密やかな触媒
第二回
「おとなしく試験勉強……するか」
気分は乗らなかったけど頭はひんやりしていたので、少し勉強することにした。
龍樹さんのベッドルームは、十八畳くらいで。入ってすぐはテレビボードとラブソファ。
片面の壁は全部クローゼットになってる。そのうちの一つの扉だけが四畳半のウォークインクローゼットの入り口。衝立で仕切られた東窓側の壁は寝室らしくキングサイズのダブルベッドが部屋の半分を占めていて、サイドテーブルと、マガジンラック代わりの小さな書棚等が置かれてるシンプルなものだったのだけど。
今は俺の勉強机が増えた。
書斎を借りて勉強すればいいと思ってたんだけど、龍樹さんと二人で机に向かうには狭い間取りだから。書斎には本が溢れてて、半分以上は医学書関連。残りは基礎系と料理系。
俺用のスペースだけが漫画メインで異彩を放ってる状態。
広くても、地震がきたらやばい状態の部屋で、図体のでかい男二人がこもるのは危険だというのが龍樹さんの意見だったけど、結局その気になったらすぐ押し倒せるベッドのある部屋に、できるだけ俺の足止めをするのが本当の理由だろう。
事実、勉強みてもらってても、俺がちょっとでも飽きが来てるのを察すると龍樹さんの手は悪戯を始めるんだから。油断も隙もないんだ。
……て、思い出してどうする?
だから勉強だってば。ノートはもう作ってあるし、後は暗記物の確認だけだし。
眠くなったら寝ればいい。
そうして、ようやっと俺は机に向かった。
「出来はどうだった?」
試験の最終日。
帰り支度をしてたら、笹沢が聞いてきた。
学籍番号が続いてるので、必ず試験の時は席が前後になるんだ。
俺が差別にあって孤立しかけてたときもいつも側にいてくれた。
単純に良いやつだと思ってけど、ちょっとした事件があって、こいつもゲイなんだと知った。
龍樹さんがらみで、ちょっとこじれた相手だが、今は普通に友達してる。
時々笹沢が妙な視線よこすが、どうやら奴の憧れの君である龍樹さんが、俺に頭が上がらない状態なのを見て、変に尊敬じみた感覚もってるらしい。
とりあえず無害だから放っておく。
「うーん、一応書いたけど……」
問題は二つ。知っていることを述べよ風のテストって、客観テストと違ってイマイチ自信もてない。たっぷり書き込んでも、要求されたポイント落としてれば点につながらないだろうしね。
そういうところが、受験用のテストとは違うよなぁ。
「とかいって、ぎっちり書き込んであったよね。キングに教えてもらってるんだろう?」
「……その、キングってのやめてくんない? 龍樹さん嫌そうだったから」
龍樹さんが夜な夜な遊んでいた頃の通り名なんだよね。
だから、俺に取りざたされたくないらしい。俺も、遊んでいた頃の彼の事なんて、あまり意識したくないんだ。龍樹さんと同じように、俺だって焼き餅焼きなんだから。
過去のことだと言われたって、気になるんだよ。頭にくるんだよ。
「……ごめん……」
急にシュンとなった笹沢の頭を小突く。
「あのさ。今度店に来いよ。今のあの人を見ればそんな名前言いたくなくなるぜ」
笹沢の家は俺んちからは遠い。学校と俺んちのだいたい中間くらいの位置なんだ。
「……いいのか?」
俺はただ肯いた。
「あの人の入れたコーヒーは、マジ絶品だぜ」
「じゃあ、今日、打ち上げって事で」
「駐車場無いから、途中で車は置いてってくれ。店までは水野に乗せてってもらえばいい」
言った途端、笹沢の瞳がキラって光った。
「なんだよ? それ。お前また……」
龍樹さんを裏切ってるのか? と、責める瞳。
