Heavenly Blue
第九回

「知らない……人の筈だ。でも、イヤな感じ。だって……名字が……」
 拓斗のつぶやきで、僕はある人物を思い浮かべる。
 はにかんだように笑う人だった。いつものんびりコーヒーを飲みながら、何故ここでは酒を出さないんだ? と聞いてきた、ビール好き。甘いものは好きじゃないくせに、日参していた客。そう、支店で常連だった……
「清水……さん?」
「まさか。彼は男だし。名前だって違うし」
「彼の住所、どこだっけ?」
「あー。アレは自宅じゃないのかも。スタジオ? 写真やってるって言ってたよね」
「奥さんとか、姉妹とか?」
「え。でも彼って……」
 ゲイなんじゃ。
 はっきり聞いた訳じゃないけれど、そんな気がしたんだ。
 僕の沈黙した先を、拓斗はちゃんとくみ取っていた。
「姉妹だったとして、なんで?」
「わからないよ……」
「知り合いの知り合いかも……なんですね?」
 僕らの日本語の会話に割って入った王河が、スティーブに通訳した。
 スティーブは、ほとんど日本語が出来ないから。
 ほぼ英語の出来ない拓斗とスティーブを一緒の会話に入れるには結構気を遣う。
 僕としては拓斗を優先したいし、王河という名通訳もいるから、日本語で話すことにした。
「でも、清水さんが、僕らにこの旅行をプレゼントしてくれたんだ」
 そんな彼が、こんな嫌らしいこと、するわけない。
 王河の通訳した僕の台詞にスティーブが目を丸くする。
「ただより高いものはないってことですね」
 スティーブの呟きを、王河はそう訳してよこした。
 王河の意見でもあったのだろう。
「この撮影場所は?」
 王河が考え深げに尋ねてきた。
「ホテルのビーチだよ。誰もいないと思ったんだけど……」
 拓斗の答に肯きながら、王河の言いたいことを肯定する。
「清水真沙子って、ホテルの客の可能性有りだな」
「まあ、確率高いだろうね。あそこのビーチをうろつくために余所の島から訪ねてくるってのは、ありそうもない」
 『ハウスリーフ目的ならともかく』と、スティーブが続け、王河がそうだと肯きながら、携帯電話を取り出した。
「宿泊客名簿を確かめてもらいましょう」
 それだけ日本語で話すと、早口の英語でしゃべり出した王河を見つめ、拓斗がため息をついた。
「ドウシタノ?」
 極々簡単な日本語は、スティーブも出来るようになったようだ。
 優しげなまなざしで、拓斗を眺める様子は、別人の様で。
 拓斗も、いささか拍子抜けの体でスティーブを眺める。
「いや、やっぱり、最先端で仕事してる人って、動きが速いなと思って」
 通訳してやれば、スティーブはにっこり笑った。
「そりゃあね。王河はうちの社員の中でも特別だよ。中身は特別な機械で出来てるんじゃないかなって思うときもある」
 早口の英語でそう言っても、拓斗は首をかしげるばかり。
「王河は、スティーブの自慢の腹心なんだよ。中身は機械かもって言ってるけどね」
 拓斗はくすっと笑った。
「そりゃ、ありうるかも」
「いましたよ。やはり」
 王河が電話を切って僕らのところに戻ってきた。
「入国は24日です」
「俺らと一緒だ。同じ飛行機だったのかな?」
「……かもね」
「室内の写真はないようですし、部屋に盗聴装置など仕掛ける余裕はないでしょうが、念のためにお帰りになったら調べた方がいいですね」
 簡単な電波探知機を渡され、僕は素直に礼を言った。
「ありがとう。そうするよ」
「何でも持ってるんだね。仕事でここまで来てたの?」
 王河は、拓斗の問いに微笑みで答えた。
「ここに来た目的はプライベートなんですけれどね。仕事を引きずってる人がいますので。困ったものです」
 途中から英語に切り替えて、ちらりとスティーブを見る流し目は、壮絶なほどの色気を含み、確かにプライベートなんだね? とわからせるものだった。
「わ、悪かったな……」
 ウッと身をちぢこませながら呟くスティーブの、子供っぽい表情は初めて見た。
「尻に敷かれてるんだな」
「……君に言われたくない」
 なんて囁き合いは、お互いのパートナーにはあまり聞かせたくなかったが。
 王河はぷっと笑い、よけいなことだというのに拓斗に通訳して聞かせて、笑いを誘う。
「まあ、プライベートでもこのての装備は常備ですよ。色々しがらみがありますのでね」
 仕事の顔をして、王河が拓斗に言った。
 感心した風に拓斗はうなずく。
「ところで。そろそろ夕食にしたいのですが、よろしいですか?」
 僕たちは否やもなく、王河の作った中華料理を馳走になった。船にお抱えシェフをおかずにいるなんて、本当にプライベートかも。
 そういえば、操縦も王河だったし、ほかの乗組員も見かけない。
 一般的な大きさのクルーザーだけに、あり得ないこともないが、あのスティーブが、周りに使用人を侍らせてないのは初めて見た。
「全部、王河がやってるの?」
 あまりに珍しい光景なので、つい言ってしまった。
 瞳だけを微笑ませ、王河がいう。
「スティーブも、ちゃんと当番をしてますよ。バスタブの掃除とか」
「ええっ?」
「あ、当たり前だろう? 二人しかいないんだから、やれることは分担してやるさ。あ、そのチキンは私が作ったんだ」
 頬を染めてのスティーブの発言にのけぞる。
 縦のものを横にもしない人だったのに。この鳥唐を、スティーブが?
 じーっと観察してから口にしてみた。ふつうに美味かった。
 僕はそこで改めて、王河の実力を認めた次第。
 彼は教育係としても一流だったようだ。
「プライベートで過ごすときに、他人の目があるなんて、いやじゃないですか」
 すっきりした香りの凍頂烏龍茶を入れながら、王河が呟く。
「……たしかに」
 頷きながら、二人の見交わす瞳の優しさに、僕は安堵を覚えた。
 これなら本当に大丈夫。
 今回は僕らの方が彼らの蜜月を邪魔してしまったのだな。
 申し訳なさを口にしつつ、ホテルまで送ってもらった。
 帰るとまず部屋をチェックし、盗聴装置もないことを確かめて。
 ホッとした途端、さすがに疲れを覚え、シャワーを浴びてすぐに眠った。
 ピックアップの2時間前には起き出して、朝食をすませ、支度を調えておきたかったから。



