密やかな触媒
第三回

「龍樹さん、大好きだからね」
 黙ったままの恋人に語りかける。
 彼が、俺の言葉を噛みしめているのが分かるから。
「愛して……」
「拓斗」
 発言を制する様に名前を呼ばれた。
「もういいから。僕のわがままに付き合わなくてもいい」
「龍樹さんっ?」
「分かったから。いや、分かってるから……ごめんね」
 それきり、沈黙が車内を埋めた。
 でも、俺は知ってる。龍樹さんの「分かってる」は、理屈の範疇だって事を。



 車を病院玄関で止めると、龍樹さんは俺だけをおろし、駐車場に向かった。受付で泉さんの居場所を尋ねようとしてたら、龍樹さんが走ってきた。
「産婦人科のナースステーションに行こう」
 肩を抱かれてちょっとどきりとした。
 受付嬢と待合室にいた人の視線が、少し痛かったし。
 視線は、ほとんどが龍樹さんに寄せられたもので。そんな彼が俺を視線のただ中に巻き込んでしまう。
 いつものことだけれど、体が縮こまるのは止められない。親密な態度は、俺たちの関係からは当たり前で、他人からは好奇心の対象……。意識しないようにと思っても、ダメで……
「ごめん」
 いきなり龍樹さんが俺と距離を取った。
 彼は俺の考えをすぐ読み取る。
 でも、俺だって……
「そんな寂しそうに言わないでよ」
 自ら彼の手を取って、距離を縮めた。
 ほら、それだけで、彼の表情は柔らかくなる。
「俺ら、注目されてるよ。俺の自慢の恋人はかっこいいから」
 囁けば、照れた彼の耳は真っ赤になった。
「俺はまだ、一緒に注目されることに慣れないだけ。ごめんなんて言うなよ」
 旅先でもさんざん言った台詞だった。やたらに謝るなってね。
 あ……と、龍樹さんもそれを思い出し、苦笑する。
 ギュッと握りしめた手に力を込めた。
 伝わる拍動が、大好きだよと教えてくれますようにと祈りながら。
「龍樹!」
 呼び声に振り返り、俺たちは龍樹さんのお母さんと出会った。
「無事生まれましたか?」
 穏やかな声で、彼が尋ねる。
「泉さん、どうしてますか?」
 俺はもう一つの気がかりを口にする。龍樹さんの指が俺の手を締め付けたけど、最低限の気遣いだと思うし。
「無事に女の子を出産したわ。後産も終わって、今は病室で休んでいるの。赤ちゃんは保育器に入ってるわよ」
 相変わらず龍樹さんのお母さんの、俺を見る目は冷たい。
 ただ、初孫の誕生は嬉しかったらしく、紅潮した頬がその感情教えてくれた。
 ほっとする。何はともあれ、二人とも無事なのだから。
「泉が休んでるのなら、先に赤ちゃんを見せてもらいましょうか」
 龍樹さんに手を引かれ、保育器の並ぶガラス張りの部屋をのぞいた。
 足首に札をくくりつけられ、足の裏にも親の名を書かれて、赤ん坊が並んでいる。
 親ばかと言われるかもしれないが、桂川の名を書かれて眠っている赤ん坊が、一番可愛かった。まさしく生まれたては赤ちゃんと言うだけあって、真っ赤でしわしわで、猿の様だが。それでも手足は抜きんでて色白だし、顔も綺麗に整った作りだったのだ。
「すげー。かわいいっ」
 ぺたりと貼り付いて中を覗き込む。ふと見上げた龍樹さんは無表情だった。
 俺の視線を感じて、はじめて眸に微笑みを浮かべる。
「君と泉の子供だ。可愛くないわけがない。しかも、どちらかと言えば、目元口元は君に似た様だし。きっと将来は男泣かせになるぞ」
「……なんか、嫌みに聞こえる……」
「ほめてるのに……」
 どうも、龍樹さんから敵意を感じるのだ。
 ほらねとお母さんが鼻で笑い、俺は困り果てた。
 龍樹さん、分が悪すぎ。でも、俺は彼を信じるべきなんだよな……。
 そんな風に考えたとき。
 フロアの奥が騒がしくなった。
「……なに?」
 ばたばたと駆け足の音。
 ざわざわとしたがやつき。
 看護婦が一人、こちらに走ってきた。
「かっ桂川さんっ! お嬢さんが……っ!」
 なんだか、それだけでイヤーな予感。泉さん、最近は安定してると聞いていたのに。
 真っ青になったお母さんも同じなのだろう。
 暗い瞳になった龍樹さんと、看護婦が走ってきた方に駆けだした。
 角を一度曲がった真ん中辺の病室に人だかりが出来ていた。
「泉っ」
 母と兄の声がシンクロした。
 人垣をかき分けながら、病室に入った。
 中の光景が、俺らの言葉を奪う。
 泉さんがベッドの端に座っていた。
 やや腫れた顔をした泉さんが、うつろな瞳で天井を見上げていた。
 俺たちの目線はいきんで腫れた顔よりも彼女の手元に吸い寄せられる。
 果物ナイフが赤く濡れていたからだ。
 どこを切ったのかと探したあげく。首筋に細い血の滴りを見つけた。
「泉さんっ」
 駆け寄ろうとしたら、ナイフがまた傷に当てられた。
「!!」
「泉っ、だめよっナイフ、寄越しなさいっ」
 お母さんの叫びは当然だがヒステリックに裏返ってる。
 龍樹さんが唇をふるわせたまま泉さんを凝視していて。
 泉さんも、龍樹さんをじっと見つめた。