密やかな触媒
第一回
朝の電車ホームはあわただしい。
通勤通学客はそれぞれの習慣的な位置関係を保っているが、海開きをすぎると、レジャー客をも呑み込んでのふくれ具合を示すのが、俺が利用してる路線の下りホームなのだ。
いかにも磯遊びに行きますな風体の集団などを線路越しに眺める季節も、もうすぐ終わりという晩夏。
夏休み直後とはいえ、後期試験を控えて戦々恐々な毎日に、俺のため息は深くなる。
いっそのことさぼって反対ホームに行ってしまうかって気分にもなるが、やはり一人ではつまらない。寄り添う恋人や、友人達がいてこそレジャーも楽しいのだから。
俺は向坂拓斗。医学部の一年生。
恋人はいるが休みのあわない水商売。
もちろん彼は、俺が一緒に行こうと誘えば臨時休業もいとわないだろうが、そんなことで仕事を休ませるわけにはいかない。長い休みを取ったあげく不慮の事故でさらに長く休んでしまった直後だし。客商売が休んでばかりでは成り立たない。
……彼……なんだよ。俺の恋人……、桂川龍樹さん。
5つばかり年上の男。
一緒に住み始めて5ヶ月程だが、出会ったのは一年以上前。
俺にとって、今一番大事な人だけど、ほんの少し重荷でもある。
主な原因は……ヤキモチ。
とにかく独占欲強くて。今朝も朝からちょっとケンカした。
残暑の暑さにもかかわらず、襟をきっちり絞めておかないと見えてしまうところにキスマークをつけられたから。文字通り、所有欲から来るマーキングなんだよね。
やめてって何度も言ってるのになぁ。
また今日も下世話なからかいにさらされることになるわけで……。
……ぁ、やば……腹痛くなってきた。下しそうだ。
「向坂くーん」
鈴を振るような高い呼び声に、俺は腹に手をやったままゆっくり振り返った。
「おはよ」
駆け寄って俺の横に立ったのは水野彩。近所のマンションに一人住まいの同級生だ。
「今日のおべんと、なあに?」
俺の荷物を眺めながら言う様子は色気より食い気。
「おまえには関係ないだろ」
「あっ。ひどい。私の分は?」
「何でおまえの分があると思う?」
「……昨日マスターに電話注文しておいたからよ」
「聞いてない」
「うそー、うそー、笑いながら、いいよって言ったわよ? ついでなんだし」
本当に悲しそうな顔をしていいやがる。
携帯電話を持ち出した水野を見て、慌てて言った。
「うっそ、ほらよ」
鞄から紙ナプキンにくるまれた弁当を出して渡した。
学校で渡す予定だったが、まあ、今荷物が軽くなる方がいいにはいい。
「配達料込みで1000円だ」
「ツケにしといてね」
「龍樹さんから伝言。他言無用だし、見ても俺のと同じにはみえないようにつくったってさ」
そう。俺の恋人は料理上手。食事も人気の喫茶店店主で、つまりプロだ。
プロだからこそ、水野の注文も受けたわけだが。数が増えるのは嬉しくない。
俺たちの通う大学は県央にあり、周りは結構不便な上に近所の店は不味いし高い。頼みの学食も、不味いので有名。故に俺の弁当は級友達の羨望の的だったりする。
それを、水野が手に入れたとなると……。何を言われるかわからんから。
まあ、俺の恋人が超絶美形の男だというのはクラス全員知っている。水野と俺の仲がどうとか、そういう想像にはなりようがないが。俺の荷物が増えるのは嫌だしね。
通常こんな注文受けるわけないんだが、俺が拉致されたときに水野は協力してくれたという恩がある。だからこその特別扱いなのだ。
だが。この弁当を渡されるときに、龍樹さんはすごい目をして俺を見据えた。
「彼女と必要以上に接近するなよ。あくまでも客だからね」
……何を疑ってるんだか。
俺が水野と浮気するとでも思ってるのかな。本当に焼き餅焼きなんだから。
朝から濃厚なキスで迫って来やがって。
危うく一時限目に遅刻させられそうになったけど、キスだけで切り抜けたんだが、マーキングやられた。
マジ大変。
今日は龍樹さん、ほっぺに俺の手形付けて商売するんだなぁ。
パーで殴ったけど、きっちり指の跡までついてたもんなぁ。
……何時までもやめない上に息子に指を忍ばせてきたんだからしようがない。
泣きそうな瞳で俺を見据え、しょんぼりと送り出す様は、何だかこっちが悪いような気がしてくるから困る。
また、客達に下手な心配かけるんじゃないか?
