龍樹&拓斗シリーズ
優しい毒・1
 
2に飛ぶ
 
 コーヒー中毒ってあるかな。
 俺が喫茶『El Loco』に通うのは、コーヒーが旨いから。それだけの筈だった。
 俺は向坂拓斗(さきさかたくと)。医学部志望の受験生。今のところ、息抜きは『El Loco』のコーヒーだけ。
 俺の家族は、受験生の俺だけをおいて海外赴任してる。独りで住むには広すぎる家で一人暮らしの俺にとっては、『El Loco』は憩いの場所なんだ。
 年明けて本番に入った受験も山を越して、手応えはまあまあ。
 で、コーヒー三昧。
 ちりりんと涼しげに鳴るドアベルを揺らし、俺が店に入ると、いつもの温かく美しい微笑みが俺を迎えた。
 年若いマスターの桂川龍樹(かつらがわたつき)さんは、もう俺の好みをしっかり心得ていて、黙っていても俺の顔色からその日俺の飲みたいブレンドを読みとり、俺好みの温度と濃さでもって入れてくれる。
 気分の乗らないときはトラジャのみ。少しハイなときはマンデリンとモカの七対三。泣きそうな顔をして行くと、トラジャとキリマンジャロを八対二。
 その日は、ブルマンとモカのブレンドだった。
「この組み合わせ、苦いよ」
 どうして? 俺の定番とは違う。
 一九〇センチに見合う程度のバランスの良い体格と、ギリシャ彫刻のような整った美貌を持つ龍樹さんは、髪と同じに色素の薄いぱっちりとした目を細めて微笑んだ。
「苦いのが飲みたいって顔、してたよ」
「俺が?」
「うん、甘すぎて、とろけそうだって。何があったの?」
……別に、大したことじゃないんだ」
 龍樹さんとはちょっと色々あって、言いにくかった。
 俺にとっては兄さんみたいな人で、友達ってことになってるんだけど。
 龍樹さんにとっての俺は……
 以前、一度だけ告白されたことがあるんだ。
 惚れてるって。
 俺がそういう対象になるなんて、考えたこと無かったのに……
 龍樹さんのコーヒーも、料理も、龍樹さんとのおしゃべりも。全部好きなんだけどね……
 俺が、そういう目で龍樹さんを見ることが出来ない、友達でいたいって言ったら、彼は友達だと言ってくれた。気にしないでくれと……
 で、俺はその言葉に甘えてる。ほんとに龍樹さんの所は居心地がいいから。
……バレンタインかい?」
 穏やかな深みを帯びた龍樹さんの声が低く響いて、ぎくっとした。
「う……うん、全部義理チョコ……。不謹慎かもしれないけど、そういう気持ちだけで嬉しいって言うか……
「義理チョコでも?」
「うん。だって、嫌いな奴には義理だってくれないでしょ? 仕事とは違うもん。嫌いよりは、好きって言われる方が嬉しいよ」
「本当に好きな人からのが一つあればいいと思うけどね。ま、イベントだと思えば……、そういう考え方もあるか……
「龍樹さんは……貰わないの?」
 肩をすくめた龍樹さんは、瞳にほんの少し炎を浮かべた。
 …………やばい話振っちゃったかな。
「受け取りたいのは一つだけだしね。それは、多分貰えないって分かってるから……
 龍樹さんは、時々俺に思い出させる。
 俺を本当はどう思っているか。
 友達ってのが不本意な関係だって事、それとなく伝えてくる。
 いっそのこと出入り禁止にでもしてくれれば、それなりに吹っ切れるんではとも思うんだけど。彼は俺に来いと言ってくれる。
 時には開店時間より前の特別な朝食にも招いてくれたり……。それに、家庭教師まで買って出てくれた。
 彼は毛色の変わった人で、25の若さで、経験も積んだ外科医でもある。留学先のアメリカの大学で、めいっぱいスキップして医師になった後、激務で有名な救急医療センターで働いていた。
