龍樹&拓斗シリーズ
優しい毒

 

12

 借りた服をクリーニングして返してから、俺は心に決めた通り龍樹さんに会うのは避けようとしていた。
 コンビニの弁当と、自分で煎れたコーヒーで我慢して……。
 日に一度はかかってくる電話では、まだ調子が悪いって言っておいた。横浜市大に落ちたってのも調子の悪い理由の一つだったけど。取りあえず逃げの一手って事で。
 それなのに……。
 五日後に紫関さんが事情聴取だといって呼び出した先は準備中の札を下げた『El Loco』だったんだ。
 久しぶりに耳にしたドアベルは俺を責めるように響いて。
 龍樹さんは、紫関さんがいるせいか平静な瞳で俺を迎えた。いつもの嬉しそうな微笑みも無し。
 で、聞かれたことに答えてるうちに、龍樹さんが一度も俺のことを見ないのに気がついた。巧みに視線を逸らして、顔はこっちに向けていても、決して俺を見ようとはしなかったんだ。
 ホッとしていい筈なのに、がっかりが胸の支えになってた。
 龍樹さんに避けられるのって、想像以上にショックで。
 しかも俺を助け出したときの話になったら、さりげなく立ち上がって厨房の奥に消えてしまった。
 紫関さんが笑いながら、照れてると後ろ指さしたけど、俺には照れてるというより怒ってるみたいに見えた。
 事情聴取らしくない会話で、俺を助け出したときの龍樹さんの様子を教えられた。
 まず、葉山さんは龍樹さんを見た途端幽霊でも見たような顔で悲鳴を上げたんだそうだ。
 その時の龍樹さんの形相ときたら、噛みつかんばかりの、いつもとは想像つかないくらい怖い顔だったそうで……。
 食ってかかって、怯えてる葉山さんから俺が海の中だって聞き出して、即座に俺が落ちたところから飛び込んで……。やっとの事で見つけた俺が息してないとなったら、心肺蘇生法やりながらも半狂乱だったって……。
「救急車なんか待ってられないって、俺に無理矢理送らせたんだぜ。あいつは普段大人しいくせに、昔から言いだしたらきかない奴でさ。もう、周りの奴らもあきれ顔よ」
 紫関さんは迷惑がってない笑い顔でそう言った。
 この人は龍樹さんが俺のことどう思ってるか、もうお見通しなんだった。いや、その場に居合わせた人達みんな……。
「龍樹に引導渡してやってくれないかな」
 紫関さんが急に真顔になって俺のことを覗き込んできた。それまでは、事情聴取とは名ばかりの和やかな雰囲気だったのに。俺のこと、少し怒ってるみたいにも感じられた。
「あいつが真剣なのは分かってるよね? ただ避けるんじゃなくて、はっきりふってやってくれ。あいつは、紅林綾芽みたいな悪あがきはしないはずだから……。俺が諦めさせるから」
 龍樹さんの戻ってくる気配がないことを目で確かめながら、小声で言う紫関さんは、全て判ってるというように俺を見据えていた。
 なんかムカついた。龍樹さんにそんな影響力を持ってると信じる男の存在。
「龍樹さんに頼まれたんですか?」
「あいつがそんな事する訳無いじゃないか。あの日、あれから何があったかは知らないけど、以来龍樹は……抜け殻みたいでね。君がどうしてるか聞いて探りを入れて見れば、来ないから分からないの一点張り。煎れるコーヒーはまるで泥水みたいだ」
 少しホッとした。だって、これは俺と龍樹さんだけの問題なんだ。
「……俺、前に言われたときには断ってるんです。友達でいいって、龍樹さんにも言われて……。龍樹さんの気持ちは、そんなんじゃないって何かにつけて俺に知らせてくるけど、それはあくまでも信号で、嫌とかだめとか、そういう返事が出来る感じじゃないんですよ。だから俺…………」
 言いながら説得力無いなって内心溜め息ついていた。
