優しい毒・2

 
4に飛ぶ
 
 『El Loco』のドアベルは澄んだ音色で客の来訪を伝える。チリリンと音は可愛らしいのに、結構どこにいても耳に入ってくる響きを持っていて、聞き逃すことはあまりない。
「いらっしゃいませ!」
 俺の声は、ドアベルほどの可愛い響きはないけれど、元気だけは負けない。
「あれ? 拓斗君、居着いちゃったの?」
 俺の声に気圧されながらも、にこやかに入ってきたのは常連の江崎さん。一流企業の課長クラスだったと思う。ハンサムで、年はまだ三十前。同期で一番の出世頭だって、前に連れて来てた同僚の人が言ってた。
 常連の客達は、たまに手伝っていたときに既に顔見知りになっている。常勤みたいに手伝うようになって、何度かこの台詞を言われてたんだ。
「あはは、受験終わったからバイトです」
 家庭教師代ってのは、内緒。龍樹さんは、自分の経歴を人に知られるの嫌いなんだ。
 俺には妹の泉さんが教えちゃったから、居直って家庭教師までしてくれたんだけど。
「飯付きだから、とってもお得なんですよ」
 これは本当。今年の春休みはコンビニの弁当の世話にならなくて済む。
 生活費さえ余裕があれば、毎日でも食べに来たかった俺は、メニューにない料理まで味わえる幸せを満喫しているんだ。
「ああ、そりゃイイや。マスターのを毎日ロハで食えるっての、確かに役得だね。俺も転職しようかな」
「ヤングエグゼクティブに給料払えるほど稼ぎありませんよね、ここ」
 龍樹さんに声をかけると、こら! と、目で叱られた。
 龍樹さんはオーダーのピラフに付け合わせのサラダを用意しながら、ミックスサンドの下拵えに入ってる。
 俺に出来る手伝いはするけど、調理は龍樹さんじゃなきゃ、客が納得しないだろう。
「マスターが女だったら、俺、すぐにでも結婚申し込むのになぁ」
 龍樹さんの手際のいい動きを見つめながら、独身貴族らしい江崎さんは、小さな溜め息をついた。
「ホントだ。マスターみたいに綺麗で、何でも出来て、優しい女の人がいたら、ほっとかないよね。みんな……
「君も?」
「うん……。いや、だめだな。きっと俺のものだったらいいなあって溜め息ついて、物陰から見てると思う」
「なにそれ?」
「俺なんか相手にされる訳無いから、見てるだけにすると思う」
「随分気弱なんだな」
「身の程を知ってるんですよ」
「まだ若いくせに、年寄りくさいこと言うなよ」
「江崎さんみたいにバリバリなら良いけどね」
「俺のどこがバリバリだよ? 寂しいもんだぜ、仕事仕事の毎日じゃさ」
「江崎さん、かなり好みうるさいとみた」
「そんなことないよ。小心者なんだ、俺は」
「拓斗君、二番テーブル、ピラフ上がったよ」
 目配せするように笑ってた俺達に、割って入った龍樹さんの声。……ちょっぴり尖っていたように聞こえたのは気のせいじゃない。
「おっと、仕事サボらせちゃいかんな」
 江崎さんが、龍樹さんに向かってスマンというように手を振った。それに営業スマイルで応えた龍樹さん、やっぱり怒ってる。
 ピラフを運んで、追加のオーダーを伝えて。ばたばたしてる中に閉店時間。龍樹さんは、あれからずっと機嫌悪かった。表情は柔らかく作ってるけど、目が冷たいって感じで。それも、俺に対してだけ。
「おつかれさま」
「お疲れ……
 素っ気なく言った龍樹さんは、くたっとカウンター席に座った。
「龍樹さん、どうしたの?」
「どうもしないよ」
 ってことは、絶対ない。いつもはすぐに俺の夕飯作ってくれるんだ。
「怒ってるでしょ」
「なにに?」
「それを聞きたいのは俺だよ」
 龍樹さんの瞳が揺らめいた。苦笑を浮かべて立ち上がった。
「疲れてるだけだ。……夕飯作る。リクエストは?」
「何でもいい。それより、どうして怒ってるの?」
…………言えば君が怒る」
 むすっとして言うその言い方が、子供っぽく見えた。
「怒らないから……、言ってよ。なんか、気持ち悪いよ、胸につかえてるみたいで。
 龍樹さんがそんな風にふくれてるの、ちょっと可愛いけどさ」
 龍樹さんが不意に俺の手を取った。握りしめるって感じに力込められて、引き寄せられた。俺には振り払うことの出来ない強さで。
?