 日本に帰ってきて、国家資格だけは親に泣きつかれて取ったけど、家を継がずに喫茶店をやっている。
 自分は医者向きではないと言い張るんだ。能力は他人よりある筈なのに、人を治すことが出来ないって、思いこんでるようなとこがあって。
 だから、俺が医学部志望だって知ったとき、最初にぶつけてきた質問が、何故医者になりたいか? だった。
……で、受験の方はどう? 昨日、一つ発表有っただろう? まだ聞いてないけど」
「う……
 突然のボディブロー。こういうときの龍樹さんは、家庭教師の龍樹さんで、容赦がない。
 どうだったのかな? 早く言いなさい。
 そう目で言って、俺の顔を覗き込む。
 龍樹さんの目って、マジな顔だと、吸い込まれそうで怖いんだよう。
「落ちた……
 フム、と、考え込む気配。
「一次で落ちたという事は純然たるテストの出来って事だね。R大は……、だったよね? ……まあ、滑り止めだし。確か君、熱だして、帰ってくるなり失敗だったって言ってたとこでしょ。……後幾つだっけ?」
「本命混ぜて三つ……
「本命は一次通ってるんだから。またがんばりなさい」
「うん」
「と、いうところで。これ」
 目の前にコトンと置かれたものは。
 俺は思わず龍樹さんの顔を見上げてた。
「これ……?」
「渡せないと思ってたけど、つい、作っちゃったんだ。君が義理でも貰えるのは嬉しいって言ってくれたんで、勇気が出た」
 龍樹さんの浮かべた微笑は、あんまり切なく見えて、俺はすぐにテーブルに目を落としてしまった。
 それは可愛らしいチョコレートケーキ。直径五センチくらいの円柱状の、チョコレートコーティングされたもの。アーモンドのチョコレートがけとリーフチョコで花を形取り、その横に小さなプレート状のホワイトチョコが添えられ、to Takutoと、入っている。
……君のために作った。受け取ってくれるかな? 義理チョコにしてくれてもいいよ。受け取ってくれれば」
「受け取れないよ。だって、これ、義理じゃない」
「義理でもいいんだ。君は、人間としての僕を認めてくれてる。だから、避けようとはしてないよね。それだけでも、僕は嬉しいから」
「龍樹さんのこと、好きだよ。でも、違う気がして……。多分、龍樹さんとは違う気持ちだから……、だから受け取れない。だって、いくら義理だって思おうとしても、俺は知ってる。義理じゃないって、知ってるから……ごめん……。ごめんね」
 龍樹さんが溜め息をついて、すっと皿を取り上げた。
「ある意味では喜んでいいのかな。僕の気持ちを大切にしてくれたと思えば……。ふられた者の常として、これは自分で食べよう」
 龍樹さんがケーキを掲げた瞬間、チリリンとドアベルが鳴った。途端に龍樹さんの顔はマスターとしての微笑みを浮かべる。俺の時より、ほんの少しよそよそしい。それで一瞬、俺は優越感を感じる。
 そういうのって……
「あ! かっわいい」
 甲高い声が俺の思考を遮った。
「マスター! それ、今日のスペシャルケーキ? あたしそれがいいな」
 振り返れば、よく見かける女子大生の二人組。
 片っぽはよくしゃべる小柄でぽっちゃりめ。その後ろから覗き込むように見てるのが、一七八センチの俺と同じくらい背丈があるんじゃないかっていうヒョロッとした大人しい感じの、悪くいうと暗めの美人。二人でいても、ほとんど小柄な方の声しか聞こえないくらい会話のバランスは悪い。
 龍樹さんは苦笑して、もう一度ケーキを俺の前に置いた。