奴が変な気起こした時も、俺と龍樹さんの妹との関係を知ったからだった。
龍樹さんを裏切ったら、なぜか他人の笹沢にまで恨まれるってわけ。
「緊急避難措置だよ。電車で、変な奴に目をつけられちゃってさ。水野が居合わせて、しばらく車通学させてもらうことにしたんだ」
「彼は知ってるのか?」
「知らない。痛くもない腹探られそうで、言えないよ。車通学が必要だってなったら、あの人絶対、自分が送るって言い出すからね。毎朝店サボらせるわけにもいかないじゃん」
「うーん……」
しばらく俯いて考え込んだ笹沢は、やがて真剣な瞳で俺を見据えた。
「内緒はまずいよ。やっぱり。きっとバレたとき大変なことになるぞ。腹探られるだけですむとは思えないな」
龍樹さんが俺がらみで逆上したときの姿を知っている笹沢は、本気で心配そうに言った。
「ちゃんと話して、説得しろよな。何が悲しいって、お前、自分の恋人がストーカーされてるの、内緒にされた上に、よその女に頼ってるなんて。逆の立場なら、お前だって悔しいだろう?」
「……うん……」
どうしよう……。
確かに。きっと、俺だって泣きわめいて責める。
何で言ってくれなかったんだ? って。
「……今夜話す」
「うん。それがいい」
にこやかに微笑んだ笹沢は、本気で俺たちのこと心配しているのだと知った。
そう、そうだよな。
話す機会、なんとかみつけよう。
「……」
笹沢達が帰って、店を閉めた後。
一通りの話しを、黙って聞いていた彼は、俺が話し終えても黙ったままだった。
後かたづけの食器のかち合う音が、音楽も切られた店内に響く。
「龍樹さん……?」
何とか言って欲しい。逆上した様子もない彼の、静かな怒りが肌にピリピリと感じ取られて。俺は萎縮しまくっていた。
「……で、ストーカーは? どうなった?」
突然低く絞り出された声は、微かに震えていた。洗い物を全て食器洗い機に収め、機材を全部片づけてからの発言だった。
「あ……。電車乗らなくなってからは……会ってない」
ビクビクしながらも、素直に答えた。龍樹さんを裏切りたい訳じゃない。
傷つけたかったわけでもないんだから。
「そう……」
龍樹さんの表情を読もうとした。いつものように、金色に潤んでいたならよかったのに。
実際には琥珀の瞳が冷ややかな光で俺を見据えていた。それでも微かな青白い炎がよぎるような気がした。
本当に怒ってる。これ以上ないほどに。
「……本当に、ストーカーだったのかな?」
「え?」
「君、彼女に担がれたんじゃないの?」
ものすごく苦いものを口にしたような口調だった。
「……それとも、共謀?」
俺はただただ首を横に振るのみ。
なんて言って良いかわからなくて。
この人の怒りを解くにはどうしたら良いんだろうって、そればかり。
龍樹さんは、俺の顔をじっと見つめてから、はあ、と、盛大なため息をついた。
「何日、僕に黙って彼女の車に乗ったんだっけ?」
俺は頭の中で数えてみる。土日は数えず、試験前からだから……
「えっと……8日分……かな」
「ふうん……」
それきり黙ってしまった彼の、何か考えている様子に俺は縮み上がる。
「……ごめん……。龍樹さん、黙っていてごめんね……」
泣いてわめかれたり、セックスを強いられたりするよりも数段怖かった。
この人と今までのように過ごせなくなったらと思うと、本当に。
そうだよ。
試験中とうとう彼は俺にふれてこなかった。寝室から居間のソファに寝間を移し、お休みとおはようのキスだけの生活だったんだ。
もしかしたら、もう、俺に飽きてたのかもしれない。そうしたら、今回の過ちは、別れる恰好の理由になるじゃないか。