 あ……、すごくやばい気配。
「君に可愛いなんて言われるとは思わなかった。……ほんとに怒らない?」
 声は甘く危険な響き。いつもより更に低く響いて、俺を暗い淵に引きずり込みそうで怖かった。
「お……怒らない……よ」
 俺が退いたのに気がついたのか、手を離すとくすっと笑った。……泣き声みたいな声で。
「妬けたんだ。君が……他の男と仲良く話してるのが……ね。見てて辛かった。そんな権利ないのに。……すまない」
 龍樹さんは震えてた。自分を抑えようとしてるって感じに笑って見せた。
「客に一々妬いてたんじゃ、仕事にならないよね」
「ごめんなさい。……俺、ここに来ちゃいけないね」
「いや!」
 龍樹さんがすごい勢いで遮った。まるで縋り付くみたいにして。そんな自分に驚いたように慌てて笑みを作った。強張った悲しい笑み。
「君には来て欲しい。君が友達を望むならそれでいいから。君に会えるだけでいいから、……もう、妬いたりしないから。……来て欲しい」
 泣きそうな瞳が金色の光をたたえて俺を覗き込んでる。
「龍樹さん……、そんな風に言わないでよ。俺、龍樹さんのこと虐めてるみたいな気がしてくる。俺はただ……
「分かってる。分かってるから……。僕の……我が儘なんだ」
 くるっと俺に背を向け、そのまま夕食を作り始めた。俺は心情的にも逃げ出すことが出来ず、いつも通り食卓を囲んだ。
 その日の夕食は何を食べたのか覚えていない。美味しいとかも感じず、喉を通った感覚すら記憶にない。沈黙だけが食卓の飾りってのは、何とも苦しい食事だ。
 じゃあと席を立った俺に、またねと言った龍樹さん。気遣わしげで弱々しい瞳が俺を追う。絡みつくような視線を感じたんだ。
 元来龍樹さんて人は、こんな風にさえならなければ何時だって冷静で、強い人のはず。いろんな武道にも長けているらしいし。
 武術の力に応じた精神力も鍛錬されていたはずで……
 俺の態度が龍樹さんに影響する。それは、俺が考えていたよりずっと大きいらしくって……。これからどうしよう。
 俺は龍樹さんが好きだけれど、龍樹さんが望む形にはなれないから。
 ほんとは手伝うなんて事すべきじゃなかったかもしれない。
 
 
5に飛ぶ
 
 翌日。
 足取り重く、それでも『El Loco』に向かった俺は、扉の張り紙を見てホッとするよりショックを受けた。
 『都合により二月二十五日より三日間臨時休業させていただきます』
 俺に連絡無しで、これって一体……
 呆然と文字の一つ一つを辿りながら、はたと思い当たった。
 俺、電話番号教えてない。お得意さまカードにも、住所は書いたけど電話は書かなかった。何時だって、俺が店にふらっと立ち寄るだけ。
 龍樹さんは待ってたって目で微笑んで迎えてくれるけど、俺を呼び出したりとか俺んちに寄るとか、そういうことしたことない。
 調べようと思えば簡単に調べられるはずだった。
 ああ、でも、調べたとしても、あの人の性分じゃ、俺が教えるまで知らないふりしそうだな。
 それにしたって、この仕打ちはちょっとムカつく。それでいて、そう思う端からそんな自分を嫌悪する。
 自分が嫌いになればなるほど、そんな俺を好きだって言う龍樹さんが分からなくなるんだ。
 縋るような声と、絡みついてくるような視線。そうまでして、明らかに自分のことナメくさってる若造に執着するなんて……
 そのくせ、こんな風に投げ出すんだ。
「んもうっ! なんだってんだよっ」
(俺なんか、昨日一晩悩んだんだからな!)