「ごめん、彼で打ち止めなんだ。バレンタインのせいか、よく出ちゃって。また今度よろしくね」
 龍樹さん手作りのケーキは限定だから、売り切れと言われれば退くしかない。それも、気分で作ってるから、あったり無かったり。もちろん、業者のも入れてるので、ケーキセットのメニュー自体はいつでも頼めるけれど。
「えーっ、残ねーんっ。いいなーっ、彼」
 その目は男のくせにケーキなんか頼むなよなって、言ってるみたいだった。普通のケーキだったら譲るけど、これを譲ったりしたら龍樹さん傷つくよな。
「すみません、俺、甘いもの目がないんで」
 小柄な彼女は、軽く肩をすくめて言った。
「ま、いいか。でも、甘いもの食べ過ぎて太っちゃやーよ。君、細身の方がかっこいいから。あ、マスター、レアチーズとブレンド、ふたつね」
「あ、あたしは……
「なに? 別のにする?」
「ううん、一緒でいい」
 何だかな……。主体性ないよな。
……、彼女の言うことも一理あるな。来年からはチョコ以外のものにしよう」
 コーヒーのお代わりを置きながら、俺以外には聞こえない音量で龍樹さんが早口で囁いた。俺がその声に反応して龍樹さんを見たときにはもう注文の品の用意をはじめていて。
 彼女たちの視線が痛いので、俺はケーキにフォークを突き刺した。結局受け取ることになってしまったケーキ。
 うーん……
 でも、一口食べちゃえば、たいらげちゃうのは分かってる。龍樹さんのは、何時だって美味しくて。
 …………俺は料理で釣られてるみたいだな、うん。
 えーいっ、どーせ喰いしんぼですよっ。
 ぱくっと一欠片。
 あ、このケーキ、美味しい。甘さは押さえ目で、良い酒を使ってる。スポンジ台はしっとりと、上のガナッシュはこってりと。
 コーティング部分のチョコは口どけがよくて。コーヒーの苦みが丁度いい。
 何だ、それでモカとブルマンか。
 飽きが来ない大きさだったので、美味しくケーキを終わらせた。俺の前に戻ってきた龍樹さんに、思わず微笑みかけてしまうほど満足してたんだ。
「ケーキ、すごく美味しかった。店で出してたら、バレンタインだし、カップルにウケてたかも……
 龍樹さんは、ほんのちょっぴりムッとしたように眉根を寄せた。
「あれは君専用だから、だめ。それに、他人にあてられるのも好きじゃない」
 少しつんと顔を上げて言った頬が少しだけ染まってる。
 年上なのに、可愛いとか思っちゃうの、失礼かな。二月生まれの彼とは、俺が二年留年してるから、五才違いなんだけど。
 あ、そういや誕生日。再来週だ。やっぱり何かあげたい。
「今日は勉強していく?」
 プレゼントは何が良いかな、なんて考えてたら、甘く響いた声が俺の思考にそっと食い込んできた。
「あ、うん……
 元はといえば、俺が浪人覚悟の医学部志望なのを知って、妹の泉さんと手分けで俺の勉強を見てくれるって言いだしたんだ。
 その頃の俺は、龍樹さんと二人だけになるのがちょっと怖かった。告白される前だったけど、無意識のうちに龍樹さんの気持ちを感じ取ってたんだと思う。
 なのに、今の俺は二人きりに慣れてる。もちろん、龍樹さんが真剣に家庭教師してくれてるからだけど。やり方は龍樹さんが作った問題を俺が解いて、出来なかったところを突き詰める形。閉店まで問題に取り組んで、龍樹さんの手が空いたら採点して貰う。
 その後間違えたところを徹底的に突き詰めて、俺が解ったって確認してやっと授業が終わるんだ。おかげで俺の成績は周りが目を見張るほどアップした。
 その日渡されたワープロ用紙は十枚。総仕上げみたいな問題ばっかりだ。
