密やかな触媒
第五回
「……暖かみのない家だろ」
龍樹さんの自嘲的な囁きは、俺に吹き込まれたものだけれど、お母さんへのイヤミにも聞こえた。
俺は、うんと頷くのもはばかられ、絶句する。
「なんか、立派で。想像してたよりずっと立派で、びっくりしちゃった」
「見かけ倒しだよ。古く見えても、僕が育った頃はこういう家じゃなかったし。なんか、他人の家を訪問するみたいだ」
苦笑しながら言う。
「そ、……そうなんだ……」
ふーん、そういうものかなぁ。
「でもさ、今同じように作る方が、大変な作りも結構あるよね」
お母さんが我が意を得たりと微笑む。
「そうなのよ。どうしてもこの形に……なんてあの人が言い張るから。職人探すのも大変だったわ」
「あなたの趣味じゃないのですか?」
な、なんて他人行儀な言い方……。
「お父様よ。新しい恋人の趣味……かしらね」
突き抜けちゃったようなさばさば加減で言うお母さんが痛々しく感じた。
そう思う事自体失礼なのかもしれないけれど。
「新しい……?」
龍樹さんの眉がひそめられた。
「誰?」
「内科の井沢先生よ。意外?」
「……ちょっと」
と言うよりずっとショックな顔してる。
「龍樹さん、知ってる人だったの?」
「ああ……。僕の同級生だったから。ノンケだと思ってたんだけどなぁ。というか、それよりもあいつの趣味がこれかと……」
家を見回し、呟いた。
「親しかった人?」
「……いや。むしろ毛嫌いされてたかも。こう、エンガチョされる感じ。わかる? ……同族嫌悪……だったかのかなぁ」
晴菜をゆりかごに寝かせ、俺たちは居間に落ち着いた。
大きな家だけど、お母さんの行動範囲はパブリックルームに重きが置かれているから、ベビーベッドは二階の寝室だけど、昼間は大抵居間に置いてあるゆりかごが晴菜の居場所なのだそうだ。
すやすや眠る晴菜を見つめながらも、俺は龍樹さんの言葉に胸底がくすぶる感じを覚えた。
「ふうん……同族……なんだ?」
俺の声が低くなったので、彼が少し狼狽する。
「ゲイって意味だよ? 他に何もないよ?」
「……わかってるって。その人にも会えるのかな? 今日は。龍樹さんをいじめた人って見てみたい」
「あ、会わなくていいよっ。あいつが君に興味もったら困るもの」
お母さんがいるのに、後ろからぎゅっと抱きしめてきた。スリスリと頭に頬ずりされて、あわてる。
「よせよっ真っ昼間から……」
「……相変わらずイロ狂いしてるのね。全く、うちの男達って……血かしらね」
あきれたようにため息をついたお母さんが紅茶を入れてくれた。この味、プリンスオブウェールズかな。紅茶なのに、味が何となく鉄観音な感じ。癖はないけど、苦みが強い茶葉だ。添えてあるクッキーのほっこりした甘みが際だつ。龍樹さんが作ったものに通じる味。
「これ、お手製ですか? すごくおいしい……」
「ええ」
クスッと笑うお母さんの表情は、やはり龍樹さんと似ていた。
「てことは、これって、龍樹さんのお袋の味……?」
「う……まあ、そういうことになるのかな……」
仏頂面で、それでもほんのり頬を赤らめ、頷いた。
龍樹さんとお母さんに、絆を感じて嬉しかった。ほら、やっぱり親子だよ。
「良かった……」
「あら、何が?」
「やっぱり親子だなって思って……」
「ああ……、そうね。この子には、色々苦労させたわ。この子に、親を選ぶ権利はなかったのにね」
お母さんの台詞に、弾かれるように龍樹さんが顔を上げる。
「……なんて顔してるの?」
苦笑いをしながらも、面白そうに龍樹さんを見つめた。
「私もお父さまも自分が優先だったから。貴男にも泉にも負担をかけたと思ってるわ」
緩やかに龍樹さんが首を横に振る。泣き出すかと思ったけれど、彼はただ眉をひそめて苦痛に顔をゆがめていただけだった。
「今更……そんな風に言われても……」
狡い……との呟きに、思わず俺は彼の手を握りしめた。そっと握り返す指先が少し冷えていた。
「泉の……ううん、彼女たちの言葉が、痛かったわ。良かれと思ってしたことも、押しつけでしかなければ、いいことにならないのよね。価値観を打ち砕かれた感じ……」
疲れた笑いを見せる龍樹さんのお母さんに、俺は思わず語りかけていた。
「……少しでもわかって、方向修正できるならいいんじゃないかと思います……。だって、他人の事なんて、教えてもらわなきゃ本当のところはわからないですよ。言われて、受け取れないよりはずっといい……」
「ありがとう……。あなた、いい子ね」
妙に晴れやかな笑顔で言うと、お母さんはすっと立ち上がった。
「ここを出るわ。晴菜を連れて……」