 初めて裏口に回ってみた。
 『El Loco』の前はバス通り。駅に通じるメインストリートだ。横の路地はデッドエンド。隣のビルの通用口以外は、『El Loco』の裏口だけのはず。綺麗に掃除してあるゴミ置き場を横目に行き止まりまで歩を進めると、突然視界が開けて小綺麗な庭に出た。小バラを絡めた小さな門と垣根。門の横にポールを立てて置いてある郵便受けに、しゃれた字体で『桂川』と入っている。
 L字型の敷地は、外から見たんじゃ分からない広さで、何とか植物に必要な日照を確保していた。平屋の『El Loco』は東側に面しているから、朝日が程良くはいるし、気持ちよさそうな庭に仕上がってる。龍樹さんてホントにマメな人だ。
 それを見つけたのはまさに偶然、神様のお導き。
 俺宛の小さなメモは、郵便受けの所に貼ってあった。
『急に実家に呼び出された。連絡請う』
 神経質そうな小さな文字。
 走り書きで素っ気なく書かれた文の下に、電話番号。……市内だ。
 とりあえず、はがして持ち帰るつもりで手を掛けたら風にさらわれた。垣根に引っかかり落ちたメモを、足で押さえて拾おうと屈み、それを見つけたんだ。
 屈んで覗き込まなきゃ判らないような郵便受けの下、ポールの付け根近くに、丁寧に貼り付けられた封筒。ピンクの花柄の洋封筒だ。
 それはマスター宛になってた。
 差出人はない。真ん中のかさばり具合から、手紙以外の物が入っていそう。開封したい欲求に駆られたけど、龍樹さん宛だから我慢した。
 家に帰って、メモにあった番号をプッシュした。
 誰が出るだろう。何となくドキドキして、相手が出た途端受話器を置いてしまいそうになった。
「はい、新横浜中央病院です」
 ものなれた調子で可愛らしいソプラノが応えた。
 病院?
 実家じゃないのか?
 龍樹さん、具合悪くなったとか……。まさかね。
「あの、もしもし?」
 ぐるぐる考えてた俺を怪訝な声が現実に引き戻した。慌てて用件を告げる。間違い電話だったりして……
「あっ、済みません。そちらに桂川……龍樹さんいらっしゃいますか? 電話するようにって伝言貰ったんですが……
……現在診療中です。どちら様でしょうか?」
「あ……、向坂です。向坂拓斗……。診療中って、龍……桂川さんはどこか具合が?」
 電話の向こうでプッと笑う声が聞こえた。
「先生の具合は悪くありません。診療をしてらっしゃると申し上げたんです。……向坂様……ですね? ええ、先生から伝言を承っております。終わり次第お電話したいので電話番号をお知らせ下さい。とのことです」
 笑いの残った声で受け付け嬢らしき声は言った。
「その診療って、どのくらいに終わるんですか?」
「そうですね、お昼で一度切りますから、一時頃でしょうか」
「分かりました……
 何となく意地の悪い気分になって、電話番号を教えないことにした。そのかわり……
「こちらも見せたい物がありますので、今からそちらへ伺うとお伝え下さい。一時なら大丈夫なんですね?」
「は? あのっ」
「失礼します」
 ガチャッと切った。
 龍樹さんが受け付け嬢を叱るとは思えない。多分溜め息つくだけだ。
 新横浜中央病院は、新横浜のでかい病院だ。実家って事は、龍樹さんの親がオーナーって所だろうか。
 とにかく、そこに向かうことにした。
 何だか腹立たしいのは、俺の知らない龍樹さんが、思ってたより一杯いるってのが分かったからだ。
 いや、俺は全然龍樹さんのこと知らない。
 知ってるのは、俺のことになると急に弱くなっちゃうゲイだって事だけ。
 それでもって医者だけど医者になれない男だって……
 待てよ、どっちも見せかけだけかもしれないじゃないか。だったら、そのたび悩んでた俺、バカみたいだよ。
 くっそぉ、龍樹さんの別の顔、覗いてやるっ。
 これは、不信感とは違う。
 俺は、俺に見せてくれる龍樹さんて人は大好きだ。だから、自己嫌悪に陥るしかないんだけど、こういう状況に置かれると、こん畜生って感じになるんだ。どこまでホントだったのか分からないよなって思えて……。俺のこと欲しいから演技してるとか、そんな風に……
 あーっ、俺って下世話な男っ。
 病院には一時十分前についた。受付の所には昼休みは十二時半からって出てる。残った患者やっつけて、一時って所だろうか。
……確か、外科だったよな……
 クスリや会計を待っている患者達でざわついた待合室は、病院に似合わないほどにぎやかだ。受付には寄らずに院内を歩くことにした。
 案内板を見て外科の場所を確かめてたら、かたずけ途中の入院食のワゴンとすれ違った。
 あ、昼飯、喰い損ねてた。ここのところ学校行かないで『El Loco』で食べるのが当たり前になってたからな……
 探し当てた外科の診察室の様子をうかがった。
 小さな受付窓は、もう閉まっている。カーテンの隙間から中を覗いたけど、よく見えない。
「オペは十時からだったよね」
 この声、龍樹さんだ。ちょっと不機嫌?
 ドアに回ったところで、ばんと勢いよく開いたドアにぶちあたった。
「ってぇ〜っ」
「えっ?」
 目から火花が散ってた。
「拓斗……?