「一枚十五分で仕上げて。テストだからカンニング無しだよ」
「きついな……
「今までのが解ってれば出来るでしょ。要点ばっかりなんだから」
「てことは、目標満点?」
「もちろん。出来悪かったらお仕置きだよ」
「お、お仕置きって?」
 龍樹さんはさっと店内に目を走らせてから一層のひそひそ声で囁いた。
「そうだね。キスくらい覚悟して貰うかも」
 目がマジに見えたので、俺は震え上がって背筋をただした。
「が、頑張ります!」
 言ってカウンターの隅に移ったんだけど、近くの会社のOLの団体がドヤドヤ入ってきたのをしおに立ち上がった。
「龍樹さん、奥の机、貸して」
 厨房の奥には事務室がある。書類棚とコンピューターと事務机だけの小さな部屋。
 店が混み始めると、俺はそっちに移るんだ。
 家に戻ってもいいんだけど、俺がだれるのを心配してるらしく、龍樹さんがそういうルールを決めた。
「夕食はビーフピラフとコンソメスープとサラダでいいかな?」
「うん」
 全部美味しいから、何だって構わないけど、それは言わないでおいた。
 OLさん達のキャピキャピ声がくぐもった音声で漏れてくる。どいつもこいつも龍樹さん目当て。噂が噂を呼んで、龍樹さん見物をかねてコーヒーを飲みに来る客が数を増す一方。
 但し、龍樹さんが全然なびかないので、ミーハーな客しか定着しない。本気で彼を得ようなんて考えると龍樹さんの冷たい拒絶にあうものだから、店に来にくくなるんだよな。
 『El Loco』はカップル向けの店じゃない。雰囲気も内容も、本当ならそんなことないんだけど、龍樹さんの存在がそうさせてる。
 カップル壊しの店って影で呼ばれてるんだ。まあ、龍樹さんが積極的に壊そうとしてるわけじゃないから、そんなことで壊れるカップルにも問題あるんだけどね。
 かくいう俺も……。俺がふられたの、『El Loco』に彼女連れてってからだもんな。
 テストを半分もこなさないうちにガターンと音がして俺を飛び上がらせた。
「きゃああああっ」
 その黄色い声は龍樹さんのためのものにしてはひきつりすぎ。
 慌てて厨房から店を覗いた。
 ものすごい形相の男が例の二人連れの無口なほうの女子大生の腕を掴んでた。
 見た目はしゃれた服着た優男なのに、形相がマイナスな感情で歪んでるせいで、頭のおかしい人みたい。
 他のお客さんは壁の方に身を寄せて遠巻きにしてる。さっきの悲鳴はギャラリーのものらしかった。
 肝心の女子大生は、無表情なまま男を見ている。冷たい、能面のような表情で。その側でオロオロとしているのは、よく喋る方。
 やがて能面が動いて、赤く薄い唇が開いた。
「あなたって、とことんみっともない人ね。本当に見損なったわ」
 ソフトで深みのあるアルトが何とも冷淡な口調で発せられた。
 何だか挑発してるみたいに聞こえる。危ないよなぁ。
 男はフルフルしながら懐からナイフを出した。ぎらっとそれが光った途端、ギャラリーからまた悲鳴が。
 俺はその悲鳴と同時に飛び出していた。
「こ……のアマァ!」
「やめろおっ!」
 女子大生に向かって突き出されたナイフの腕に飛びついた。
「拓斗!」
「きゃぁぁぁぁっ」
 龍樹さんの叫びとOLさん達の悲鳴が重なった。
 頭で考えるより先に動いた結果。
 俺は男のナイフを取り損ねた。男にかじりついたままもみ合うことになっちまった。
 苛立った男は女子大生と自分の間に割り込んだ邪魔者を先にかたずける気になったらしい。
 どんと突き飛ばされた。
 それでも寄り掛かる形で女子大生の楯になった。
「邪魔だぁ!」
 やられる!
