が無理だけども……。急ぐことしか今は出来ないから……」
 気遣わしげに言う龍樹さんは、とっても険しい顔してた。
 龍樹さんが運転してる。俺を連れていく先は親父の会社……らしい。
 何が何だか分かんない間に龍樹さんが段取りつけてくれたのか……。
 これ、龍樹さんの車?
 店……結局休みに?
「ごめ……。龍樹さんには関係ないのに……俺、当たっちゃって……」
「寂しいこと言うなよ。関係はある。僕の恋人の家族なんだから」
「あ……」
 どうしよう。俺、また龍樹さんにヤなこと言っちゃった。
 フォローの台詞を考えてたら龍樹さんがさりげなく違うこと言いだした。
「このお金、渡して」
 龍樹さんの手が小銭を俺によこして。開けられた窓を見たら料金所のおじさんが手を伸ばしてた。そのまま渡して小さな紙をもらう。領収書らしい。
 それでもって初めて俺は龍樹さんの車が外車だって気づいた。ばかみてー、運転席が逆だってのも気づかないなんて。
 龍樹さんがコントロールしてるのか、窓はすぐに閉まって、車はまた加速し始めた。
「どこに赴任してるんだっけ?」
 赴任って、親父のことだよね。
「……ミュンヘン支社。ドイツの……」
 さっきまでボーっとしてた頭が、少し回り始めてきた。龍樹さんがいるからかな。
 そうなんだ、落ち着かなきゃ。会話に集中して。
「ドイツか……。僕はあんまり役にたたなさそうだな。ドイツ語なんて、医学生時代にしか触れてないし。でも、出来るなら付いていきたい」
「え?」
「誰か付いていってくれるそうだけど、君が心配だから……」
 返事は出来なかった。一言でも声出したら泣き出しそうで。
 俺にはこの人がいるんだって思ったら、力が抜けた。自分のことを投げ出して俺のこと心配してくれてる龍樹さんて人。
 今、この人と引き離されたら俺は……どうかなっちゃうかもしれない。
 そのまま龍樹さんに抱かれてる気分で車のシートに埋もれていた。
 こんな時に幸せ感じてる俺って、罪深いのかも。だからこんな風に……。
 考え事が出来る時間が鬱陶しいなって思い始めたところで、殺風景で変な形のビルがある所に出た。水色のレールが空をきざんでる。ユリカモメ……だっけ。レールをくぐったら親父の会社に着いた。訪ねるのは初めて。
 龍樹さんが車から降りた途端に玄関から男が飛び出してきた。
 アタッシュケースを持ったビジネスマン。龍樹さんに比べて一〇センチくらい小さいけど、体つきは龍樹さんよりやや太め。ま、龍樹さんはあの身長にしては結構細身だから、そう見えたってデブって訳じゃない。スーツが似合う、エリート風だ。
「ああ、早かったですね。二時間後の飛行機をキープしました。これから成田へ向かいます。緊急ですので、拓斗君のパスポートは臨時のものを発行して貰いました。当座必要なものは向こうへ着いてから用意させますから」
 声があの電話と同じで、藍本さんだって分かった。
「成田まで送りましょう」
「すみません、お願いします」
 ツードアだから運転席を倒して後ろに乗れるようにしながら龍樹さんが言ったら、当然のように乗り込んできた。
「あなたが彼に付いて行ってくれるのですか?」
「いえ。そのつもりだったんですけれど、急な仕事が入ってしまいまして。自分は成田で手続きをするだけで帰らせていただきます。向こうで社の者が迎えに出ていますので。すみませんが、飛行機だけは一人で乗っていただきます」
 その台詞に龍樹さんは飛びついた。
 抑え気味だけど嬉しそうに言い出した。
「僕が付いて行ってはだめですか? 今の彼の様子を見ていると、どうも心配で……」
「え? ……しかし……」
 当然藍本さんは胡散くさげに後ろから身を乗り出してきた。
「僕は彼の友人で家庭教師です。医学部受験のための……。入学手続きに保証人が必要ということで、彼の家に行きまして。そうしたら……」
 ううっ、言い訳臭いよぉ。
 まあ……恋人だなんて言い切られたら、俺が困るからなんだけど。
 ごめん、龍樹さんは気を使ってくれたんだよね。
「そうでしたか……。空席を確認してみます。パスポートはお持ちで?」
「ええ、一昨年の秋までアメリカにいましてね。更新して間もないのがあります」
「ああ、それで、車もコルベットですか」
 そうか、この車、コルベットって言うのか……。ボディなんか見た記憶もないけど、半分寝てるみたいな車高の低さと前の長さ。多分ゴキブリみたいな形の奴なんだろうな。
 なんでだか反対車線にいる車に乗ってる人達はみんなびっくりしてるみたいな顔。
 俺達の車は結構スピード出していて、それをどんどん置き去りにしていく感じで、瞬間の視線はどうやらこの車のボディに集中してるらしい。
 俺はフロントから見える部分に目を凝らした。光の加減でよく見えないけど、この車……もしかしてピンク?
 龍樹さんの車がピンク!
「高かったでしょう? 特別色だし」
 藍本さんの何げな追従に、龍樹さんが溜め息混じりで言い出した。
「知人との賭に勝って手に入れました。嫌がらせ半分でショッキングピンクに塗装されてしまいまして。しかし、譲渡契約書の隅に、引き渡し後向こう五年間は転売しても色を変えてもいけないと小さく書き添えてあったんです。契約前に見たとき、ボディは白だったし、気にも留めていなかったんですがね。引き渡し直前に塗装されたんです。……確かに引き渡し後の禁止は記載されていたけれど、その前に関しては規定されていない。やられた! って感じでしたよ」
 ショッキングピンクなのか?
 ゴキブリの形で?
 俺は周りの車の人達の表情の意味をそれで知った。呆れてたんだな。
 肝心の龍樹さんは気恥ずかしいって感じで唇噛んでる。
「もし契約を破ったら?」
 藍本さんの声も少し呆れてた。
「車の値段の五倍は違約金を要求されます」
 ブスッと答える龍樹さん。本当に不本意なんだろうな。龍樹さんの色の好みはグリーンとかブルーとか、それも渋めの色合いのものなんだ。
「それも小さく書いてあった?」
「ええ。しかも、日本にあっても僕が持っていることが確認できるように年に一度車と僕のツーショット写真を送る約束です」
 ぶっと吹いた。そこまで冗談通すと嫌みだよ。どういう友達なんだか。
 龍樹さんにフラれた奴だったりして。
「それも契約?」
 俺もつり込まれるように口を差し挟んでいた。考え事で暗くなるより、こんな話に混ざっていたいってのも、逃げかもしれないけど。
「ああ……」
 俺が笑ったせいか不機嫌な声で溜め息ついた。
「やっぱりタダより高いものはなかったってわけだ」
 龍樹さんの賭って、どんな内容だったんだろうね。
「五年経ったら、直ぐ塗り替えようと思ってる。黒かなんかに。それまでは出来るだけ乗り回さないでおく」
 ブスくれた龍樹さんはやけに可愛かった。
 シフトレバーに乗せられた彼の右手の甲を撫でてしまったのも、そんな気持ちに後押しされた無意識の行為。
 龍樹さんの手は瞬間ピクッとしてうっとりと力を抜いた。そんな龍樹さんを愛しく思う。
「どうして? もったいないよ。俺、こういう車、好きだな。お茶目じゃない? それで、乗ってるのが龍樹さんなら、そんなにおかしくないよ。かっこいいもん」
 第一、黒じゃホントにゴキブリになっちゃう。
「変な奴にしか見えないよ」
「変じゃないって……!」
 何だか年上に思えない感じで、言って聞かせるような言い方をしてしまって。
 恥ずかしいから話題を変えるつもりで藍本さんにふった。
「藍本さんて言ったよね? 親父達の事故って何ですか?」
 今なら冷静に聞けそうな気がして出した質問。ちらちらと気遣わしげな視線を送ってくる龍樹さんの手をキュって握ってから解放した。
 俺は大丈夫だからってつもりで。
「どうも、詳しいことは分からないのですが……。郊外にノイシュバンシュタイン城というのがありましてね。ほら、あの、シンデレラ城のモデルです。どうやらそれの一日観光に家族で繰り出したらしいです。そこで観光バスと……」
 そうか……親父の奴、ちゃんと家族サービスしてたんだ……。
 シンデレラ城?
 春美が好きそうだよな。
 俺と十離れてる妹は、何だか宇宙人並みによく解らない存在だったけど可愛かった。
「春美……妹の状態は?」
「重体です。意識がないと……。現状は向こうで確認して下さい。直行便でも十三時間以上はかかりますし。……フランクフルトで国内線乗り換え、一時間なので。あちらには飛行機の到着予定時刻を伝えてあります。迎えの者は日本人ですから安心して下さいね」
 それだけ言うと、携帯をとりだした藍本さんは龍樹さんのチケットの手配を始めてしまった。
 龍樹さんの胸を探らされてパスポートを出してやったりしながら一人じゃないっていう安堵感を感じていた。
 龍樹さんも着の身着のままでドイツへ向かうことになってしまったらしい。俺を一人にしないために……。
 パスポートを持ってたってことは、最初からそのつもりだったって事だよね。
 初めて海外に渡るのが、こんな理由だなんて思ってもみなかったけど、龍樹さんがいてくれるってだけで安心できる。言葉の問題も含めて。龍樹さんは長い間アメリカに居たくらいだから英語がペラペラなんだ。
 ぼんやりしてる俺を支えるように立って、出国手続きから何から全部面倒見てくれた。気が付いたら飛行機のシートに埋まってたって感じで。
 ビジネスクラスっていう奴。椅子が大きくて、龍樹さんみたいなでかい人でも楽な程度に足が伸ばせる。藍本さんの配慮だそうだ。会社持ちだって事、龍樹さんはすまなそうに言っていた。ほんとにショッキングピンクだった車は、空港付近の駐車場で俺達が帰ってくるまで眠ってるんだそうな。
 離陸して安定した途端に飲み物サービスから始まって、食事。乗った時間を考えると、夕食なんだろう。
 龍樹さんのところで遅い朝食を取ったきりだったから腹は減ってるはずなのに、俺は不味そうには見えない肉料理も副菜もデザートも口にすることが出来なかった。色合いも考えられたちゃんとした料理が、病院の入院食みたいな器に盛りつけられてる。プラスチックのお盆に細々と。
 入院食みたいって思った途端に母親の顔を思い出していた。
 小学校の頃の俺は、腎臓のせいでずっと病院を出たり入ったり。二年留年したあげく、移植を受けて元気になった。入院している間中、いっつも母親に覗き込まれてた様な気がする。
 そんなこと思い出して……。こみ上げるものがあって……、食べれなかったんだ。
 お盆を前にして固まってた俺の手がいきなり握りしめられた。
 龍樹さんが俺を覗き込んでいた。心配そうで悲痛な色の瞳で。ブランケットの下で龍樹さんの熱さが染み込んでくる。
 縋って泣きわめきたかった。
 見上げたまま口をわななかせるだけの俺に、彼は優しく言った。
「無理して食べなくてもいい。眠ってしまいなさい。今薬をあげる」
 スチュワーデスを呼んでかたずけて貰って水を頼み、懐のピルケースから錠剤を取り出した。
「飲んで。今は眠るぐらいしかできないから……。泣くのは向こうに着いてからだよ。ちゃんと確認して、それからだ」
 頷きながら渡された薬を飲み下した。喉がひりひりしてて、貼り付いた薬を水で押し流すようにして。
 ブロンドで蒼い眼のスチュワーデスが、なんか英語で言って、龍樹さんが答えて。
 途端に彼女の顔が哀れみで埋まった。
 またなんか言って。
「どうか元気出してって」
 龍樹さんが囁いた。
「サ……サンキュー」
 やっとの事で声出した。
 スチュワーデスが立ち去ってから、龍樹さんの手がもう一度俺の手を探り当てて握りしめてきて……俺も力を込めて握り返した。
 龍樹さんの手の感触だけに意識を集中してるうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 十三時間がもう過ぎてしまったのかって感じで俺は空港に降ろされてた。
 入国審査も龍樹さんが口添えしてくれた。
 先に出ていたバッヂをつけた日本人の集団に着いていこうとして龍樹さんに肩を掴まれ止められた。
「拓斗、ここはフランクフルトだから。ここから後一時間、乗らなきゃ。乗り継ぎのミュンヘン行きは出発まで一時間あるんだ」
「あ……ごめ……俺……」
 馬鹿みたいだよね。何にも分からないままこんな所まで来て。
 足下まで崩れ落ちそうな気分だ。
 龍樹さんに頼ってばっかりで、情けない。
「一時間後にはあそこから出発だ。しっかりして」
「う……うん」
 龍樹さんが示したゲートをボーっと見て。
 ドイツ語だ……。横に英語で同じ事書いてある。……なんて思ったら、ドイツに来ちゃったんだなって……。
「考える時間があるからいけないんだな。一応、ここで必要なもの買っておこう。下着くらいは換えが欲しい。取るものもとりあえず出て来ちゃったし。こっちの空港の方が大きいから……」
 龍樹さんの声は聞こえていたんだけど、俺の目はそれに吸い付いて離れなかった。
「何……?」
 公衆電話らしいもの。
「電話……かけたい」
 甘えに慣れた俺は、平気でそんなこと言ってた。
「え……?」
「ここからなら国際電話じゃないんだよね。用がないときはかけてくるなって怒られてたけど。必ず、母さんか春美が出て、何か用? ってきくんだ」
 龍樹さんは真剣な顔で俺を見つめてから俺の肩を掴んでゆっくり言った。
「待ってて、小銭用意してくるから。電話の側にいて。動いちゃだめだからね」
 どっか走っていって、小銭を持って帰ってきた。この国の硬貨をいっぱい。
 俺はそれを貰って暗記してる番号に電話した。
 呼び出し音が変な音。何回も何回もかけ直して。でも変な音しか聞こえない。
 後ろから野太い声が聞こえた。やけにはっきりした発音の英語。
 側で聞いてた龍樹さんの囁き声が耳元に忍んできた。
「拓斗、拓斗、後ろの人が電話を使いたいって……。また後でかけてみよう」
 あ、俺の後ろ、列出来てる。他のを使ってくれればいいのに……。
「やだ……。もう少し……。いるはずなんだ。絶対いるはず……」
 分かっていた。誰も出ないって。でも、出て欲しかったんだ。
「拓斗、後で。後でかけよう」
 龍樹さんに促されるまま俺は後ずさった。
「い……、いる筈なのに。母さんか、春美が……いる筈なのに。留守なんて……」
 しゃくり上げてしまって巧く言えなかった。俺は我慢できずに泣き出してたんだ。
 留守電にもなってないって酷いよね。こんなに近くに来てるのに。俺の声はもう家族に届かないらしいって確認するだけになった電話から離れて、柱の影に来たところで不意に抱き込まれた。
「た、龍樹さん?」
 息苦しいほど強く彼の胸に頭を押しつけられた。同じ様に息苦しい彼の囁き声は俺の気持ちとシンクロしてるみたいに悲痛。
「今だけ……。今だけだから……」
 泣いてるのを隠してくれてるつもり? 今だけ思いっきり泣いても……いいって?
「…………うん……」
 声を上げることは出来なかったけど、俺は泣いた。龍樹さんの胸に嗚咽をぶつけて。
 俺は一人になった。親戚も、親も、兄妹も、みんないない。
 ……龍樹さんがいるけど。
 いや、だめだ!
 本気で頼っちゃだめなんだ。そんな事したら、龍樹さんに捨てられたとき、俺は壊れちゃう。龍樹さんのお荷物になることを自分から望んじゃいけないんだよ。
 龍樹さんにもたれるのは今だけにしなくちゃ…………。
 もたれたままで俺はそんなことを考えていた。
 
5へ飛ぶ
 
 空港から車で三十分でミュンヘン市街へ出る。
 広々とした道路、ぎゅうぎゅうに車。
 ミュンヘンは普通の都市に古いものが混在してる感じの町だ。緑も多い。
 あ、BMWのビル……。変な形。
 三十分間車窓からざっと観光。そんな気分じゃない筈なのにな。
 MS社の迎えの人ってのは、堀田さんていって、親父の部下だそうだ。
 気弱そうな感じだけど、優しそうな人。親父は結構癇癪持ちだから大変だったかも……なんて考えながら、連れて行かれた先は冷たい石造りの建物。
「遺体安置所……だ」
 龍樹さんの声は強ばっていた。俺の肩に置かれた手が、無言の励ましを囁いてくるみたい。
 妙に大きく響く靴音、湿っぽいタイル張りの壁、所々はがれたコンクリートの床。
 案内された部屋は、更に暗くて寒い場所。
 真っ黒な袋が二つ、白い布が掛かったのが一つ。移動用の寝台が並べて置いてあった。
 この、マグロみたいのが親父と母さん。白い布の下に春美……?
 袋を開いて見えてる親父の顔。霜が付いて真っ白で、すごくよそよそしくて……。
 そうだよな。いつだってそうだ。俺だけ仲間外れ。病院にぶち込まれていたときだって、転勤が決まったときだって……。
 俺が医者になりたいって進路決めたら、親父は鼻で笑った。
「やれる所までやればいいさ。反対はしない、受かれば金も出してやる」
 お前には無理だ。
 裏側にそんな響きを感じた。
「拓斗、無理しないでね」
 母さんは、俺が何かする度そう言った。
 期待されてない。俺は……この家族に必要ない存在……。
 愛されていないわけじゃない。そんなのは分かってる。でも……。
 いるだけでお荷物らしい俺。今度のは完璧なつまはじき。
「……んで……」
 親父の頬に拳をぶつけた。ゴツッていった。
 硬くて、冷たくて、俺を拒絶してる。
「なんでだよぉっ!!!」
 ゴツッゴツッって……殴っても殴っても……。
「や、やめなさい! 拓斗!」
 後ろから羽交い締めにされて、俺は暴れた。絡みついてくる腕を思いっきりの力で振り払った。
 親父は冷たいまんま。俺なんか、相手にしてない。いつだって!
「いつだって俺だけおいてくんだっ! こうやって、突然にっ!!」
 転勤の時だって最初から俺は残ることにされてた。俺の意志は無視だ。
「俺のことなんか、どうでもよかったんだろう? え? 俺はとっくに見限られてたんだ。病気持ちの俺なんか、役立たずだから、だから……!!!」
 止められない。俺自身、そうやって叫ぶ自分が嫌だったのに。だから誰も俺のことなんか……。
「俺がどうなったっていいんだ。そうだろ!」
「拓斗! 止しなさい!」
「うっ……」
 ガッて衝撃が走った。鳩尾を中心にずんと……。
 気が遠くなっていく。身体から力が抜けて。
 腕に抱き留められた。
 あ……この感触は知っている。龍樹さんの腕……。ふわって抱き上げられて……。俺の……好きな……感触……。
 龍樹さんの体温に意識を委ねて俺は目を閉じた。
 
