眸はいつもブルー・第2回
「カメラ……ダメだったそうだね」
「……」
俺は天使の口が日本語を発したというのに全く気づいてはいなかった。
「……ハチ様、蓮様がお尋ねになっております」
柳沢のじじいの耳打ちと一緒に、ケツの肉がひねられた。
「うちっ!」
あにすんだっ? と振り向きざまに天使が椅子から立ち上がるのが見えた。
ふわりと、重力を感じさせない降り立ち方で、俺の前に立つ。
目線は俺に向かってやや傾斜角三十度。
きらきらの眸はよく見ると翡翠の様だ。
それなのに……俺はブルーだなって思った。
憂鬱なブルー。
この、蓮という天使は、何がそんなに憂鬱なんだ?
「ハチって言うの?」
天使の声は、奇妙なかすれ方で響く。
「……蜂谷だ……だから……」
俺は、天使が一歩近づくごとに後退った。
頼む、俺に近づかないでくれ……。
身長は俺より頭一つ低い。ふわふわの巻き毛でかさを増していたとしてもせいぜい160センチ……。なのに、なんだ? この威圧感は……
「……おびえてるの? 可愛い……」
可愛いだとう?
いや、だが。
俺よりよっぽど可愛い顔してるこいつに威圧されてるんだから……言われてもしゃあないか。
「あ。いなおった。つまんない」
天使はそういうとスッと椅子に戻った。
俺の顔色を見てそういったのか?
不思議な……天使。
ぼんやり彼を見つめると綿菓子のようにとろける微笑みを奴は浮かべた。
これは危険だ。天使に見える悪魔かもしれない。
ほら、天国への道は険しく、地獄の道は広々歩きやすいって言うじゃないか。
それと同じ。この綺麗な天使は、実は……
そう思わせるほど、奴の笑みは甘かったんだ。
そうだ。カメラだよ。俺の、命の次ぎに大事な……全財産に等しいカメラ。
ぷるぷると頭を振り、奴をにらみつけた。
「俺のカメラ……誰がダメにしたんだ?」
再起不能だって?
天使はノンビリとサイドテーブルにあったカップを手に取り、こくりと中身を飲んだ。
置かれた残りはミルクティの色。
「……高田がね。もってったみたいだよ」
なんじゃそりゃ?
「……んで……なんで再起不能?」
フィルムだけダメにすればすむじゃないか。なんで俺のカメラを……
「フィルムを現像する気じゃないかなぁ。きっと」
「じゃあ、返して貰いに行けばカメラくらいは……」
「ハチが倒れたとき、ガシャッていったよ」
が、ガキにハチ呼ばわりはあんまりされたくないぞっ。
とはいえ、奴の言葉に俺は相応のショックを受けていたので容認してしまう形になった。
「が、ガシャ?」
あああああああああ。それって、それって……
「高田が拾い上げたとき、ひしゃげてたし。だから、カメラごとフィルムを持っていったんだと思うな」
にっこり。
天使〜〜〜〜簡単に言うな。「思うな」って語尾にハート付けるな〜〜〜!
脱力した俺は座り込んでいた。
俺の……全財産……俺の……カメラ……
「とほほ」って言葉がこれほど似合う状況はないと思う。
「……弁償しろって言わないの?」
俺がぼーっと座り込んだまま黙っていたからか、天使は俺の頭をなでながらのぞき込んできた。
「自分で落としたのに弁償なんて言える分けないだろう?」
だから……だからこそトホホなんだ。
誰にも文句言えない。大事なカメラを守れなかったのは俺自身……
「僕のせいにしないの?」
「なんで?」
そんなの変だろ?
「あんたのせいじゃないじゃないか」
天使は目玉がこぼれ落ちてしまうんじゃないかって程目を見開いた。
綺麗な、瞳……。ふかい、深ーい碧色。髪のかげりで虹彩の色が落ち着くと、こんなに深い色に見えるんだな。
「カメラ……買い直せるの?」
現実的な台詞は、心配そうに発せられた。
俺は黙って首を横に振る。
俺の仕事は出来高払いだ。商売になるネタがあってこそ金が入る。
俺を置いてった安さんに貸してくれって言っても無理だろうし。
「……バイトして、金貯めるしかねーな」
アレを買うのには……どのくらい働かなきゃならないかなぁ。
夜の仕事なら……ちっとは早まるかもしれないが。
うーん。
頭の中でぐるぐると金の算段。
「……ハチ?」
穏やかな天使の声が俺の耳に忍んできたとき、俺は求人を探そうなんて考えてた。
……まてよ?
「……あんた、大丈夫なのか?」
「は?」
怪訝そうに小首を傾げた天使はたいそうかわいらしかった。巻き毛がふるるんて揺れるんだぜ。
「車にぶつかっただろう?」
そうだよ。カメラも大事だが、人間の方がね。優先順位は上だ。
天使はまた目を見開いた。それから、おかしそうに吹き出して。
ゲラゲラ笑いだしたんだ。
人が心配してやってるのに、何て奴だ!
「僕は、見ての通りだよ」
ああ、そうだよな。ぴんぴんしてる。
でも、あのときは……瞳を閉じて、気を失っていたじゃないか。
「しかし……」
「君たちが散々写真を撮りまくって出てきたから、車の前にタイヤを転がしてあげたんだ。停まってからそこに横になったんだよ」
な……っ。
「邪魔するつもりだったのか……?」
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえって言うだろう?」
「しかし……」
「高田ね。可哀想なんだよ」
ポツッと言われて、俺は文句を飲み込んだ。
「あの人、奥さん居るでしょ。政略結婚なんて、するもんじゃないよね。高田と知り合ったときにはがんじがらめでさ。高田は日陰の身でも何でも、あの人のそばにいたいらしい」
「あんた、あいつらの知り合いか?」
「ホテルでちょっと」
「蓮様」
柳沢の声が割って入った途端に、天使はぐっと黙った。
「???」
「カルロ様にご相談なさってはいかがですか?」
差し出がましいようですが。としめくくった柳沢に微かに頷くと天使は俺の手を取った。
「カルロなら、君の悪いようにはしないと思う。相談しに行こう」
しっとり柔らかく華奢な手が俺の手を握りこんできた瞬間。不覚にも俺は微妙な熱が体中を走り抜けるのを感じた。
「ハチ?」
促すように名を呼ばれ、俺は立ち上がった。既にその時、俺は天使の罠に嵌っていたに違いない。
素材提供:トリスの市場