 瞬間身体が硬直した。目線は俺に向かって振りかざされたナイフに固定されてしまった。
 目をつぶってしまいたいのにそれもできない状態。スローモーションで見てるみたいにぎらつくナイフが落ちてきて。
 なのに、ピシって軽い音がしただけ。
 ナイフは唐突に男の後ろに飛んで、入り口近くのベンジャミンの鉢に刺さった。
 エッというように男がナイフの行方を目で追った途端、男の頭がベンジャミン側にとばされた。鉢が転がって、男は泡吹いてベンジャミンの葉の中に頭を突っ込んでた。
 床には二粒のアーモンド。
 龍樹さんがカウンターから出て来て気絶したままの男の腕を取った。
「お客様、他のお客様の迷惑になりますので」
 言いながら深いレリーフの施されたオーク材の扉を開いた。
「お帰り願います」
 男を放り出した。
 ホウッとみんな息を付いた途端、ピーチクパーチクが始まった。
「マスター、今の何? 何が起こったのっ?」
「あたし知ってるぅ。あれ、指弾ですよねぇ?」
「えー? 何それぇ」
「し・だ・ん! 拳法であるのよぉ。指で弾くだけなのに、鉄砲の弾みたいに威力あるの。でも、ホントの見たの初めて。ホントに出来る人いるんだなぁ」
「す、ごーい! マスターって、拳法出来るんだぁ」
 口々に言う客達の会話に耳をそばだてていた。
 指弾…………。龍樹さんはつまり、アーモンド二粒であの男を撃退したわけ?
 OLさん達の感動は俺にもうつってた。
 龍樹さんて……なんかすごい。
「すみません、良いベンジャミンだったのに、滅茶苦茶にしちゃって。弁償しますから」
 能面女子大生が表情を変えずに諭吉を数枚だした。
「それは彼の行動に関して君に責任があるって事?」
 龍樹さんの声が冷たく響いた。穏やかに作っているけど怒ってる。
 女子大生は軽く肩をすくめた。
「責任を負うほど親しい訳じゃないけれど、私が狙いだったことは確かですから。つきまとわれて困ってたんです。助かりました」
「何も解決はしてないよ。ああいう挑発はよくない。きちんと話し合って、けりは自分で付けなさい。お金はいらないから。それに、彼に謝って欲しい」
 俺の方に目を向けた。龍樹さんの怒りは彼女だけじゃなく俺にも向けられているのを知った。
「分かりました……。ごめんなさい」
「あ、いえ。俺、余計な事しちゃって……
 何の役にも立たなかった俺の行動。穴があったら入りたい気分だったのに、彼女は意外なほど優しく微笑んでくれた。
「とんでもない、嬉しかったわ」
 そのまま彼女達は勘定を払って出て行った。
 無口なあの人の声、初めてちゃんとに聞いた気がする。
 出て行きながらよく喋る方が彼女に食ってかかってるように見えた。背高美人はそれをどこ吹く風って受け流して。
 なんかスゲー変わってるよなぁ、あの二人。
 龍樹さんは表情変えずにキャピキャピの止まらないOLさん達のテーブルと女子大生のテーブルを片づけてベンジャミンを直し、ぼんやり見送っていた俺の前に立った。
「拓斗君、ちょっと」
「あ、はい……
 龍樹さんの後についてカウンターに入った。客の目に付かないところに来た途端グイッと腕を掴まれた。事務室に連れ込まれ、壁に押しつけられて。
「な、なに?」
「何じゃない! やたらに首突っ込むな! 怪我したらどうするんだ!」
 客に聞こえないように声を潜めてるけど、わめきたい気分でいるのは瞳が物語ってる。
 でも…………
 龍樹さんの瞳の炎は怒りにしては悲しすぎる。
「だ、だって……
 龍樹さんの髪が俺の頬に触れた。ふわっと抱き込まれてギュッと締め付けられた。
「た……龍樹……さん……?」
「君のそういう所も……好きだけど……。でもっ! 危ないことなんてするな……君に何かあったら……僕は……僕は……
