龍樹&拓斗シリーズ
優しい毒

 

9 

 軋んだ扉の音で目が覚めた。
 いつの間に寝ちゃったんだろう。ああ、身体痛いや。
「何時ですか?」
「四時よ。……拓斗君て、図太いわね」
 葉山さん、この状況で笑いながら言うの止めてくれよ。
「卒業式……フケちゃったな。俺の処分、決まりました?」
「そうね、今のところはまだ人質」
 言いながら俺を起こして足首に別のロープを結び始めた。歩けるように足の間に少しゆとりを持たせた戒め方。きつい方を解きながら俺を見つめた。
「陸上やってたんですって? 走れるほどのゆとりはないから、よけいな努力はしないでね。ほら、立って!」
「移動するの?」
「そうよ。……綾芽がマスターを選んだ訳、分かったわ」
「え?」
 俺を立たせながらクスクス笑った。それは意地悪そうに。
「綾芽はマスターが同性愛者なの判ってたのよね。あなた、マスターの恋人でしょ?」
「違うよ」
「ま、どっちでもいいわ。綾芽が預けた物、あなたを殺すって言ったら即座に燃やしてくれたもの。あなたがどう思おうと、マスターはあなたが大切らしい」
「……、処分してくれってのが紅林さんの遺言だから、マスターはそうしただけだよ。自分が死んだら出来れば中を見ずにってのが、あの人の希望だった……」
「そうなの?」
 葉山さんは片眉を上げて素っ気なく言った。あんまり信じていなさそうだ。
 それにしても、龍樹さん、俺がこうなってること、知ってるわけだよな……。
「助けが来るなんて思わない事ね。マスターには悪いけど、綾芽と同じもの、飲んで貰ったの」
「って……?」
「植物毒。あたしが二時間以内に戻らなければあなたが死ぬ。で、飲まなければあたしは『El Loco』から出て行かない。
 何されたって、あなたの居場所なんて教えてあげないってね。……そう言ったら、躊躇い無く飲んだわよ」
「んな、馬鹿な……」
「馬鹿よね。ほんと。あなたが恋人じゃないとしたら、片思いの相手? その程度の人のために、人生捨てられるなんて……。信じられない大馬鹿だわ」
 なんか、腹が立った。
 腹立てながら、嬉しいって思ってる自分が居るのも意識していて……。
 自分の心はあげないで、人が自分をそれほどに思っているって事に満足する俺……。最低な俺は、この人のことを怒る権利ないのかもしれない。
「でもっ! ……俺はあの人を大切にしたいと思ってる。ホ、ホモじゃないけど、そんなに成れないけど、でも……」
「馬鹿ね。それで彼が満足すると思う? いつか爆発するわよ。綾芽みたいに。どこまでも平行線の関係に、歩み寄りなんてないわ。あったら、こんな苦労しない……」
 言いながら、俺を引っ張った。扉をくぐり、狭い階段を上って、別の部屋に出た。
 さっきのくすんだ煉瓦色のかび臭いところとは段違いにきらびやか。一つ一つの調度が目の玉が飛び出るような値札をつけてたんだろうって感じで。歩く度沈む気がするほどふかふかの絨毯を敷き詰めた廊下を抜けて、玄関ホールらしいところに出た。外国の家みたいに、土足OKの造りだって判った。
 あの絨毯を土足でなんて、なんか、すげー贅沢。
「ここは?」
「紅林家の別荘よ。綾芽の専用。……あたしに鍵までくれてね。どうやら、このぐらいでは資産にも入らないらしいわ」
「……。金持ちは違うなぁ……」
 葉山さんがふっと笑った。
「ほんとよね。綾芽は欲しいものを何でも手に入れることが出来たわ。お金で済むものなら何でも……。あたしが一言可愛いって言っただけで、あの車だって買ってよこしたわ」
 口調が冷たかった。その冷たさに、俺はヤバさを感じた。俺の未来は決められてる。とっくに。
 龍樹さん……。俺、どうやって償ったらいいか判らない。俺のせいで俺が死ぬのはしょうがないけど、龍樹さんまでってのは、ほんとに、ほんとに…………。
「あら、泣いてるの?」
「龍樹さん、死んじゃったの?」
「誰? マスターの事ね。綾芽の倍は飲んで貰ったから……。今頃は死んでるか、死にかけてるか……だわね」
「何でだよっ、そんな簡単に言うなよっ! ひっ人殺しといて、そんなあっさりと……!」
「だって……しょうがないじゃない。あたしが幸せになるためには必要なことなの。あなた達を巻き込んだのは綾芽だもの、恨むんなら綾芽を恨んでよね。ほら、歩いて! ぐずぐずしない!」
 背中をどんと押された。
「どこ、行くのさ?」
「とっても眺めのいいところ。海を見下ろせてね……」
 俺は毒じゃない殺され方するわけか?