6に飛ぶ
 
 気が付くと見たことのない天井の柄が目に入った。石膏塗ったくったみたいな白いでこぼこ模様。
 頭を起こして見回したら隣にベッド。ルームランプとデスク、キャビネット、椅子……。
 いかにもなホテルの部屋。俺がいるのもベッドの上。
 裸の俺はブリーフだけになっていて……。鳩尾のところが赤くなってた。龍樹さんの、当て身……って奴かな。
 シンとした部屋には俺一人。
 一人!
 ガバッと起きあがってもう一度部屋を見渡した。誰もいない。
 龍樹さん? どこっ?
 俺を追いてっちゃったの?
 バスルームをみなきゃ……。
 ベッドから降りてバスルームに行こうとして。足に力が入らず倒れてしまった。ドスンとでかい音たてて。
「って……」
「拓斗っ?」
 音に驚いたのか龍樹さんが飛び出してきて。やっぱりバスルームだった。ホッとしたのと嬉しいのとで、情けないほど嬉しそうな笑みを向けてしまった。
 龍樹さんは俺のこと置いていかない。黙って行っちゃったりしないよね。
「よかった、そこにいたの? ……龍樹さんの当て身、きつすぎ……。まだ足に力はいんない。バランス崩して転んじゃった……」
「すまない! 加減したつもりだったんだけど」
 慌てて駆け寄ってきて俺のことを抱き上げてくれた。龍樹さんの首に腕を巻き付けて、ベッドに降ろして貰ってもそのまま捕まっていた。
 戸惑ったようにベッドサイドに腰掛けた彼の首に頭をもたれさせて甘えた。
 そう、俺は甘えたかった。龍樹さんの体温にどっぷり埋もれたくて。
 それが伝わったみたいに彼の腕が俺を抱き締めてきた。
 抱かれたかった。キスして貰って優しく撫でて貰って。そして……。龍樹さんと一つになって、何もかも忘れてしまいたかった。あのスパークするような光に包まれる感覚をもう一度……
 でも……。龍樹さんはあくまでも心配そうに俺を抱き締めるだけ。
 龍樹さんが俺に当て身を喰らわせたのは……どうしてだっけ……?
 みっともないところ、見せちゃったな。
 俺は龍樹さんの腕から抜け出して、座り直した。
「……俺のため……だろ? 俺が親父を殴るの止めさせるため……」
 俺を見つめる瞳が苦笑をほんのり浮かべた。すっと手を挙げて俺の頭を撫でて。
 時々こんな風に俺のこと……。そりゃ、俺は年下だけど……。なんか悔しい。
「君は……逆上してたから……」
 俺の嫌なところ見られちゃったんだ。親父に似て、癇癪持ちなところ……。
「……うん……。ありがとう……。あのままだったら俺、もっともっと嫌な奴してた……」
 無意識の内に龍樹さんにしがみついていた。
 どうしよう、俺……。この人の事……失うわけにはいかない。無しじゃいられない。
「嫌いになった?」
「え?」
 龍樹さんの返事はなんのこと? っていうように素っ頓狂に響いた。
「俺が嫌な奴だから……。もう、嫌いになった?」
 違うって返事が欲しかった。好きだよって、愛してるって囁いて貰って安心したかった。
 俺はバカな事してる。
 こんな風に龍樹さんに甘えて、よけいお荷物になって。親父達みたいに俺のこと……見捨てるかもしれないのに。
 力強い腕がそんな俺を掻き抱くように抱き締めた。
「ならないよ……。なるわけない」
 俺は心のどこかでこのまま抱いてもらえることを期待していたのかもしれない。
 なのに、龍樹さんは俺を引き剥がして覗き込んできた。心配そうな、悲しそうな瞳で。
「……嫌いになった方が……いいの?」
「違う! 俺……、俺は……」
 俺が頼めば、俺のこと嫌いになるっての?
 両頬を抑えられているせいで、視線をそらせるのがやっと。堪えられない涙が出ちゃった。恥ずかしいことに。
「龍樹さんは……意地悪だ」
「拓斗……?」
「俺には龍樹さんしか残っていないのに……。もう、龍樹さんだけなのに……」
「拓斗っ!」
 俺の呟きは龍樹さんの逆鱗に触れたらしい。
 乱暴にキスされて貪られて。
 俺をベッドに抑えつけると下着の中に手を入れてきた。
 キュッと握られて。
「はああぁぁっ」
 思わず声を出してしまった。
 獣モード発動の龍樹さんは、こうなると手がつけられない。既に何度も受け入れてしまった俺は、止める手だてなんて、思いつけなくて。……止める気はないけど、扱いが性急になるのはちょっと……。
「意地悪だなんて言うな……。こんなに、こんなに好きなのに……」
 龍樹さんは俺の身体に貪り付きながら泣き声のような声で話しかけてる。
 熱くて濡れた感触が俺のを撫でた。
 龍樹さんが口でしてくれること。最初は嫌だった。気持ちいいには違いないけど、ちょっと抵抗あって。
 汚いところだからって言ったら、龍樹さんは悲しそうに笑った。俺のは特別なんだって。汚くなんかない、そう出きることがすごく嬉しいって……。
 本当に幸福そうな笑顔で俺のをしゃぶり続ける龍樹さんの表情を見たとき、もう、汚いところだからなんて言えなくなった。
 気持ちよくて、嬉しくて……。特別な気分だけを思って。龍樹さんだけにならそうされてもいいやって考えるようになった。
「……だから……君の言うことなら……何だって聞いてしまうの知っているくせに……。嫌いになって欲しいなんて言うみたいに……僕を不安にさせて……」
 途切れ途切れのそんな台詞と一緒に俺のを口で思いっきり絞り始めて。それはあの、俺に意地悪するときの龍樹さんの常套手段。俺がそれを口にするまでイかせてくれない癖に、ギリギリの刺激をしてくるんだ。
「君の方が……意地悪だ……。そんな……そんな絶対に出来ない無理難題をふっかけて……」
「はぁっ……ごめ……んっ……はぁっ……んんっ……あぁ……んんっ」
 泣き声みたいな声のまま囁き続ける龍樹さんに、俺は翻弄されるしかなくて……。
「いい? 声、出して。……ねぇ、もっと叫んで」
 イイ。本当に……、でも……。
 スパークし始めた視野に、ストロボショットのように何かが見えた。
「や…………!」
 龍樹さんを押しのけようとした。すぐさま抑えつけられて余計に貪られた。彼の力にはかなわない。
「恥ずかしい? 君の声、素敵なんだ。意地悪しないで……聞かせてよ……。もっと! もっと大きく!」
 荒々しいくらいの龍樹さんの愛撫。パンッと何かがひらめいては消える。
「あんっあっあっ……はぁぁぁっ、たつ……き……さんっ……俺……。や……だ……出ちゃう……やぁ……っんんっ」
「いいよ……。嬉しい…………出して……」
「ああっあぁぁぁぁっっっ」
 射出の快感と安堵感が俺を包んだ。龍樹さんの飲み込む喉の音がやけに大きく聞こえて。
 閃光がフェードアウトしていくと共に、視野の中の映像が形をなしていく。
 龍樹さんはガクガクと震える俺の身体を抱き締めながら、今度は俺の尻を指で犯し始めた。俺はと言えば、龍樹さんに満たされることを予想しながら恥ずかしい悦びに身を任せようとしていた。
 狂ったように俺を欲しがる龍樹さんは、怖いけど愛しい。
「入って……いい? ……君の……中に……」
 切迫した喘ぎ混じりの呟きをきかせながら、龍樹さんの指が俺の中をぐりぐりとまさぐっていた。
 早く入りたいって……俺を貫きたいって……。そんな風に。
 俺は頷こうとしてた。龍樹さんが俺に与える快感を、共有できる絶頂を、もう経験済みだったから。
 でも。
 明確になりつつある映像が、そんな俺の快感への切望を遮った。
 親父だ。親父がこっちを見てる。
 こんな……あられもない格好の俺を見てる。
 俺は龍樹さんの腕から抜け出そうとした。
「や……。だめ……」
 親父達が死んだときも……俺はこんな風に抱かれてたんだ。何もかも投げ出すように龍樹さんに溺れて……。
 そう思いついてしまったらもう、だめだった。だから……。
 本気で俺が彼からぬけ出そうとしてるのに気が付いて、龍樹さんが慌てて俺を抑えようと腰にしがみついてきた。
「君が欲しくて欲しくてたまらない。愛してる……愛してるんだよ」
 龍樹さんの声が縋る色に変わって。
 そうだよね……。俺だって、こんな途中で嫌だなんてされたら……。ごめん、龍樹さんはなんにも悪くないのに……。
 龍樹さんの腕に力がこもった。俺の抗いなんて、ものともしないで……俺の中に入ろうとしてる。それだけに集中してるみたいに。
 親父の顔が歪んだ。悲しそうに、情けないって……。
 男に愛されてる俺の姿を見てる……。
 嫌だ。見ないで……!
「たつ……き……さんっ。……だめっ」
 龍樹さんは俺の脚を大きく割り広げ、腰を持ち上げて挿入の準備を始めた。
「だめだよ。止められない……」
 熱くて硬い感触が押し当てられて。
 突き込まれる。
 親父の見てる前で……!
「いやだぁぁぁぁっ」
 どうしても嫌だった。龍樹さんが嫌なんじゃない。親父の見てる前で、されるのは……嫌なんだ。
 俺はバカみたいに足をバタつかせた。目標を定めた訳じゃない。何度か龍樹さんの腹に蹴りが入った。怯みながらもまだ俺を組み敷こうとする龍樹さんを蹴った。
 音はしなかった。感触はグキッて……。
 柔らかいような硬いような……。
「っっ」
 龍樹さんが凍りついた。
 窒息してるみたいな顔って……きっとあんなだ。
 咄嗟に俺を押さえていた手が股間にあてがわれて。
 グラリと俺の横に倒れ込んだ。
「たっ、龍樹さんっ?」
 俺は龍樹さんの股間を思いっきり蹴ってしまったらしい。
 小刻みに震えたまま動かない龍樹さん。痛いんだ……。あ、当たり前だよな。
 そっと覗き込んだら涙出てた。
「ごめ……っ。俺、そんなつもりじゃ。只、い、今は嫌で……。ごめん、ごめんね。痛い……? ……よね……。ホントにごめん……」
 龍樹さんの汗に濡れた肩を撫でたら寝返りを打って振り払われた。
 ……怒ってる。当たり前だけど、ショック。
「龍樹さん……。怒っちゃった? ねえ」
「…………」
 無視された。龍樹さんが俺を無視した。
 どうしよう。俺、ほんとに嫌われちゃう。
 捨てられちゃうよ……。
 漠然とした不安じゃない、切羽詰まった恐怖としてそんな考えが浮かんで。俺は泣き出してた。
「ねえ、龍樹さん、返事してよ」
 もう一度肩を揺さぶった。
「拓斗は僕のこといやなんだ。ほんとはいやなんだろ?」
 シーツに埋もれたままのくぐもった呟き。
「ち、違うよっ。嫌じゃないよっ。好きなんだ、ホントに……」
「違わない。君の気持ちは僕のとは違う。そう言ってたじゃない」
 何だって、そんな前のことを!
「愛してる。愛してるよっ。俺には龍樹さんしかいないんだから!」
「じゃあ、なんでっ?」
 ヒステリカルに叫ばれたその言葉に俺は固まっていた。
 なんて説明すれば良いんだろう。俺が本当に龍樹さんだけって分かって貰うには……。
 セックスを思いっきり拒絶しといて信じて貰うのって……どうすれば……?
「……だめなんだ……」
 ベッドの中に沈み込んだままの龍樹さんの髪をそっと梳いた。色素の薄い、金色に見える茶色。傷んでいないからひきつれない滑らかな感触。ソフトなウエーブで、柔らかくて、……気持ちいい。
 大好きなんだ、龍樹さん。本当だよ。
「ごめん。龍樹さんには何の責任もない。只、俺……今はそんな気になれなくて……」
 龍樹さんが俺を見上げた。金色の泣き濡れた瞳が、俺を映している。
 拗ねた口調も、こんな縋る瞳も、俺には愛しさをかき立てる要素。龍樹さんは普段落ち着いた大人の顔をしている。なのに、こんな甘えるような心細そうな表情を浮かべると俺より年下かと思ってしまう時がある。
 それがふっと大人の顔に戻って溜め息をついた。
「キスして」
「え?」
 龍樹さんの甘えるような声は、怒りを浮かべていなかった。
「愛してるって、心を込めてキスしてくれたら許してあげる」
 キスを強請る口調は、これ以上は譲らないっていう一種の賭のような想いを込めてるみたいに強く響いた。
 このキスまで拒否したら、俺達の間は確実に壁を一枚挟んでしまうだろう。
「……キス……だけでいい?」
 また求められて、蹴り飛ばしてしまうことになるのが怖い。そんな想いで念押しした。
「うん……」
 龍樹さんは身を起こして俺を待った。
 俺のキスを待つ彼は、精密に計算されたような整い方をした美しさで俺を圧倒した。
 スゲー恥ずかしいけど、素直に待っている彼には俺から近づいていかなきゃ……。
 形のいい唇に俺のを重ねた。そっと吸って、離して。もう一度吸い付いて。うっすら開いた唇を舌で撫でた。薄すぎず、厚すぎず、敏感に反応する唇は、俺の唇まで敏感に変える。
 舌を入れて彼の舌を導き出した。龍樹さんが夢中になり始めたのが俺をリードする動きで分かる。息継ぎももどかしく、互いを貪った。
 どうやら親父はキスだけなら現れないみたいだ。
 龍樹さん、愛してる!
 愛してるよ!
 互いの頬に添えた手に力が入った。
 なのに。
 龍樹さんはもぎ離すように俺から離れた。
 見据える瞳は……俺をまだ見捨てていない。俺の気持ち、ちゃんと伝わった?
 ……蹴っ飛ばしちゃった理由、言っておいた方がいいかな。
「龍樹さんが入れようとしたとき、……親父達が見えたんだ。龍樹さんにされてる最中に、親父達死んだんだよ。そう思ったら、龍樹さんにされて、あんなに燃えてた自分がどっかはじき飛ばされちまった……。少し……待ってくれない? 俺……、まだ混乱してる……」
 龍樹さんの表情が見る見る同情的なものに変わっていく。泣き出しそうに顔を歪めて俺を抱き寄せて。
「すまない、君を苦しめるつもりじゃなかった……。風呂の用意してあるから。入っておいで」
 言いながら頬にチュッとキスをくれた。いつものように。
 ホッとした。
 同情して欲しい訳じゃないけど、分かって貰いたかったから。
「うん…………」
 龍樹さんの言葉に甘える形で俺はバスルームへ逃げ出した。
 きっちり鍵かけて。
 それはただの習慣で、別に警戒心とかじゃなかったんだけど。
 ……まずかったかな。龍樹さんは気にしただろうか。
 湯気で曇りかけた鏡を見た。
 キスマークだらけの首筋。情けない顔。
 童顔じゃないけど、子供っぽく見えるのは表情のせい?
 いつも笑ってるみたいな口元はヘラヘラした感じで軽薄そう。
 俺の身体……。痩せてる方がかっこいいってみんな言ってくれるけど、どう見たって貧弱。
 龍樹さんは綺麗だっていってくれたけど……。
 俺は鏡から離れて湯船に浸かった。パシャッと湯で顔を叩いて、龍樹さんのことを思った。
 時々聞いてみたくなる。
 どうしてそんなに俺がいいの?
 分かんないから信じられない。俺なんて、いいとこなしな奴だと思うんだけど。顔だってスタイルだって頭の出来だって……みんな龍樹さんと比べれば月とすっぽん。頼みの性格は……、優柔不断で流されやすい奴。その上、わざとじゃないけど嫌な事口にしちゃうし。龍樹さんなんて、そのたび泣かされてるのにね……。
「拓斗、拓斗君?」
 気遣わしげな声とノック。
「なに?」
「ルームサービスの食事が届いたんだ。食べられたら……食べて」
「……うん、もう、出るから……」
「じゃ、待ってる。ワイン、白だけど飲む?」
「うん!」
「寝間着無いから、Tシャツ……おいとく」
 龍樹さん、何から何まで……。俺なんかのことそんな風に気遣ってくれるの龍樹さんだけだよ。
「あ……ありがとう」
 身体の水気を取ってバスタオルを腰に巻いてバスルームを出た。
「紳士であれ。だな」
 龍樹さんの呟きを耳にして肩越しに覗き込んだ。
「なにが?」
 飛び上がった龍樹さんはカァッと赤面した。聞いちゃいけなかったのかな……。
 紳士って、俺に対してって事?
 ワゴンはベッドサイドを椅子にできるようにセッティングされていた。いい匂いが立ち上ってきて、思わず鼻をくんくんさせてしまった。
「美味しそう。もう、冷めちゃった?」
「まだ大丈夫。ちゃんと保温器に乗ってる。……中辛口の白だけど、飲める?」
「うん、大丈夫」
 ワインを注ぎながら龍樹さんが俺のことを見た。
「シャツ着ないの?」
 タオル巻いたままで食卓に望むなんて、だらしないってか……。
「汗引っ込んだら着る。先食べちゃだめ?」
 龍樹さんの視線は俺のキスマークを数えてるみたいに動いた。やがて苦笑しながら俺の向かいに座った。
「……いいけど……。一応お通夜になっちゃうわけだから……」
 うっ、そういう意味のワインか……。笑ってごまかそう。
 ニッて笑いかけた。
「行儀悪いけど、湿ったシャツ着て寝るの嫌なんだ」
 しょうがないなーって苦笑して。
「汗引っ込んだら食事中でもちゃんと着ろよ。風邪ひくぞ」
「うん……」
 ワインを一口飲んだ。喉が焼けるような気がしたけど、通り過ぎてしまえばすっきりした気分。冷えてて美味しいワインは丸一日何にも食べてなかったことを思い出させた。
 龍樹さんが取り分けてくれた料理は、肉やジャガイモや野菜の酢漬け。見た目よりもさっぱりしていて美味しい。
 なのに手が進まない。
「口に合わない?」
 龍樹さんの心配そうな声に俺は笑顔を作った。
「ううん。美味しいよ。龍樹さんの料理には負けるけど。ただね……」
「?」
「こんな時でも腹減るし、食えるんだなって……」
 そうなんだ。とても食い物口にするなんて出来ないって思ってたのに……。美味しいって感じるなんて。
「うん……。生きるって、そういうことでしょ。辛いことあって、食欲無くなっても、どっかで割り切って食べ始めるんだよね。生きようって……身体が要求するんだ」
 俺って食いしん坊だもんな。泣きもしないで旨い食い物前にして嬉しいなって思うなんてさ。このワイン、酔うの早いんじゃない?
「俺、何か変なんだ。どっかで冷めてる。家族なくしちゃったのに。ちゃんと確かめたのに……。他人事みたいで……。俺って、冷たい奴なんだなって……分かった」
「そうじゃないよ。違う。僕が言うのも変だけど……。後からゆっくり来るんだ。そういうの。救命センターで、そういう遺族、沢山見た。実感湧かないって感じで妙に冷静で……。まるで他人事みたいで……ってね……。その人達は冷たい人達じゃなかったよ」
「じゃあ、俺、その間ずっと龍樹さんに迷惑かけるのかな……」
 親父が見えるからって最中に蹴り倒したり……。そのくせ、そばにいて欲しいって、龍樹さんからして見れば誘惑にしか見えない態度……してるって自覚はちゃんとある。
 龍樹さんが我慢するって言ってくれたからって、甘えてる。俺って、本当に狡い奴だよな。
 なのに、龍樹さんたら激しい口調で言い募ってきた。
「迷惑なんかじゃないよ。今度そんなこと言ったら……!」
 言いかけて絶句した。拙いって言うように。
「言ったら……? ねえ、どうするの? 途中でやめるなんて、だめだよ」
 そんな風に黙ったら気になるじゃないか。
「僕を嫌いにならないって約束してくれるか?」
 龍樹さんは俯いたまま上目遣いで俺を伺ってきた。
「? ……うん」
「……無理矢理犯してやる……って。言おうとした。冗談だからねっ」
 言いながら顔を真っ赤にした。
 最後の、付け加えられた台詞には笑った。
 もちろん分かってる。俺を犯すなんて、この人が簡単にする訳無いのは分かってる。だって、そんな人なら、俺はとっくに何度も犯されてるはずだもの。
 それにしても、自分で言った言葉に赤面してしまう龍樹さん、なまじ綺麗に整った顔だからよけい可愛いよ。
「うん。冗談でも怖いから気をつけるようにする」
 言ったら龍樹さんが微笑んだ。
 龍樹さんと一緒の食事って、龍樹さんの笑顔がプラスされるからよけい美味しく感じるんだって、俺は発見していた。
 ワゴンの上の料理は美味しい。ワインも美味しい。龍樹さんと差し向かいだから、とっても美味しい。
 俺はいつもの食欲を取り戻して、空っぽの胃を一杯にした。
 最後のアップルパイに来て……。龍樹さんが煎れてくれた紅茶を助けに食べ始めたんだけど、もう降参。
「どうしたの?」
「これ、甘過ぎ。龍樹さんの方がずっと美味しい」
「無理しないで。残してもいいよ」
「うん、ごちそうさま」
 言った途端にくしゃみを連発した。
「ああほら! シャツ着て!」
 ワゴンをかたずけながら龍樹さんが叱った。まるで母さんみたいに。
「はぁい」
 小さく返事して。
 ベッドを見た。シャツとブリーフは両方のベッドに置いてあって、俺用のサイズのは使ってない方のベッドに置いてあった。
 どうやらさっき俺達が使ってた方を龍樹さんが使うつもりらしい。空港で買った大きなボストンと、龍樹さんの服も置いてある。
 俺は素直にベッドに置いて合ったシャツとブリーフを身につけた。龍樹さんがバスルームに行ったから、部屋の真ん中で堂々と。
 カルバン・クライン……結構履き心地いいや。ゴムの部分に名前が入ってる。映画で持ち主の名前と勘違いされるってネタ、あったな。
「龍樹さん!」
 バスルームで風呂の用意してた龍樹さんは、俺が声かけたらびくって身じろいだ。
「なんだい? ……僕は風呂入るから。先寝てて」
 作り笑い、してる。怒ってないって感じだったのは、無理してたんだろうか。
 でも、そう聞くのも怖くて俺は気が付かない振りした。
「うん……。明日の予定なんだけど。堀田さん、何か言ってた?」
「ああ。お父さん達が使ってた部屋に連れていってくれるって。処分する物は引き受けるから、持ち帰りたい物を選んでくれって。慌ただしいけど、そんなに長くいるわけにも行かないし。……葬式とか、日本でするよね。遺体は帰るとき一緒に移送するって」
「うん……」
「それと、事故現場……。君が行きたければ案内するって。どうする?」
「……行きたくないけど。行かないと後悔しそうだ……。俺がおかしくなったら、また、龍樹さんが止めてくれる?」
 甘ったれた台詞。口にしたとたん後悔した。
「うん……。側にいるから……。ずっといるからね」
 龍樹さんの声はいたわるように響く。あくまでも俺のため……って感じに。
 一体俺はどのくらい龍樹さんに迷惑かければ気が済むんだろうね。自分でも嫌になっちゃうよ。
「ごめ……」
 言いかけて、笑った。さっきの冗談思い出して。
「危ない。やられちゃう所だった」
 龍樹さんは、うっと息を詰めてから笑った。それはまるで、機嫌が悪いときに客が入ってきたときのような営業スマイルに見えた。
「……こらこら……! くだらないこと言ってないで歯磨きしなさい。明日堀田さんが九時に迎えに来るから、七時半起床、八時に朝食だよ。君が洗面所終わらせてくれないと僕が風呂に入れない。早くしてくれたまえ」
「風呂入ってたって平気だよぉ。俺に龍樹さん襲う勇気ないもん。いいよ、入りなよ」
 言ってからまたヤバイって。これじゃ、俺が鍵かけたの龍樹さんに襲われるって警戒したからみたいじゃないか。
「……わかった」
 諦め顔の笑顔。スッとバスルームに入ってしまった。
 あーあ、だよ。俺って、こうだから長く人と付き合えないのかなぁ。
 お互いのこと分かるほどに余計に好きになれればいいのに。俺はそうだけど、俺の相手はそうじゃないこと多いんだ。
 龍樹さんが見つけてくれたらしい、俺の良いところって何だろう。龍樹さんの幻想だったら俺は捨てられちゃうね。
 シャワーカーテンが閉められたのを確認してから俺はバスルームに忍び込んだ。
 そっと歯磨き。
 出ていくときに目を遣った先に、うっすら透けて見える龍樹さんの裸身。シャワーを浴びているらしい。筋肉のラインをなぞるように湯が流れ落ちていくのを想像した。……綺麗だろうな。
 そう思った途端、体が熱くなってドキドキし始めた。ペニスも勃ち上がりかけてる。
 俺ってば、龍樹さんが欲しくなってる。掌にあの硬い筋肉を滑る感触が蘇った。
 カーテンを取り去って龍樹さんにしがみつきたいって思った。襲ってしまおうか。
 バスルームに向かってきびすを返しかけて止めた。
 親父が見えたんだ。
 せっかく我慢してくれた龍樹さんを襲おうなんて、なんてはしたないって!
 途端に身体が冷え切ってしまった。
 俺はベッドに潜り込んで頭まで毛布をかぶった。龍樹さんが出てこないうちに眠ってしまおう。今更欲しいなんて、言える訳無い。また親父が出て来て龍樹さんをがっかりさせるかもしれないし。
 冷たいシーツが俺の頭を冷やしてくれる。張りの良いベッドメイキングだ。
「おやすみ……」
 龍樹さんの声が微かに聞こえた。衣擦れとベッドの軋みが聞こえて。隣のベッドで龍樹さんが寝てる。
 龍樹さん、我が儘ばっかりでごめん、ごめんね。
 枕を涙で濡らしながら俺は眠りに入った。
 
7へ飛ぶ
 
「拓斗……」
 穏やかな声と一緒に金色の瞳が俺を覗き込んでいた。悲しそうに潤んで、少しづつ遠のいていく。
 どうしたの? ってきこうとして声が出ないのを知った。
「僕は……疲れちゃった……。悪いけど、リタイアだ。君をあきらめる。今夜、消えるよ」
 龍樹さん?
 リタイアって?
 どんどん遠くなっていく彼を引き留めようにも俺はちっとも追いつけない。
 走っても、走っても、走っても……。
 呼び止めようにも声は出せないし。俺、走りには自信あったのに。歩いている龍樹さんに追いつけないなんて。
 ちょっと、冗談でしょ。あきらめるって……。俺が甘えすぎたから?
 待って、待ってよ。
 俺をおいていかないで……!
 蹴躓いて転んで、半身を起こして見た先に、点みたいになった龍樹さんの金色に見える頭がほんのり輝いてる。
 嫌だ、嫌だよ。龍樹さんしか俺のこと愛してくれる人なんていないじゃないか。
 俺を一人にしないでよ!
 声が出ない!
 声が出ないよっ!
 龍樹さん! 助けて!
 
8へ飛ぶ
 
「ぐううっ」
 蛙を挽きつぶしたような声出して飛び起きた。フットライトだけ付いた暗がりの部屋で。
 声を出そうと無理した結果のうめき声。
 汗びっしょりだ……。
 横で龍樹さんの寝息が聞こえた。
 よかった……。龍樹さんがいる。大きな溜め息ついて、龍樹さんの綺麗な寝顔に目を凝らした。
 嫌な夢、見ちゃった。
 でも、正夢になりそう……。
 怖くてとてももう一度眠りに戻るなんて出来そうもない。
 穏やかな寝息。よく眠ってる龍樹さん。
 夢の中では疲れたって言ってた……。本当に疲れてるかも……。
 俺はベッドから降りて龍樹さんの枕元に立った。
 龍樹さん、俺をおいていかないで……。俺の側にいてよ……。
 俺は泣いていた。夢の中で転んだだけなのに、体中が痛い。龍樹さんを失ったら俺は本当にバラバラになってしまうかも……。
 ボロボロ涙がこぼれ落ちてしまう。
「……拓斗……? どうした?」
 眠たげな声が俺を飛び上がらせた。
 訝しげな顔の龍樹さんが照明を明るくした。瞬間眩しそうに歪めた顔で、俺を見てる。
「…………」
 嗚咽を押し殺してるせいでまた声が出ない。
 涙……止まらない。
「眠れないの……?」
 上体を起こして俺の目線をとらえた龍樹さんに、ただ頭を振って応えた。眠れないんじゃない、心配なんだよ……。
「拓斗……?」
「夢……見た。龍樹さんまで俺を置いてっちゃう……。だから……」
 怖くて龍樹さんを見つめるしかできなくて……。
「置いていかないよ……。大丈夫だから……」
「だって……だっ……あ……うっああああっ」
 我慢してたのに……もう止まらない。雄叫びみたいに声がほとばしり出て……俺は泣きわめいてた。
 龍樹さんが慌てて抱き締めに来たけど拒絶して。
 大丈夫なんて、誰にも分かりゃしないよっ。
「みんなっ……俺っ……をっ……置いて……くっ……んだ! 俺な……んか……みんなを……ガッカリさ……させること……しかできなくてっ」
 ヒステリックに泣きわめいた。
「も……やだ……。何で……こんな……」
「拓斗……! 僕は大丈夫だから」
 言って聞かせるような口調に嫌々をした。
 それで信じられるくらいなら、苦労しない。
 俺をしばらく見つめて観察していた龍樹さんは急に自分の毛布を持ち上げた。身体をずらして人一人入れるくらいの場所を空けて。
「おいで……。どうしても心配なら……。触れてれば分かるだろう?」
 一緒に寝てくれるって言うの?
 俺、龍樹さんのこと蹴っ飛ばしたんだよ?
「だって……」
「君の嫌がることは何もしないから、安心して。ちょっと寒いから丁度いい。温めあおうよ」
 温めあうって……、素敵な提案に思えた。俺にとっては、だ。龍樹さんは苦しい思いするだろう。俺のことが欲しくて熱出したくらいの人だもの。それなのに、一緒に寝てくれるって……。
 何にもしないで……。
「うん……、ごめ……」
 龍樹さんの毛布のアーチをくぐるようにして横たわった。もっとくっつくようにって肩を抱き寄せられて。龍樹さんの体温がふわりと俺を包む。気持ちよくて、安心できて。触れ合ったところから幸せな気分が拡がっていく。俺は龍樹さんの胸に額を押しつけるようにして寄り添った。
 俺の髪に龍樹さんの唇が触れてチュッていった。
「あったかいね……」
 微笑みを含んだ声が囁いてきて。
「うん」
 ほんとにあったかい。龍樹さんの懐も心も……。そう感じるほどに罪悪感が膨らんでいく。俺は、龍樹さんを苛めてる。甘えて、頼るばっかで、何にも龍樹さんの欲しいものがあげられない。
 こんなじゃ、ほんとに置いてかれちゃうよ……。
「拓斗……?」
 心配そうに囁きかける彼の背に腕を回して抱きついた。
「龍樹さん……、優しすぎる。俺……、俺……!!」
 嗚咽に詰まりながら呟いた。
「……もしかして……、さっきのこと、気にしてるの?」
 怪訝な声。俺は鼻先を擦り付けながら頭を振った。
「う……」
 気にしてるよ、もちろん。でも、そんなこと言えない……。
 そんな想いで彼を見上げたら目があってしまった。金色の瞳が微笑んだ。
 もう一度チュッて髪にキスされた。
「僕は……待てるよ。こうして君が僕を必要としてくれてれば……。待てる……」
 ギュッて抱き締められて。
「龍樹さん……?」
「しなくてもすごく心地良いから……。君が僕の腕の中にいるってだけで、満足感で一杯になれる……。ねえ、こんな気持ちは初めてだって言ったら信じる?」
 龍樹さんの穏やかな囁きは本当に信じたくなるような誠実な響きで俺の耳に忍んでくる。
「……君は、僕が嬉しそうにしてるのが嬉しいって言ってくれたね。僕も同じなんだ……だから……」
 本当に……?
 龍樹さんはまだ俺を好きでいてくれるの……?
 まだ甘えさせてくれるの……?
「ありがとう……。龍樹さんがいてくれてよかった。一人にしないでくれてよかった……」
「眠りなさい。君を一人になんかしない……。頼まれたってしないから……」
「うん、うん……」
 