 すすり泣きのような切ない囁き声に俺は彼を振り解くこともできないで身を任せていた。
 ものすごく長いような、短いような時間。
 急に龍樹さんが俺を引き剥がした。
「ごめん……
 苦しそうに微笑んだ。
「テスト、続けて」
「う……うん」
 逃げ出すように出て行った龍樹さんを見送ってから、俺は机に向かった。けど、問題が頭に入ってくるのに時間がかかる。
 彼の腕の感触や体温がまだ身体に残ってる。
 そんなことに意識の半分が使われてる。
「テスト……良い点取らないとキスされちゃうのに……
 無意識に口をついて出た呟きは、俺を更に困惑させた。
 やばい。そんなことじゃだめなのに………
 
 
3に飛ぶ
 
 一週間。
 龍樹さんのバレンタインケーキを食べてから、『El Loco』に顔を出さなかった。
 入試の日程も混んでたし、龍樹さんのテスト結果も良好だったから。採点の時、ちょっとがっかりした目の色してた龍樹さんを見て、行きにくくなっちゃったんだ。
 あれは家庭教師じゃない龍樹さんだった。
 もうすぐ彼のの誕生日がくる。
 感謝はしたいけど、期待はさせたくない。
 そんな風に思い煩ってる中に来てしまった金曜日の午後。
 学校は半日になってたし、入試も終わってしまった。ほんとなら、『El Loco』でコーヒータイムってところだろうか。
 帰宅途中で横浜駅に寄り道することにした。プレゼントを物色しようと。
 東口にも西口にも店はたくさんあるし、何か見つかるかもしれない。
 駅のホームを歩いていたら、この間の女子大生二人組を見かけた。相変わらずの天真爛漫さと暗さ。声が大きいので遠くからでも分かる。
 何となく見ていたら、大きい方が揺らいだ。キャーッと悲鳴が上がって。聞き覚えがあるから片割れのだと思う。
 俺は声のした方に走った。正直動機は野次馬根性。
 叫んでたのはやっぱり小柄なあの女子大生。
 彼女の足下にはあのヒョロ長美人。いつも暗く俯いてさえいなければすごくモテそうな端正な顔が、青白くなっていて、口元にはくっきりと二筋の血糊。
 瞳は虚ろで、あらぬ方を見ていて動かない。瞳孔は開いちゃってる。倒れた姿はそのままでは身体が痛いんじゃないかっていう不自然な形で……
「死んじゃってない?」
 誰かが言った。彼女たちを取り囲んでた輪が一斉に頷いたような気がした。
 駅務員が駆けつけてきた時にでも、俺は立ち去っておけばよかったんだけど、ついそのまま居残ってたせいで、また……
「拓斗君!」
 甲高い声が俺を呼んだ。
「え?」
 一斉に視線が俺に集まった。
 小柄な女子大生は、俺に駆け寄ってきて、いきなり抱きつき泣き出した。
「??? っ、あの」
 俺の名前、よく知ってたよな。龍樹さんが呼ぶの、聞いてたのかな。
 ……とにかく。
 そうやって、俺は当事者になっていた。その日一日がそれでつぶれることになった。
 駅の詰め所に行って、警察が来るのを待ち、話を訊かれた。結局俺は何にも情報は提供できず、泣いてる割にはっきり答える彼女を見てただけ。
 背高美人は、紅林綾芽(くればやしあやめ)という名だと知った。同行していた小柄な彼女は、葉山紀代子(はやまきよこ)。大学二年で、同じ学部、同じ学科。
 後期試験の結果発表を見に来た帰りらしい。やはり帰りに横浜に寄ろうって事だったんだろうけど。
……参っちゃった」
 コーヒーを啜りながら今日の一部始終を話し、俺は愚痴っぽく締め括った。
 優しい瞳で頷いた龍樹さんは、出来立てのクラブハウスサンドを俺に差し出した。チキンは甘辛く味付けして合って、トマトソースも手作り。パンもこんがりトーストしてあって、熱々。