俺は、そう思うにつけ、じわりと目頭が熱くなってきたのを抑えられなくなっていた。
「俺、龍樹さんを煩わせたくなかったんだ。店サボらせたり、したくなかった……。水野だったら、ついでだから。か、階段で押されたときのこと思い出して、後ろの奴の視線が痛くて。怖かったんだよ。断じて、水野とは変な関係じゃない。信じてよ!」
そうだ。水野は俺を担いだ訳じゃない。
「あ、あの男の視線は、本当に嫌な感じだったんだ……」
しゃくり上げながら訴えた。
「拓斗……。もう、わかったから。僕は、焼き餅焼きだけど、分からず屋なつもりはないよ」
指の長い大きな手が俺の頭をなでた。くしゃっと俺の髪をかき回しながら、彼は言う。
「……悪いと思ってるなら、旅行につきあってくれ。試験の打ち上げにと思って、旅館、予約してあるから。ドライブ付きの一泊旅行。明日明後日で。パスは却下。いい?」
俺は肯いた。肯くしかないじゃないか。元々予定は入れてないし、龍樹さんの示した妥協案は、俺にとっては好条件で。
「一週間分つきあってもらう。寝かせないから、覚悟してね」
何度も首肯しながら、キスを求めたら。
龍樹さんはさっと身を翻して俺に背を向けた。
「お風呂、入っておいで。今日はゆっくり休みなさい。明日、早いから」
彼はとうとう寝室には来なかった。
やっぱり怒ってるんだ。俺を叱ることが出来ないままに、わだかまりだけ心に残して。
今後のことを考えると、とても眠れそうもなかった。
どうしたら、彼と寄り添えるか。明日からの旅行で、仲直りできるのか。
どうして、今日、彼は俺を抱かないのか……とか。
考え込んでいるうちに、時間ばかりが過ぎていく。
のどが渇いて、キッチンに降りてきたとき。
もしも彼が起きていたのなら、俺から誘ってみようとさえ思った。
でも。
闇の中での微かな喘ぎに俺は身をすくめた。
それは、確かに龍樹さんの喘ぎだったから。
生唾を飲み込む音、抑えたとぎれとぎれの吐息。
シュッ、グチュッという音は、自分で……してる音?
「うっうっ……ああ……た……くと……拓斗……」
呟かれる俺の名前に、俺は一歩も近づけなくなった。
訳がわからない。
俺の名前を呼びながら、俺に触れずに一人でしてるなんて。
俺は、そっと寝室に戻った。
あの龍樹さんに駆け寄って抱きしめたら、彼はどんな顔しただろう?
でも、できなかった。
いつだって素直に欲しがってくれていた彼が、やせ我慢してるんだから。
今の俺に触れたくないんだなって……
その夜、俺はとうとう一睡もできなかった。
翌日は早朝から快晴で。
俺と龍樹さんは、ろくな会話もせずにショッキングピンクのコルベットに乗り込んだ。
東名高速を御殿場で降り、そこから富士五湖道路を目指す。そのまま入った中央道から甲府に入って、目指すのは石和温泉。
温泉入って、美味しいもの食べて、夜通し彼に抱かれて……。
多大な快楽への期待と、ちょっぴり恐怖と。
パーキングエリアを何カ所か越えるまでに、俺たちの会話は正常に戻りつつあったんだけど。突然彼が言い出した「ホテルに入りたい」という要求に、俺は過剰反応した。
「俺は便所じゃない!」
彼が昨日俺をオカズにしてマスかいてたのは知ってる。
今夜は寝かせないつもりだという宣言だって覚悟してる。
でも、何故今、目的地に着く前にやらなきゃならないんだよ?
俺自身、彼に負い目を感じてはいたけど、運転しながら涙目になってしまった彼の卑屈な態度が俺を強気にしたんだった。
なんで、そんな風に俺を扱うんだよ?
どうして普通にしてくれないんだよ?