 実際、俺自身それが言い訳に過ぎないのをよく知っている。龍樹さんと関わっていたいってのは結構俺にとっては捨てきれない想いだから。
 さっきの感情だってそれを証明してた。
「友達でいるわけにはいかないくらい、龍樹さんの気持ちは重くて……。怖いくらいで……。そうです、俺、逃げてたんです」
「そうか……。そうだよな。俺だって、逃げ出すな……、きっと。いや、立ち入ったこと言って悪かったな。ただ、龍樹があんまり……」
 言いかけたところで龍樹さんが何か持って戻ってきた。そばで見たら大きな盆に沢山のクッキーの包みが積みあがっていたんだ。色とりどりのリボンで飾られた、小さいけれど可愛らしい物。
「頼まれてた物。忘れるとこだった。こんな包み方でいいか?」
「あ? あ……ああ……」
 頼んだ本人らしい紫関さんはまるっきり忘れていたのか、鳩が豆鉄砲という顔で返事をした。
「こっちの小袋に入れて、このシール貼って。それくらいは自分でやってくれよな!」
 言いながら龍樹さんは手提げ袋にザラザラとクッキーを落とし込んで、小花模様の小袋とリボンの形のシールのシートをその上に載せていた。
 紫関さんは龍樹さんに袋を渡されるときも同じ表情。龍樹さんは無表情なまま。いつもの営業スマイルすら浮かべていない。
 俺があんぐり口開けてそれを見ていたからだろうか。
「ホワイトデーに使うお返しなんだ。連名で寄越しやがるから、返すときはえらい散財でね。返さなきゃ返さないで、後々までひびくしな」
 言い訳がましく説明する紫関さんはちょっぴり顔を赤くしていた。
「ラッピング材料の分しか金寄越さないくせに……どこが散財なんだよ? いっとくけど、商売物じゃないから、味に自信ないぞ」
 声に笑いを含んでいたけど、やっぱり紫関さんの言うとおり、龍樹さんは元気なかった。
 紫関さんに言われるまでもなく、俺は逃げ続けるわけにはいかなかったんだ。俺の中で、龍樹さんて人は思ってたよりずっと大きな存在になってて……。
 考え込んでいた俺は視線を感じてふと目を遣った。龍樹さんがさっと視線を逸らした。耳元が少し赤くなっていて……。
(俺は……)
 あの視線は俺のことをまだ好きだって……、忘れられないって、露骨に告白していた。そらせた目元はそんな自分を叱りつけている感じだった。
(俺は逃げられない)
「じゃ、俺、署に戻るわ。拓斗君、ご苦労だったね」
「いえ」
 紫関さんが立ち上がったけど、俺は龍樹さんの煎れたコーヒーを見つめたまま答えた。もう、とっくに冷めちゃってる。ここで出された物を口にしないままなのってこれが初めてだ。
 紫関さんが泥水だと言ったコーヒー。ほんとにそんな味だろうか。
「……帰っていいよ?」
「あ、これ飲んでから帰ります。警察のおごりですよね? もったいないから……」
 ぶっと、息を吐いて、紫関さんは優しく笑った。
「ああ、俺の! おごりだよ。心して飲めよ」
「はい」
 俺は自然に微笑んでいた。紫関さんて、そういう雰囲気持っている。もちろん、コーヒーはここに居残るための言い訳に過ぎない。
「じゃ」
「ああ」
 龍樹さんとのやりとりはほんの短く。
 頭を掻き掻き出て行く姿は、何となくひょうきん。
 さて、と、冷めたコーヒーを啜ろうとカップに手を掛けようとしたら、ソーサーごとさらわれた。
「?」
 見上げた視線は怒ったような冷たい視線とぶつかった。
「冷めてるから」
 ぶっきらぼうな言い方。こんな龍樹さんは初めてだ。
「いいよ、冷めてても」
「僕がいやなんだ。煎れ直す」
 ぷいっと背中を向けてコーヒーを煎れ始めた。
 この香りはモカとコロンビアの組み合わせ?
