密やかな触媒
第四回
「おにいちゃま……」
ぴくりと龍樹さんが震えた。
「泉……」
ゆっくりと龍樹さんが一歩を踏み出した。
「泉、ナイフを貸して。僕のお願いだ……わかるね?」
泉さんは、龍樹さんを惚けた様に見ながら頷きかけて、慌てて首を横に振った。
グッと更にナイフを押し当ててしまったので、動けなくなる。
「ダメなの……。おにいちゃまでもだめなのよ」
「……どうして?」
優しく諭す様に語りかける。龍樹さんは、基本的には妹を大切にしているのだ。
「だって……。晴菜が危ないの。タツキも、あずさも、みんな……晴菜が生きてちゃダメだって言うんだもの。おにいちゃまは邪魔するでしょ? みんなを助けちゃうでしょ?」
「僕は泉を助けたいんだよ。泉が、大事なんだから」
龍樹さんの語りかけの横で、俺は首をかしげた。
「晴菜って誰?」
泉さんの人格名の中で、晴菜だけは聞いたことがなかったから。
泉さんはふっと俺の方を見ると微笑んだ。
「赤ちゃんよ。晴菜って名前にしたの。晴れた空に映える菜の花みたいに可愛く元気に育って欲しいから」
「良い名前だね。うん、好きだ」
俺が言えば、泉さんは笑みを深めた。
「よかった。拓斗君のこと、ユイナが傷つけちゃったから。ずっと気にしてたの。タツキは堕胎した方がいいって怒るし。でも、ジョーダンが、おにいちゃまがいくら愛してても拓斗君の子供は産めないんだから、せっかく出来た子供くらいは残してあげなさいって……」
そうよと肯くお母さんを無視して、泉さんが龍樹さんに手を伸ばした。龍樹さんはとっさに飛びつくと、泉さんの手からナイフをもぎ取った。
さしたる抵抗もせず、龍樹さんの腕の中に収まった泉さんは、小さく呟いた。
「晴菜を……おねがい。おにいちゃま、憎まないでね。晴菜は、おにいちゃまの代わりに、産んだの。おにいちゃまの子供でもあるのよ」
「分かってる……大丈夫だから。心配するな。泉……、君も、生きてなきゃだめだ。晴菜を、育てるんだろう?」
だらんと垂れ下がっていた手が、急に龍樹さんを押し戻す。
低い忍び笑いが、人格交代を思わせた。
だんだん大きくなっていく笑い声。誰だろう? あまりいい感じじゃない。
ジョーダンは産めと言った。あいつは、冷静な人格だったし。
「今度は……誰?」
「馬鹿ね。泉は生きられないわよ。生きてたって無駄。あいつがやらかしたこと、ずっと背負って行かなきゃならないんだもの。私たちみんなで。うまいこと統合出来たとして、自分のしでかしたことに耐えられるわけ無いじゃない? ま、統合なんて無理だけどね」
「ユイナ……か?」
「あんな淫乱女と一緒にしないでちょうだい。私はデボラ。全く。育てることも出来ないくせに子供なんて産んで。そこのおばちゃんにいい様にされるだけじゃない。どうせ、拓斗は育てる気ないんでしょ?」
腹の底に熱いものがカッと生まれた。とっさにコントロールしようと抑えたが、だめだった。
「勝手に決めるな! 俺は親権を放棄してないぞ」
「そういう問題じゃないじゃない? 家族として一緒にいてやることもできないくせに」 ふふんと鼻で笑われて、俺はぐっとつまる。
悔しい。
そんなとき、龍樹さんが低い声でつぶやいた。
「べったりそばにいるだけが家族じゃない」
じっとデボラの両肩を押さえ、瞳をのぞき込む。
それだけで、デボラはおとなしくなった。
どちらかといえば敵対してる相手であるはずの龍樹さんを、熱のこもった瞳で見上げる彼女は、やはり龍樹さんの崇拝者だったのだ。
つまり、本当に反感持ってるのは、俺に対して?