 何かある度、結局ここへ来てしまう俺。
 一週間ぶりだったせいか、俺を迎えた龍樹さんの微笑みは、何とも言えず嬉しそうで、美しかった。そんな風に思ってしまう俺は、既に十分彼の気持ちを弄んでいるわけで。
 自己嫌悪に陥りながら、それでも食欲は待ってくれず、皿はあっと言う間に空になる。
「何で死んだの?」
 食べ終えるのを待っていたかのように、コーヒーのお代わりを注ぎながら聞いてきた。
「心不全らしいってさ。よっぽど苦しかったらしくって、舌噛んでたって。……口元に血が滴ってて、綺麗な人だった分怖かったなぁ」
 ……思い出しても夢見悪いや。
「心不全……て? あの娘、心臓弱かったのかな」
「そんな感じじゃなかったよね。前に、二人でテニスのラケット持ってきてたことあったでしょう?」
「よく覚えてたね」
「いや、テニスウエアって、結構印象的だよね。スカートん中がチラチラッて、見える感じ。目の保養って言うか、そそられるって言うか……
 言った途端に龍樹さんの瞳がきらって光った。俺のスケベ心を暗に責めるように。
 んーっ、責めるってのと違うか。……俺がそういうこと言うの嫌がったって感じかな。
……それに、あの時はスズランの鉢を一緒に持ってたってのが妙な感じで覚えてたんだ」
「スズラン? そうだっけ?」
……とにかく、見た目暗い感じでも、運動出来なさそうとかそういうのと違ってたと思うんだ。だから、変だよね」
「うん、まあね。事情聞かれた時もそう言ったの?」
「そんな話するタイミングなかった。俺はここで顔あわせたことがあるだけだって言っといたし、葉山さんがほとんど喋ってたし。でも、彼女も、そんな話し聞いたことないって言ってたよ」
……今日、ここに来たんだよ。あの二人。いつものように同じケーキセットを頼んで。だけど、背の高い娘の方はケーキには手を付けなかったな。コーヒーも……ね、小さい娘の方が砂糖とミルクたっぷり入れてやったりしてさ。一応飲んでいたみたいだけど、全部は無理だったらしい。本当はブラックが好みなんじゃないかな。甘いの苦手なのかもしれない……
「苦手ならそう言えばいいんだ」
「うん、そうだね」
 言えないから残していたんだろうけどね。
 龍樹さんの表情はそう続けていたみたいだった。
「なんかさ、ああいうのって、端で見てても何だか苛つくよね。対等じゃないって感じで」
「まあね」
「主導権握られて、指図されてさ、よく付き合ってたな」
 俺なら我慢できない。
「楽しんでる様に見えたけどね」
「そうかなぁ?」
「辛そうだったのはむしろ……
「?」
「いや、……気のせいかな」
 独り言のように呟いて、龍樹さんは新たに入ってきた客のお冷やの用意をしに行った。
 俺は残りのコーヒーを飲み干し、食器を重ねると、カウンターの向こうに入って俺用のエプロンをつけた。
 『El Loco』は、カウンターに六席と、四人掛けのテーブルが一つ、二人掛けが二つの、さほど大きくない店だ。それでも、マスター一人ってのは辛い。なのにアルバイト募集もしないでやっている。
 俺がいつも手伝えればいいんだけど、なかなかそうはいかなくて。今までは一応受験生だったから。
「龍樹さん、手伝うね」
「有り難い。でもいいのか?」
「うん、試験全部終わったし、これからは毎日手伝えるよ」
「それじゃ、バイト代ださなきゃね」
「そしたら、俺も家庭教師代出さなきゃ」
 つまりはチャラ。
 龍樹さんがにっこり笑った。
 毎日顔出すのが約束になってしまったけど、やっぱり、そのくらいは返したいっていうか……
 鼻歌混じりでカップを洗い出した龍樹さんの瞳は、そんな俺との約束が嬉しくて仕方ないって感じで輝いて見えた。
 ああ、俺って自意識過剰なのかもしれない。