「……怒ってるの?」
「なんでそう思う?」
「俺が逃げてたから」
 肩がぴくって震えた。
「逃げていたの? 気がつかなかったな。何から?」
「俺、そういう龍樹さん、嫌いだ」
 言った途端に店中の空気が凍り付いた。俺の言葉が切り裂いた龍樹さんの傷口が、見えない冷気を吐き出している。
 龍樹さんが振り返った。わななく唇も、凍り付いた瞳も、吐き出したい言葉が出詰まって苦しいと訴えている。
 俺は俯かずに龍樹さんを見上げていた。
 紫関さんに言われたからじゃない。けじめる時期なんだって思ったから。
「……分かってるくせに、そうやって気づかない振りしてごまかすの……嫌なんだ。こんな中途半端、もう、お終いにしようよ。俺、龍樹さんが俺のことでそんな顔するの、耐えられない。だから……」
 ガチャンと音がして。
 サイフォンを叩き付けるようにして置いた音だった。
「分かった! 終わりにするよっ」
 いつも低く穏やかにひびく声音が裏返って引き裂くような叫びに聞こえた。金色の瞳が潤み始めた。縋る光はなく、ただ苦痛だけが浮かぶ歪んだ龍樹さんの顔。
 俺に見られるのが嫌だったのか、俯いて顔を隠してしまった。
「お、男らしくないのは分かっていた。振られたのに、友達だなんて……君を悩ませてしまって……。僕……僕は…………っ」
 俯いたまま肩を震わせる龍樹さん。柔らかなウエーブの金色に近い茶色の髪が表情を覆い隠してしまっていたけれど、泣いているって分かる。やがてポトリと落ちてカウンターにはじけた滴がそれを裏付けた。
「避けられてるって分かってるのに……。だけど……好きなんだ。この気持ちはどうしようもなくて……。気がつけば君のこと考えてる。なんにも手が着かなくなるほど君で頭が一杯になってしまうんだ……。厭がられてるのに。嫌われてるのに……ぼ……僕は……僕は……い……つか、振り返って……も、貰えたらって……っ。君……に……あ、会えるだけっ……でもい……いいっから……って……」
 低い嗚咽が続く間、俺はこの人の涙の重さに眩暈を感じていた。
 とてつもなく重くて、暖かくて甘い。
「龍樹さん……勘違いしてる。俺、もう逃げないって言いたかったんだ……」
 龍樹さんが固まった。
「龍樹さんのこと、嫌いじゃないから悩んだ。今だって、俺、よく分かんないんだ。龍樹さんのこと好きだよ。大好きだ。けど………………」
 ゆっくりと顔がこちらを向いて……。泣きぬれた瞳が俺を見つめていた。今の俺の台詞が飲み込めるまでに時間を要したんだろうか。ぼんやり見つめるその瞳は、何の考えも浮かべていないみたいなガラス玉に見えた。
「嫌いって……さっき……」
「ごまかそうとする龍樹さんは嫌だって言いたかったのに。上手く言えないけど、俺、龍樹さんとちゃんと付き合っていきたいんだ。俺を気遣っておどおどするのやめて欲しい。逃げないから、ちゃんとぶつかってきて。俺は、嫌なら嫌って言うし、歩み寄りが必要なら考えるから。本気で考えるから……。友達って言葉で逃げる気ないから……。だめ……かな? ……怒った?」
 龍樹さんはカチッとスイッチの入ったロボットのように、幾度か瞬きをしてから深く息を吐いた。
「君って……君って奴は……。どういうつもりなんだ? 今の僕にそんなこと言ったら……」
「言ったら?」
「君を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない……よ?」
「龍樹さんはしないよ。そんなこと。信じてる。紅林さんとは違う。俺だって、葉山さんとは違うからね」
「……そういうことか……。それで君は……」
 その日初めて龍樹さんが笑った。乾いた笑いだった。
「確かに僕は君を愛してる。要するに君は僕が君の顔色をうかがうのが気に入らないんだね?