俺たちの乗る駅は、隣の駅が大きな普通車待避駅のため、結構乗る客多くても各駅しか停まらない。各駅に一駅乗って、快速特急に乗り換え、横浜からはJR。結構めんどくさいんだよね。
「水野……さ、えらく遠い場所にマンション買っちゃって後悔してない?」
「何よ、急に。後悔してたらとっくに買い換えてるわよ。美形のマスターが居る美味しい料理の店がそばだし、この辺物価も安いし。別に通学なんて苦じゃないわね」
……とかいいながら、俺に時間あわせて乗ってきて、結局俺がガードして学校まで行くのが常。
うーん、そういうところが龍樹さんが怒るところか?
でもなぁ。横に知り合いの女の子がいれば、ガードしちゃうよな。
乗ってる電車、結構痴漢とか居るらしい。実をいうと、俺もやられたことあるし。
男に。股間掴まれた。びっくりだよ。男の痴漢なんてさ。
「向坂君と一緒だと、痴漢も来ないしね。向坂君もでしょ?」
……また読まれた?
こいつ、本当に悟の化け物みたい。
「何、お前、知ってるの?」
「ほら、向こうのドアのとこの眼鏡君。アレ、向坂君ねらいよね」
そっと目線の移動だけで水野が示した場所には、確かに眼鏡をかけたサラリーマンがいた。
目が合いそうになって、慌てて目を伏せる。
一瞬光った眼鏡が、なんだか凄い不快感を思い起こさせた。
頭がズキンとする。アイツ……どっかで見た様な?
「……根拠は?」
水野が俺狙いだと主張するのは何故か、知りたかった。他人に判るほどの何があったんだ?
「いっつも見てるじゃない? 視線に気づかない?」
暗に鈍感と言われてるような気分がして、俺は力無くうなずく。
「目は口ほどにものを言いっていうけど、本当にそうよね。ちょっと気持ち悪いくらい」
冗談ではなく、水野は小さく身震いした。
「あたしが向坂君にくっつくと痛いくらいに睨まれるの。ちょっと怖いわね」
「……うん」
なんでだろう?
俺だって、視線を全然感じないと言うほど鈍感じゃないつもりなのに。
言われるまで、あいつの存在には気づかなかった。
そういってるそばから、乗換駅に到着。
俺と水野は連れだって乗り換え専用階段を上る。
「降りるときにさ、落ちたんだよ。ここで」
「え?」
水野は一瞬不思議そうに眉をひそめ、それから、ああとうなずいた。
「派手に包帯巻いてたときね。打ち所悪ければ死んでたわね」
「初めて救急車乗ったんだぜ。覚えてないけど」
「あはは、損した気分?」
「まあね」
ことさら愉しいことのように話題を続けるのは、後ろから来る男を意識してのこと。
気づかなければ、どうということもなかったのに。
イヤだなぁ。あいつもこっちの路線に乗り換えかぁ。
俺たちの行く大学は、乗り換えが二回。路線も3種類の会社の私鉄をはしごする。
結構面倒だし、時間もかかる。
車の免許があれば、車で通学したいくらいだ。
龍樹さんが迎えに来てくれて載せて貰ったとき、言わなかったけど随分楽だなって思ったし。言ったら最後、毎日やってくれちゃいそうで怖かったし。
「免許……とろうかな。今度の休みに」
ため息混じりに呟いた。
「車は車で面倒じゃない? 時間はっきりしないし。結構疲れるわよ。運転も」
「って、水野って免許あるの?」
「うん。こっち来てからほとんどペーパーだけど。実家の方だと、免許無いと色々不便なのよ。バスの本数少ないし」
「いいな〜。俺だったら、多少疲れたって、痴漢が出なくて座っていける方がいいけどなぁ」
「……階段落ちたとき、押されたんでしょ? 電車通学イヤになるのもしょうがないかもね」
ホウッと息を吐くと水野が俺を見上げた。
「明日から、車で行く? あたし、車出すから、乗っていけば?」
「えっ?」
何言い出すんだよ? そんなこと龍樹さんに知れたら……
「絶対ダメ。無理だよ。疲れるから電車通学してるんだろう? 俺のために運転させるわけにはいかねー」
「二人分の電車賃浮くと思えば、どうって事無いわよ。一人だと退屈だけど、二人ならそんなに苦じゃないもの」
実を言うと、申し出自体はかなり魅力的。
問題は、やっぱり龍樹さん……。
一緒に帰ったり、一緒に店に入っただけでジロッと睨んでくる嫉妬深い恋人が、水野みたいな可愛い系の運転する車で二人きりなんて言う状態を許すわけがない。
「まあ、あの男を避けるために、暫定的にやってみるってのも良いかと思ったんだけど……」
だめ? と見つめられて答えに窮する。
即座にダメと言うべきだったんだけど、後ろのねちっこい視線に気圧された。
自覚してしまうとダメだ。
気持ち悪いくらいにうなじがチリチリする。
「あの……さ。試しにって事で。龍樹さんには内緒にしてくれる?」
水野は途端に破顔する。
「秘密ね?」
悪い人……なんて呟きに、俺はうなだれた。
なんか。凄いいけない事してる気分。
ばれたらどうなるかな。俺、また首絞められたりしちゃう?