「ちょっと、待てよ。殺す気なら、全部教えてくれたっていいじゃないか。俺、聞く権利あるよね」
 人が通ることで出来た獣道のような小さな坂を上りながら、俺は彼女に食い下がってた。
 俺を小突きながら歩く彼女は、クックと喉を鳴らして笑った。笑ってるのに、泣いてるみたいな感じに聞こえた。
「ほんとに変な所で図太いわよね。……人って、選べるとしたら、大抵の場合、色々余録のついている方を選ぶものよね……」
 それがなんなんだよ。
 俺のそんな心持ちを読みとったのか、ニッと笑ってから、不意に遠い目をして視線を空に向けた。
 坂の頂にたどり着いたのか、視界が開けて遠くに水平線が見えた。夕焼けが海と空をオレンジ色に染めて、波頭の影が黒々と蠢く虫のように見えた。
 後数メートル先に進めば、崖から海に真っ逆様らしい。
「綾芽と、あたしを比べたら、誰だって綾芽の方がいいに決まっていたのよ。ただ、綾芽本人がああだったから、誰も近づこうとしなかった」
 うん、あの人は近寄りがたい感じだった。
 振り返って俺に見せた彼女の表情は、百八十度ひっくり返ったように歪んでいた。
 俺の腕をとり、引きずるように断崖に近づいていく。
「綾芽はね………………。何時だってあたしの邪魔をしたわ。黙ってあたしの後ろに立って、必要に応じて微笑むだけ。それだけであたしのところに降ってこようとしてた幸せを取り上げてしまうのよ」
 声のトーンまで低くして憎々しげに言う彼女の瞳は潤んでいた。
「前にお店で暴れた人がいるでしょう?」
「あ、ナイフ男?」
「あの人もそう。綾芽を手に入れたくて無理して。カード破産までして……。綾芽はあたしを彼から引き剥がすのが目的だったから直ぐ彼に興味を失ったのに、追いかけてきて……。あの後傷害で訴えられちゃったのよ。あの人の人生、台無し……」
 哀れんでなんかいない口調で言いきった。
「あたしに近づく男は、結局は綾芽目当てだったのかもしれない。綾芽は綺麗で、お金持ちで、逆玉の代表格よね。だから、それだけなら悔しいけど、殺そうなんて思わなかった。あたしが彼女から離れれば済むことだと思ってたのよ。最初はね」
 最初は……? って……?
「だけど解決しなかった。あの娘……綾芽は道具使ってあたしを強姦したのよ」
 え? それって……?
「絡んでるシーンを写真やビデオにとって……。必要があれば脅迫に使った。あたしが離れることを、彼女は許さなかった。あたしを愛してるって……、そう言いながら、あたしを縛って、どん底にけ落とした」
 ……レズビアン?
「今度の彼は、綾芽になびかなかったから。あたしを選んでくれたの。そしたら、綾芽、写真を見せるって……」
「だから殺したっての?」
「…………」
 怒りで震えが来る感じって、端で見てると結構怖い。全身から火花がひっきりなしに散って、めらめらと熱い空気が炎のように発散されて……。
 小柄で、どちらかといえば童顔な可愛らしさを持つ彼女の今の表情は、心なしか般若の面のような雰囲気を持っていた。
「……そう……っ、そうよ!」
 いきなりひきつった叫び声をあげた。
「だって他にどうすればよかったのっ? 綾芽は一生あたしにつきまとうって! あたしを放さないって言った! どんな手を使ってもあたしを……!! 口先だけじゃなかった……」
 葉山紀代子は泣いていた。
「親友だと思ってた。綾芽は何でも出来て、綺麗で。あたしにないもの沢山持ってて、だけどあたしには優しくて。あたしは綾芽が好きだったわよ。綾芽が変な希望さえ持たなかったら。そういう関係にはどうしたってなれないって言ったのにっ。……セックスを強要されたわ! 何度も何度も、何度も何度も!」
 どこかで彼女は俺にオーバーラップする。
 本当に紅林綾芽が葉山紀代子を好きだったのなら……。
 愛情表現を間違えたんだ。
 俺だって、もしも龍樹さんがそういう行動に出たのなら……。俺の中の龍樹さんに対する好意は残らず消えてしまうかもしれない。
 愛してるってどんなに囁かれても、扱いが暴力的で人格を無視したものだったなら、心から受け入れるのは難しいだろう。それは同じ愛という言葉で表現されたものでも全く色も形も違うものだから。