9へ飛ぶ
 
 翌日の午後。
 シンデレラ城。いや、ノイシュバンシュタイン城か。事故現場に行った。
 たしかに綺麗な城だ。小高い丘の上の方だから、木々の間からそびえ立つのがくっきり見える。白と、水色と、金色。白鳥の城って訳すって聞いて納得した。
 親父達は中も見学したらしいけど、俺は麓の車寄せのところで用意してきた花をあげるだけにした。
 反対側に地味な城がもう一つ。湖に面してある。
 真ん中に昔の建物をそのままホテルにしてるらしい館があって。一角がカフェになっていたからそこで休憩した。コーヒーを飲みながら湖を見つめて。
「あの城の主はここに身を投げたのかな」
 ふいに龍樹さんが言い出した。
「湖で死んだって言うんだけど、ここかどうか。最後まで世話していた爺やがいて、後追ったって話、あるんだって」
「……どこで仕入れてきたの? そんな話」
「さっきのウェイトレスの女の子。……僕も……君が死んだら後追うからね」
「龍樹さん、爺や?」
「っていうより後追い心中は恋人とでしょう? ふつう」
 拗ねた目をしてコツンと額を弾いてきた。
「僕が死んだら……君はどうする?」
「後……追って欲しい?」
 龍樹さんは考え込んでしまった。「うん」て言う答えを即座に返して欲しかったかもしれないけれど……。
 フッて笑ってから真剣な顔して。
「いや……後なんて追わないで欲しい。君には君の人生があるから……」
「俺が同じ様に考えるとは思わない?」
 龍樹さんの瞳が凍りついた。それからきらきらと潤んで。
 俺の気持ちは伝わっている。龍樹さんの瞳は悲しい光で潤んでいたわけではなかったから。
 ガターンという大きな音がたたなかったら、俺は彼の手を取って中世の騎士のように口づけてただろう。そうしたい気分だった。
 ドイツ語の叫びは意味が分からなかったけど、店の人の慌てぶりが奥の方から伝わってきた。
「どうしたんだろう?」
 龍樹さんが立ち上がって声のする方に走っていった。
 俺も慌ててついていって。
 誰かが倒れてて回りに取り囲むようにワタワタと人がいた。
 トイレに行ってたはずの堀田さんもその中に。
 龍樹さんは倒れた中年の男の人の側に跪くと瞳孔、呼吸、脈と確認し始めた。
「急に苦しみ始めて倒れたそうです」
 堀田さんが通訳してる。
「心臓発作らしい。救急車、呼んで下さい。来るまで心肺蘇生法、やります」
 顎をグイッと持ち上げて頭を傾けさせた。鼻をつまんで思いっきり息を吹き込み、両手を胸の所で重ねてグッグッと押した。
「拓斗! 手伝って!」
 俺のことを目の端でとらえてたのかいきなり叫んだ。
「ワン、ツー、スリーで大きく息吸って、フォーで鼻つまんで、ファイブで吹き込んで! 行くよっ!」
「う、うん」
 龍樹さんがカウントしながら胸を押す。俺はスリーで深呼吸、鼻つまんで息を吹き込む。知らないオヤジの口に口付けて。
 人工呼吸なんてしたことない。でも、龍樹さんの言うとおりにし続けた。
 規則的な声を耳にしながら延々三十分。龍樹さんの額には汗の玉が噴き出し始めてた。
 胸を押す力は結構要るらしい。
 救急車が来た頃にはオヤジは息を吹き返していた。
「初めての発作? とにかく連れてって貰って精密検査した方がいい」
 そんなことを堀田さんに通訳させていた。
 救命センターで働いていた頃の龍樹さんて、あんな感じだったんだな。
 てきぱきしてて、かっこいい。真剣で、厳しくて、ずっと輝いて見える。
 店の人の心尽くしのグレープジュースを貰って、俺達の席に落ち着いた。
 ふうって溜め息をついた龍樹さんに笑いかけて。
「お疲れさま、びっくりしたね」
「うん。でも、取りあえず息吹き替えしてよかった」
 うん。海で溺れた俺のことも、ああやって助けてくれたんだね。
「俺の時もあんな風にしたの?」
「……ああ」
「誰が人工呼吸のほう、したの?」
「僕だよ」
「だって……心臓の方は?」
「それも僕。一人でやるときだってあるんだ。回数のカウント変えて。他の奴に君をさわらせるなんて耐えられないもの」
「俺が人工呼吸をしてやるのは構わないわけ?」
「あ……そか……。考えなかった。でも、キスじゃないもの。嫌だけど我慢しなきゃ。君が医者になれば、嫌でもそういうこと増えるんだし」
「……龍樹さんはどうして医者を続けなかったの? 今だって十分てきぱき動けるのに」
「僕には患者を治すことが出来ないから。……僕の担当した患者が死んでね。傷は治したのに……死んだんだ。そういうの、辛くて……」
「龍樹さん、格好良かった。俺、龍樹さんみたいに出来る人、憧れる。俺でも……なれるかなぁ……」
「もちろん。君が患者を助けたいと思えばね。……そしたら僕は嫉妬の炎に焼かれながら、でも誇らしく感じちゃうんだろうなぁ。僕の恋人はこんなにかっこいいんだよって」
「たっ、龍樹さんっっ!」
 頬に血が上る。堀田さんに聞かれたらと思うと気が気じゃない。話題を逸らしたかった。
「ね、もう一度医者に戻る気ない?」
「嫌だね。店があるし」
「……俺が、医者の龍樹さんの方が好きだって言ったら?」
「……本気でそういうこと言う?」
 すうっと目を細めた龍樹さんは静かに怒っていた。こんな龍樹さんは初めてで、俺はビビリまくっていた。
「……いや……その……」
 嫌われたいなんて思いは少しもないのに、この人を怒らせてしまった。
「君はレッテルで人を判断するの?」
「……そうじゃなくて……。医者としての仕事してる時の方が、龍樹さんが輝いて見えたから……。惚れなおしたって言うか……」
 怒りを残したまま微笑んだ。虚しい笑顔だった。
「……残念だな。君にそこまで言って貰えるのは嬉しいけど、どう考えても無理だ。僕には耐えられない。せいぜい手術屋くらいしかできないね。君は今の僕じゃいや?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……もったいない。龍樹さんの手は、まだ沢山誰かを助けることが出来るのに……」
「助けるより死なせることの方が多かったら、どうする?」
「そんな……あり得ない……」
「あり得るんだよ。どんなにちゃんとやってもね」
 悲しそうに顔を歪ませた彼が医者をやりたくない理由はなるべくなら触れたくない過去のことにあるらしく……。俺は追求するのを止めた。
「変なこと聞いてごめん。……龍樹さんが何の職業でも、きっと俺は好きになってた筈だよ。きっとね……」
「拓斗……」
 テーブルと人目さえなかったら、即座に抱き締めてきそうな感極まった瞳で見つめてきた龍樹さんに、俺達がサヨナラになるときはまだ来ないらしいと感じた。ホッとした。
 何から何まで龍樹さんに取っちゃ苦しいようなことなのに。俺のこと好きだっていうエネルギーだけで克服してるのかな。一体そのエネルギーはどのくらい続くんだろう……。
 龍樹さんが疲れてしまう前に、何とかしなきゃいけない。俺自身の幸せのために……。
 俺達はその夜堀田さんに送られて飛行機に乗った。帰りはきちんと機内食を平らげて。寝てる間は龍樹さんと手を繋いでた。
 目が覚めたらブランケットから手が見えてて。慌てて隠したんだけど通りがかりのスチュワーデスさんにクスって笑われた。
 龍樹さんの手はふりほどけないほど俺の手をしっかり握りしめていたし。無邪気そうな寝顔を浮かべた綺麗な男はどう見たって俺より年上。
 どっちが慰められてたか、分かんないような光景だった。
 
10へ飛ぶ
 
 成田到着後、荷物をコルベットに無理矢理積んで。桂川家に帰り着いたのは夜だった。
 通夜を明日、告別式を明後日と決めて。
 龍樹さんがいろんなところに電話をかけまくった。
 葬儀屋、寺、仕出し屋。藍本さんにも電話した。他には友達とか、町内会とか……。ごく一部だけど、一応。
 後は明日だって事にして、龍樹さんの家のシャワーを借りた。
 ローブも寝間着も、下着も全て彼の借り物。
「龍樹さん、今夜も一緒に寝ていい?」
 図々しいのは分かっていたけど、どうしても一人でベッドに入りたくなかった。
 一瞬固まった龍樹さんは、俺の言葉を正確に捉えていた。
 「今夜゛も゛」の意味を。
 苦笑しながら俺の肩を抱いた。龍樹さんにとっては多分あんまり歓迎できないことの筈なのに。
「おやすみのキス付きならね。いいよ。愛してる」
 そう言って俺にキスした。何度も何度も。でも、ヤバイとこには触ってこなくて。
 獣モード無しの龍樹さんの胸に鼻先を押しつけて、俺は安心しきって眠りについた。
 翌朝は龍樹さんの方が先に起きだしていて、俺は上げ膳据え膳の朝食を取った。
 起きたら横に誰もいなくて、俺は慌てて階下に駆け下りたんだ。とにかく視界の端にでも龍樹さんの姿がないと不安で。
 キッチンにいた龍樹さんはいつものように微笑んで、おはようと言った。
 俺は、自分からおはようのキスをして。たったそれだけのことなのに、龍樹さんは上機嫌になって鼻歌混じりにデザートを追加してくれた。
「のんびり食べてはいられないよ。十一時に君の家に葬儀屋さんが来るから。それまでに僕等も行ってなきゃね。君、喪服は持ってるの?」
「持ってない……」
「取りあえず、制服でいいな。このあいだまで着てたんだものね」
「え……制服は……」
 海に落ちたあと、もういらないからって……俺、捨て去ったような気がする。
「大丈夫、クリーニングから帰ってきてるよ。やっぱり記念の服だからね。いるかと思って……。まあ、こんな風に使うことになるなんて思ってなかったんだけど……」
 言いながら出して来てくれた綺麗な状態の制服。何でだか知らないけど、俺はそれを抱き締めて泣いていた。
 泣けて、泣けて……どうしようもなく泣けて。
 これを着てた頃の俺は、今みたいな境遇になるなんて、思いもしてなくて。
 卒業して、制服を脱いで、そしたら家族もなくなっちゃった。よれよれだった制服はこんなに綺麗になったのに、家族はもう元には戻らない。そんな想いが色々浮かんできて。バカみたいに泣いてしまった。
 肩におかれた龍樹さんの手は、一人じゃないって、俺を元気づけようと優しく主張していたけれど。
 俺が彼の気持ちに疑いを持ったのはその夜の……お通夜の後だった。
 喪主席での仕事も終わり、坊さんも帰って。
 気が付けば、昼から何も口にしていなかったことを急に思い出した。腹は減ってなかったけど、のどが渇いて。俺はそっとキッチンに向かったんだ。キッチンには手伝いに来てくれた高校の時の友達とかが残ってるはずで。
 喪主とかそういうのから少しだけ脱却できそうだから。
 そしたら、途中の廊下の暗がりで、龍樹さんの声が聞こえて。それがあんまり不機嫌だったから、俺は立ち止まってそっと柱の影から伺った。
「清田……、通夜の席だぞ。しかもお前は仕事できてるんだから。ウェイターに徹する気がないなら帰れ!」
「ごあいさつだよねぇ。タッちゃんの特別の依頼だっていうから、わざわざ手伝いに来てあげたのに……」
 ああ、ケータリングの人……。みんな帰った訳じゃなかったんだ……。でも、龍樹さんのことをタッちゃんだなんて……。俺だってそんな親しげに呼んでないのに。
 第一、龍樹さんは怒ったみたいに冷たい声出してた……。どういう関係の人なんだろう。
 俺は、立ち聞きすることに決めた。嫉妬と、好奇心。どっちが勝っていたか分からない。いや、どっちもだからなんだ。
「通夜の席にソムリエは必要ないんだよ」
 ソムリエ……。ワインの専門家……だよね。そういや、仕出し頼んだの、龍樹さんの友達がオーナーのフランス料理のお店だって言ってたっけ。
 目を凝らして観察したソムリエって人は、龍樹さんよりは背が低いけど、すんなり細身の華やかな顔立ちの人だった。着てるものは喪服だけど、着方が洒落者って感じで。
 テレビでしか見たことないけど、ナンバーワンホストの人ってあんななんじゃないかなって思う。そういうきらびやかな雰囲気を持った人だった。
 真ん中分けにされた栗色のサラサラ髪は少し長め。目元は少しきつめだけど猫目な感じの綺麗な茶目。引き締まった口元は上品な口を利いてこそ似合うみたい。
 きっとお店で仕事してるときは今以上に格好良く見えるんだろう。
 そんな彼が切なげな苦笑を浮かべて龍樹さんの顔を見上げてる。
「……そうじゃなくって。タッちゃんに会いたかったんじゃないか」
 優美な動きであげられた指先が媚びたように龍樹さんの耳をつねった。
「やめてくれないか、その呼び方」
 乱暴に払われた手。迷惑そうな龍樹さん。
「冷たいなぁ……。あの夜はあんなに熱く愛してくれたじゃない」
 そんなショッキングな台詞が飛び出した途端、俺はその場に座り込んでいた。更に龍樹さんから発せられた突き放すような台詞は、俺をも突き放しているような錯覚を起こさせるほど冷たかった。
「愛してない。セックスしただけだ」
 愛してない。
 セックスしただけ……。
 龍樹さんはそういうセックスの出来る人……なんだ……。それも、あんな風に言える相手と……。
「うん、それでもいい。タッちゃんのは好き。また……しようよ」
 ひきつった笑顔を浮かべて縋るように言うあの人が、俺の未来の姿なんじゃないだろうか。そんな思いつきの恐怖。俺は奈落に落ち込んでいくような気がして、それでも一層耳を澄ませた。二人の姿は見たくなかったから、死角になる壁に背を押しつけて座り込んだまま身を硬くして。
「だめだ」
 龍樹さんの吐き出す様な調子の拒絶。
「セックスだけってのはやめたんだ。お前のことは愛せない」
 俺を……愛してるから……?
 一瞬その考えに縋り付こうとして、命綱であるそれを捕まえ損ねて落ち込んだ。
 だって、俺とあの人に、どういう違いがある?
 あの人は見た目も物腰も、俺より数段上じゃないか。今、龍樹さんが俺に夢中だってのは分かってる。けど、そんな想いが熱病みたいなものだってのも分かってるんだ。熱が下がって冷静になったとき、龍樹さんは俺にもあんな風な態度取るんじゃないかなって、怖い。
「ふうん、そういうこと言う?」
 拗ねた声。可愛さ余って……ってところか。
「じゃあ、あの子としちゃおうかな……」
 あの子って……?
「清田?」
 不穏な龍樹さんの声。あの人、清田っていうのか……。
「あの喪主、可愛いじゃない。今度の恋人は粒ぞろいのお友達もオマケなんだ。味見済みのでいいから僕にも一人わけてよ」
 喪主って……俺のこと? 味見済みのって……。分けるって……。それって……。
「ふざけるな」
「何怒ってるの? コマシのタッちゃんが……」
 コマシ……。
 そうなのか……。俺を抱いたのって……味見……なのか……。
 ごとって音がした。
 人の動く気配。俺は慌てて元来た道を戻った。玄関ホールまで戻ったところで、清田さんがきた。
 怒ったように真っ赤な顔して。俺を見つけた途端ニヤリと笑った。
「気をつけなさい。桂川って人は飽きっぽいから。本気になったら傷つくのは君だよ」
 すれ違いざまの低い囁きは俺を引き裂いた。
 泣いてる俺と、冷静な俺とに。
 冷静な俺はいつも通りの俺を演じろと命令してきた。
 ゆっくりと廊下を龍樹さんのいる方に向かって歩いた。
「龍樹さん……どうしたの?」
「え?」
 俺が近づいたのに気づいて彼は微笑もうとしたんだけど。失敗していた。
 俺は今初めて通りがかったって演技を全力ですることにした。
「怖い顔してる……。あの人……誰?」
 玄関の方に目を向けながら言ったら、龍樹さんはホッとしたように溜め息をついて応えた。
「……知り合いの店のソムリエ。ほら、通夜の料理を頼んだ……。用は済んだから帰って貰った」
 俺に内緒にするつもりだ。あの人とのこと……。どんな風に愛し合ったかなんて知りたくもないけど。龍樹さんが俺に知られたくないって思ってることが清田さんの言葉を裏付けてるような気がして……嫌だった。
「ふうん……。ケンカしてんのかと思った。ね、客もみんな帰ったし、葬儀社の人ももう帰るって。畑山達に料理持たせていい?」
 知らんぷりして甘えて見せた。龍樹さんは旨く騙されてくれたようで。優しい微笑みを浮かべて俺の肩をキュって抱き締めてくれた。
「ああ。綺麗に折りを作ってあげる。君は食事は?」
「まだ……。なんか、食べる気しなくって……」
 ほんとは、今のでよけい食欲無くなったんだ。
「疲れたんだよ。消化のいいものを何か作ってあげよう」
「ん……。龍樹さん、今日、泊まってく?」
「いや……泊まっていきたいけど、帰ったほうがいいだろう? 周りの眼があるから……」
 それは俺のための台詞だった。なのに、俺はそれが俺を切り離す第一歩になるんじゃないかって気がして。
 理性と感情が全く違う主張をしている。
「いやだ! おいてかないで……! 一人にしないでよ」
 龍樹さんの腕に縋り付いた。
 俺がいないところで夜を過ごす龍樹さんには耐えられない。もしかしたらさっきの人を追いかけるかもしれないし、別の誰かを横に置くかもしれないって思ったら……もう、嫌で嫌で。
「拓斗……」
「周りの眼なんて、いいよっ。あ、甘えてるのは分かってる。でもっ! ここ、広すぎるんだ」
 家族を失った寂しさと、龍樹さんを失うかもしれない恐怖と。どっちが強かったか分からないけれど、龍樹さんは前者を理由だと思ったらしい。
 優しい腕が、哀れみを込めて俺に巻き付いてきた。
「君がそういうなら……喜んで」
「う……ん」
「一緒にいよう、ずっと……。帰るなんて言ってごめん」
 うれしさが響きに込められていた。龍樹さんはまだ俺に飽きてない。このまま引き延ばすことは出来ないだろうか。龍樹さんの愛を失わずにすむ手だては……。
 考え事はポンと肩に載せられた大きな手に遮られた。
「さて、まだかたずけが残ってる、もう一息頑張ろうね」
「うん」
 畑山達を送り出すまで演技は続いた。
 シンとした家で龍樹さんと二人。
 一通りのかたずけをしたら深夜だった。
 この家では俺がホストの役目をしなくちゃね。
 冷静な俺が言う。
 疲れをとるためにも風呂の用意をした。
 湧くまでの間に軽い雑炊を龍樹さんが作ってくれて。温かい雑炊が俺の恐怖を余計に煽った。
 この人に飽きられて捨てられたら……今よりずっと寂しい思いをするんじゃないか……?
 そんなの絶対いやだよ!
 くたびれた龍樹さんがソファにどっかと座った。初めて龍樹さんが来た日も同じところに座ってたっけ。
 湯加減を確認して、ソファでくつろいでいた龍樹さんに声をかけた。
「龍樹さん風呂……先にして」
 いつもと逆だねって、龍樹さんが微笑んだ。
 うん、龍樹さんの世話が焼けるのって嬉しいよ。
「着替えは……どうしよ。龍樹さんが着れるの……あるかな」
 少しだけ浮上した浮かれ気分。
 けど。
「裸でいいでしょ」
 立ち上がった龍樹さんが囁いてきた台詞に飛び上がった。
「エッ? そ、それは……」
 慌ててしまった。欲しいって言われてるのと同じ熱さだったから。
 龍樹さんは俺の困った顔にプッと吹いて言った。
「冗談! Tシャツとトランクス、貸してもらえるといいんだけど」
「うん。出してくるから入ってて! お湯張ってあるから」
 軽く頷いた龍樹さんは素直に風呂場に入った。
 龍樹さんの後に俺。
 湯気の立ちこめた浴室は、石鹸の匂いに混ざって龍樹さんの匂いが漂っていた。
 それは龍樹さんの体臭と……かすかに精液も……。
 龍樹さんの匂いの湯気がまとわりついてくる。まるでベッドで抱かれた後みたいな感じに。途端にあの熱くて硬い感触がグイッと入ってくる錯覚にとらわれて。つい俺の手は自分のものに伸びていた。
 龍樹さん、ここでしたんだ。俺に手を出さないために……。そう思ったら涙が出た。自分のを龍樹さんがしてくれるように扱きながら俺は泣いていた。
 龍樹さん、愛してる……。愛してるよ……。
 風呂から上がった俺は龍樹さんを寝室に案内した。俺の部屋へ。
「シングルじゃ狭いけど……。龍樹さん、一緒に寝てくれる……?」
「ああ。君を……抱き締めてもいいなら……。おやすみのキスはしてもいい?」
「うん……」
 「愛してる」が添えられたおやすみのキスはディープに。龍樹さんのそこも俺のもちょっぴり硬くなりかけてて。でも抱き締めあうだけで夜を過ごした。
 頭の中で清田さんの言った言葉がぐるぐるしてる。
 遅いんだよ。そんな事言ったって……。
 俺はもうとっくに……本気……。
 傷つくのは嫌だけど、後戻りは出来ない。
 どうして気持ちは永遠じゃないんだろう。どうして飽きたりしちゃうんだろうね……。ときめきも、愛しさも、みんな通り過ぎればただの思い出になっちゃうのかな……。
 
10
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 告別式の後、焼き場ではお坊さんにお経を上げてもらってから龍樹さんと二人だけになった。
 お骨拾いを二人だけでする。三体分てこともあって、儀式的にすませて焼き場の人に処理して貰った。
 帰りの車は黒のベンツ。ハイヤーを頼むつもりだったけど龍樹さんが気兼ねないようにってレンタカーを運転することにしてしまった。左ハンドルに慣れてるからって言ったらベンツになっちゃったんだ。
「二人一緒に箸でつまむなんて、龍樹さんがいなかったら出来なかったね」
「怒られるかもしれないけど……僕は嬉しかったよ。君を手伝えるってのは……悦びなんだ」
「龍樹さんてば……すぐそんな事言って」
「しょうがないよ。恋は盲目って言うでしょ? 僕は熱烈に恋してる。君に……」
「気障すぎるよ、そういうの……」
「でも、本当だもの……。ま、確かに口に出せちゃうなんて恋に狂ってる証拠かもね」
 照れ臭すぎる言いぐさに、俺は赤面したまま窓の外に目をそらした。こんな会話も二人きりのレンタカーならではだけど。昨日のことがあったから、素直に喜べなかったんだ。
 悦びとかって直ぐ言う龍樹さん。熱情が言わせる台詞なんだよね。
 龍樹さんの熱さが怖い。冷めたときにはどんな風に変わるのか怖い。
「拓斗君……?」
「え?」
 心配そうな龍樹さんの声で、また涙が滲んできてるのを知った。掌で拭いながら笑みを作った。
「大丈夫……。初七日、今日やっちゃうんだよね?……どうするんだっけ?」
「お経はさっき一緒に上げてもらっちゃったから、もう一回お焼香して料理食べるぐらい……かな。……僕らだけだけど」
「料理って……?」
「ありがちなごちそう。普通、親戚とか大人数だったりで、仕出し頼んだりするけどね。今回はホントに二人きりだし。……まあ、精進落としと兼ねてもいいかな」
「精進落とし?」
「元町の店、予約してある。葬式ご苦労様会みたいなもんだな」
「なんだよそれぇ?」
 思わず笑ってしまった。
「覚悟しとけよ。ボリュームの多さでは有名だからね。一度君を連れていってみたいって思ってたのさ」
 言いながら大きくハンドルを切った。車は俺んちと反対方向へ向かって。妙に機嫌よく見える龍樹さんは、なんだか精進落としって言いながらデートに俺を連れだした気分でいるんじゃないかって感じ。
「ああ、時間ぎりぎりだな。遅刻厳禁の店なんだよ。部屋が七部屋しかなくて、全部個室。お父さん達を並べておいても、気兼ねいらないから」
 ベンツを乗り付けたのは外人墓地近くの駐車場。
「店に駐車場がないから、ここから歩きなんだ」
 いわれてお骨と遺影を持ち、車を降りた。
 その店は、なんだか住宅街のど真ん中の一般住宅みたいな建物。反対側は外人墓地の裏側に面してて、乗用車がやっと一台通れる細い道しかない。
 暗くなったらちょっと怖いかもっていう感じ。
「ここ?」
「うん。元町梅林て、名前入ってるでしょ?」
 言われてみれば、ちゃんと入り口に……。
 通された座敷は小さめだけど、ゆったり座れる広さ。上座のところに親父達の遺影とお骨を置いた。
「ホントは一部屋丸々ってのは三人以上らしいんだけど……精進落としだって言っておいたからかね」
「……懐石なの?」
「季節料理でね。料理法は色々。懐石って言い切っちゃうにはバラエティありすぎるかもね。小食だと降参になっちゃうんだよね」
 そんな会話で始まった精進落とし。
 出てくるものは懐石らしい綺麗な飾り付けのものもあれば、大皿料理もある。舟盛りの刺身はプリプリ。絶妙のタイミングで、出てくる出てくる。
 ご飯ものも三回は出たし、焼き物、煮物、たき物……。つきたての餅の天ぷらと、ウナギのほう葉蒸しは定番らしい。
 フランス料理のフルコースの時みたいに途中で甘いものまで。
「……まだ……あるの?」
 龍樹さんが嘘をついていなかったってのは、肉料理ぐらいのとき。とろけるような柔らかさのステーキ肉がたっぷり。
 これは一体どの辺なんだろう、山を越したのかな……。そんな想いで訊ねた台詞だった。
「……降参?」
 クスって笑って覗き込んできた龍樹さんは、普段大食らいでもないのに、平気な顔してる。
 変な対抗心が俺の中に生まれた。
「いや。コンディション整えて計画的に食べる。俺、残すの嫌いなんだよ。手を付けて残すのって、作った人に失礼だろ?」
 言ってみて慌てて付け加えた。
「あ、龍樹さんの作った物は義務でかたずけたことないからね!」
「分かってるよ」
 龍樹さんの微笑みはほんとに優しくて。
「で、ここは美味しい? 食べきれなければ持ち帰れるのもあるよ」
「うん! 大丈夫」
 肉の後にまだ焼き物とエビフライの大皿が来て、味噌汁とご飯。デザートまでの品数は三十品目はあったろう。
 二時間かけて食べまくって。嬉しく店から送り出された。もうこれ以上は降参! て気分だったけど。
 なんか、幸せだなぁって感じた。腹が一杯なせいもあるかもしれないけど。
 