「絶対、内緒な。ばれたら、多分、マジ殺される」
浮気じゃない。
緊急避難的措置だ。
ただ、車に乗せて貰うだけ。それも、水野なら薬持ったりする心配ないはず……。
女だし。力ずくも有り得ない。
「じゃあ、駅で拾ってあげる。時間は……そうね。一応余裕見て、今日より10分早めに。多分、順調にいけば、30分くらい早めにつくはずよ」
後ろの男に聞こえない音量でひそひそ話。
端から見れば、俺たちってカップルに見えるよな。多分。
そういう考えがあったにも関わらず、俺は思いつかなかった。
水野を巻き込んでしまうことになるって……。
俺が水野の車で通学し始めて三日目。
水野は約束通り龍樹さんには内緒にしてくれている。
お客に見られる可能性も考えて、ピックアップして貰う場所は人通りの少ない駅裏にして貰った。
龍樹さんが気づいた様子はない。気づいていたなら、追求してくるはずだし。
別に悪い事してるつもりはないんだけど、後ろめたさはあった。
秘密にしていること自体が、彼への裏切りのような気がして。
だから、その夜いきなり龍樹さんがベッドに入らず俺を見下ろしたとき、少しドキンとしたんだ。
「今日から僕はソファーで寝るから」
艶やかな金色に近い茶髪を揺らしてギリシャ彫刻みたいに整った顔の恋人が枕と毛布を持ち上げた。
俺は落ち着いた琥珀色の瞳を見上げた。
「どうしたの?」
いつもなら、俺を抱きしめて眠るのに。
しかも彼の手の定位置は、俺の……大事な場所。握られたまま眠るのって、結構落ち着かないんだけど、だいぶ慣れた。
後ろから体を重ねてきて、彼がその気になった時なんて、すぐそれと判るくらい密着して眠るのが常。
夏場は暑苦しくて、だからこそエアコンを最低温度にしていた。
そんなときでも彼は俺を手放さなかったのに、なんでこの肌寒くなり始めた時期にそんな事するんだろう?
ケンカはした覚えがない。
今日だって、夕食は店のまかないだったけど、学校のこととか試験のこととか、俺の話をニコニコ聞いていたのにな。
「明日から試験だろう? ちゃんと睡眠とっておかないと、頭働かないよ」
おやすみ。と、言い置いて、俺が言葉を差し挟む余地がないくらい素早く寝室を出ていってしまった。
もう、五日もしてない。店が忙しくても、今までそんなこと無かった。
いつも、ねだってくるのは彼の方で。
こっちが困るくらい絶倫で。
中三日あけた後なんて、一晩中眠らせて貰えなかったのに。
今日辺り、きっとするなって思って風呂で綺麗にしておいたのになぁ。
「あんな風に言われたら、してって言えない……」
確かに、明日から後期試験だし。勉強そっちのけで求めたりしたら、浅ましいって思われちゃうかも。
いや。自分の中の後ろめたさが、彼を追わせなかったんだ。
ちゃんと説明しろって問いつめたり、求めたりすることがためらわれたのは……秘密の重荷のせいだ。
そう考えたら、半立ちだった俺の息子も萎えた。