「好きだって気持ち、同じだけ返すのは難しいよね……」
 は? という顔で黙ってしまった紀代子に見つめられ、俺は赤面した。
「好きだって言ってくれて、色々親切にして貰えるのは嬉しいけど、だからって相手の要求通り応えるのなんて、出来ないよね」
「……そうよ。あなた……、何言ってるの?」
「けど!」
 俺の声が張り上がったせいか、彼女が固まった気配がした。
「応えられないって分かった時点ですっぱり別れるべきなんだ。一切切り離して、あんな風に友達面して一緒にいるべきじゃなかったんだよっ。付いてきたって、コーヒー注文してやったり、そういう側にいること容認するような、そんなことしちゃいけなかったんだっ」
 言いながら、俺と葉山紀代子はにらみ合ってた。
「あんたの友達、何時かはってずっと期待させられてて、キレちまったんだろ? あんた、好きだって気持ちを利用して、友達って言葉で、受け入れる気もない奴の鼻面引き回してたんだろ。別荘の鍵や、車や……。一体どのくらいあの人から引き出したんだよ?」
 俺の言葉はそのまま俺を切り裂く刃だった。目の前にいるのは俺。狡い俺。
「冗談じゃないわ! あたしは何にも欲しくなかった! 断じて綾芽を利用しようなんて考えなかった!」
 唇を震わせて俺を睨みあげる葉山紀代子の瞳は、あんたに何が分かるんだ、と、言っていた。
 確かに。俺は言える立場じゃない。もっとひどい扱いを龍樹さんにしてる。龍樹さんが紅林綾芽のようにキレたとしたら……。
 俺はどんな行動をするだろう。
「殺したりしちゃいけない。どんなことがあったって、そんなけりの付け方するべきじゃないよ。あんたに他の人間の人生を奪う権利、ないんだからな」
 俺なら……。
 龍樹さんを殺すなんてきっと出来ない。
 出来ないとしたら……どうする?
「分かるわけないわよね。あの娘なら、世界の果てまで逃げたって追いかけてくる。どんな事してでもあたしを離すつもりないって……。逃げても逃げても逃げても……。影みたいに貼り付いて縋るような目でついて来られる気持ち悪さ……。分かんないわよね」
 嗄れ声が呪文のように俺の耳に忍び込んできた。
 気持ち悪いって、わかんないや。それくらいなら、もっとはっきり拒絶して……。
 でも逃げられなかったのか。
 えーと……。
 ぐるぐる考えている間も呪文は続いていたらしい。
「あたしは自由になりたかった……。やっと自由になれたと思ったのに……。あんたに邪魔なんてさせないわよっ」
 ものすごい力だった。
 言葉と同時に俺は突き飛ばされてたんだ。
 崖っぷちのぎりぎりで咄嗟に踏みこたえたけど。
 もちろん彼女はとどめを刺しにきた。般若の面のような形相のままで。気圧された俺は後ずさりながら、からからと小石の崩れ落ちる音を聞いていた。横目で見下ろした崖下は、岩場と海。
 落ちようによっては岩に頭をぶつけてスプラッタだ。
 俺のせいで龍樹さんが死んじゃったことを思えば、それもいいかもしれないけど。
 だったら俺は自分の力で龍樹さんの後を追いたいと思った。
 追いかけて、謝らなきゃ……。
 だから……。
 押される前に飛んだ。後ろ手に縛られたまま。
 最後に見た葉山紀代子の顔は驚きの表情オンリー。ちょっと溜飲が下がるってゆーか、ザマミロってゆーか……。
 次の瞬間、身体に圧力を感じて、とっさに表面張力の公式を思い浮かべた俺って、いったい…………。
 水は冷たかった。
 二月に水泳なんて、俺くらい……だよな。それもばた足すらろくに出来ないなんて。
 ああ、制服って重い……。
 俺は死ぬんだな……。手足の感覚が無くなってきて動かすのもかったるい。息はさっき吐いちゃって、もう続かないし。
 息できないことは苦しくて怖い筈なのに、どうでもよくなってきてる。なんか、すごく眠くて……。
 死んだら、もう一度龍樹さんに会える、謝るんだって思ったけど、そんな考えも、すぐよぎって消えた。
 ただ眠いだけ。
 もう……どう……でも……。