 
 葬式を無事終わらせたという安堵感のせいもあっただろうけれど、俺は何とはなしに浮かれていた。龍樹さんが側にいてくれるから、そんなに寂しさを感じなかったせいだろう。
 家に帰ってから、祭壇を作ってお骨を置き、線香をあげた。
 とりとめのない会話をして、龍樹さんが煎れてくれたコーヒーを飲んで。専門店の道具無しでも、龍樹さんの味はしっかり出てる。
 この平和な温かい時は、龍樹さんが与えてくれた優しさ。俺はそれがずっと続くと思っていた。
 なんの確証もなかったのに。
 夜になって、龍樹さんがジャケットを着込み、帰り支度を始めて初めて俺は気がついたんだ。
「龍樹さん……? どうしたの?」
「ああ、今日は……帰らないと。明日は店開けなきゃ。今夜はこれで……」
 申し訳なさそうに言う龍樹さんの生活を、俺が乱していたこと。
 定休日でもないのに、何日店を休ませちゃった?
 俺ったら、気が利かない!
 でも……ごめんなさい、もう少し甘えさせて……。
「俺もいく!」
 玄関に向かって歩き出していた龍樹さんの背後から、しがみついて止めた。
「え?」
「龍樹さんが大変なのは分かってる。だから……俺が行く!」
「ちょっと、ここどうするの?」
「夜だけでいいんだ。龍樹さんの所に連れていって……。邪魔しないようにする、手伝いもするから……!」
 龍樹さんは見上げる俺を覗き込んで優しいけれど困ったように微笑んだ。
 微かに頷いて、肩を抱いてくれたけど……。
 生殺しを覚悟しての微笑みだったらしい。
 だから、俺の方が押し掛けたにも関わらず、おやすみのキス以外は求めてこなかったんだ。
 但しそのキスはものすごくディープ。しっかり腰が砕けて、体の奥の方に火が点るほど。親父の顔が浮かばなければ、俺の方が龍樹さんを押し倒していたと思う。
 そうしてその夜から、俺の新しい生活が始まった。
 龍樹さんのベッドに潜り込んで眠り、朝御飯を食べてから自分の家に戻る生活。
 ドイツから持ち帰った遺品と、家にある荷物の整理。
 4月の、学校が始まるまでの間に一通り済ませておかないと、後々大変になってしまいそうだから。
 それと、自分のことを見つめ直すため。
 親父達を前にして、自問自答。
 俺は幽霊を信じていない。
 親父達が見えるってのは、俺の中でのわだかまりが形変えて見えてるって事だと思うから。
 俺は龍樹さんを大切に思っている。それは確かな筈なのに。
 この間から彼を傷つけてばかりいて。
 あの初めての夜の、俺の気持ちは今でも変わらないはずで……。今だって、彼の側にいたい。
 なのに……何故……?
 寝るのも、キスするのもうれしくて気持ちいい。だから、親父だって出てこない。
 龍樹さんが口でしてくれたときだって、俺は燃えてた。
 龍樹さんが入って来ようとしたときと、以来俺がされたいと思ったとき……親父が……。
 俺は……龍樹さんに女みたいに抱かれることにこだわりが……あるのかな。
 かといって、俺が龍樹さんを抱くなんてのは……。
 想像して頭を振ってかき消した。
 俺よりでかい龍樹さんを……なんて。第一、龍樹さんをよがらせることなんて、俺には出来ない。
 セックスって何だろう。この場合のセックスって……。
 種の保存とも関係ない。
 快楽の追求……?
 いや、それだけじゃない。
 コミュニケーションだよ。体と体を繋いでの言葉に出来ない語り合いだ。
 愛してるも好きだも、大切だって事も……。どのくらいかって言ったら秤で測れないもので……。言葉だけじゃ伝えきれなくて……だから……。
 龍樹さんに抱かれることは嫌じゃないって確認済みの筈なのに、変だよなぁ。
 自分の中の引っかかりとかがうまくつかめないまま俺はぼんやり座っていたんだけど。
 いきなり電話が鳴って飛び上がった。
「ああ、拓斗君?」
 龍樹さんよりも高めの声音。藍本さんだった。
「社内保険と預金の他に、生命保険の証書とか、探せるかな?」
「あ……ええ、多分」
「君んち、持ち家だよね? 名義はお父さん?」
「いえ、母です」
「あ、つまりね、相続税とかがあるから。お墓とかは対象外だけど、土地、家、証券に預金……保険金とか。それぞれ基礎控除があるけど……、カウントしないとね。借金もあるかどうかね」
「はあ……」
 何だかややこしい話……。
「十ヶ月は待ってもらえるから、お葬式の費用とかは社内預金から出そうね」
「……よろしくお願いします」
「授業料とかはどうなってるの?」
「あ、えと、入学金と前期分は……払い込んで貰いました」
「じゃあ、しばらくは息つけるか。税理士、頼んだ方がいいな。どう見ても、基礎控除以内ですみそうにないし。信用できる人、探してあげる」
「……すみません……」
「覚悟しておけよ。かなり税金で持ってかれるぜ」
「……そうなんですか?」
「ああ」
 そんな……。親父達が残してくれたもので、卒業まで暮らせなかったら……やばいじゃないか。
「これから書類持って行くから。あるものかき集めてざっと計算してみようね。……家にいるかな?」
「あ、はい。何時頃になりますか?」
「そうだな、三時頃……いい?」
「はい。その時間は家にいるようにします」
 本当は『El Loco』の混む時間だから、手伝いに出ようと思っていたんだけど……。
 俺一人じゃ何にも分からなくて、こんな風に面倒見てもらえるうちに、出来るだけの処理はしておかなきゃいけない。
 一人で生きていくってのは、いろんな事で厄介だ。心の準備も、知識の準備もないまま、俺の独りぼっち生活は始まってしまったから。
 龍樹さんに相談すれば、真剣に心配してくれて、解決への努力を惜しまないのは分かっている。
 でも、今の俺はそういうことまで全部龍樹さんに頼ってしまうのはどうかと思っていた。
 何しろ龍樹さんて人は、俺が相談を持ちかければ自分のことをなげうってしまう行動パターンが多いので。
 だから……。
「いつもどこに行ってるの?」
 藍本さんが帰った後『El Loco』に行って、龍樹さんがそんな風に訊ねてきた時。
「別に……」
 秘密にするようなことでもないのに、俺はそう答えるしかなかった。
 保証人の話の時みたいに、「僕がやる」……なんて言いそうで、言いたくなかった。
 俺としては、恋人の龍樹さんに保護者みたくなって欲しくなかったんだ。ただでさえ龍樹さんには沢山の負債を抱えてる俺だから。
 好きな人に出来ることをしてあげたいって気持ち、誰にでもあると思う。俺だって、龍樹さんにしてあげたい。……セックスの相手以外で。
 本当の意味で必要な人間になりたいんだ。
 龍樹さんは俺に要求しない。ただ一緒にいたいって……、抱き締めて、キスして……それから……。
 俺は龍樹さんに抱かれて龍樹さんのベッドで眠る。ご飯を食べさせて貰って、話を聞いてもらって。俺がぶつけるのは我が儘だけ。
 ああ、俺ってほんとにペットみたいな生活してる。これで保証人の書類どおりに学費まで面倒みさせたら、完全に愛人だ。……援助交際ってやつだ。俺は男なのに。
 ふいに、以前よく見かけたテレビのコマーシャルが頭に浮かんだ。
 ゴミ箱の中のくしゃくしゃの紙袋から子猫が顔を出す。ペットをいらなくなった物みたいに捨てるなっていう、公共の広告……だった。
 龍樹さんも、いらなくなったら掌返したみたいに俺を捨てるんじゃないかな。人の心なんて、変わりやすくて……熱い気持ちを失って冷めたら……してあげたいなんて気持ちも無くなっちゃうだろう。
 この上、相続税と授業料と生活費の算段なんて……相談できるはずもない。
 全部面倒見るからって言いそうだもの。それは俺にとっては楽なことだけど、長続きしそうもない天国で。そういうことで甘えちゃいけない。
『桂川って人はあきっぽいから……』
 清田さんに言われたことが引っかかってる。
 信じるなら龍樹さんを信じるべきなのに。
 どっかで信じ切れないのは、龍樹さんが俺との関係の当事者だから。
 清田さんは龍樹さんの過去。面と向かって問いつめることが出来ないからぐるぐるしちゃうんだろうな……。
 聞けば、俺が立ち聞きしていたこともばれちゃう。龍樹さんは怒るかな。うざったいって思うかな。
 どうしちゃったんろう、俺。
 こんなに疑り深くて焼き餅焼きだったなんて……。
 今まで付き合ったことのある子達にはこんな風にならなかった。
 
11
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「ばっかだなー、おまえ」
 畑山は、相変わらずのアイドル顔を素っ頓狂な表情で台無しにしながら言った。
「そうかな……、俺、バカ?」
 畑山の呆れるような口調に、俺は身を縮めることしかできなかった。
「わざわざ人のこと呼び出しといて、相談事ってそんなこと?」
 黒光りする巻き毛を掻きむしりながら、食後のコーヒーを啜って。何度となく吐き出していた迷惑そうな溜め息をまた吐いた。
「貴重な卒業休みに何やってんだか。自教のキャンセル待ちしてればよかった」
「……そこまで言わなくても……」
 龍樹さんの所では出来ない相談だから、横浜で待ち合わせて茶店に入ったのに。
 東急ハンズの前のケーキ屋の二階。
 ここのカレーを奢らされるのが畑山のリクエスト。
「時は金なりなんだよ。お前と違って、俺は今の内に免許取っとかないとさ。四月からは社会人なんだから」
 小柄なアイドル系の畑山は、父親の料亭を継ぐために、板前修業に出るらしい。確かに俺の呼び出しは迷惑だったろう。
「……ごめん……」
「ま、向坂らしいんだけどね……。はっきり言っちゃえば、今度は本気って事だろ?」
「う……」
 瞳を和ませて俺を覗き込んできた畑山は、実年齢では俺より二つ下にあたるが、物わかりの良さでは俺より年上に思えるときがある。
「向坂ってさ、今まで自分からお付き合いしたいって思った相手いる? いつも、向こうが働きかけてきて、取りあえず付き合ってってパターンだろ? そういうのが相手に判っちゃうから振られてたんだと思うんだけど」
「うう……」
「……誰なんだよ?」
「へ?」
「相手! 今度の! ……まさか……」
 上目遣いで見つめられて、俺は赤面するのを止められなかった。
「あ……えとぉ……」
「桂川さん……だろ」
 飛び上がって立ち上がった。
 アイスティの氷が踊って中身が手にかかった。
「なっなんで分かった?」
 畑山がぶっと吹いた。ギャハハハハッって大声で笑い出して。
「だからバカだっての! ごまかせないあたり……向坂なんだけどぉ……。ま、通夜ん時にな。あの人、お前にベタ惚れじゃん?」
「そ、そうかな……」
「うん、まさかお前がマジで相手にするとは思ってなかったけど……。いつものパターンだったのに……今度は本気かぁ。よりによって、今度……ネェ」
 後半をしんみり呟くように言った畑山に、俺は脱帽。俺は今、畑山に龍樹さんとのホモの関係をカミングアウトしたわけだよな。
 驚くどころか、そういう内容だって周りに分かんないように言葉を選んでくれている。
「何で、俺を相談相手に選んだのかってのは、ちょっとわかんねぇけど」
「畑山って……はっきり言ってくれそうだったから……。俺、当事者じゃない奴に見通して欲しかったんだ。……変なこと話してごめん」
「俺に言えること、少ないぜ。ただ……」
「うん?」
「きっかけはどうあれ、自分の気持ちには素直でいるべきだし、相手には誠実であれってな、思う訳よ。訊きたいことあったら、勝手に巡らしてないではっきりぶつかった方がいいんでないの?」
「うん……」
「向坂……」
「え?」
「何がそんなに不安? 俺からみればベタ惚れな桂川さんをお前が引き回してるようにしか見えないんだけど……」
「……だから、最初に言ったように、そのベタ惚れが冷めたときが怖いんじゃないか」
 畑山がこりゃだめだって調子で大きな溜め息をついた。
「おま、それって狡すぎ。与えられるの口開けて待ってるだけって、雛鳥だから許されるの! 先の事なんて、向坂次第じゃないか。可能性の選択肢は山ほどあって、お前がどれ選ぶかでどんどん先は変わってくと思うな。あのベタ惚れが冷めるとしたら、絶対お前にも責任あるぜ」
「……だって……自分がわかんないんだ。自分に自信ないから……し、知らないうちに嫌われてっちゃうんじゃないかって……」
「あ、バカ! 泣くな!」
「な、泣いてねーよっ! 恥ずかしい事言うな!」
 ケーキ屋って事もあって、周りは女の人たちの方が席を占めてる比率が高い。
 さざ波のようなクスクス笑いと、複数の視線を感じて赤面する顔を隠すように袖でごしごしやって。
 居心地の悪さに腰を浮かせた。
「……帰る」
「ああ?」
「も、帰る」
「ああ……」
 黙り込んだまま店を出ての別れ際。畑山がいきなり俺の腕を掴んだ。
「向坂さぁ、お前、男なんだから。ちっとは自分から踏み込んでみ? 相手の出方待つだけなんて、王子様待ってるお姫さんみたいだぜ。お前、競技会の時のスタートの気持ち、覚えてる?」
 言うだけ言って手をふり、走っていってしまった。
 凍りついた俺を残して。
 つまり、俺はいつも受け身だと。受け身だけだからいけないって言われたんだよな。
 スタートの気持ち……。
 スターターに足つけて。
 音よりも火薬の火花を感じてダッシュする。
 中距離ってのは、短距離走みたいに力入れてマラソンするようなものだ。ゴールを直接見通すことは出来ないが、一着のテープを切る自分をイメージして走り出す。
 その時の俺は確かに受け身ではない。誰よりも速く、前を真っ直ぐ見て……。
 怖がってないでぶつかれってことだよね。
 それは分かってる。
「……でも、ゴールをイメージできないんだ……」
 畑山の背中に向かって呟いた。
 
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 俺は気分の悪さを残したまま『El Loco』に直行した。
 美貌のマスターはカウンターから目を上げてドア口に俺を見つけた途端、営業用以上の綺麗な微笑みを浮かべかけ、微かに顔を強張らせた。
 俺がカウンターのいつもの席に腰掛けるまで伺うように目で追ってきて。
 俺の気分を嗅ぎ取って、オロオロしてる。
「今日もトラジャなんだ……」
 店に入って、出されたコーヒーの香りをかいだ途端に溜め息が出た。
 龍樹さんには俺が不機嫌そうに見えるわけだ。トラジャは俺が気分の乗らないときに頼む定番だから。
「うん、そう見えたんだけど。嫌なら換えるよ」
 いつも俺を和ませる筈の微笑みが卑屈に見えた。
 この笑顔は、俺が彼を蹴り倒してからよく見かける。
 うざったいな……。
 瞬間そんな風に感じて、自己嫌悪。
 頭を振って、彼を見上げた。
「それでいいよ!」
 俺に優しくしないで欲しい。水やりすぎて根ぐされした植木みたいになる。
 俺なんか、そんな価値ないんだから。そのことに気づいたら、龍樹さんは俺のこと嫌になるはずだよ。
 一口啜ったトラジャがやけに苦く感じた。
 ドアベルの音と、忙しない足音が近づいてきた時も、苦みに閉口しながら龍樹さんとのことを考えていた。
 龍樹さんはなんにも悪くない。なのに、俺は……苛立っている。ほとんど八つ当たりに近い態度の悪さを龍樹さんは自分のせいかと思って気にしているみたいで。
「待った?」
 いきなり後ろから肩を叩かれて飛び上がった。
 藍本さんが俺の隣に腰掛けた。
「ううん、今来たとこで……」
 藍本さんが迎えに来る頃、多分俺の居場所は『El Loco』だっていっといたからここに来たわけで、厳密な待ち合わせって訳じゃなかったけど、そう答えておいた。
 これから会社まで行って、親父の私物を持ち帰ったり、社債や社内預金の受け取りの手続きとかをする約束になっている。
「いい香りだね、僕にもそれ、もらえます?」
 直ぐ出発するのかと思ったら、俺のコーヒーを覗き込んでから龍樹さんにそんなことを。
 龍樹さんは、俺達のさっきのやりとりだけでかなり頭に来てる。
 営業スマイルを絶やさず俺と同じトラジャを入れたカップは、店の中で一番気に入ってないって言っていたデザインの、ノリタケのボーンチャイナだったから。後で割っちまうつもりかもしれない。
 藍本さんはそんなこと知らないから嬉しそうにコーヒーを受け取って飲んだ。
「あー、美味しいな。これじゃ、拓斗君が褒めちぎるわけだ」
 俺、いつ言ったかな。そんなこと……。
 藍本さんて人は、いつだってほんとに事務的で、余計な話をした記憶ないんだけど。
「ありがとうございます。拓斗君、食事は?」
 おざなりに言った龍樹さんが俺の方に目を向けた。冷たい光が、瞳の奥で炎のように揺れている。
 ああ、やっぱり怒ってるよぉ!
 なのに藍本さんがいきなり、
「ああ、いいんです。これから彼と出かけますから。店に予約入れてあるんですよ」
 なんて言い出して。
 龍樹さんは気配だけビリリと硬直した。
 昼食の約束なんてしてないのに……。まあ、でも、親切心でそういう予定組んでいるのかと思うと、有難迷惑だとも言えない。
「あの、親父の保険のこととかで会社まで行くんだ。学費とか……葬式の費用とかあるから……。なるたけ早くおりるようにって……」
 俺は思わず龍樹さんに言い訳めいたことを言い出していた。
「そう……。学費っていえば……。保証人の書類は出しといたから。あの時にそのまま預かってたでしょ。なくさないうちにと思って」
 ないと思ったら、そうだったのか。
「あ……。うん。でも…………」
 言いかけた腕を掴まれた。藍本さんに立ち上がらされて俺はピリピリしたままの龍樹さんを見つめてた。
「拓斗君、時間が……。ちょっと急いで。桂川さん、お勘定をお願いします」
 俺を遮るように言った藍本さんに即座に抑揚のない強ばった声が答えた。
「一五七五円です」
 ……なんだよ、その金額……。
 俺の時はブレンドの金しか取らないのに。店手伝うようになってからはそれさえ取られてない。
 トラジャは、何故かメニューに載せてない豆だ。俺のためにだけ仕入れてるんじゃないかって感じ。だから値段のないものをブレンドとして金取ってたんだって、そう思っていた。
 チラッと目にした伝票には俺の分までカウントしてあって。
 藍本さんは平気で金払ってたし、俺は龍樹さんのそんな八つ当たりに驚いたまま何も言えずに彼を見つめていた。
 
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 用を済ませた俺はズシッと重たい気分で『El Loco』のドアを開けた。
 運の悪いことに店には客が一人もいない。
 俺を見た龍樹さんの目はまだ冷たい怒りを浮かべたままだった。
「……いらっしゃい」
 抑揚のない声は営業スマイルを抜きにして俺にぶつけられた。
 俺をブラックリスト入りしてる嫌な客扱い。誰もいないのに。
 気まずい空気に俺が硬直してたら、また龍樹さんの声が低く不機嫌に響いた。
「……君宛に届け物が来てるよ。事務室にあるから」
「え……。何?」
「見ておいで」
「う、うん……」
 彼の前から逃げ出すような気分でカウンターの奥の事務室に向かった。
 そこは三畳ほどのスペースで、事務机とコンピューターと書類棚で埋まってる。俺はこの部屋を借りて勉強を見て貰っていたんだ。
 その入り口に、向こうが見えないほどバラが積まれていた。血のように赤いバラだ。
「何……これ……?」
「花屋が言うにはイニシャルAという人物から君への贈り物だそうだ」
 いつの間にか俺の後ろに来ていた龍樹さんが俺の腰をかき抱くようにして耳元で囁いた。
「Aって、藍本さんくらいしか僕は浮かばないんだけどね。君は?」
「分かんない……。なんか、気持ち悪いな……。こういうの」
 俺はバラに圧倒されて棒立ちのまま龍樹さんの腕の中にいた。
「あなたを愛していますっていう花言葉だって。お客さんが教えてくれた」
 焼け付くような嫉妬を載せた声音だった。
 ああ、それで……。
 龍樹さんの不機嫌はそういう訳だったのかって。
「そんなの……。……龍樹さんくらいしか思いつかない……でも、違う……んだよね?」
 龍樹さんは俺をトンと突き放すように解放して肩をすくめた。
「残念ながら。ま、花には罪ないからね。綺麗だし、貰っておけば? 何でも高い花なんだって」
 本当は即座に捨ててしまえって言いたそうだった。
「昼間はごめん……」
 思わず呟いていた。謝るようなこと、した覚えないけど咄嗟に出ていた。龍樹さんが怒ってるのは確かにそのせいだから。
「なにが?」
 いらいらしたまま聞き返した。
「藍本さんのこと……。ほんとに事務処理手伝ってもらってるだけなんだ。でも、龍樹さん怒ってるから……。ここで待ち合わせなんてしない方がよかったね」
 龍樹さんは、俺が客と仲良く話していたって不機嫌になるんだ。すごい焼き餅焼きだってのは、最近知ったこと。
 それでも、俺のこと縛ろうとまではしないあたり、相当我慢してのことかもしれない。
 子供みたいな焼き餅に、俺は苦笑しながらも嫌な気分にはならなかったから。
 そういう龍樹さんを見ると、少し彼が近くに感じられるんだ。
 けど、今日の焼き餅には閉口した。
「藍本は……。あいつは嫌いだ」
 吐き出すようなその口調に俺は目を見張った。
「龍樹さん……?」
「取りあえず何も起きてないからいいけど、悪意を感じるんだ。嫌な予感ていうか。君にはあいつと関わって欲しくない。君があいつと一緒にいるだけで吐き気がする」
 ……何もそこまで言わなくても……。
 藍本さんは親父の会社の人で、色々面倒見てくれてるのに……。
「龍樹さん、焼き餅は程々にしてくれよ。藍本さんは親切だよ。変じゃないよ」
「焼き餅なんかじゃない。そうじゃなくて……」
「龍樹さんにだって、紫関さんがいるじゃない? 藍本さんと俺は……、友達……じゃないけど、すごくそれに近いものなんだ」
「紫関は……僕らに悪意なんて持ってない」
「……龍樹さん、どうかしてる……。どうしてあの人が俺らに悪意持つんだよ? このあいだ初めて会って、利害関係だってないじゃないか……」
「多分、あいつもゲイだ。そういう目、してた。初めて会ったとき、すごい目で僕を睨んできたんだから。君に目を付けたんだよ」
 ……いいかげんにしてくれよぉ。
「龍樹さん……! あの人、彼女いるよ。そんな話し、ちらって聞いた。」
「じゃあ、両刀遣いなんだ」
 必死な目でそんなこと言い出して。まるでガキ。
「もうっ! マジで怒るよ。とにかく、俺、龍樹さんが怒るようなこと、してないから。藍本さんにも変な態度しないでくれよな」
 言い放ってバラを抱えた。
 取りあえずバケツに水切りしておいとかなきゃ……。花に罪はないもんな。
 龍樹さんはカウンターに戻って新たに入ってきた客の応対を始めた。声音から不機嫌さを消し去って、すっかり営業してる。
 全く、あーあ、だよ。
 どこの何奴だか知らないけど、大金使ってこんなものよこしやがって。……もったいないじゃないか!
 あ、クソ、トゲ! ってーなっ!
 龍樹さんの不機嫌が俺にうつったみたいだ。
 しゃくにさわったから、店のテーブルの一輪挿しに全部このバラを入れて回った。それでも余った分は玄関の花瓶と応接間の花瓶と、それからダイニングとリビング。片っ端からバラであふれさせて。
 それから最後に余った分を束にして店の風通しのいい窓の所にぶる下げた。
 ドライフラワーにしてやる!
 中っ腹で俺がそんな事してたもんだから、途端にまた龍樹さんの表情がおどおどし始めた。
「拓斗君、夕食は?」
 ご機嫌伺いみたいに声かけてきて。
 俺はドカッといつもの席に座って、
「キーマカレー」
 って言ってやった。
「……昼がイタ飯のコースだったから」
 瞬間龍樹さんの手が止まった。
「……美味しかった?」
「普通」
「……フルーツサラダ、付ける?」
「……うん」
 『El Loco』のキーマカレーはサフランライスに辛口の挽肉中心のカレーがかかってて、ゆで卵のスライスが添えられている。
 辛さに燃えた舌を休めるためだ。
 黄色い中にグリーンピースの緑と、鷹の爪の赤が鮮やか。俺の大好きなメニューの一つ。
 フルーツサラダの方は、季節の果物とサワークリーム主体のドレッシング。カレーの辛さに丁度いい。
 食べてるうちに機嫌が戻っていく。美味しいものって、精神安定剤だよね。
 本音ではくどすぎたイタ飯の胸焼けから救われて、俺はすっかり気分を直していた。
「機嫌……なおった?」
 食後のコーヒーを渡しながら聞いて来た龍樹さんの弱々しげな声音に、吹き出した。怒ってたのも忘れて笑いかけて。
 目があった途端、甘い空気が流れた気がした。
「最初から本気では怒ってないよ。龍樹さんの焼き餅がこれ以上ひどくなったら怒るよって言ったんだ」
 ホッとしたように微笑んだ龍樹さんが愛おしい。
 言いそびれていたこと、言わなきゃね。
 居住まいを正して俺は彼の瞳を覗き込んだ。真正面から。
「……それよりさ……俺……、学校行かないかもしれないんだ。だから、龍樹さんに頼んでた保証人の件も……白紙にして欲しい」
 龍樹さんは目を見張って俺を見つめてきた。
 俺が医者になりたい理由を話したとき、彼はほんとに嬉しそうに微笑んだ。
 頑張りなさいって言ってくれたんだ。
 だから。
「医者にならないの? 入学金だって払っちゃったのに……」
「なるよ……。浪人して、来年もう一度、横浜市大受ける。親父がああなった以上、早光大の学費はきついから。入学金は全部じゃないけど返してもらえるし」
「けど、予備校の金だってばかにならないだろう? もったいないと思うけど……。保険とか、どうしたの? 結構おりるんじゃなかったの?」
「入学金と、授業料、施設維持費……でかいのだけでも結構消えちゃうし、学生でいる間の生活費とかも……かかるし。入学金以外は毎年だよ。バイトだけじゃ……」
「生活の心配なんてするなよ。僕のところで暮らせばいいじゃないか。それに、授業料だって、文字通り僕は保証人してもいいんだ。だから……」
 ああ、やっぱり言い出したよ。
「俺はいやなんだよっ。龍樹さんにおんぶにダッコするような生活……。そんな飼われるような生活……嫌だ」
「君を飼おうなんて思ってないよ? 僕はただ……」
 つもりがなくっても、俺の薄っぺらなプライドを刺激するんだって!
 言いたいけど言えなかった。
「ああ、ごめん……、言い過ぎた。そうだよね。今だって毎晩龍樹さんに迷惑かけてんだから……。言えた義理じゃないよね……」
「迷惑なんかじゃないって! ……ずっといて欲しいんだ、僕と一緒に。……そう願ったらだめ?」
 だめじゃないさ。でもね、医者になって一人立ちするには十年はかかる。学費がいるのは六年だ。そんなに長い間、同じ様に言って貰える自信は俺にはない。
 俺はやるせない気分で立ち上がった。いつもの棚から店を手伝うときに使うエプロンを取り出した。
「閉店まで手伝うね……」
「拓斗?」
 返事を要求する龍樹さんの手が腕を捕まえに来たけどすり抜けた。俺を救うドアベルの音が涼しげに響いて。
「いらっしゃいませぇ!」
 客の顔も見ずに大きな声で言った。
 