いままでも、必要以上に俺の顔色をうかがいながら触れてくる龍樹さんに、もどかしさを感じたことがあった。
今回は、そのもどかしさがなんであるか、気づいてしまったんだ。
彼は俺を信用してない。
俺が、彼を簡単に捨てると思ってる。
俺を女王様扱いして、下手に出て。
あんまり強引にされても、それはそれでイヤだけど、ベッドで、俺がどうしようもなくなったときしかわがまま言えないってのも、恋人としては変だよね。
なんか、身体で支配されてるみたいで気分が悪いんだよ。
俺、わがままなんだろうか?
申し分のない恋人が、鬱陶しく思えるのはこういうとき。
焼き餅焼いてマーキングはするくせに。なんか歪んでる。
このもどかしさを彼にわかって貰うにはどうすればいいかわからず、どんどん彼を追いつめてしまった。意地悪を言うつもりはなかったんだけど、苛ついてしまったから。
彼は見事に動揺した。
運転に支障を来すくらい。
俺に振られると思ったみたい。
俺は空き地に車を止めさせて、彼を責めながら急所を銜えた。
ワザと射精寸前で顔を離し、顔射を受ける。
慌てて顔をぬぐおうとする彼を押しとどめ、彼を求めた。
ちゃんとぶつかってきて欲しいと伝えたつもり。
欲しいなら欲しいと言えばいい。
勝手に我慢して、勝手に人のことオカズにして……そういうの、俺はイヤだから。
結局、カーセックス初体験の後に、旅館でマジ腰が抜けるほどやりまくって。
一応仲直り状態で帰路についたんだが。
俺たちの信頼関係は、まだきちんと構築されたわけではなかったんだ。
結婚式あげて、ちょっと離れて暮らして。
それでも結局俺たちは変われなかったと言うことなのかな。
それは、一本の電話から導き出された考え。
俺の携帯が、車の中で鳴り出したんだ。
着メロは龍樹さんの連絡である店と自宅の番号だけブロンディのコールミーに統一してあって、他は機種付きのカノン。で、今回鳴り出したのはワルキューレの騎行。
「……ワルキューレなんて、着メロ変えたの?」
「ううん。えっと、誰だっけ……」
俺自身、それを何に設定したのか忘れていたのであわてた。
画面を見て、「ああ」と思い出す。
『桂川母』と画面に現れたのだ。
「はい……もしもし?」
俺は龍樹さんに画面だけ見せて電話に応えた。
携帯を教え、あちらの番号を教えられ。登録はしたが、今まで一度もかかってきたことはなくて。
俺は肩をすくめて見せて龍樹さんに伝えたつもりだったんだけど。
龍樹さんは明らかに眉をひそめて、不機嫌になっていた。
俺は龍樹さんを気にしながら桂川母の言葉を頭に刻み込んだ。
泉さんの陣痛が、始まって。もうすぐ生まれそうで。
龍樹さんが全然連絡とれないから、この携帯に電話してきたんだそうだ。
「あ……はい。今、一緒にいます。ええと……龍樹さん、ここから芹が谷までどのくらいかかるかな?」
龍樹さんは、前を向いたまま素っ気なく「一時間弱」と、言った。
「あ、すみません、一時間弱だそうです。その、きのう石和温泉に行ったので。今帰る途中なんです」
興奮気味の向こうの返事は、「間に合わないわね」とだけ。「でも、いらっしゃい」と言われたので「わかりました」と切った。
「生まれるそうだよ」
ぴくっと龍樹さんが固まった。
「……やっとか……」
やがて絞り出されたつぶやきはそう言ってた。
「……予定日過ぎてたものね。大丈夫かな」
「危ないとは言ってなかったんだろう? 大丈夫だよ」
素っ気ない言い方。
「……なんか……怒ってる?」
「……そう見える?」
「うん」
「じゃあ、怒ってるんだろうね」
「なんだよっ? それ……」
「……母さんが君の携帯番号知ってたのはショックだな」
俺の逆ギレを恐れてか、渋々口を開いたみたい。
「アメリカで会ったとき、教えた。でも、かかってきたのは、今日が初めてだよ? 龍樹さんと連絡とれないから、俺にかけてきたって言ってたもん」
龍樹さんは、携帯電話を持ってない。
仕事場は店で、ピンク電話だし。