そういや、この人格は、俺を殺そう派だったな。
「僕は晴菜を大切にするよ。僕の子供として。君たちは、それが心配なんだろう? 僕は大丈夫だから。母さんに全部渡すつもりはないんだ」
ほかの人格は、聞いてるんだろうか。龍樹さんはそのつもりで語りかけてるようだけど。
龍樹さんの眼差しは真剣だった。
デボラ=泉さんの表情が、少し変わる。フイッと桂川夫人の方に目をやって、口元をゆがめた。
「おばちゃん、ただリセットするんじゃないわよ。同じ間違いはだめ。わかった?」
他人格とはいえ、実の娘にこんなこと言われて、お母さんはただ泣きながらうなずく。
そのまま、泉さんの体から力が抜け、龍樹さんは泉さんをベッドに横たえた。
傷は、すでに血が止まってる。浅い切り傷で、看護師さんがワゴンを伴って現れ、消毒と簡単な手当がなされた。
「泉のそばにナイフなんか放置しないでください」
手当を眺めながら龍樹さんが母を責める。
悔しそうにうなずきながら、桂川夫人がため息をついた。
「ここのところ落ち着いていたから、油断したわ」
治らないだろうと断言してたはずなのに。それでもいい感じに見えれば期待しちゃうってことだろうか。
ふと病室を見回せば、ここはほかの人たちからも比較的隔離された特別室のようだ。
鍵も、外からかけられるようになっている。壁だって、特殊な加工のなされたクッションタイプ。
窓には、露骨な形ではないが装飾の形態をとってなお頑丈そうな鉄格子のたぐい。
防犯に見せかけた脱走および飛び降り防止なのだろう。
俺たちは看護婦に促され、退室した。
即座にがちゃんとロックがかかる。オートロックは内側からも解除できるが、外にはもう一カ所カードキーで操作する電子錠があった。必ず二名の担当者がロックの確認をする。
さらに、俺たちが通ってきた渡り廊下付近にも、先ほどはなかった自動ドアが出現していた。
問題が起きたとたんに病室のドアと連動して防火扉のようなそれが現れるようである。
暗証番号で解除される形みたいだ。
ここって、何事もなければふつうの特別室としても使っているんだろうけど、入る患者次第でセキュリティ厳しくなるわけだな。
そこから出されて一般病棟に出ると、境目には操作ボードのそばに小さな張り紙がある。
『この扉が閉まっているときは中の人間に頼まれても操作はしないでください』
物見高い一般患者などと一緒にぞろぞろ渡り廊下を歩きながら、俺は呟いた。
「あれって怖いよね」
「え?」
気の抜けた声は、龍樹さんが考え事に集中してた証拠。
「あのシステム。その場にいた人も閉じこめられちゃうってことだよね。下手したら……」
収監されてる病人が、超凶悪殺人鬼だったりしたら……逃げ場なしってことじゃん。
「まあね。好奇心は猫を殺すって言うでしょ」
一般患者たちを眺めて小さく囁いてきた。
そう、騒ぎを起こした人間が、誰彼なく殺す人だったら、この人たちも今頃やられてたかもしれなくて。
「君子危うきに近寄らず。だね」
「そうだよ。拓斗君は、特に肝に銘じておいてもらわないと……。僕が困る」
「龍樹さんこそ……」
ひそひそのやりとりは、桂川夫人にも聞こえていたようだ。
「あの子……、どうなるのかしら……」
「え?」
「統合は無理だと言っていたじゃない?」
「ああ、デボラはそういう見解のようですね。確かに、あれだけの人格を統合するには相当の手間と時間がかかるでしょう。しかも……」
「なに?」
「泉は、多分、治りたいと思ってない。治ると言うことは、自分一人で罪の意識を背負うことになるんだろうから。誰がなんと言おうと、あの子自身が、背負おうとするはずだから……」
「ああ……」
どうしたらいいんだろう?
俺は、泉さんにも幸せになって欲しい。
だけど……
「何が最善なのか、泉が選ぶしかないんだ。答は一つじゃない。誰もが満足する答なんて、多分無い……」
こぼれ落ちるような呟きが、龍樹さんの口から漏れた。
一様に重い空気を背負いながら、俺たちは家路に就いた。
数日後、晴菜と泉さんは退院し、泉さんだけが元の精神科の病棟に移された。
あの特別室は、他の病棟での治療が必要な、場合に使われるらしい。
同じ敷地内にはあるけれど、隔絶された病棟が精神科である。
そこの、一番一般と離れた場所が、隔離病棟で。
重度の患者さんが入ってるのだそうだ。
俺たちは晴菜を抱いた桂川夫人と一緒に龍樹さんの車で桂川家に向かうこととなった。
晴菜の出生届を出すときに、少々もめたが、俺は向坂姓に入れることを譲らなかった。
事件の記憶から晴菜を守りたかったというのもある。
泉さんには悪いけど。
事情が事情なだけに、桂川夫人も強く主張は出来なかった様だ。
精神に異常を来した状態の殺人犯は、罪を問われない代わりに精神科を受診しなければならない。
しかし、問われなくとも、罪は存在する。
世間の認識では、多分なおさら危ない殺人犯という感覚だろう。
だからこそ。晴菜は直接的な関連性のない名前の方がいいと言うことになった。
泉さんは、一度も晴菜を抱かせてもらってないそうだ。
泉さんの中で、晴菜の存在を赦さない人格がいるからだ。
なんだか、それも、俺は悲しかった。
首の据わってない赤ん坊を、おっかなびっくり抱かせてもらったときの感動は、筆舌に尽くしがたく。
小さな重みと拍動は、腕から体中に温かな気持ちを染み渡らせたのだ。
この感覚を味わう事が赦されないって、一番の罰の様な気がした。
泉さんはいろんな事で罰を受けてる。
拘束され、自由に生活することも出来ず、記憶すら体を共有する人格達によって穴だらけにされて。
泉さん自身の、何がそんなに悪かったんだろう?