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 店を閉めてプライベートな時間になった途端に泣きそうな顔で仲直りを申し出てきた龍樹さんに、ディープなキスで応えて取りあえずの仲直りをした。
 龍樹さんに嫌われたいわけじゃないから。
 問題は全て棚上げ状態。
 好きだけで何でも突っ走れれば、こんな思いしなくてすむのに。
 龍樹さんはなんにも悪くない。
 悪いのは俺。自分の気持ちがはっきりさせられない俺のせい。
 自分に自信のない俺の……。
「何、それじゃ、今日は売り上げ全然だったの? 龍樹さんのフレーズショコラ、ホールで太に?」
「うん」
 俺を抱き込みに来ながら子供のように頷いた。
 今夜の龍樹さんは饒舌。
 関係のない話題はこの際俺も大歓迎だったから、その日あった事件を片っ端から話す龍樹さんの声に真剣に耳を傾けた。
 様子が変なほど機嫌が悪かったのは、バラ以外にも嫌な贈り物を貰ったせいだったんだ。
 大量のネズミの死骸を店の入り口に積まれたって。
 龍樹さんのデザート専門の常連である太が知らせてくれるまで、稼ぎ時に閑古鳥が留まっている理由が分からなかったそうで。
 太は向かいの床屋の息子だ。まだ十二才だが、がたいが良いせいで俺と大してかわらないように見える。
 親が忙しいせいか、このところおやつが『El Loco』任せ。コーヒーの良さが分からないお子ちゃまで、フレーバーもの専門。
 龍樹さんのスペシャルケーキを巡っては俺といつも奪い合いなんだ。ガキ相手にみっともないってんで、俺が譲らされることが多い。太は勘がよくって、俺が喰おうとする一歩前のタイミングで最後の一切れをかっさらっていく。
 龍樹さんの心情としては俺に喰わせたいところらしいけど、店の品物にそんな私情を絡ませるわけにはいかないよな。ケーキなんて時間のかかるもの、俺の為だけに後から作らせるわけにはいかない。
 そんなわけでいつもの申し訳なさそうな顔で龍樹さんが呟いた。
「だって、今日はもう出そうもなかったし、太君は気持ち悪いの我慢してかたずけ手伝ってくれたんだ」
 まあな、それだけの働きを太はしたよ。
 俺がいない間に。
「俺、喰い損ねた。いつも太にかっさらわれるんだよなぁ。何故か。あの苺とチョコのケーキでしょ? 何でだか俺には縁がない……」
 ごめんねと龍樹さんのキスが囁いた。髪に触れる羽のようなキスだ。
「また作るよ。今度は君のために」
「ほんと?」
「うん、売り物じゃなく、ね」
「じゃ、約束!」
 龍樹さんの形のいい唇をチュッと吸った。
 そのキスが生殺しを我慢している龍樹さんに火を点けてしまった。バカな俺は油断してたんだ。
「拓斗」
 熱い囁きと一緒にキスの雨が降り始めた。
「ん……? ちょっと、くすぐったいよ、龍樹さん……」
「今度の定休日、買い物に付き合ってくれないか?」
「……いいけど……? 何買うの?」
「ベッド……、買い換えようかと思って」
「ベッド?」
「ダブルに……したいんだ」
 今いるのは龍樹さんが一人用で置いているアメリカンサイズのセミダブル。
 Hするには足りるけど、身体を伸ばして眠るには確かに狭い。
 甘えるように語りだした割には、その内容は俺にとっては彼との間に溝をひくための第一歩のように聞こえて。
 悲しい気分になった。
「ダブル……って……。俺がいるせい? 龍樹さん窮屈?」
「窮屈って訳じゃ……。これから暖かくなると……広い方が楽かなって……。狭くて暑いのを理由に君が僕と寝てくれなくなっても困るし……。だめ……?」
 龍樹さん……。あんたって人は……。
「だめじゃない……。俺だって、身体伸ばしたいとき……あるし……。俺、ここにいていいの? ほんとにいいの? 龍樹さんに我慢ばっかりさせてるのに……」
 俺の身体に触れる龍樹さんの熱いしこりがむくむくと大きくなってきた。
 欲しくなったって身体が……。
「そう……思ったら、たまには僕のこと……考えて。僕が……爆発する前にね。まだ……だめかな……?」
 熱を帯びて潤んだ瞳で俺を見据えながら唇を重ねてきた。舌先がノックしてきて俺は龍樹さんの激情に押し流されるように応えさせられていた。
 龍樹さんの手がやんわりと俺の中心に触れてきて。もう我慢できないと、爆発しそうな怒張を押しつけるように抱き締めてきた。
 そうすれば、俺の高ぶりにも気づかれてしまい……。
(止まれない……もう……止まれないよ……)
 初めての夜の龍樹さんの言葉を思い出していた。
 そうだね。俺が……龍樹さんを縛る鎖を解いたんだ。
 堰を切ったように押し寄せる龍樹さんの激情は俺をどんどん変化させていく。
 流されて流されて、行き着く先はどこだろう。
 こんな気持ちは初めてだ。
 俺は……今まで恋なんてしたことなかったんだ。本気の恋なんて……。
 それは苦しくて、辛くて、嬉しい筈のことまで怖い。何もかもが初めてで、失いたくないことばっかりで……。
 俺を臆病者にさせているのは失う恐怖。
「は……っっ、だめっ」
 パジャマのズボンを剥ごうとする龍樹さんの手を思いっきり振り払った。
「だめ……。だめだ。キ、キスはいいけど……するのは……」
 親父が怖い顔して見つめてたからじゃない。
 これ以上龍樹さんに俺を変えて欲しくなかった。
 このまま流されていけば一人でいられなくなる。
 見る見るうちに萎えていく俺から龍樹さんの手が離れた。
 悲しそうに溜め息をついて。
「……僕のこと……好き?」
「龍樹さん……」
 ドイツのホテルでキスを強請ってきたときと同じ口調だった。
「ねえ、好き?」
 その一言で我慢するからということらしく。
「す……好き……」
 他に何が言える?
 俺の一言で、ほんとに花が咲いたように微笑むこの人に。
「なら、いい。…………おやすみ」
 キュッと抱き締めて眠る体勢を取った龍樹さんのそこは、まだ首をもたげたままだった。
「おやすみなさい……」
 言いながら俺は憂鬱な気分になっていた。こんな風になる前の俺達に戻りたい。お互いに伺うような目をしてびくびくしてる俺達じゃなく……他愛のないことでも微笑みあっていられる気兼ねのない関係に。
「龍樹さん……?」
 形だけでも穏やかな寝息にかわりそうな気配の龍樹さんを呼び起こした。
「何……?」
 訝しげな声は寝ぼけ声を装っていた。
「……俺達……友達に戻れないかな……」
「え……?」
 低い声は暗く響いた。
 ガバッと身を起こして俺を真上から覗き込んできた金色の瞳が凍りついたまま透明な輝きをあふれさせはじめた。
 ただ黙って涙を流し続ける龍樹さん。
 ポロポロとこぼれる涙を指先にすくい取りながら彼の瞳を見つめた。
 また不用意なこと言って彼を泣かせた。
 嫌いって言葉を口にしたときも彼は泣いた。
 好きなのに、傷つけてしまう。俺のせい。
「あ、あ……。ごめん……、出来るわけ……ないよね」
 当たり前だというように俺を抱き締める腕は断固とした力が込められていて。
 絶対放すまいって無言の叫びが聞こえてくるみたい。
「……どういうつもりで君は……っっ!」
 震える声が俺を責める。
「龍樹さんに我慢ばっかさせて悪いなって思ってて……。でも、俺、龍樹さんと一緒にいたいから……友達って言う方が気楽かなって……ごめん、軽率だった!」
 ああ、もうっ! 完全な言い訳だ。よけい嫌われちゃう。
「と、友達はこんな風に寝ないよ」
 俺を抱き締める腕をゆるめて、俺の胸に縋るように身体をずらした。龍樹さんの頭は身体の割に小さくて。俺の胸に抱き込めるんだ。こんな風に。
「うん……そうだね……」
「拓斗……」
「うん?」
「君は僕の恋人だ。もう、それは変えられない。……僕を裏切らないで……。そんな事されたら僕は……どうなるか分からない」
「うん…………」
 くぐもった呟きはまだ涙声だ。
 どうあっても後戻りは出来ないか……。出会って寄り添ってしまった俺達は、恋っていう感情の迷路を別れという出口まで歩き続けるだけ。出来ればそれはなるべく遠くにあればいい。
 
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 明け方近く、人の動く気配で目が覚めた。龍樹さんが内緒で部屋を出ようとしてたんだ。
 それで俺は、龍樹さんの日常のスケジュールをもう一つ知った。
 二キロのジョギングとジム。
 龍樹さんの秘密基地みたいな半地下のジムは個人用にしては豪華。龍樹さんの身体を作っている運動を、俺もやってみたくてフルコースつきあった。俺だって選手時代程じゃないけどトレーニングは続けてたのに、あまりのハードさに後半は息切れ。二キロなんて軽いと思ってたのに、滅茶苦茶ハイペースなんだもん。百メートル走で二キロ走った気分。その後ジムをウエイトだけは同じにしないで貰って一時間やった。
 ベッドでの化け物じみた体力は、こうやって培われたわけだよなって妙な納得してみたり。
 ぜーぜーやってた俺に龍樹さんは言ったんだ。
「さすが運動選手だね」
 ついて来れただけでも偉いってか?
「お預けが解けたら安心してめいっぱい出来る」
 それは嬉しそうな声音で怖いことを囁いてきた。
「そんなん、俺死んじゃう。……一生お預けにしとこ」
「た、拓斗くうん」
 そりゃないよって抱きついてきて。
(冗談だよね……?)
 縋る瞳が心配げに覗き込んできた。冗談じゃないって言ったら、自棄になって襲いかかってくるかな。
 俺は黙って笑うだけにしておいた。
「愛してる。待ってるから……。早くお預け解いてくれよね」
 龍樹さんはそっと俺の唇に自分の形のいいそれを触れさせて直ぐ俺を解放した。
 ……これだけ?
 拍子抜けしたように見上げた俺を優しく微笑んで家に誘うと、浴室に押し込んだ。
「朝食前に汗流して。つくっとくから」
 そうやってまた据え膳。
 その日は和朝食。
 どれも時間がかからないメニューだって笑ってた。
 アジの開きとだし巻き卵。香の物と白和え、もずくの酢の物。さしみ蒲鉾の山葵漬け添え。味噌汁は豆腐とナメコの赤だし仕立て。
 炊き立てのほかほかご飯と味噌汁を二杯ずつおかわりした。
 どうして龍樹さんの作ったご飯は美味しいんだろう。誰が出しても同じな筈のものまで……美味しい。
 
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「社内預金と保険金は来週には振り込まれるって」
 藍本さんの車に乗って、首都高を走るっていう今日の予定は龍樹さんに内緒。
 この間あれだけ言われたから、朝御飯を食べた後、家帰るって言っておいた。
 会社に行って手続きすることは今日で終わりの筈だし。無駄なケンカはしたくないから。
「すみません、何から何まで……」
 藍本さんにはほんとに世話になった。
 税理士にもアポイントとってくれたし。
 会社がらみのことは一通り済んだからそういう意味でも礼を言おうと思って切り出したんだ。
 藍本さんは穏やかだけど社交辞令みたいな固いしゃべり方で答えた。
「いや……、半分仕事だし。何しろ、いきなりだもんね。僕に出来ることはするから。……突然大事な人を亡くすって……ほんとに……」
 後半を震える声でそんな風に言った藍本さんが、グイッと缶コーヒーを突きつけてきた。
「喉、乾いたろ。『El Loco』のみたいなわけには行かないけど、とりあえず」
「すみません」
 確かに喉が渇いていた俺は微糖タイプと言いながら甘すぎるそれを、ありがたく飲み干した。
 口の中が酸っぱくなっていく感じが後で飲まなきゃよかったって後悔を誘ったけど。
 車はどんどん横浜に近づいてる。
 コーヒーを飲んでから二、三十分たった頃かな。
 暖房がきついせいもあったのか、珍しく俺は車酔いになってしまったらしい。
 ホンの少し窓を開けて、シートに寄り掛かった。会話が途切れたのを幸いに、俺は酔いと戦っていた。
 高速じゃ、直ぐ止めて貰うわけにもいかないし。とにかく家まで……我慢できれば……。
 大師の料金所を越えたあたりで、いきなり藍本さんが口を開いた。
「桂川さんて、どんな人?」
「どんなって……。ああいう人です」
 会ったことあるのに、何でそんなこと聞くんだろう。酔いのせいで、俺はぶっきらぼうに答えてた。
「いや、面倒見がいいのは、分かってるけど。それは君だからでしょう?」
「え……?」
 ぎくっとした。この人俺達のこと……?
「誰が見たって分かるよ。君は彼のスペシャリティだって」
「すぺ……?」
「特別な人!」
「……んなこと……ないです……」
 いいながら、そんな台詞が既に龍樹さんへの裏切りだって気はしていたんだけど。とにかく会話を続けたくなかった。口を開いたら、吐きそうで。
「……拓斗君、気分、悪いの?」
「え……あ、まあ、……はい。ちょっと……」
 なんてもんじゃないけど、一応……。
 車がグイッと車線変更した。
「とにかく降りよう」
 手近の出口で高速を降りた後、小さなビルの駐車場に入った。
 ちょっと待って、ここ、温泉マークじゃないの?
 見た感じ、ゴテゴテのラブホテルじゃない分まだマシだけど、用途は同じに違いないって感じで。フロントロビーの代わりに自販機みたいな受付がある。部屋の内装を写した写真看板の、ライトが消えているところが使用中ってことらしい。
 俺が怪訝な顔をしていたせいか、藍本さんはニッと笑って覗き込んできた。
「トイレとベッド、手軽な料金。男同士でも平気さ。具合悪い人間を追い返したりしないよ」
「はあ……」
 まあそうかもしれない。確かに俺はもう、限界に近い気分の悪さで……。何だか目の前がかすむような気がするほど。
 藍本さんが選んだのは、一番殺風景そうなモノトーンの部屋だった。ピンクのビラビラじゃなくてよかったって思う。
 だから、藍本さんに支えられて部屋に入るのにも、なんの抵抗もなかった。
 一休みすれば、きっと治る。大体、こんな酷い車酔いは小四の時の遠足バス以来。
 初めて参加する遠足で、前の日興奮して眠れなくて。
 初恋で、憧れの先生が直ぐ側の特別席。でもって、先生の膝元に……吐いたんだよなぁ。
 俺にとっちゃトラウマ。以来、車酔いを克服するためのあらゆる手を試して。……克服したはずだったのに……。
 ああ、目が回る……。
 伝い歩きしながらトイレまで行って、便器に顔突っ込んだ。
 指入れてみて……少し……吐けた。
「……吐ける?」
 背中をさすりながら藍本さんが心配そうに声かけてくれて。
 俺は最悪気分だったけど、もう吐けないって判断して立ち上がった。
 洗面でうがいをして。
「すみません。……まだ、変なんですけど、取りあえず吐き気は……」
「ベッドで休めばいいよ。二時間はここ使えるから」
「じゃ、先帰って下さい。俺、一人で……」
 グラリと床と天井が回った。
 バフッと倒れ込んだ先はぎりぎり辿り着いていたベッド。
 丸いのって、変な感じ。気を失った訳じゃないのはベッドスプレッドの模様が目に入ってるから分かる。極彩色の極楽鳥。ジャングル……。モノトーンなのに、ここだけ色がある……。
 ゴーギャンの絵……みたいだなぁ。
 吐き気はおさまってた。やけに身体がフワフワしていて。
 なんか、全体が熱持ってるみたいに力が入らなくて。倒れ込んだままぼんやりしてた。
 どうしちゃったんだろう。
 これは……ただの車酔いじゃない……。
 だから、Gパンを脱がされたときも、変な重みを感じたときも、咄嗟に反応できなかったんだ。
「な……何……?」
 呟いた耳元に息が掛かった。煙草と、コーヒーの混ざった……嫌な臭い。吹きかけられた耳元から背筋に走ったのは不快感。
「桂川と……同じことしてやるよ……」
「……え……?」
 やばい。って思った瞬間激痛が走った。それも……やばい場所。
「っ……! っにやってんだよっ? いてぇっ! ったいって! やめろぉっ!」
 冗談じゃねぇって!
「ざけんなよっ」
 奴の下から這い出そうとした。
 でも、力が入らない。体中が不快感でいっぱいなのに、押さえられた腕も背中も少ししか動かせない。頼みの脚は、奴に割り広げられたまま閉じようにもやはり奴の力に勝てなくて。
「ひっ……いっいやっ! だめだ! 畜生! 痛いって!!」
 奴はお構いなしにぐいぐい俺の中に焼き串を突き立ててくる。
 切り裂かれる痛みは鋭くて、突き入れられる感触は侮辱に満ちている。
「いやだって!! や、やめろよっ! 何でこんな……っ!」
「……君が、桂川の……大切なペット……だからだよ」
 奴は突っ込むだけじゃなく動き出した。切れた痛みと、ひきつれる摩擦の痛み。どれも、快感とはほど遠い。
 ったりまえだよな。これは……愛情がない行為。
「い……いや……っ……いやだ……いやだぁぁぁぁぁっ!」
 龍樹さんにしか許す気のなかったそこを犯すこの、嫌らしい物。
 ペットだろうが、なんだろうが、龍樹さんのしてくれたこととは全然違う。
 龍樹さん……龍樹さん……助けて……!
「龍樹……さん……」
 痛みの頂点が来たからなのか……それともこんな状況をこれ以上認識したくないからなのか……赤い空間に星が散り始め……目の前が次第に星で埋まり……俺は……暗闇に吸い込まれた。
 
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「拓斗……」
 穏やかに響く低い声に囁かれた気がした……。甘く、優しい、俺を甘やかす……。
 ああ……龍樹さんだ……。
 龍樹さんが俺を抱いていた。後ろから、俺を愛してくれてる。どうしてそうなったのかは思い出せない。でも……。
 これは俺が欲しかったもの。熱く俺を満たす……。
 そうなんだ、ずっと……抱かれたいって思ってた。
「ああんっ……龍樹さんっ……龍……樹……さぁん……っ」
 それが龍樹さんだっていうだけで俺は、こんなにも嬉しい。
 初めての時だって嫌じゃなかった。恥ずかしいことはいっぱいあったけど……。
 龍樹さんとキス、舌を入れられて、口の中まで愛撫される。
 龍樹さんの手……優しく熱く撫で回す感触はあくまでも俺を大切な壊れ物みたいに扱おうとしてるって分かる。
 龍樹さんの指……。生き物みたいに俺の中をかき回す。少しずつ、俺を解くように優しく焦らして俺が欲しくなるまで……。
 龍樹さんのそこも……悦びを分かち合うために、限界までの我慢をしながら熱く脈動して俺の中に入ってくるの待っている。俺が触るとビクビクと動悸を早くして、涙を流すんだ。俺の中に入ってくるときだって、でかいから結構きついんだけど、痛くないようにっていう気遣いを忘れない。
 龍樹さんの唇と舌は、俺の一物まで愛してくれる。温かく湿った感触で俺を包み、舐めあげ、引き絞る。
 そんな、人にやたらと見せたり触らせたりするような場所じゃないところまで……龍樹さんになら……触って欲しい。……愛して欲しい。
 龍樹さんが俺を突き上げてる。愛してる、愛してるって呟きながら……。
 苦しげに息をあげながら、でも嬉しいって俺を……。
「ああああっ……い……いいっ……龍……樹……さんっ……いいっ」
 身体を仰け反らせてもっと感じようとする。腰をゆらして龍樹さんの動きに合わせ、絞り込むように柔らかくもみしだくと、嬉しそうなうめき声が聞こえてきて……。俺の中に撃ち出される龍樹さんの吐精の衝撃は、俺を別の世界に誘う。
 それは龍樹さんだから出来ることで……他の奴じゃだめなんだ……。
 俺はこんなにも龍樹さんが好きだったんだ。
 こんなにも………………。
 悲しげに俺をみてる親父と目があった。親父は黙って首を横に振り続けてる。
 だめだよ親父、俺、だめだ。龍樹さんが好きなんだ。こうして抱かれるのも……好きなんだよ。龍樹さんだから……好きなんだ。
 だから……もう、許して。
 声に出せないまま、目でそれを訴えた。
 諦め顔の渋面が、遠くに行くまで……俺は赦してって……訴え続けてた。
 
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 甘い疲れから少し脱した俺は、空腹を感じて顔を上げた。
 いつもなら龍樹さんが微笑みながら覗き込んでくるのに。彼はいなかった。
「龍樹……さん……?」
 少しだけ体を起こして見回した。
「あれ……?」
 この部屋、どこ……?
 見回して、寝具の極楽鳥を見つけて……。俺は全身の血が抜けてしまったかと思った。
 だって……ここは……。
 ここには龍樹さんはいない。でも、俺、確かに……。
 俺は裸で、した跡が体中に残ってて。
 じゃあ俺は……誰と……?
 ガバッて起きあがった。
「いてっ」
 尻が痛い。これって、この痛みって……。まるでデカいウンコが一気に出た後みたいに……切れてる……。
 痛み……!!!
 思い出した!
「あ……あ……そんな……」
 頭を抱えた。
 俺……犯られたんだ。なのに、何であんな……。
「目が覚めた?」
 声に身体を強張らせた。ぎしって俺のそばに藍本……が座った。
 一分の隙もないスーツ姿で。
 シャワーを浴びたのか、石鹸の匂いがする。
「な……なんでっ……」
 思わず殴りかかって。まだ力が入らないのを知った。簡単にいなされてベッドに抑えつけられてしまった。
 こんな惨めな扱いは初めてだ。
「いったはずだよ。君が桂川の大切なペットだから」
「俺はペットじゃない!」
「ああ、そりゃすまなかったね。じゃ、弟……。いや、あのよがり方から言って女?」
「っっ!」
 女じゃないよっ。
 言いたかったけど、確かに女の立場……なんだよなって。
 悔しさに俯いていたら、顎を掴まれグイッと上向かされた。
「まさか、君があそこまで馴れてるなんて思わなかった。残念だよ。桂川より先に君を奪いたかった」
 優しげに言う藍本……の口調はあくまでも気障。
「何……言って……」
 俺のこと好きでもないくせに……。
 やっと分かった。この人は、目的のためならこんな酷いことできる人なんだって。
 龍樹さんは悪意って言ってた……。彼には分かってたんだ。
 なのに、俺は紫関さんと一緒くたに考えて……。全然違うのに。
 龍樹さんの焼き餅だって……。軽く考えてた。
「君は……ベッドでは随分と色っぽいね。これは……新鮮な驚きだよ。君の色っぽい姿、ちゃんと撮れてるといいけど……」
 藍本がキャビネットのところから取り出したのはビデオカメラだった。
「リモコン操作だけだったから……ちょっと心配だな。見てみるかい?」
 藍本は冷静で理知的な瞳で微笑んだ。まるで、何もなかったかのように。
「ふざけんな。あんた、俺に何したかわかってんのか? 強姦だぞ」
「……よがってたくせに、今更僕を責めるのかい?」
「よがってなんか!」
 言いながら、あの、龍樹さんに抱かれる夢の間……本当はこいつとしてたのかと思って……。
 …………くやしいっ。
 俺は……やられちまえばよがっちまう、淫乱な男なんだろうか……。自分が情けない。
「このビデオ見れば分かるよ」
 ギクッてした。冷たい口調より、その内容が俺の心に大きなさざ波をたてたんだ。
「んなもん、どうするんだよっ」
「君の恋人……? 桂川に見せるんだよ」
「っ……! だめだ! よしてくれ!」
 カメラを取り上げようとしてベッドから転げ落ちた。
 這いつくばって、足下に取り縋って……。
 藍本はクスクス笑いながら俺の側にかがみ込んだ。
「僕が食事に連れていくってだけですごい目で睨んできたからね。こんなの見たら、気が狂うんじゃない? きっと、君のことも許さないね……。殺されちゃうかもよ」
「!!!」
 一瞬呼吸が止まった。
「…………ああ……、そう……だな」
 殺されても……文句言えない。俺が龍樹さんを裏切っちまったのは事実だ。好きでもない奴を受け入れちまった。
 たとえ強姦でも……俺は……ろくな抵抗もできなくて……。
 バカみたいに夢見ながらよがって……。
 それが、画像で残ってる。
 これは……本格的に龍樹さんにサヨナラされちゃうファクター……。
「ああ、落ち込むなよ。冗談だから。ゲイなんてさ、やりまくるのが特権なんだから。女みたいに妊娠の心配もないし、ムードだなんだって煩くないし。桂川だって、いっぱい相手いるんだろ? 君に恨み言なんて言えないさ」
 それだけ言うと身を屈めて俺の耳もとに息を吹きかけた。
「それとも、君だけだって言われて口説かれた? ま、その時本気だとしても、熱病の譫言だ。ベッドで何約束したって、気持ちが冷めてしまえば無効だよ」
 どきっとする囁き。それは一般論らしい言い方で。一瞬グラリとなりかけて、問題をすり替えられかけてるって気を取り直して。
「そういう問題じゃないっ! あんた、一体、何考えてんだよっ!」
「いやがらせ」
 あんまりしれっと言われて俺は……力が抜けてた。
 こいつ、なんか頭おかしい。
 自分のやったこと、分かってんのか?
「君には痛い思いさせて悪かった。もう一休みしてから帰りなさい」
「っ!」
 出て行く藍本を呼び止めることもできなかった。
 バタンッて重そうな扉の音。
「……っかやろ……っかやろ……ばかやろーっ! ざけんなよっ。くされ野郎!!」
 床で転がって喚いた。
 頭は龍樹さんの怒って泣くだろう表情でいっぱい。どう謝っても……これは許してもらえない……。
 あいつはビデオを見せるって……。
 ビデオを取り上げることが出来たとしても……俺自身、ごまかし続ける自信がない。
 龍樹さんに告白して赦しを乞うことも、騙し続けることも……。無理。
「畜生! 畜生! ちくしょぉぉぉぉっ!!」
 ……もしかしたら龍樹さんは許してくれるかもしれない。あんなに俺を愛してくれてるから。
 でも、今は……だ。
 龍樹さんの言うことが真実だとして……。それが熱病の譫言ってのだったら……。俺の裏切りは熱が冷めてきたときに問題にされる。しこりになる……。それは……俺が龍樹さんに返せないほどいろんなものを与えられて、それに慣れて……それからだ。
 それは突然に来る。
 ……サヨナラ……が……。
 だったら今だ。今日の内にケリを付けようって決めた。
 