 瞬間華やいだ声が、言いながら沈んだ。
………………っ」
 痛みが去るまで、声が出せない。鼻を押さえて背中を丸めていた俺の肩に手が掛かった。
 そっと手をはずされ、仰向かせられて……
「ごめん……大丈夫かい? ……見せて」
 心配そうに言う龍樹さんは今まで通り。俺を甘やかすあの優しい声音。そっと見開いた目の中に飛び込んできたのは金色に見える瞳。
 途端にゆるっと生暖かい物が喉を伝った。鼻の下にも同じ感触。血の味が口中に拡がった。
「うわっ、鼻血! ちょっと来て!」
 慌てたように腕が俺の肩を抱いた。龍樹さんが出て来たドアの中に上向いたまま押し込まれた。
「ワッテとガーゼ!」
 奥に怒鳴ると看護婦さんが慌てて出て来た。
「ドアと正面衝突だ!」
「あらやだっ」
 慌ただしく何枚かのティッシュを押し当てられ、持ってろと押さえさせられた。白いティッシュがじわじわと赤くなっていく。
 ガーゼと綿で作った止血栓をグイッと鼻に押し込まれた。龍樹さんの顔がどんどん迫ってきて、鋏の刃も一緒に迫ってきて……。ちょっと怖い。
「ああっ、うごかないで!」
 じょきんと鼻の下で余ったガーゼやらを切り取られた。
 濡らしたティッシュで血を拭き取ってくれながら、鼻のあたりを触って。
 ちょっと龍樹さん、その手つき丁寧すぎない? 看護婦さんに見られてるんだけど……
 ……なんて事は全然気にならないらしく、俺の肩に両手をかけて、ホウッと溜め息をついた。
「大丈夫、曲がってないし、折れてない」
「すびばせん」
 ぶっと看護婦さんが笑った。一瞬横目でそれを睨んだ龍樹さんもプッと吹き出した。
 いいよもうっ!
 鏡見なくたって、俺がどんなにおかしな顔してるか想像はつくんだから。
 両の鼻の穴に思いっきり白い綿だのを突っ込まれてて、鼻づまりの声なうえに、喉には血の固まりが引っかかってるし。
「美少年が台無しね」
 笑いながら看護婦さんは後片ずけに行ってしまった。
 ったく、誰が美少年だよっ? そんな年じゃないのにさっ。
「彼女の言うとおりだ……
 フフッと楽しそうに笑った龍樹さんは、俺の腕を取った。
「昼食に出るところだったんだ。御馳走するからつきあってよ」
……うがい、したいんだけど」
 ホント言えばそんなに怒ってなかったんだけど、ムッとしてるように聞こえたらしい。慌てて真剣な目で俺を覗き込んできた。
「ごめん、笑ったりして悪かったね。もとはといえば僕がぶつけたのに……
 俺は頭を振りながら笑いかけて、怒ってないと伝えた。
「それより、これ何時取ればいいどかだ?」
「もちろん、血が止まったら、だよ。まずうがいして」
 うがいはトイレの流しでした。龍樹さんはそんな俺をじっと見ていた。
「どうしてきたの?」
 不意に聞かれて振り返った。
「びせたいぼどがあるって、受付ど人に言っておいたんだけど……
「うん、聞いたけど、何のことだろうと思ってね」
……食事、どこでするど()?」
「ああ、この中にも食堂あるけど。そうだな、外、出ようか」
「ばって、これ、取ってから。びっとぼだいよこんだ顔」
 龍樹さんはくすっと笑って俺に近づいた。水を少しだけ出してすくい取ると、仰向かせた俺の鼻の詰め物にしみこませた。
「ゆっくり取って」
 言われたとおり、そっと引きずり出した。濡らしてある詰め物は割とスムーズに取れた。息をする度乾いていく鼻の中はまだ血の固まりでパリパリした感じだけど、口を半開きにしなくても息が出来るってのは何とも清々しい。
「あー、すっきりした!」
 くずかごに詰め物を放り込み、手を洗った。
「死ぬかと思った。口でしか息できないって、意外に苦しいね」
 話しかけた俺を眺めながら顎を撫でて、龍樹さんは言った。
「君の半開きの口元はなかなか色っぽかったよ」
 うっ。
「やめてよ。そういうの」
「ごめん。でも。詰め物した君、写真に撮っておきたかったな……
 ……全然ごめんって思ってないでしょ、龍樹さん。笑いながら言われたって、俺、拗ねるだけだからね。
「俺、帰る」
「ああ、待って。ホントにごめんて! 旨い日本料理喰わせる店があるんだ。そこの松花堂弁当は昼だけの特別メニューでさ」
 ゴクッ。
「行く」
 龍樹さん、すっかり俺を乗せるツボ心得てるよな。
 どうして俺って、こう食い意地はってるんだろ。