 漁民の島は、文字通り漁民の村がある島だ。
 モルディブみたいに小さな島の集まりは、こうした特化した島も構成要素になる。
 リゾートホテルのみで構成される滞在地は、モルディブという国柄はほぼ反映されていない。現地人の住まいぶりなどをのぞき見する場が、漁民の島なのだ。
 ドーニで移動、簡単な案内の後自由行動となる。
 ホテルのオプショナルツアーに申し込んだ急ごしらえの団体は、すぐに散り散りになった。
 観光客向けの土産物売りが近寄ってくる。
 拓斗が珍しくアクセサリーを手に取った。
「……タイガーシャークの牙だって。気に入ったの?」
 鮫の歯を加工して、紐を通しただけのペンダントだ。
 それでも拓斗はきらきらした瞳でそれを見つめ、欲しいと意思表示する。
 他の牙ものより数段高価であるが、宝石よりは断然安い。自分の財布を取り出した彼を抑え、値段交渉して、他のアクセサリーをいくつか併せて購入した。
 その場で、拓斗の首にはタイガーシャークを架けてやる。
「あら、似合う、似合う。小麦色の素肌にぴったりね」
 僕の言おうとした台詞を先取りした声に、僕は固まり、拓斗はカアッと赤くなった。
 微笑みかけてきたのはあの女。食事の時に、無断で写真を撮った女だ。






  

素材:トリスの素材市場