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 閉店時間を狙って電話した。
「はい、『El Loco』です」
 穏やかな低い声。いつもの龍樹さんの……甘い声。営業用の抑揚のない声なのに、俺は涙が出そうになっていた。
「あ、龍樹さん? 俺、拓斗です。あの、…………俺、……俺……今夜から家に帰ることにしたから……その、買い物も……しなくていいと思う。もう……龍樹さんとこに……行けなくなっちゃったんだ。ごめん……ごめん!」
「あ、あの、拓斗君?」
 言うだけ言って、慌てて切った。
 龍樹さんの声を聞きたくない。失うことが辛い。辛いから、忘れたいから……、聞きたくない。
 受話器を抑えつけるようにして。
 嗚咽を堪えた。
 直ぐ後で電話が鳴って、思わず出てた。
「はい……向坂です」
「あ、拓斗君? よく……分からないんだ。あの……君の電話……」
 出た途端に龍樹さんが話し出した。
 オロオロと。ほんとに戸惑ってると言うのが分かる……愛しい声。
 俺なんかそんな風に思ってもらえる資格無いのに……。
「……恋人だって思わないで欲しいってこと……だよ。ごめん!」
 出来るだけ突き放すように言って受話器を置いた。
 置いてから、もう一度受話器を外して……そのまま放り出した。
 へなへなと座り込んで……。
 俺……酷い事言っちゃった。頬が濡れてることに気づいて自分が泣き出してることを知った。
 龍樹さんの泣き顔が目に浮かんだ。ポロポロ涙を落として縋る瞳で俺を見つめる。
 こみ上げてくるもので胸が詰まって……痛い。
「あ……う……ああああっ!」
 涙が止まらない。一番大切な人を傷つけた。どうしようもないほどに……。
 ごめん、龍樹さん……。ごめん……。
 
20
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 外の呼び鈴が鳴り続けてる。
 どのくらいの間、ぼんやり座り込んでたんだろう。
 俺は涙の痕でパリパリになった顔を腕で拭った。
 スンって鼻すすって。よろよろ立ち上がった。
 身体が痛い。何よりも胸が痛い。
 廊下のインターフォンで応対した。
「はい……?」
「拓斗?」
 龍樹さん?
 反射的にインターフォンを切った。
 家に来ちゃった……。
 ピンポンピンポンて鳴り続ける音に囲まれて、俺はパニクッてた。
 辛いくらい切実な声で、
「僕を裏切らないで……」
 って言われたのを思い出して。
 俺を殺しに来たんだろか……。
 やがて玄関のドアを叩く音が響いて。俺は逃げ出すことも出来ずにドアを見つめて座り込んでた。
「拓斗! 拓斗ぉ! そこにいるんだろ? ここ、開けてくれ」
 恥も外聞もないくらいの龍樹さんの叫び。
 悲痛で縋り付くような声で……。
 飛び出して抱き締めたい。あの厚い胸に顔を擦り付けて。
 ふらふらとドアに近づいて、ハッとした。
 バカ! 今サヨナラしなきゃ後でもっと辛いんだよ!
「龍樹さん! 止めてくれよ! 近所迷惑だよ」
 ドアを開ける代わりにそう叫んだんだけど。
 龍樹さんは構わずがんがんとドアを叩き続けてる。
「拓斗! ねえ! どういうことかちゃんと説明して! あんな電話じゃ納得できない。絶対に納得できないよっ」
 声音が少し変だった。ろれつが怪しいような……。
「龍樹さん……飲んでるの?」
 どう言えば納得できるかなんて俺には分からない。大きく溜め息をついて、俺を追いつめる龍樹さんに帰って貰うための台詞を考えた。
「だめなんだ。俺、もうだめなんだよ。龍樹さんとつき合えない。俺にはもう……。お願いだから俺を苦しめないで……!」
 言った途端に静かになった。
「苦しめる……?」
 しわがれた龍樹さんの声は、まるで、地を這う様な暗い声。
「……君を愛してるだけなのに……」
 悲しげな呟きをドアに貼り付いて聞き取った。
 だって……だって、だめなんだ。龍樹さんは知らないから……。俺が裏切ったこと、知らないから……。
「俺には愛される資格、無いんだ。ほんとに……。龍樹さんには迷惑ばっかかけたけど……俺……、俺……」
 涙がかれるほど泣いた後って気がしてたのに、また涙が出てきた。ドアにもたれたまましゃがみ込んで、俺は泣いた。
「拓斗……、拓斗……。ごめん……。君を泣かせるつもりはなかったんだ……すまない……」
 やがてそんな声が聞こえて……。足音が遠のいていった。
 行っちゃった。龍樹さんが……行っちゃったよ。
 絶対嫌だって思ってたこと、自分でさせた。
 あの夢みたいに……追いかけることも出来なくて。
 あんなに傷つけたのに……。それでも俺のことを気遣ってくれて……。
 龍樹さんはほんとに優しすぎる……。
 頭の中で響き続ける龍樹さんの足音は、俺をどんどん空っぽにしていく。どんどんひからびさせていく……。
 
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 ふと気がついて、身体が冷え切っているのを知った。玄関先の板の間でそのまま寝てしまったらしい。
 夜明け前の冷え込む時間。
「へっくしっ」
 ……風邪をひいたかも。身体が痛くて、寒くって、鼻水がテーッてたれてきた。
 重い足を引きずるようにのろのろと自分のベッドまで辿り着いて、ゴロンと布団の中にくるまって。冷たい布団はちっとも俺の体を温めてはくれなかったけど、まあ、無いよりはマシってところ。
 人肌の温もりに慣れたせいだ。龍樹さんにくっついていれば、あったかくって安心で。
 ああ、華やいだ楽しそうな声で朝食の支度が出来たことを知らせる恋人も、俺は捨てたんだな。
 自分でサヨナラしたくせに、こうやって失ったものの大きさをこれから確認していくんだと思ったら、生きてくのを辛く感じた。
 でっかい溜め息が口をついて出て。
 一人で生きていくって、ほんとに大変。
 学校、生活、税金。
 藍本に頼るわけにもいかなくなって、そういや紹介してくれた税理士はほんとに大丈夫なんだろかなんて、疑ってみたり。
 学校の保証人……今から変えられるかな。
 そんな風に思って、俺は医者になるっていう人生目標を思い出していた。俺自身辛い患者時代を過ごしていたから、そういう人を一人でも救いたいっていう思い。
 そうなんだよ。
 俺にはまだその道がある。勉強しなきゃいけないこと、いっぱいある。
 煩わしいこと、嫌なこと、みんな医者になるためにはクリアしなきゃいけなくて。
 それが出来て初めて俺はペットみたいな立場から抜けられるんじゃないかって気がついた。
 今現在の俺で龍樹さんとタイマン張ろうってのが間違いだ。
 捨てられることを恐れるより、自分の人間としての付加価値を高めなきゃいけなかったんだよな……。
 そうさ、捨てる事なんて考えさせないようにさ。
「……今更遅いか。俺からふったんだもんな」
 龍樹さんのことは、多分一生忘れられない。ずっと心の奥底に痛いしこりとなって残るだろう。
 食欲がないまま、その日の予定である税理士との会見場所に俺は向かった。
 馬車道近くの雑居ビルの中にその税理士は事務所を開いていた。
 名前は片倉智(かたくらさとる)。男だか女だか判らない名前だったせいもあって、最初秘書かと思ったおばさんが本人なのにはびっくりしたけど。
 俺の立場はもう藍本から連絡が行ってるらしく、すごく同情的で親切な応対をしてくれた。
 結局相続税を払うために向坂の土地家屋を売ってしまうことにした。
 現物でといっても土地を切り刻むわけにも行かないし、俺には学費とか金が必要だったから。売ることによって生じる所得税を払っても、その方がいいって事になったんだ。
 保険金と売ったときの残りの金、預金。それを上手く使えば、何とか学校に行けそうだった。
 俺独りで住むのに、あんなでかい家は必要ないから。学校の近くのアパートを探そうって考えた。
 家と土地がこっちの言い値で売れるかどうかでだいぶ違うけど、場所からいったら買い手はつきそうな物件だと言ってくれたし。
 報酬も、土地が売れてからでいいってことにしてくれた。
 藍本は、あんな酷いことを嫌がらせだと言ってした割に、随分まともな人を紹介してくれたみたいで面食らった。
 あの嫌がらせってのは……龍樹さんに対してって事なんだろうか……。
 礼を言っての別れ際に、我慢できなくなって質問した。
「あの、藍本さんとは親しいんですか?」
「うーん、親しいって程では……。あの人の、義理のお父さんだった人と何度かお仕事したことがあったのよ」
「義理の……?」
「藍本さんのお母さんと再婚した方。藍本さんだけはお母さんの実家を継ぐ為だって籍に入らなかったみたいだけど、連れ子同志の再婚にしては仲のいい家族だったわね」
「へえ…………」
「彼、面倒見良いでしょ? お母さんと義理のお父さんが相次いで亡くなった後、妹さんの面倒も見続けたのよね。関係ないのに」
「あ、妹って相手の連れ子の……ですか?」
「ええ。五つぐらい離れていたのかな。留学までさせてあげて……」
「すごいな……」
 あいつがそんなに親切なんて……。信じられない気分。
 片倉さんがいきなり眉をひそめて声を低くしたのはそれから。
「何が不満だったのか、妹さんは自殺したのよ。留学先で。それから仕事一本槍みたいになってね。今度の君のことでは、昔の彼に戻ってきたのかなってちょっと嬉しかったわ」
「はぁ……」
 本当に俺らは今、同じ人物のことを話題にしているんだろうか。
 そんな風に首を傾げるほど印象が違う。
 確かに、最初は親切な人だと思った。でも、強姦なんかしてくれちゃって、それも薬……使ったとしか思えない。嫌がらせにそのシーンをビデオに撮るほどの徹底ぶり。
 あいつの本性って一体……?
 クエスチョンマークで埋まった頭を抱えたまま帰宅した。
 関内の牛丼屋で味噌汁と卵付きの牛丼をかっこんでから。
 
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 翌日からは不動産屋回りと土地売却の手配。
 葬儀屋への支払いは振り込まれた社内預金から払って。
 俺はそれなりに忙しく過ごしていた。そうでもしないとまた玄関の板の間で寝たくなるから。
 トーストとコーヒーの朝食、野菜ジュースとレトルトのカレーの昼食、コンビニの弁当で夕食。
 俺の食生活は『El Loco』に通い始める前の状態に戻ったわけだけど。
 気分は侘びしさ倍増。
 何よりも、一人で摂る食事の不味さに閉口した。何喰っても紙でも喰ってるような気がするんだ。んでもって、どんどん暗い気分に落ち込んでいく。
 龍樹さんの料理よりも、龍樹さんの笑顔が恋しい。俺のたわいもない話に微笑みながら的確な答えを返してくる龍樹さんの人当たりの良さが心地よくて……。
 なまじコーヒーや料理が旨かったから勘違いしてたことに気づいてしまった。
 俺は最初から龍樹さんに中毒してたんだ。本当に……。こんな、一日二日で禁断症状が出るほどに。
 ……今からでも謝ったら彼はもう一度俺を受け入れてくれるだろうか……。
 いや、無理だよな……。そんなのむしがよすぎ……。もう俺のこときっぱり忘れて別の恋人を探してるかもしれないじゃないか。あの夜だって、思ったより簡単に引き下がって帰っていったし。あれ以来電話もない。……ビデオ、見たのかな。きっと愛想尽かされちゃったんだ。絶対そうだ。
 ああくそっ! 藍本の野郎! 何でそんなに俺らが憎いのか知らないけどっ。
 一生恨んでやるからなっ。
 