性的な悪戯をした相手を殺意なく死に至らしめただけなのに。
兄に対して独占欲を抱いたからか?
それだって、柏木先生が拡大解釈させなければある意味ありがちな感情じゃないか。
柏木先生の復讐心は、結局本人に跳ね返ったわけだけど。
一番割を食ったのはやはり泉さんだと思う。
「拓斗、……泣いてるの?」
ハンドルを握る龍樹さんが心配そうに尋ねてきたけど、おれは頭を振った。
「悔しいんだ。何で、泉さんばっかり……」
「泉の変化に気づかなかった私が悪い訳ね。本当に、あの子が、あんな目に遭ってたなんて……気づかなかった。母親失格だわ」
デボラの言いぐさが、ずっとお母さんを苦しめてる。
晴菜を育てるにあたって、お母さんは適任じゃないと泉さんたちが判断したわけだから。
でも。
普通は、子供も親に信号を送ってる筈なんだ。だから、気づく。
泉さんみたいに他の人格が何事もなかった様に振る舞って隠してしまうケースは、なかなかに難しくないだろうか?
「僕だって兄失格だよ。気づかなかったんだから」
「人一人の感情全部を把握する事なんて、多分家族でも無理だと思う。しかも、泉さんは周りに分からない様に人格作ってまで隠してきたんだから……気づくのなんてむりだよ。救って欲しいと言うよりはそっとしておいて欲しいって。忘れたかったんだろうし」
「それっくらい、嫌な衝撃を受けたわけだ……」
俺の手は、やはり龍樹さんの手の上に重ねていた。彼の希望通り。
後ろに晴菜とお母さんが乗ってるから、ちょっと緊張してたけど。
龍樹さんの俺に対する態度をアメリカで目の当たりにしてから、お母さんは別れろとは言わなくなった。
今となっては、俺に養子に入れと勧めてる。
そうして、晴菜を取り込みたいのだろう。とは、龍樹さんの言。
龍樹さんとしては複雑だ。
俺たちの結婚を、日本でも法的に有効にしたければ、養子縁組しかない。
しかし、この場合、俺の方が年下だから、どうしても桂川家に俺が養子にはいるという形になる。
龍樹さんの息子になるか、弟になるかは、縁組みする相手によって違うけど、いずれにしろ、桂川家にはいることには変わりなく。
お母さんは、世間体から言っても龍樹さんの息子よりは弟になって欲しいと俺を説得に入ってるのだ。
養子縁組を結婚の代わりにするってのは、別に俺はこだわらない。
老いてどちらかが死んだときに、残してやりたいものがある場合に、それが有効になる以外は、たとえば相手を縛るため……だよね。
安心感とかそう言うことのためなら、俺は養子縁組する必要ないと思ってる。
本妻の座にしがみつくつもりはないって事。
だって。龍樹さんが他の男を愛する様になったら、俺は悔しくて泣くだろうけど、愛されてないのにしがみつくなんてことはしたくないんだ。
そうしたら、法的拘束なんて、邪魔なだけじゃん。
二人一緒にいられる事だけが望みなら、要らない手続きだと思ってる。
だから、龍樹さんがうんと言わなかったら俺もうんと言わない。
もし養子縁組するとしたら、俺は龍樹さんの息子がいいなぁ。
……と、彼に伝えたときは、本気で泣いてたっけ。泣き虫なんだから……。
桂川家は、経営している病院から徒歩圏にあった。
婦人の好みが伺われる瀟洒な邸宅。
庭も広く、門構えは電動式で、中が容易には覗けない。
様式は明治の頃に多くたてられた和洋折衷の洋館を模したもので。
建材も、かなり贅沢なもの。
本物のテラコッタとか、石膏細工とか、今時職人見つけるのも大変そうな装飾が施されている。
最初に通された居間は、広いダイニングとつなげれば、パーティ会場になりそうだ。
そこから見渡せる庭は、イギリス式庭園をイメージしており、芝を敷き詰めたスペースは、ガーデンパーティも出来そう。
正直俺は、少しびびった。
龍樹さんという人の生活態度は、あまりこの家とは結びつかない。
しっかりした経済感覚を持っていて、ケチではないけれど、浪費家でもなかったから。
なんて言うか、この家で育ったという感じがしなかったのだ。
考えてみれば、泉さんもそうだ。
泉さんが見せてくれた人格が誰だったのかはともかく。
俺が出会った人格たちは、誰もこの家の匂いがしなかった。