つまり、旅行に出ちゃえば、使うのは俺の携帯だけ。連絡はとれないわけで。
お母さんが俺にかけてくるのはしょうがないことなんだけど。
「この時期に旅行なんて、連絡とれるようにしてよかったよ。教えておいて正解だと思うけど?」
龍樹さんの肩が微かに揺れた。運転中のせいか前を向いたままだったけど、微かに目を細めた気がする。これは、怒ったときの癖。
本当に、怒ってるんだ。
「……何でそれくらいで怒るのさ?」
「……それくらい?」
ガクンとノッキングした。
信号が替わったからだけど、龍樹さんのブレーキの踏み方が荒っぽかったせい。
「龍樹さん……」
「君はっ。君は、本気で泉と君の間の子供の存在を、僕が認めてるとでも思うのか?」
震えた声音の発言に、俺はショックを受けた。
「あ……」
やっぱり。そうだったんだ。
「子供には罪はない。僕に君たちを責める権利はない。分かってる。分かってるけど……君を僕から奪う要素を憎らしいと思う。……そんな自分は嫌だけど。でも……あの人と、僕の知らないところで連絡取り合うことだけはしないでくれ。それだけは嫌なんだ。あの人は……きっと君を僕から取り上げようとする。君らの子供は、いい餌なんだよ。本当なんだ!」
俺には理解できない理由で、龍樹さんはお母さんを嫌ってる。憎んでると言ってもいいかも。あんなにいろんな人とちゃんとした人間関係を保ってる人が、何故実の親とこんなにこじれてるんだろうか。理解したいんだけど……わからない。
「ごめん……」
シフトレバーに置かれた手を握りしめた。
震えて、冷たくなった手が、ひどくいとおしかった。
「そのままにしていて」
黙っていた龍樹さんがいきなり言った。
俺の手を、まだ必要としてるって事か。
信号が青になり、彼の運転の邪魔になると思ったから手を放したのに。
「邪魔じゃないの?」
「……君が必要なんだ」
前を見据えたままそんなことを言う。
「どこも行かないよ。俺は、龍樹さんを選んだんだから。他の誰とも龍樹さんとのような間柄にはなれない。それは確かだから。……ただ……」
弾かれた様に俺の方を見た龍樹さんの手を握りしめる。
「ほら、前向いて。俺はね。龍樹さんをもっと知りたい。どうも龍樹さんのお母さんへの感情は、俺にはよく分からなくて。だから、こんな風に龍樹さんを怒らせてしまう……。俺には過剰反応に見える龍樹さんの態度は、何が原因なんだろう? って、知りたくなるよ」
龍樹さんは小さくため息をついた。
「……ごめん。確かに、説明無ければ分からないだろうな。君はお母さんと仲良かったみたいだから……。どちらかと言えば、お父さんとうまくいってなかったんだろう?」
今度は俺が黙る番。
そういえば、龍樹さんには俺が親父の遺体を殴りつける場面を見られていたんだっけ。
「親父は俺をやっかい者扱いしてくれたからな。確かに、余所の子よりも俺は金もかかるし、心配もかけたけどさ。俺の病気は生まれつきで、俺に選択の余地はなかったのに……。俺の人生は、まだ何もしないうちに一生ダメで無駄だといわれたことがあるんだ」
「……悔しかったね。でも……多分……」
「え?」
「お父さんも悔しかったんだろう。大事な、初めての子供が、先天的な病気を持って生まれてきたこと。自分の遺伝子かもって思えば、くやしいさ。お母さんも同じように思っていたことだろうね。他人の腎臓もらわなきゃ直せないなんて。悔しかったと思うよ。何故、自分のじゃダメなんだ? ってさ。もちろん拓斗君には責任ないし。そういう風に限定しちゃうのは親として失言だけど。堀田さんて、ドイツでお世話になったお父さんの部下がいただろう?」
「あ? ……うん」
「あの人見てて思った。拓斗君のお父さんは、拓斗君が言うほど嫌な人じゃなかったろうなって。ただ、不器用なだけだったんじゃないかなって。もちろん、僕は表面的なデータしか知らないし、一概に言えないなと思ってたけど」
だからコメントしなかったと言うことか?