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 夜遅くの呼び鈴は、また龍樹さんかもって思うと怖くて嬉しい。
 実際嬉々としてインターフォンのモニターを覗いて硬直した。
 バカ野郎の藍本が立っていたから。
「会社に残ってた書類、持ってきた。二度と会いたくないって思うだろうけど、こっちも仕事なんでね。ちょっと開けてくれないか?」
 奴が振って見せた書類袋にはMS社の名が入っていて、税理士がまともだったこともあって俺は信じてしまった。
 封筒を受け取れるだけ開けたつもりだったドアに足を挟まれた。
 ドアチェーンをかける癖のなかった俺を不用心だと怒ってくれていい。
 足が膝になって、肩をねじ込んで。
 強引に藍本は家の中に入ってきてしまった。
「何っ……考えてんだよっ!」
 あんたのせいで俺は……俺は……っ。
「……君が好きになった。だから……わびたくて……」
「……嘘だ……」
「桂川はどうしようもないタラシなんだ。君にはあんな奴に引っかかって欲しくない。だから……」
「お生憎。俺達は別れたよ。あの後直ぐに」
 ったく、誰がタラシだよっ。ホントにタラシだとしたって、龍樹さんは強姦なんかしなかったぞっ。
「あいつ……泣いた?」
 嬉々とした声で言った。
「バカ野郎、泣いたのは俺だよっ」
 俺はこいつの望むとおりに動いちまったのを知った。やっぱりターゲットは龍樹さんだったんだ。
「……もしかして、店の前にネズミ置いたのもあんたか?」
「ああ! あれは……うん。僕だよ。結構高く付いたな……近頃じゃ、ネズミもなかなかいないから」
「じゃあ、バラもか?」
「バラ……? いや。何、あいつ、僕の他にも恨み買ってたんだ! あっははは、やっぱりなぁ」
 ……バラは俺宛なんだけど……。
 そうか、こいつじゃないのか、って、んなことどうでもいい。
「やっぱりじゃねーよっ! 大体、なんで龍樹さんのことそんなにっ」
「あいつは人殺しだよ。僕の妹も……彼奴のせいで……」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
 そんなバカなことあるか。龍樹さんが人殺しなんて……あるわけない。
「そんなにあいつが良いの? あんな奴のどこが……?」
「……全部だよ」
 だから後悔してる。自分からそれを捨てたこと。捨てられてもいいから別れのギリギリまで彼と居ればよかった。
「俺がらみの復讐は成就したんだろ? おかげで俺だって気分最悪なんだっ! もう、帰ってくれよ。これからまた泣くんだから!」
「あんな奴……忘れろよ……」
 抱き締めてこようとした腕から無意識に逃れた。
「はあ?」
「言っただろう? 君を好きになった……」
「……ふざけんなっ!」
「ふざけてなんかいない。君が欲しいんだよ……。あの日のことが忘れられなくて……」
 じょ、冗談じゃないよっ!
 抱きついてきた藍本を蹴り倒した。ガッてドアにぶちあたった藍本は、首を振りながらもまだ尻餅ついたまま。
 龍樹さんに武道ならっとけばよかったって思った。咄嗟に蹴っ飛ばすことは出来ても、喧嘩なんかしたこと無いし、決め手も加減も分からなくて奴に勝てるかどうか自信ない。
 玄関は藍本にふさがれてる……。俺の逃走経路は庭って決めた。
「お断りだね!」
 駆け出した。仏間からサンルーム、それで庭!
 ああ、サンダルあったかなぁ。庭は掃除してないから下手すると怪我するかもしれない。
 いいや裸足でも。犯られるよかましだ。
「拓斗待って!」
 誰が待つか!
 サンルームのガラス戸は鍵かかってる。
 追いつかれる前に開けなきゃ。
 チラッて振り返った藍本の手には注射器があった。またろくでもない薬を俺に……。
 だから、あの針が俺に刺さる前に外へ出なきゃ。
 ああ畜生、慌てると指先が巧く動かない。
 鍵のロックが外れないよぉっ!
 グイッて足をすくわれた。
 ゴツッて頭ぶつけて。
 硬質ガラスにしこたま鼻が擦り付けられた。
 多分ひどい顔してたと思う。ガラスの向こうに誰もいなくてよかったよ。もし龍樹さんがいたら……百年の恋も冷めたかもしれない。
 足を持たれて引きずられた。
 板の間に爪を立てて留まろうとしたのに、爪の方がはがれた。
「やめろよぉ!」
 背後で荒い息が聞こえる。脂ぎった欲情丸出しの声。
「君を愛してる! 愛してるんだよ!」
 同じ台詞なのに、なんでこんなに不快に思えるのか……。
 愛じゃないって知ってるから?
 そう、こいつのは愛じゃない。欲望だ。
 それこそ俺の身体目当て。
 仏間の畳に爪たてた。
 奴が注射を打ちたいのは俺の腕。仰向けにされた瞬間を狙って蹴り飛ばした。
 龍樹さんの時みたいにあそこにヒットすればよかったのに。
 狙うと外れるもんだよな。奴の腹に入った蹴りは、奴を余計に獣に変えた。
「いい子にしろよ!」
 横っ面を拳で殴られた。
 わあんと耳鳴り。クラクラした。
 瞬間何にも見えなくなって、俺は滅茶苦茶に手足を動かした。注射を構えなおしている間に肘とにじり足でサンルームに向かった。
「い、いやだっ。嫌だ、来るな! いやだぁぁぁっ!!」
 じりじりと近づいてくる注射器に目が吸い寄せられる。
 ただでさえ注射なんて嫌なのに、あの中に入ってる薬は要らないものなんだ。
 ああ、何だってこんな目に遭うんだよぉっ!
 さっき殴られたせいなのか、まだクラクラしてて……すごくやばい。
 ピシイッていう音が聞こえた。
 氷が急にひび割れるみたいな音の大きい奴。
 え? ってガラス戸を見たら。
 一枚だけ真っ白になってた。
 俺の上にいた藍本も固まったままそれを見てる。
 細かにひび割れたガラスは、蜘蛛の巣状の模様。
 パラパラパラッて崩れ落ちた銀色に光るガラスの垂れ幕の向こうに立っていたのは……。
 正拳突きの構えの麗人。見間違いようのないギリシャ彫刻のような姿。
「拓斗ぉ!」
 それが吼えるように叫んで中に駆け込んできた。
 硬直したまんまの藍本を突き飛ばして。手から飛んだ注射器が畳に刺さった。
「龍樹さんっ?」
 何でここに?
 俺が危ないって分かってたの?
「拓斗、拓斗! 大丈夫? 怪我ない?」
 俺を助け起こそうと手をさしのべた龍樹さんの背後に藍本が飛びかかってきた。あって思ったより早く龍樹さんは最小限の動作でよけたので、そのままの勢いで壁に激突。心配げに俺を見つめたままの表情から言って、避けた意識もないみたいだった。
「……んの野郎っ」
 こういう時の腹立ちは情けない分余計だ。
 いつものすました素振りを振り捨てて歯を剥き出しにした藍本は肉食獣の顔してた。床を蹴るようにもう一度飛びかかってきて。
 龍樹さんの動きはマタドールみたい。今度は煩そうに奴の襟首をつかんでロデオの牛転がしの様に床に叩き付けた。
「……ざけんなよっ」
 体制の整わない藍本にまたがり乗っていきなりボコボコに殴り始めて。
 そこで初めて龍樹さんが静かに逆上していたのに気がついた。
 龍樹さんは有段者。空手とか、少林拳とか……いろいろやってたらしいから、どれがメインか知らないけど。とにかく止めないと、龍樹さんの拳はそのまま凶器に認定されちゃう。
 第一、藍本はもうぐったりしちゃってて……やばい。
「龍樹さんっ!! それ以上殴ったら死んじゃう! 止めて!」
 俺なんかがしがみついたって全然力不足だけど、何とか羽交い締めにしようと飛びついたんだ。
 そしたら龍樹さんがピタッと止まって。
 ゆっくりと振り返った。ホッとしかけて息を呑んだ。龍樹さんは瞳を血色に濁らせて俺を睨んでいたんだ。
「……君は……こんな奴を庇うのか? 僕よりも……こいつがいいって……?」
 低い抑揚のない声で呟かれて。
 ロボットみたいな動作で彼の大きな手が俺の首にからみついた。
「!」
 俺の憧れていた長くて優雅な指先が俺の肌に食い込んでくる。ぐいぐいと加減の無い力で。
 息が……出来ない。何とか彼の手に爪を立て外して貰おうとしたんだけど俺の爪は剥がれてて……。
「た……つき……」
 目の前が真っ赤になって、暗くなり始めて……。俺……死ぬんだなって思った。龍樹さんに殺されるなら……自業自得か……。
 力が抜けて、腕をだらんと落とした。意識が遠のきそうになったとき、ふわっと楽になった。
「た、拓斗?」
 たった今気がついたって感じで俺の名を呼んだ龍樹さんの足下にポトッと落ちた感じで転がった。肺のあたりが焼け付くように痛んだ。
「げほっ……けほけほけほっっ」
 いきなり空気の通りがよくなって咳き込んでた俺をおろおろしながら抱きしめてきて。
「すまない拓斗、大丈夫か?」
 心配そうに俺の殴られたとこや自分の絞めた指の痕をそっと指先で撫でた。
 変わらぬ優しさが彼の瞳に浮かんでる。
「龍樹さ……ん……何で……?」
「その前に」
 俺の唇に人差し指を添えて遮ってから、畳に刺さっていた注射器を取った。
 チュッと少しだけ出して舐めてみて頷いて。藍本の腕を出して馴れた手つきで全部打っちゃった。
「あ……それ……」
「幻覚剤……だろう? 今日もこれうって君を抱こうとしたの? こいつ……」
「な……っっっ」
 頬がカアッと燃え上がった。
「資格ないって……こういうこと?」
 言いながら手刀でのろのろと動き出した藍本の首筋を押さえてた。
 失神したらしい藍本を床に転がして、俺の方に戻ってきた。
 琥珀の瞳が穏やかな色のまま俺を映してる。
 龍樹さんの落ち着きはかえって俺を狼狽させた。
 はだけ掛けたシャツのまま藍本に組み敷かれていた所を見られたんだ。
 浮気の現場を見つけられたみたいに。
 情けなくて恥ずかしい格好を見られた!
「たっ……龍樹さんにはもう……関係ないよっ! そんなこと!」
 藍本との関係を知られたくないばかりに思わず言い返していた。
「ビデオ……見たよ。おかげで僕の部屋はデッキとモニターの残骸が山になってる」
「えっ?」
 強張って掠れた声に目を見張った。間近に龍樹さんの瞳が迫ってきて。
 俺を見つめる瞳は真実しか受け付ける気がないって叫んでた。
「君とこいつのビデオ、送られてきた。僕の患者が差出人になっていたけど、こいつから……だと思う。だから、隠さずに教えて。君は僕よりもこいつを好きなの? それとも……」
 口が勝手にぱくぱくして……声にならない俺の叫びを吐き出した。
 ビデオ……。淫乱で、見境のない俺の姿を……龍樹さんに見られた……。一番見られたくない、俺の嫌な姿……。
 だからあんな奴を好きなのかなんて訊かれたりして……。
 俺が好きなのは龍樹さんだけなのに……。
 藍本の野郎、マジで送りつけるなんて酷いよっ。
 力が抜ける。
 龍樹さんに両腕を掴まれていたせいで、ブル下がるように跪いた。
 俺を見ないで!
 恥ずかしい、淫乱な俺を……!
「君が僕のこと嫌になって、もう絶対心が戻らないから別れようっていうなら……、キツイけどあきらめるように努力する。でも、それ以外の理由なら却下だ。僕は君をあきらめない。どこまでも追いかける。君がまた振り向いてくれるまで……」
「龍樹さん……」
 信じられないくらい俺に都合の良い台詞。
 だから……信じられない。
「そうやって、俺を嬉しがらせといて、飽きたら捨てるんだろ?」
 そうして、今度は俺が捨てないでって縋ったとき、お前のことは愛せないって……冷たく言うんだ。
「俺……嫌だから……。龍樹さんに夢中になってからポイ捨てされるの嫌だから……だから…………」
「どういうことだよ? 何で僕が……」
「龍樹さん、今までもそうやって恋愛してきたんだろ? する事して、飽きたら捨てるんだろ? ゲイって、自由恋愛が特権だって……。しがらみないから、簡単に乗り換えるんだろ? 俺、ゲイじゃない。そんな簡単に変われない。だから……俺の事ほっといてくれよ!」
「拓斗……?」
「龍樹さんは俺が逃げてるから欲しいだけなんだ。完全に手に入っちまえば、興味なくなるんじゃないの?」
「い……いくら何でも酷いよっ。ぼ……僕が何したっていうんだっ? どうしてそんな風に!」
 戸惑い声がヒステリカルにひっくり返った。
 俺までテンション高くなる声だ。
「龍樹さんが俺に求めるのはセックスばっかだからだよっ!」
 怒鳴ってしまって、しまったと思った。
 龍樹さんの瞳が凍りついて俺を見据えたんだ。俺の言葉が刃になって、真っ向唐竹割みたいに彼を真っ二つにしたって感じ。
「俺は……龍樹さんに小判鮫みたいに貼り付いてるしかなくって……。龍樹さんにしてあげられること……セックスの相手だけなんて、情けなさ過ぎる。そんなの、直ぐに飽きちゃうに決まってる!」
「君は……」
 凍りついた瞳のまま瞬きもせずに俺を見ていた彼の口から漏れた声は弱々しくて、ものすごく痛い傷を付けられたんだって伝えてきた。
 でも俺は彼を遮った。こうなったら、俺の思いを全部ぶつけなきゃいられない。
「俺は! ……龍樹さんが好きだ。恋人になれて嬉しかった。でも、気がついちゃったんだよ。親友ならずっと付き合っていけるのに。恋人は……飽きたら捨てられちゃう」
 龍樹さんの表情が痛々しく歪んだ。ひやりとする冷気を発する低い声が俺をじわじわと突き刺し始めて。
「捨てられる前に捨てれば傷が浅いってのか? 僕の気持ちは? 深みにはまって溺れてる僕の気持ちはどうなる? そんな風に思うなら、どうして僕を受け入れたりしたんだよっ。僕を苛めて、からかって……楽しい?」
 龍樹さんが俺を憎んでる。はっきりそれと分かるほど彼の感情がダイレクトに俺を突き刺してくる。
「大の男が君の一言で舞い上がったり、泣きながら縋る姿……見てて面白かった?」
 龍樹さんが怖い。
 怒りにまかせて引き裂きかねない勢いで俺を揺さぶる彼を、心底怖いと思った。
 どんな抗いも受け付けない強固な力で俺を組み敷いて。
 怒りで濁った金色の瞳が間近で俺を覗き込んだ。
「僕がどんな思いでいたか君は分かってないっ。身体だけなら……セックスだけなら……ほら、こんなに簡単だ」
 泣きそうに微笑みながら俺の服を掴んで。
 すごい力で抑えつけられたまま服を引き裂かれた。うなじに、鎖骨に、胸に……貪りつきながら、掠れた悲鳴のような声で呟く言葉は俺への怒りで悲痛な色に染まっている。
「特別だからっ、愛してるから……大切にしたかったのに…………っ、……っっくしょう!」
 怒りの咆哮が俺を切り裂く。
 それは、当然の怒りだった。誠実な我慢も努力も信じてもらえなかったという、投げやりな怒りが彼を獣に変身させたんだ。
 全部俺のせい。
 龍樹さんの獣モードはターボ入っちゃってて。あっと言う間にズボンと下着を取られて膝を割られた。
 ねじ込まれてくる熱い体は、激情に支配されてまさしく猛り狂った状態だった。龍樹さんが目指しているのは俺の体奥……。
 前戯無しで熱く硬い肉杭を押しつけられたとき。
 俺はギュッと目をつぶって痛みに耐える心の準備をした。
 どんなに痛くっても受け入れる。それが彼を実質弄んで傷つけてしまった俺の義務であり、罰。
 それだけで赦されるとは思ってないけど、龍樹さんのしたいように……して欲しいって……。
 なのに。押しつけられた熱さはいつまでたっても俺を貫こうとはしなかった。
「…………龍樹……さん?……」
 そっと目を開けて見上げた。
 優しい金色の輝きが俺に注がれていた。この人は……まだ、俺のことを……?
 激情が去ったからなのか、ただただ俺を愛しげに見つめる悲しい表情……。
 俺と目が合った途端に縋る光が瞳を潤ませ始めて。わななく唇から漏れる台詞は信じられないもの。
「僕はゲイだ……。たしかに。君はそうじゃないのに、僕を助けるつもりで関係を結んだというのも分かってる……。それでも……愛してるんだ。……僕を捨てないで……。君無しじゃいられない……。痛いことなんて、しないから。君を傷つけたりしないようにするから……。だから……!」
 なんでそんなこと言えるんだよっ。こんな、俺なんかに……。
 俺にはそんな価値ないよっ!
 降りかかってくる龍樹さんの言葉を頭を振って否定しようとした。
 すっかり俺の気持ちを同情とかそんな半端なものだと思ってしまっている彼は、それでも俺に捨てないでと縋る。
 プライドを捨て去ってまで俺のことを愛しむこの人に、俺は何をした?
「うああああああっ」
 こみ上げてくる感情の盛り上がりが腹の底から迸る様に俺の口を突いて飛び出した。
「ごめんなさい、ごめんなさぁいぃぃ」
 龍樹さんの下で泣き叫んだ。
 嗚咽で息が旨くできない。胸が痛い。
 けど、言わなきゃ……。
「じ、自分のことしか考えらんなかった! 俺、俺……。こわかったっ! 龍樹……さんが甘えさせて……くれるの、俺の身体が気に……入ってるからで、飽きが来れ……ば直ぐ、他の奴が代わり……になるって……。あいつ、龍樹さんは俺があいつに……抱かれたの知ったら、もう、俺を許さないって……だから……」
「うん……許さないね」
 無造作な台詞が俺を凍らせた。体中が石になったような気がした。
「そ…………っか……やっぱ……」
 目を閉じて涙を切った。
 これは俺が一生背負っていく罪。
「君が僕のこと忘れて他の男とのセックスに没頭したりしたら……。僕はどうなっちゃうか分からない。今回みたいに薬使って犯されたなんてのでさえ、こんなに頭来てるのに……」
 龍樹さんの微笑みさえ感じさせる声音に、もう一度彼を見上げた。
 金色の瞳が琥珀の落ち着きを取り戻して俺を見つめていた。
「え……?」
「自分のテープ、見てないの? 君はあいつとしてるときずっと僕の名を呼んでたんだよ。まるで、僕としてる時みたいに」
「あ…………」
 この人は……他の男を受け入れた俺を不問に付すつもりだ。
「覚えてないんだろう? どんな風にしたか。……気がついたとき、肝冷やした?」
「う……。痛かったのは覚えてる……。けど、だんだん朦朧としてきて……」
 そうだよ。夢の中で俺は龍樹さんを心底欲しかったんだって確認した……。親父を追い払ってしまえるほど……。
「あいつの名前確認して、君の声、聞き直して。……僕は救われた。初めて見たときは逆上しちゃったよ。もう、こんな思いは嫌だ。だから……他の男なんて絶対寄せ付けないで……」
 キュッと抱き締めて、俺の髪を解すように撫でた。
「それにね、一番許し難いのは僕の気持ちを疑ったことだ。どうしてそう思ったんだよ?」
 なんて説明すれば良いんだろう……。きっかけと言えば……。
「龍樹さん巧すぎるから」
 ボソッと言って顔を背けた。
「なに?」
 全く持って判らないって調子で言われてムカッてした。
「通夜の日に来てた、あの人とも寝たんでしょ?」
 言った途端にビクッと身じろいだ。
「あ……き……清田のこと……?」
 俺が立ち聞きしていたのもばれたわけだけど、龍樹さんの反応はひたすら俺の怒りを買うことの恐怖に彩られているだけ。
「俺の前に……何人龍樹さんに抱かれた奴がいるの?」
 勢いで俺はそう詰問していた。
 ほんとにそんなことを問題にしてたんじゃない。……数の問題じゃないんだ。
「た……拓斗?」
「龍樹さんはその人達を愛したんじゃないのっ? 俺みたいに……」
「あ…………」
 言葉を失ったみたいに頭を振るだけの龍樹さんを、更に追いつめた。
「俺と、その人達と、何が違うの? 愛してるって俺に言わせて、ゲーム・オーバーじゃないの……?」
「っ……ゲームなんかじゃないっ! ゲームなんかじゃ」
 とうとう泣き出してしまって。
「確かに……君に会うまでの僕は……恥ずかしいけど遊んでいた。君の言うとおり、何人も……付き合った。もう、僕なんか一生本気の恋愛なんて出来ないって思ってたから……」
 嗚咽混じりにそんな風に……。
 ああ、やっぱりな。
 だからあんなに巧いんだ。
 考えたって無駄なことだけど、俺は龍樹さんが触れた人達に嫉妬していた。
 そんな自分が嫌で、そんなことを考えさせる龍樹さんを瞬間憎んだ。
「君に会うまで、だよっ。今は……君だけだ。君に一目惚れしてから直ぐにそういう付き合いは全部やめた。君が初めて店に来た……開店初日から……」
 慌てて言い添えてきた龍樹さんの台詞に驚いた。
 開店初日って……つまり一年近く前って事?
「そんな前? 何で……」
 俺が手にはいるかどうかも分からないのに、あんなに好き者のくせに禁欲してたって言うのか?
「意味ないからだ。君しか欲しくない」
 これ以上無い真剣な瞳で縋られて、逆に俺は嗜虐的な気分になった。
 言葉を返さずかなり冷静な目で彼を見つめてたと思う。ああ、見つめると言うより、眺めてたって感じかな。
「それとも……僕は……汚い? いろんな男と寝た男は不潔で触れない?」
 金色の縋る瞳は俺を真っ向から見据えながら、そんな切り返しをしてきた。そうだって応えたら、どんな顔するだろう。
 言ってやりたい気がしたけど、冗談にもイエスなんて言えないんだった。
「そんなこと言ってない。今の俺にそんなこと言える権利あると思う? ただ……」
「病気は持ってないよ。ちゃんと検査してる。定期的に」
 かなり思いこみの激しい人なんだって知った。俺を愛してるってのも本気の台詞。
 大本気だってのは分かってる。それを疑う気はない。
「もうっ! そうじゃなくって! 言っただろ? 不安なんだ。あ……藍本が……べ……ベッドでの約束なんて、してないのも同じだって……。飽きちゃう前に何言っても、それは飽きてからは無効になるって……」
 これ、本当だと思うから……。
「じゃあ、僕が何言っても信じてもらえないわけだ……」
 低くうなるように返された言葉は投げやり。
「信じたい、信じたいよっ! 初めて俺を抱いた後、龍樹さん、恋人だと思っていい? ってきいたよね。俺はそういう事するのって特別な相手だけだと思ってたのに……龍樹さんは違うんだって……。そん時はちょっと引っかかっただけだったけど……清田さんが……」
「あいつが何か言ったのか?」
「龍樹さんは飽きっぽいから、本気になったら傷つくのは俺の方だって……」
「あンの野郎っ……!」
 龍樹さんがすごい形相で歯ぎしりした。本当に悔しそうに。
「言っとくけど、あいつとはずっと前に一晩つきあっただけだ。さあ食べてって差し出されたすっごく旨そうに包装されてる菓子が、滅茶苦茶不味かったって感じ、分かる? 二度と手に取りたくないくらいの」
 それって酷いたとえだよ。
 思わず吹いちゃったけど、笑い事じゃないんだよな。
「俺も……いつか清田さんみたいに振られちゃうんだって……怖くなった……。俺なんか、いいとこなしな奴だからって……」
「僕だって……怖かったんだ」
「え……?」
「……君が僕を受け入れたのは……ほだされたからだろう? 後悔しないって言いながら、本当は後悔したんだろう? 僕はそう思った。……君のあの態度で、自分に自信が持てるやつがいたら、僕はそいつに弟子入りするよ」
「ごめ……」
「君は忘れてる。僕が一年近くも片思いしていたこと……。それも、君の近くで、いろんな君を見ていたことをね。確かに君の身体は魅力的だよ。大好きだ。でも、僕が欲しいのは君の全てだと言ったはずだよ。向坂拓斗という全存在を、僕だけのものにしておきたいんだ」
「……どうして俺なの? 俺自身が納得できないくらい、俺と龍樹さんじゃ不釣り合いだ」
「君は僕に一生一人で生きていけって言うの? 僕の中身は空洞なんだ。ぽっかり開いた穴は、君の形をしてる。君の笑顔が、君の持つ雰囲気が、僕を唯一安らがしてくれるものだから……。どんな事しても僕は君を僕のものにしておきたい。そうでなきゃ、僕は生きていけない。よしんば生きていけたとしても砂漠で一人でいるみたいに乾いた人生だ。君がそのまま自然体で微笑んでいてくれれば、僕は……」
「俺はそんな特別なもんじゃないよ……」
「僕にとっては特別だ。他の誰も代われない。本当に、こんな気持ちになったのは初めてで……僕自身持て余してるくらいだ……」
「龍樹さ……ん……」
 彼の重みを感じながら俺の惑いはまだ掻き消されていなかった。
「君しかいない。君じゃなきゃだめなんだ。僕を……助けて……。僕を……愛して……」
 何度もそんな縋る台詞を聞かされて、俺の心は麻痺し始めてる。
 愛されることの重さを感じてる。俺には同じだけ返せるだろうか。
 俺より力強く大きな男を胸に抱き込んだまま、考え込んでしまった。
 彼が小さく思える。愛しいとも可愛いとも思える。さんざん苛めまくってしまったけれど、それでも泣きながら俺についてくるこの男を切り捨てる事なんて出来やしない。
 いざとなれば俺なんか足元にも及ばない力を持つ男なのに……。
「……君に……愛されたい……」
 俺の胸に頬を寄せたまま呟かれた祈るような切ない声音に胸の痛みを感じて。いつか別れることになっても今のこの気持ちを大事にしようって考えることにした。
 だってこの人を愛してる。この人と過ごす時間が一番幸せだから。
「信じていい? まだ僕を好きでいてくれるって……」
「信じていい? まだ俺を好きでいてくれるって……」
 ほとんど同時に飛び出したお互いの台詞に絶句し、見つめ合った。
 どちらからともなく求め、口づけて。逞しい肩に縋った。
「ごめん……変な焼き餅やいて……。俺、後悔してないよ。……龍樹さんを失いたくない。だから……お……男……同士でもいいって……思って……。ホントはずっと欲しかった……、龍樹さんのこと、ずっと……」
 素直な気持ちで囁いた。赤ちゃんみたいに柔らかい耳たぶにそっとキスして。
 さっきからむき出しのままの股間に手を伸ばした。ぎゅんと膨れ上がっていくそれを嬉しく確かめて……。もう一度彼の唇を求めた。
 今すぐ愛し合いたかったから、それをキスで伝えたつもり。
 けど…………。
「待って、拓斗」
 ギュッと俺を抱き締めてから彼は体を起こした。
「龍樹さんっ?」
 俺を拒絶するの?
 取り縋るように彼の服を掴んだ手を優しく外された。
「あいつ……。先に落とし前つけないと」
 服を整えながらまだぐったりしてる藍本を顎で差した。
「あ…………。ど、どうするの?」
 あのさっきの勢いだと藍本は殺されちゃう……。そんなことになったら……。
 見上げる俺の頬に軽く口づけて微笑みかけた。
「もちろん、僕の宝物に手を出しただけじゃなく、僕等を泣かせた罪は償って貰う。殺したりしないから安心して。それに……まだ確かめたいことがあるんだ」
 藍本の側に行って、クイッと顔を持ち上げた。
 注射した薬が効いたのか、だらんと呆けた表情の藍本は、とてもエリートサラリーマンには見えない。
「効いてきたな。君はこのあいだも注射だったの?」
 横に来て一緒に覗き込んでいた俺は、薬の影響力に驚いたまま首を横に振った。
 俺もこんな顔、してたのかな。
「ううん。帰りの車で缶コーヒー飲んで……。気分悪くなったんだ。降ろされた所が変なホテルで……。俺……、あいつが俺にのっかってくるまでそういう事って気がつかなくって……。いきなり突っ込まれて……その……」
 思い出したくない。薬のせいだったあの異常な気分の悪さも、気を失うほどの痛みも。
「痛かった……?」
 抱き締めてきた腕に甘えるように身を任せた。
「あんなに痛いことだなんて知らなかった……。龍樹さんのの方がずっとインパクトあるのに、あんまり痛くなかったのって、優しくしてくれてたからなんだって分かった。龍樹さんのしてくれたこと思いだして、いつの間にか俺……。龍樹さんとしてるって錯覚してた。ば、バカだよね……」
「そんなことない! これは……LSD25といって、きつい幻覚剤なんだ。薬のせいだったんだよ」
 幻覚……。だから俺、龍樹さんと……。
「ごらん、藍本には僕等とは別のものが見え始めている」
 トロンとした目線は宙を見つめ、口からはとろりと涎が伝う。
 龍樹さんが藍本の耳に顔を近づけ囁いた。
「藍本、藍本雄一郎!」
「んあ………………」
「柚木美香とどういう関係だ?」
「あー、みかぁ? ああ、みかかぁ。うふ、うふふふふふ」
「何故美香のことを知っている?」
「ありゃいい女だったぁ。みかぁ、美香はぁ……桂川に殺されたんだよなぁ」
 俺は龍樹さんにしがみついて覗き込んでいた。
「殺してないよっ」
 慌てて彼は言ったけど、そんなの当たり前だよ。龍樹さんはどんなに怒り狂ったって、寸止め出来る男だもの。
 俺は頷いて見せたけど、藍本はにべもなく否定した。
「んにゃ、殺したんだ……。美香の日記は桂川のことしか書いてなかった。桂川が声かけてくれた。桂川が心配してくれた。桂川は優しい! 桂川は紳士! 桂川は素敵! なのに……弄んで、捨てて……冷たくあしらいやがった。美香はぁ、いい女だったのに……窓から飛び降りちまった……」
「それと拓斗とどういう関係があるんだっ?」
「桂川が大事にしてるもんはみんな壊してやるんだ……。美香をあいつが壊したみたいに……、今度は俺が……」
 だからビデオ? ふざけんなっ!
「君と彼女はどういう関係だ?」
「二度目の親父の……連れ子だ。……一度も妹だなんて思ったことないがね」
 ああ、自殺した妹……。
 大事にしてたらしいものね。
 俺が片倉さんから得た情報は、龍樹さんには伝えてなかったから、彼は一から俺に説明し始めた。
「柚木美香は……。僕の患者だった。近所の大学の留学生で。交通事故でかつぎ込まれたんだけど、同じ日本人てことで僕の担当になり、術後もずっと僕が担当してた。だからかもしれないが、彼女は僕に恋愛感情を持ったらしい。もちろん僕は相手にしなかったつもりだけど。ストーカー並みにしゃにむに僕を追ってきて、拒絶したら窓から飛び降りた……」
「自殺……だよね?」
「ああ……。僕の心に焼き付くためだって言ってね……」
 そういって龍樹さんが遠くを見つめた。
 多分、美香って人のことを見てたんだろうと思う。悲しくやるせない表情が龍樹さんの端正な面を歪ませた。
 龍樹さんは優しい。仕事がらみなら尚更だ。
 その優しさは人類愛的なもので龍樹さんからして見れば特別でもなんでもない、当たり前のこと。でも、勘違いしそうな温かさを持ってるから……。
 自分だけ特別なんだって……思ってしまいそうになる。
 龍樹さんが直に特別だって言ってくれたとしても、かえって俺は信じにくくなる。
 美香って人は……信じちゃったんだなぁ。龍樹さんが不用意に言葉にするとは思えないから、普通の態度を自分の思いこみで特別だと……。
 俺もそのぐらい信じられたらよかったのにね。遠くを見つめたままの彼の美しさに見とれながら、そんな風に思った。
 龍樹さんの頭の中で当時の様子が検索された結果、何か思い当たったのか急に厳しい表情が浮かんで藍本を見据えた。
 胸ぐらを掴んで締め上げて。
「藍本、お前……彼女に何かしただろう?」
 地を這うような低い声は怒りだけで出来上がってる。
 そんな龍樹さんの顔を真正面から見据えて、ふてぶてしい顔の藍本が吐き付けた。
「何かした? 何を? 美香は俺の女だぞ。お前にどうこう言われる筋合いはない!」
「お前の女? 妹だろう?」
「妹じゃない! ……俺の女だ……俺のぉ!」
 しくしくと泣き出した藍本を見ているうちに、龍樹さんがまた何か思い当たったみたいに低く呻いた。
「もしかして……自分の妹を暴行したのか?」
「暴行じゃない! 俺のものにしただけだ!」
 否定はそのまま肯定だった。
 ……それって……。
「合意じゃなかったら暴行だよっ! そ、その人が同じ気持ちじゃなかったら……」
 思わず俺は割り込んでた。こいつのねじ込み方、思い出してよけい腹立った。今日だって、やりたいってだけで俺の所に来た奴なんだ。相手の気持ちなんてお構いなしに……。
「事故の傷にしては変なところにも傷があった。小さなものだから二の次にしてたけど……。彼女は……すぐ後車に飛び込んだんじゃないのか?」
「事故だ! ただの事故だ! お……俺が日本に帰った後だぞ。俺のせいじゃない!」
 自分に言い訳してるみたいな必死さで言う藍本の言葉を一番信じてないのは奴自身だったろう。
「運転手は急に飛び出してきたと主張していた。窓から飛び降りる瞬間だって、彼女は微笑んだんだよ」
 そうか……笑ったのか……。龍樹さんの胸に焼き付いた表情は笑顔なんだ……。
 きっと悲しい笑顔だね。自分が勘違いしてた事思い知らされて……何とか心に残りたくて命縮めて。それでも覚えていて貰いたいのはいい顔の自分……。
 俺も……そんなときは微笑みかけてしまうだろう。
「やっぱり僕は……医師失格だな……」
 ふぬけのように泣くだけの男を床に打ち捨てて、溜め息と一緒に出た言葉。
 自嘲的な弱い光をたたえた瞳は、ドイツで俺が医者でいる時の方がかっこいいって言ったときにみた瞳。
「龍樹さん……?」
「プライベートの感覚で彼女を邪険にするべきじゃなかった。治るまで医者として応えるべきだった」
 傷を治しても心を治すことが出来ないって言うのは……そういうこと……?
「彼女が僕に望んだのは獣にならない男だったんだろう。優しく扱ってくれる、安全牌……。何故だか分かるか? 藍本!」
「な……?」
「あの子にとってはお前は兄だったんだよ。保護者になるべき兄だったんだ。それがよりによって獣に変身した……。しかも獣の自分だけ見せて逃げ出した……。確か、両親は早くに亡くしたんだったな? あの子の信頼を裏切ったんだよ、お前は……。彼女を壊したのは……お前だ!」
「し……仕事が詰まってたんだ……だから……俺は……」
「仕事を言い訳には出来ないよっ。スケジュールがそうなら、最初からそんな酷いことしなきゃいいんだ。ほんとに好きなら……大切なら、ちゃんと時間かけて口説き落とすべきだ!」
 大切にしてたはずだ。少なくとも片倉さん達の目にはそう見えたんだ。なのに、なんでそんなこと……!
 他人事だから言えるんだけど、自分のためにも堪えて欲しかったと思うよ。
 何がこの人をキレさせたかは分からないけど、そういう結末を招くのは自分の行動次第なんだよね。
 藍本が泣き崩れた。何処まで話を理解しているかは分からない。薬の影響で暗示が強く効くのかもしれない。
 いや、元々分かってた事なんだろう。認めたくないことなだけで……。
「俺が……美香を……裏切った……俺が……壊し……た……俺が……」
 よろよろと立ち上がった。そのまま龍樹さんが入ってきたところから出て行こうとした。その間ずっと同じ事を呟き続けていた。
 チャリと小さな音がして藍本の靴下に赤黒い染みが拡がり始めた。
「あ……あの……。ねぇ、あの人怪我するよ。ガラスの破片、踏んでる……」
 言いかけで唇をチュッとふさがれた。
 拗ねた金色の瞳が覗き込んできて。
「何であんな奴の心配するの? 君を……傷つけた奴なのに……」
「だって……」
 そんなの分かんない。ただ、嫌なんだ。
「ったく……、君にはかなわない……」
 溜め息には微笑みが混ざっていたように感じた。
 龍樹さんは藍本の腕を引いて部屋に引き戻し、当て身を喰らわせた。
「電話、貸して」
 とって返して電話まで行って……。
「ドラッグやってる男に拓斗が襲われたんだけど。うん、大丈夫、捕まえた。え? 僕が連れてくの?」
 口調からいって、相手は紫関さん?
「あ、そか、確かに。ここで騒ぎになると困るな。……いや、だって、気絶してるんだ……。朝まで待って」
 受話器の向こうでバカ野郎って言ってる声が聞こえた。
 ガチャンて切って、龍樹さんが悪戯っぽく笑った。
「所轄に電話すると、夜中に大騒ぎ。かといってあいつを担いで連行するのも嫌だ。サイレン無しで明日来て貰う」
「それまでどうするの?」
「縛っておいとこうかな。あ、なるべくそのまんまにして置かなきゃね。寒いから雨戸だけは閉めよう」
 ガラスの破片が危ないから外から雨戸を閉めるために玄関に回った。
 龍樹さんは藍本を縛り始めて。途中でどっかいったと思ったら何やら持って戻ってきて……藍本のペニスをいじりだした。
「!!!」
 俺は慌てて室内に戻った。
「……何処いじってるんだよっ?」
 龍樹さんの背後に立って肩越しに覗き込んだ。信じようって思ってた矢先に、この男なに考えてんだ? って腹立たしくって。
「そんな奴のなんか、いじるなよっ」
「……妬いてるの? もしかして……」
 嬉しそうな声音で言われて頭から湯気が吹き出すかと思った。
「バカ言うなよっ! ただ……俺は……」
 言いながら龍樹さんの手元を覗き込んで固まった。
「龍樹さん……それ……その小さい傷、何?」
 ペニスの根元と龍樹さんの指先は少しだけど鮮血で染まってる。同じように赤く染まったカッターと縫い針が新聞紙の上に置かれてて……。
 H目的じゃないのは一目瞭然。
 肩越しに振り返って俺を見上げた龍樹さんは凄絶な微笑みを浮かべた。いつもと違う、残酷で冷徹な表情。
「末端の神経切っといた。治癒するまでに三、四年かかる。その間は奴のものは使いものにならないだろうね」
 きちんと藍本のズボンの中に作業の終えたペニスをしまい込んでから立ち上がった彼はそう話しだした。
「強姦なんかする様な奴は、勃たない方がいいんだよ」
 言いながら勝手知ったるという感じでキッチンまで行き、手を洗った。
「血管巧く避けられたから出血は最小限。手術は成功!」
 カッターと針は新聞紙に包んだまま屑籠に投げ込まれた。
「ひど……」
 これが龍樹さんの復讐のしかた。薬でイッちゃってる男の大事な部分を、切り落とさないまま使いものにならなくした。小さな傷から針先だけ使って必要な神経だけより出して切り取って。
 信じらんない細かい作業を、簡単にやってのける。
 ほんとにこの人は腕が良くて、その分宝の持ち腐れなわけで……。
 俺が呆れたように言ったせいで、彼はまた念押しみたいに言い出した。
「だから言ったろう? 僕は医者に向いてないって」
 そんなことない、もったいないって言いたかったけど、今は止めておいた。
 また怒らせたりしたら……今はちょっと怖い。
「……丸ごと切断しちゃうよりましかな。俺、龍樹さんの剣幕から、そんなこと想像してた。殺さないから安心してって……」
 これも本音。
「切断までしちゃったらモロ傷害って判っちゃうじゃないか。奴の妹に免じて、神経だけにしとくんだ。……もし懲りずに君に手を出してきたら……そのときは……。ってのは、奴に言っとかなきゃね」
「俺……龍樹さんに恨み買わないようにしよう……」
 これもマジ。
「……怖い? 僕って……」
「怖くないって言ったら嘘になるかな。でも、もし俺がそこまでされちゃうとしたら、俺が悪いんだろうから……」
 いつもの龍樹さんのこと考えたら素直な気分でそう言えた。
「本当に君って……」
 熱情をはらんだかすれ声で呟き、俺を抱き寄せて。
 何度もキスの雨を降らされた。
 しばらく互いの温もりの中でぬくぬくしてから、龍樹さんが俺の肩を抱いて歩くように促した。
「さて、と……。お線香あげさせて貰っていい?」
「へ? ……いいけど……」
「なんだかんだで僕はまだちゃんとには君の家族に挨拶してないんだよね。だから……」
「龍樹……さん……」
 彼はさっさと仏間に設えられた祭壇に並べられたお骨の前に座った。
 線香をあげ、手を合わせて。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。桂川ともうします。ご子息とのお付き合いを認めていただきたくこうして参りました。僕も彼も男……ですが。気持ちはあくまでも真剣なもので……、一生を共に過ごしていきたいと願っております」
 なっ……!
「ご両親におかれましては拓斗君の行く末などさぞご心配でしょうが、これからは僕が……彼を支えていきたい。
 皆さんの代わりに僕が彼の家族になることを……どうかお許し下さい」
「龍樹さん!」
 気がついたら彼の肩を揺さぶっていた。
 堪えようとしても涙があふれ出て、何にも見えないけど。
 歪んだ画像の中で龍樹さんらしき固まりにつかまったんだ。
「もうっ! いきなりなに言い出すんだよっ?」
 本当に思いこみが激しいよな。こんな、こんな大切で、すごいこと、一人決めで言い出すなんて……。
「い……いけなかった? 君は……僕が君の家族になること……嫌……?」
 龍樹さんが弱々しい声でオロオロ言い出した。俺の機嫌を損ねたって思ったらしい。
 もうっ! あんたって人は……!!
「ば……か……! そういうのって、まず俺に言ってからじゃない? そんな、プロポーズみたいな事……」
「あ……そ、そか。そうだよね」
 ボケた台詞の後おもむろに俺の方に向いて正座し直した。大きく息を吸って、吐いて。
 琥珀の瞳が真剣に俺を見据えた。
「君が好きです。一生を共にしたいって思うくらい、愛してます。君と一緒に幸せになりたい。法律では……出来ないことだけど、結婚……して下さい!」
 畳に頭を擦り付ける様に土下座。
 返事をもらえるまで頭を上げないぞと言う様にそのまま固まってしまって。
 こんなのってない!
 何とか固まった彼の顔を上げさせようとした。
「もうっ! そんな事しないでよ! こんな俺に、そこまでする必要ないって!」
 突き上げるようにその言葉があふれ出た。抱き込むには大きすぎる彼の肩を出来るだけ力を入れて抱き締めて。彼の綺麗な顔を唇で押し上げるようにキスしながら上げさせた。
「愛してる……」
 涙でデロデロのままキスした。
「龍樹さんと一生を共にしたい」
 言って、涙を拳で拭ってから今度はお骨に向かって手を合わせた。
「父さん、母さん、春美、こういう人なんだ。驚いたよね?
 俺、絶対ホモなんかなれないって思ってたのに……この人だけは……特別なんだ。俺のこと大切にしてくれて……、俺に関することで直ぐ動揺しちゃう……。でも、いつも俺を支えててくれる……。俺……龍樹さんがいないとだめなんだ。だから。俺達のこと、許して下さい。お、男に抱かれる息子なんてって思うかもしれないけど……、それでも俺、龍樹さんがいいんだ。いっぱい、いっぱい考えたんだけど、この人しかいないんだ……。ごめんなさい、俺、頑張るから。みんなの分まで頑張って生きるから……黙ってみてて下さい。俺達のこと……」
「お願いします……」
 横で龍樹さんが一緒に手を合わせて呼びかけた。
「それと……。父さん達の部屋、使わせて貰います。この人と過ごすのに、俺の部屋じゃ狭いから」
 クリンと振り向いた龍樹さんの視線が痛い。
「いい年してダブル使ってたんだよ。この夫婦。このあいだ泊まって貰ったときは恥ずかしいから部屋見せられなかった」
 ……照れくさいったらない。
 