晴菜を愛おしそうに覗き込みながら、呟かれた言葉に、龍樹さんもハッと顔を上げた。
「えっ?」
「前から考えてはいたんだけど、やっと踏ん切りがついたの。ちょうどいい物件があったら、すぐに引っ越すわ。別居の方が、あの人たちも気兼ねないでしょう? この家にしがみついて、晴菜に変な影響がある方が困るもの。それに、こんないい子があの人たちの毒牙にかかっても困るから……。龍樹だって、晴菜に会うことを理由に拓斗くんをここに日参させるのは嫌でしょう?」
「母さん……」
呆然としたように母を見上げた龍樹さんは、やがて瞳を金色に輝かせ、フッと笑った。
「物件はいいのがありますよ。僕の店にも近いし、広さも間取りも、庭も申し分ない家が売りに出されてます。価格は一億くらい。あの人に、それくらい出させてもいいと思うな」
「え?」
声をそろえて、俺とお母さんは急に精力的に語り出した彼を見つめた。
「もちろん、離婚はしないで、毎月手当てをもらえばいい。どうせ、職員として登録されているんでしょう? 本妻の立場は守らないと。あの人も、パブリックではあなたが必要なはずだ。晴菜のためなら、あの人も嫌とは言わないでしょう。唯一の孫ですからね。あの人の愛人が、あいつだとしたら、僕もその方が都合がいい。こんなところに会いに来るよりも、ずっと気楽だ」
「龍樹さん……それって……」
「表札も変えなくていい。晴菜のためには。拓斗の実家が売りに出されてるんですよ。まだ買い手がついてなくて。事故で一家が亡くなったってのが、験が悪いと思われてるのかなぁ。あ、事故はドイツで起きたんですよ。家でじゃない。土地は平坦、閑静な住宅街にあって、駅からは徒歩十分圏内。日当たりも良好です。間取りもいいし、檜の風呂が特別製で。すごく快適ですよ」
あっけにとられて龍樹さんを見つめていたお母さんは、やがてぷっと吹き出した。
「いつからあなた、不動産屋になったの?」
「ていうか、龍樹さん、いつから一億に……?」
いくら初回は言い値と言っても、それはちょっと高くないか?
あの辺なら土地建物併せて八千万が相場で、それこそ験が悪いというのがあって安めに設定したものが取引業者の情報には乗せてあるはずだ。
「君の生活資金は多い方がいい。晴菜の分もあるからね」
俺にそう言ってから、
「もちろん、拓斗の実家というのは、あの人には内緒ですよ」
と、言い含めるように龍樹さんはお母さんを見据えた。
なんだかちょっと怖いくらい。
「あなたの本性って、そうだったわね……」
ほほえんだ声でそういうと、お母さんがうなずく。
俺はただ、絶句するのみ。
そうして、数週間後には、俺の口座に金が振り込まれ、それからさらに一ヶ月後、多少のリフォームを施し、より快適な作りになった向坂家が、新たな住人によって生き返るのは、また別の話である。
「へえ、家が売れそうなの? よかったじゃん。これで向坂も学費安泰だな」
笹沢が、さして興味なさそうに言った。
学食でカツ丼食いながら、俺の弁当からもおかずを取り上げる。
「あ……最後の卵焼き……」
「いいじゃん、一個くらい。相変わらずマスターのは美味いなぁ」
「もう〜、それ、俺の大好物なのに……」
「ご祝儀、ご祝儀。ケチケチするなよ」
桂川家からの帰路、龍樹さんは案外機嫌がよかった。
お父さんたちとは会わずに帰れたのがよかったのかもしれない。
俺は何となく、龍樹さんがお母さんと仲悪いだけなのかと思ってたけど、それ以上にお父さんのことも敵視してたんだな。戸籍のことよりも、あの家が嫌いで、俺を行かせたくなかったと言うことかもしれない。お母さんまでもが、龍樹さんのお父さんたちを警戒してる。俺が毒牙にかからないように、なんて。
いつかは会わなきゃいけないんだろうけど、なんだか怖いな。
なんて、考えたってしょうもないけどさ。
「それよりさ、水野と一緒じゃなかったの?」
「いや。試験終わってから、車通学やめたから。あいつにも迷惑だし、やっぱり龍樹さんがいい顔しないしな」
「ああ、白状したわけ? かーなーり、怒ったんじゃない?」
「うん……いや、静かーに怒ってたんで、かえって怖さ倍増だった……」
「だろうなぁ。ま、こうしてうまい弁当作ってくれてるんだから、仲直りしたんだよね?」
「うん。ご心配おかけしました」
軽く頭を下げる。
真剣なまなざしを微笑ませて、笹沢は頷いた。
「で、水野は休み……なわけ?」
実を言うと、今日は一限に遅刻確定だったので、さぼってしまったのだ。
もちろん、理由は、恋人のねちっこい愛撫に負けちゃったせい。
「珍しいよな、あいつが休むなんて……」
「だな……」
なんだろう。何となく嫌な感じだ。