「つまり、今の俺のつっこみは差し出がましいと?」
「ち、ちがうよ。少し……分かってもらいやすくなるかと思って。僕の母は、僕を限定した。君とは違うけど、過剰な期待と希望の押しつけでね。僕は、初めて彼女に逆らうまで、ママ人形って言われてたんだよ」
「……そうなの?」
「父親は最初からいないも同然だったしね。仕事と愛人で、忙しかった様だし。よけい母は、僕に集中することになったんだろうね」
そこでふっと笑った瞳は遠くの何かをさげすんでる様に見えた。
「父の愛人てね。男なんだよ」
瞬間絶句した。なんて言うか…… そういう嗜好って、遺伝するのか? とか。
でも、龍樹さん達が生まれたんだよな……
「……バイ?」
「いや、全くのゲイ。結婚は親のお仕着せだった様だ。まあ、母と気は合う様だから、パートナーという意味では悪くない組み合わせの様に見えるけど。父がそうだと知ったのはずいぶん後でね。その頃には、母との間はこじれまくっていたなぁ。子供の頃は、母の希望を叶えて喜んでもらえるのも嬉しかったけど。どんどん閉塞感が強くなってきてさ。僕は僕でしかないんだからって思う様になったら……もうだめで。」
「自分の歩きたい道があればあるほど、辛いよね」
「まあ、僕が一番嫌だったのは、あの人達が僕と泉を作ったことだけど」
冷え切った瞳をして、そんなことを言う。
「龍樹さん……、お母さんが嫌い? 本当に?」
「……好きじゃない。それでも、親だから……」
ああ……。
「よかった。嫌いって言わないでくれて……」
本気で言った。龍樹さんが、本気で誰かを憎むなんて、思いたくないから。
暖かく微笑む彼が、好きだから……。
「彼女も余所に恋人がいた。現場、見ちゃってね。父のことが分かる前だったから、結構ショックだったな。今だったら、まあ、しょうがないかなって気持ちにもなれるんだけど」
『君のおかげかな』なんて、信号待ちの間に耳たぶを噛まれて、囁かれた。
「君が桂川の家にはいること、僕が反対してるのは、父のこともあるからなんだ。君は、彼の好みだと思う。僕は誰とも君を共有したくはない。君だって、嫌だろう? 義理の親に迫られたら」
「……そ、それは確かにヘビーだなぁ」
「ただれた桂川家の内情…なんて、安っぽいドラマみたいだな」
龍樹さん、無理して乾いた笑い、しないでよ。
「君の子供が、変な影響受けなきゃいいけどね」
くすっと笑って、彼は続けた。
「僕らの夜の生活を邪魔されないのは確かにありがたいが。僕にとっては君を僕から奪う驚異だけど、やっぱり伯父としては心配だね……。子供は、自分で環境や親を選ぶことは出来ないんだから」
「うん……」
何が良くて、何がダメか……俺にはまだよく分からない。ただ……。
「俺……とにかく、望まれなかった子供だとは思われない様に育てたい。それだけ」
誰かに必要とされるって、すごくエネルギーになるんだ。
今の俺の様に。
俺を、欲しいと思ってくれる人がいるだけで、生きようって気がしてくるんだから。
「龍樹さんが俺を生かしてるんだよ。子供にも、俺と同じ幸せを与えたい」
だから、いらないなんて言わないで。憎いなんて思わないで……