24
25へ飛ぶ
 
 クチュッと口づけの音にエコーがかかって。
 俺んちの桧の湯船の中で彼と抱き合いながら、俺は幸せに酔っていた。
 龍樹さんの駄々コネ口調で一緒に風呂にはいることを承諾させられて。
 この風呂は二人で入った方が素敵だっていうんだ。
 入ってみて、ほんとだって思えた。
 龍樹さんの所より広いから、開放感がある。
 欲しかった人が俺を欲しがってる。
 それだけでもう、幸せ。
「家族になるって……言ってくれて……嬉しかった」
 俺はいつになく積極的だった。湯船の中で抱き合って、彼にキスを降らせて。
 愛しさを載せて囁いた。
「千回以上愛してるって言われるより嬉しい……」
「どうして……?」
「いろんな意味持ってるから……。愛してるはね、消えちゃう言葉だから……。家族は形が変わっても家族だもん。親友よりすごい関係……だよね」
「君は……夫で妻で兄で弟?」
「うーん……龍樹さんは夫で兄……?」
「僕だって甘えたいから……同じだけ」
「へんなのぉ」
 笑いながら立ち上がった。
 龍樹さんはボーっとした顔で俺を見てる。
 観察されてるのとは違う視線がこそばゆかった。
「背中流すから来て。洗ったら、さっさと上がろう」
 照れ隠しに湯船の中の彼に手を差しのべた。
「拓斗……?」
 ガッカリ顔と情けない声での呼びかけに笑った。
「ここね、隣の家に丸聞こえなんだ。だから、するのは部屋で」
「そういうことなら……。でも、残念だな……ここでしたら素敵なのに……」
 見回しながら湯船から出た彼は雄々しいとしか言い様のない身体で俺を圧倒する。
「風呂で戯れるってのは、龍樹さんちでね。ほら、座って!」
 椅子に座らせて背後に回って。
 垢擦りに石鹸を泡立ててこすった。
「龍樹さんの背中……大きいな……。ほんとに着やせするタイプだよね。俺、初めて見たとき見とれちゃったよ。あんまり綺麗な筋肉だから……」
 照れたように龍樹さんの耳たぶが紅潮した。
「綺麗……っていうのは、君のための言葉だと思うよ。僕は……君の身体を見てから眠れなくなった……。眼を閉じれば焼き付いた君の姿が現れて、僕を刺激して……」
 グイッと腕を引かれて抱き込まれてしまった。膝の上に。石鹸のぬめりのために落ちないように首にしがみついてしまった。
「欲しくなるんだ……こんな風にしたいって……」
 熱い囁きと一緒に指が滑り込んできた。二本使いでぐりぐりって……。
「は……ん」
 どうしよう……すごく……気持ちいい……。
 自然に腰が揺れてしまう。どんどん欲しくなって、他のことは何にも考えられなくなっていく。
 力の入らない手から、垢擦りがポトリと落ちた。だめ、我慢できない。
「も……声……聞こえてもいいや……。して……」
「君がそんな風に言うなんて…………!」
 荒い息づかいで俺を後ろ向きに抱き込むと、ぐぐっと貫いてきた。
 それは予想よりずっとスムーズに深々と入り込んできて。
「ああっ!!!」
 俺の悲鳴は嬉しさから出たものだった。
 本物だ……今度こそ本当の龍樹さん。
 満たされた俺は入れられただけで嬉しかった。
 背後から手を伸ばして仰け反る俺の胸を抱え、乳首を弄びながらもう片方で俺をしごいた。
「ああああんっ」
 龍樹さんが俺を突き上げ始めて。
 いろんな刺激が混ざり合って俺を狂わせていく。
「ああっあああああーっ」
 仰け反ったまま激しく腰を使った。龍樹さんのテンポも速まっていく。
 もう、最高に気持ちいい。
「俺……も……イかせて……」
 龍樹さんの手が俺を扱いてくれて。俺はその手を促すように重ねた。
「はぁっ、はぁっ、んんっ……あああああぁぁぁん」
 聞こえることなんて気にせず思いっきり声を上げた。射精の快感もだけど、龍樹さんが俺の中に撃ち込んでくる圧力も嬉しくて……。
 押し殺す事なんて考えなかった。
 ぐったりと力の抜けていく中で、うっとりとした溜め息混じりに囁かれた。
「ああ……君の声……セイレーンの歌声みたいだ……」
 なんて……恥ずかしい……。
「な……に……ってん……の……」
 呟いたら俺の中の龍樹さんがまたギュンて力を盛り返した。
「あ……また……?」
「君の声のせい。……もう一度……聞きたい」
 甘く囁かれて俺も……。
「ん……」
 首を巡らせて口づけを求めた。深く貪りあって。
 ゆっくりと突き上げられてまた鈍い快感が俺を遠くに押し流し始めた。
「あ……あ……あんっ」
「拓斗……こっち向いて……」
「あ……や、やめないで! あうっやだぁ!」
 懇願してるのにまた龍樹さんが意地悪を始めた。俺を抱え上げて引き出したんだ。
「嫌……っ!」
 嫌々をする俺をそのまま向き直らせて。もう一度貫いた。
「は……んんんん! い……じ……わるぅ!」
「君の……表情が見たいんだ。この、色っぽい顔を……」
 突き上げる速度を速め、俺を固く抱き締めた。きつく抱くことで俺の怒張を腹でこすり上げる効果を強める。
「ん、ん、ふうん、あ、あ、ああああぁぁアアアアアァァァァァ」
 絶頂は直ぐ来た。見つめ合えるからタイミングを合わせるように彼を締め付けた。
 思う存分に声出して、イッた。
「し……死にそう……」
 呟いてたら肩にキスされた。
「確かに…………今なら死んでもいいかな……」
 言いながら湯船から湯を汲み上げて身体にかけてくれた。
「ベッド……いこうか」
 それはつまり……。第三ラウンドはベッドでって事だよね。
 俺はこっくり頷いて彼の肩にしがみついた。
「うん……。抱いてってくれる?」
「もちろん。喜んで」
 お互いの身体を拭い合いながら、俺はふと笑い出していた。
「どうしてかな……」
「え?」
「ねえ、俺、やっぱりホモってわけじゃないんだよ」
「あんなによがっといて、そういう事言う?」
 つるんとペニスをタオルで撫でられた。
 ア……。
「だって……俺、男に触られて総毛だったもん。気持ち悪くて、悪寒が走った……」
「僕も……男だよ?」
 俺を抱き上げながら甘く囁く龍樹さんは全然怒ってない。
「俺の言いたいこと分かってるくせに……。龍樹さんだけ特別なんだ。俺ね、ホントは天性のホモで、自覚無かっただけだったのかなって、……考えてたんだけど……」
「藍本にされて分かった?」
「うん。龍樹さんなら抱かれるのも嬉しくて……。でも、他の奴はだめだ。どうしてかな」
「ドイツで残したアップルパイだよ」
「なにそれ」
「君が残したパイ。不味くはなかったけど、僕の作った味の方が気に入ってたから……でしょ。食欲を満たすだけならどっちを食べても同じ。でも、それだけじゃないから食べなかった。性欲を満たすだけなら取りあえず娼婦相手でも事足りるけど、愛し合えるのは愛してる人とだけ。どっちがいいかははっきりしてる」
「じゃ、俺がもし急に女になっても龍樹さんは愛してくれる?」
「今の君と寸分違わず、まるっきり同じ人間性なら……。そうだね、僕はゲイじゃなくなってたかも。僕の両親は万歳三唱だろうね」
 親父達の寝室のベッドに横たえられた。時々掃除しておいてよかった。
「でも、俺は男で、がっかりか……」
「これも縁だろう。ホモじゃない君が僕とそういう関係だってのと同じ。……もしかして、僕は藍本に感謝しなくちゃいけないのかな。君がそんな自覚持ってくれるなんてさ。すっごく腹立ってるのに。ねえ、あいつ……ここも触った?」
「あん」
 俺が感じるってわかってる脇の下にキスした。
「こんな事した?」
 ペニスをくわえられた。
「ああっ」
「あいつの感触、全部忘れなきゃだめだよ」
「あふっ……っ……お、覚えてないよ。元から……あんっ」
「悪寒が走ったんだろう? 僕が……忘れさせてあげる」
「あああああんっ」
「今夜は一晩中……眠らせないからね」
 しつっこいほど前戯を念入りに、俺が高ぶって身も世もなく悶えるまで。龍樹さんが手管を尽くしてる。嬉しくて、苦しい。
「龍樹さん……許して……俺、死んじゃう」
 それは何度目の絶頂を共にしたときだったろうか。涙を流しながら訴えた。
「大丈夫。僕は医者だもの……。ちゃんと、してあげる……」
 こんな時ばっか医者って……。もうっ!
 龍樹さんの激しさは俺が意地悪にお預けしてた分をいっぺんに取り戻そうとするみたいで。
「ああんもう……お願い…………」
「だって……愛してるんだ。何回しても欲しくてたまらない……」
 いいけど……ホントにイイんだけど……死んじゃうよぉっ。
「ああっ……いいっ……ん……ん……あああああっ………………っ」
 龍樹さんに跨らされて腰を振ってた俺だけど……。そのまんま俺は……失神したらしい。
 
25
ENDへ飛ぶ
 
 目が覚めたら俺の中にはまだ龍樹さんがいた。龍樹さんの上で失神した俺を、そのままにして眠っていてくれたらしく……。
 身体、痛くないんだろうか。
 俺はあったかくて居心地のいい人間ベッドから退きたくなく、甘えるようにそのままでいた。
「ねえ拓斗……」
 呼びかける龍樹さんの声の甘さに、昨日の夜の気分を持ち越したまま少しだけ身を起こして彼にキスした。
「ん……?」
「……やっぱりいい」
 頭を胸に抱き込まれた。
「なんだよ、言ってよ」
 目を遣った直ぐ側に龍樹さんの乳首があった。
「言わないと抓るよ」
 つまんでひねったら慌てたように息詰めたから、少し苛めてやりたくなった。
「た、拓斗……!」
 俺の頭を掴む手に力が入って。俺の中の龍樹さんも少し膨らんだ。
 さすがに今朝は勢いが悪い。
「ほら、早く。言わないともうキスしてあげないから!」
「そんな! い、言うよ。あの……」
「ん……?」
 指でくりくりと悪戯していた乳首に吸い付いた。こりこりしてて柔らかくて……気持ちいい。
「あうっ……い、一緒に……」
 乳首の舐め心地がよかったから意地悪じゃなく夢中になっていた。
「ん……」
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
 龍樹さんの声が少し苛立ってた。だから膨らみ方も……鈍い。
 俺の愛撫じゃ、全然だめなんだなぁ。
「聞いてるよ……一緒に……なんだよ?」
「君と一緒に住みたい。朝も、昼も、夜も……一緒にいたい。君のプライベートな時間は全部……僕のものにしたい」
 ……また何を今更……。
「同棲……したいってこと?」
「うん……。結婚……なんだし。変……かな……?」
 怖ず怖ずと言われて吹き出した。
「あっはははは」
「なんだよ。何かおかしい?」
 ムッとした龍樹さんは可愛い。
 そうさ、そういう風に言い返して欲しい。俺のことオドオド伺うんじゃなくて……。
「い、いや、龍樹さん、相変わらずだって……。もう、それって、性格……ぷぅ〜っっ!!!」
 ああ、笑いが止まらない。嬉しくて、愛しくて、幸せで……。
「たくっ……!」
 怒った顔で言いかけた彼の唇をキスでふさいだ。
「また俺がなんか疑ったと思ったでしょ。俺達、悲観主義な所が似たもの夫婦……だよね」
 彼の瞳を覗き込んで囁いた途端に固まった。
 潤んだ瞳は夫婦って言葉に反応したみたい。
 もう……ホントに龍樹さんてば……!
 こみ上げる愛しさを抱き締めることで伝えようとした。実際にはしがみついてるようなもんだけど。
「龍樹さんが可愛い! すごく愛しい! 俺、龍樹さんの所に押し掛け……女房……するつもりだったんだ」
 女房……てのはチョイ恥ずかしいけど。ま、いいか。
「俺が先に言わなきゃいけないこと、龍樹さんが言っちゃうんだもん……。だから俺……」
「拓斗……本当に?」
「うん……ここ、売っちゃうつもりだし」
「え……?」
「相続税と学費。龍樹さんが浪人するのももったいないって言ったでしょ。やっぱり俺、早く医者になりたい。一年無駄にするのも損だし……。昨日まで龍樹さんとこにも行かれないと思ってたから、どっかアパート探そうかって……考えてた」
「じゃ、僕と住んでくれるの?」
「龍樹さんさえよければ……、明日からでも……お願いします。家賃も払うし、家事の役割分担もちゃんとさせて貰うから」
「夫婦なんだから、家賃は却下。でも、そうだね、家事は分担しよう。……君と一緒に暮らせるなんて、ホントに夢……みたいだ」
「……っ。龍樹さん……、また……?」
 俺の中でびんびんに蘇った龍樹さん。俺の呆れたような声で真っ赤になった。
 絞ったって一滴も出ないって言葉通りの激しさだったのに……。
「俺……マジで壊れちゃうよ」
「壊れちゃうのは困るな。たっぷりして満足したから、今は我慢する」
 苦笑しながら身体をずらして引き出した。
 その感覚が俺を呻かせた。
「あん……」
 ……我慢しなくたっていいのに……。言ってみただけなんだから……。
 ほら、まだ俺が欲しいって、勃ったままじゃないか。
 俺は龍樹さんを組み敷いて跨った。
「た、拓斗……? 君……」
 戸惑い声を唇で遮って。
「あと一回だけ……だからね……」
 囁いた途端に主導権の譲渡を要求してきた龍樹さんをもう一度キスで抑えた。
「じっとしていて」
「拓斗……?」
 俺は戸惑いの呼びかけを無視して彼の先端を俺の中に飲み込んだ。
 ゆっくりと腰を沈め、息を吐いて力を抜いて……。
「あ……ん……ん……」
 深く深く彼を包む感覚は俺の中での変化を促す。龍樹さんだから嬉しい。何度抱き合ってももっと欲しいくらいに……。
「あ……あ……んんっ……」
 絞り上げるように腰を浮かせては沈め……。身をよじるように腰を揺らしながら彼を締め付けては柔らかく包む。
「う……た……拓斗……拓斗ぉ……」
 龍樹さんの甘い呻きが俺をそういう行為に走らせる。
「いい……?」
「ん……いい……。いいよ……。嬉しい……!」
 恍惚とした表情に涙を浮かべて……。
「怖いくらいに……幸せ……だ……」
 龍樹さんが手を伸ばして俺の怒張を握った。俺と同じテンポで扱いた。
「はあああっ」
「いきそう……?」
「うん……龍樹さ……んは……?」
「僕も……限界……。一緒に……いき……たい……」
「ん……一緒に……!」
 動きを早めながら二人で息を合わせた。
 存分に声を上げ、悦びを分かち合い……見つめ合ったままいった。 
「すごく……素敵だった」
 満足感をキスで伝え合い、さらに囁きで念押しして。
 ゆったりした気分で見つめ合ってたら、いきなりガバッと龍樹さんが起きあがった。
「藍本!」
「あ!」
「忘れてた!」
 ベッドから飛び降りて慌てて下着をつけずにパンツをはいた。
「た、龍樹さん?」
 俺も起きようとしたけど腰が……使いものにならない。
「無理するな! 君は寝てて!」
 それだけ言い捨てて足音も荒く階段を駆け下りていった。
 車の音、複数の人の気配……。
 俺は気が気じゃなくてベッドの中でシーツに埋もれてた。
 藍本は……どうなるのかな……。
 ボーっと待ってたら軽い足取りで誰かが部屋に来た。見慣れた金髪に近い茶髪の長身がひょいっと入ってきて。瞬間身構えた身体から力が抜けた。
 おでこにチュッとされて……。
「警察……、帰ったの?」
「まだ鑑識の人が残ってるけど……もうすぐ帰ると思うよ」
「俺……降りていかなきゃ……」
 言った肩を押さえられた。
「君は具合が悪くなって寝込んでるって言ってある。もう少し元気になったら、出頭するって言ってあるから」
「……強姦て、申告罪だよね……」
「うん……。この場合、傷害って言った方がいいけど」
「告訴したほうが……いいのかな……」
「君の自由だよ。藍本の場合、他の罪がくっついてるし……。どっちにしろ証人にはなってしまうけど……。告訴するかどうかはまた別……だな」
「ホントいうとね、そっとしておいて欲しいって感じ。……一発殴らせて貰えばよかったかもしれない。俺バカだから、そういうのって、いっつも後から思いつくんだ。あーくそ、損したなぁ」
 彼はキュッと俺を抱きしめて頭を撫でた。
 クスクス笑いが漏れてきて。
「君さ、お人好しって言われるでしょ?」
「え? ……俺が?」
「腹立つことあっても、すぐやり返せないで、かえって相手のこと心配したりしてさ。僕のこと殴ってもいいんだよ。君が嫌な思いや痛い思いしたのは僕のせいなんだから……」
「……龍樹さんを殴るなんて出来ないよ!」
 そうさ、そんなこと出来ない!
 でも……。
「……Hを一ヶ月我慢とか……の方が痛くない?」
 単なる意地悪な思いつきで言ったんだけど。
「た、拓斗っ?」
 悲鳴のような上擦り方で叫んだ。
 もう爆笑。
「うそ、嘘だよ。俺の方が我慢できないもん。龍樹さんのせいだなんて思ってないよ。……あの人、本気で龍樹さんのせいだと思っていたのかな」
「どうだか。……自分のせいだとは思いたくなかったかもね。多分、妹のこと、本気で好きは好きだったんだと思うよ」
「強姦したのに?」
 龍樹さんが苦笑した。
「強姦てね……、相手のことを後先見失うほど愛してるか、憎んでるか、どっちかなんだって。普通の心理だと」
「連続暴行犯みたいな人は?」
「特定の人物じゃなく、たとえば対象が女性なら女性全般を憎んでる……って事になるのかな」
「ふうん……」
 龍樹さんは……それほどじゃないから我慢できたって事なのかなぁ。
「何考えてるか当てようか?」
「え?」
「……龍樹さんが俺のこと強姦しなかったって事は……そこまで愛してないって事か……? とか」
「う……」
 彼は苦笑の度合いを強めながらベッドサイドに腰掛けて、俺の肩を抱き寄せた。
「僕はね、欲張りなんだ。一度の快楽のために君を失いたくなかった……。……タイミングから言ったらぎりぎりセーフってところだったけどね」
「そうなの?」
「うん。かなり……危なかった。そんなことになってたら、君は僕を捨てただろう? 軽蔑して……」
「軽蔑は……しなかったよ。でも、怖がったろうね。龍樹さんに近寄れなくなったかも……」
 いや、それとも……。
「……一発で目覚めちゃって、もっとして! なんて縋ってたかな……。ありうるでしょ?」
「君に関しては……可能性低そうだな……。だって、君、無理強いが嫌いでしょ?」
「……うん。本当に龍樹さんが我慢強くてよかった……」
 龍樹さんの胸に頭をもたれさせた。寄り掛かってもびくともしない逞しい胸。
 俺だけが味わえる幸福であって欲しい。
「あの時……こんな思いを経験した後だったら……彼女をあんな風に死なせることはなかったかもね」
 感慨深げな台詞に眉をひそめた。
「……受け入れていた?」
「少なくとも……冷たく拒絶したりは……しなかったと思う」
「医者にそこまでの義務はないはずだよ」
「患者を健康にするのが医者の役目だ。彼女に必要だったのは獣にならない男の存在だよ。それを認識させることもできずに絶望させてしまった」
 ……龍樹さん、そりゃ違うよ。
「美香……さんは……龍樹さんの心に焼き付くためだって言って死んだんだよね。俺は龍樹さんが応えなくて良かったと思う。応えてたら、俺はその人と龍樹さんをめぐって喧嘩しなきゃいけなかったから……」
 喧嘩だけじゃきっと済まないだろう。
 もし、応えたりした後で龍樹さんが俺を選んだら……その時点で彼女は彼を殺そうとするかもしれない。
「龍樹さんを安全牌にしたかったんじゃないよ、龍樹さんを手に入れたかったんだ。だから……。応えなくて良かった。俺、心せまいね……」
 プライベートな感情にはプライベートで応えていいと思うんだ。
「焼き餅? うれしいな」
「俺も……龍樹さんに裏切られたら当てつけで死ぬかもしれないよ……」
「それは困る。嫌だ。……裏切られたと思っても、必ず僕に問いただしてくれよね。勝手に思いこみで僕に罪をかぶせないでよ」
「うん……」
 まるで誓いのキスをするように何度も口づけをした。
 バラの送り主だけは不明だけど……今は……考えたくない。
 どうだっていいんだ。
 龍樹さんとの今が一番大切だから……。
 恋人で……夫で、妻。
 ねえ、一生家族でいようね、龍樹さん。
 

おしまい

 

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