 君が逃げないと約束してくれて、僕が本音を出したとして……。君は僕を受け止めてくれるのか? 本当に出来るのか?」
 龍樹さんの言い方は、覆い被さるように高圧的で。かなり怒ってるように見えた。
「……で、出来るよ。自信はないけど、俺、逃げないって決めたんだから」
 半分くらいは意地で答えてた。
 龍樹さんはフッて笑ってエプロンをとると、カウンターの向こうから出て来た。座っている俺の側までつかつかとやってきて、俺の腕をとった。すごい力で椅子から立ち上がらされて。身長差のせいで、俺はつま先立ちのまま龍樹さんの腕に宙づり状態。
「キス……させて」
 覗き込んでくる瞳は青白い炎がちらつくみたい。本能的に腕を払おうとして、逆に力強い腕に引き寄せられてしまった。
「僕を受け止めてくれるなら、キス、させてよ……」
 言いながら唇が近づいてきた。形が良くて、程良い赤みを持った唇が、ほんの少し開いた形で……。吐息を肌で感じて、俺は……。顔を背けて拒絶した。本当に本能的な反応だった。考える前に身体が動いていたんだ。
 溜め息を頬に感じた瞬間に突き放された。
「ほらね。自分がどんなに残酷か君は全然分かってない」
「ごめん……」
 俺は思わず謝っていたんだけど、龍樹さんはそっぽを向いてしまった。
 視線をそらせた目元は朱に染まっている。やるせない微笑みを口元だけに浮かべて……。
 やがて深い溜め息の後、呟くように言った。
「いや、試したりして悪かった。僕は君を愛してる。それは覚えておいて欲しいけど。君に無理強いはしないから。今まで通りの付き合いでいいんだ。ただ、僕を避けることだけはしないで。君に避けられてるって分かったとき、すごく悲しかった……」
「龍樹さん」
 俺の言いたかったこと、全然判ってくれてないって言おうとして遮られた。
「もし! ……もしも、君が本当に受け入れてもいいって気になったら……。その時は拒まないで欲しい。それまで待つから……。一生その時が来なかったとしても文句言わないから。……ああ、君が僕のことを少しは好きになってくれてるのは分かってるからね……」
 んもう! 少しじゃないったら!
 あーっ、くそっ。これじゃ何にも改善されないよ。
 俺は確かに龍樹さんが好きなんだ。だけどホモセクシュアルの関係になるには、かなりの抵抗があるのも事実。
 龍樹さんは待つつもりだ。半分以上諦め加減のまま、俺が変わるのを……。もしくは自分の気持ちが変わるのを……。
 いいさ、龍樹さんがそのつもりなら、俺は今まで通りに甘えまくってやる。
 そういう関係なしに付き合うのなら、俺にはとっても楽な筈なんだから。
「分かった……」
 思いっきり親しげに笑い掛けてやった。
 でも、にっこりしながら胸の内で溜め息つきまくって。
 投げやりな気分になるのは何故だろう。どうしてもしっくりしない。今まで通りなんて無理だ。
 絶対、絶対、無理。
 ただの友達でいられるわけ、ないじゃないか。そんな風に龍樹さんを扱うなんてもう出来ないかもしれない。
 だって俺は……。
 だって俺は、龍樹さんを……。
 愛してる……?
 頭の中でぐるぐる歩き回ってた俺はハタと立ち止まってた。フッと浮かんだその言葉に、突然行く手を遮られ、立ち往生してしまった感じで。
 俺のために死んだと思ったときはぽっかり開いたブラックホールに落ち込んだような気がした。
 避けられてるって感じたときは寂しかった。
 龍樹さんが俺を特別扱いしてくれる度嬉しくて……。俺のことで嫉妬したり拗ねたりする姿は、変だなって思いながらも心の奥底では可愛いって感じてた。
 俺は……。龍樹さんて人を失いたくないんだった。
 でも。
 たった一度のキスで失敗しちゃったんだ。
 龍樹さんは本当にあんな状況でのキス一つで確かめられるって思っていたのかな。
 俺に勇気がなかっただけなのに。
 龍樹さんのテストに落ちた俺は、次のテストまでは今のままでいるしかないらしい。
 俺の変なこだわりが無くなるまで。
 いつか、一緒にいるのが自然な二人になれるまで。俺も、龍樹さんも芝居を続けるんだ。友達づきあいの芝居を。
 そうして俺は、龍樹さんが三度目の正直で煎れ直してくれたコーヒーを啜った。とっても苦くて、とっても美味しいコーヒーを……。