ラプソディインブルー・2

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 そぞろ歩きながら、ホテルへ急いだ。女性の足並みに合わせると、急ぐと言ってものんびりした散歩のペース。自分のテンポで歩けないというのは意外に疲れるものだ。
 別荘の裏側にあたる山の斜面にそのホテルはあった。突っ切れば最短だが、突っ切れるような道はない。一旦下りて国道沿いを歩き、またホテルへの斜面を登る。
「へえ、綺麗なホテルだね」
 悠季が素直な声で言った。本当に、そう思ったからそう口に出す。そんな彼の率直さが僕にはまた魅力で。
 てらいも気取りもなく、自然体の彼は身構えるのが常の僕の心を解してくれる。まさにオアシス。
「五年前にはなかったですね。ここら辺もどんどん変わって行くなあ……」
 僕も素直な気分で相づちを打ったが、話の口を取ったのは和美嬢だった。
「出来たの一年前なんですよ。ほら、庭木も何だか借りてきたような小ささで、ぎこちないでしょう?」
「ああ、あれがいい感じになるにはまだ二、三年かかるな」
 悠季の自然な物言いには他意が含まれていなかったものの、和やかな会話からはじき出されてしまったような気がして、僕は腹の奥に燻りを感じた。
 恨むのは筋違いでも、寂しく恨めしい気分になってしまう。僕としては、悠季と二人きりでいたいのだから。
 クスッとアルトの声。
 そうだ、小夜子がいたんだ。小夜子にして見れば、こんな僕は珍獣のように興味深いだろう。
「お兄さま、ラウンジがまだ開いているわ。一休みしてお行きになる?」
 まだ観察していたいということか? 冗談じゃない。
「止めておきましょう。さっきのコーヒーで腹は一杯だから……」
「それもそうね。……守村さん」
「はい?」
 小夜子に呼ばれた途端にきょんとかしこまってしまう。
 悠季、そんなに緊張しなくってもいいんですよ。
「コーヒー、美味しくいただきました。送って下さってありがとう」
「あ、あは、いえいえ」
 手をひらひらと振って、余所行きの笑顔を見せた。あの『あは』が出たときは自分を作っているときか、緊張しているときが多い。
「あら? 守村さん、結婚なさってるの?」
 和美嬢はめざとかった。悠季の左手に光る僕らの指輪。まさかの訪問だったから、外す暇がなかった。
「え? え? いえっそのっ」
 真っ赤になってしどろもどろの悠季。指輪は失敗だったろうか……。
「えー? 残念。そうなの?」
 美子嬢が覗き込む。
 意図はあたっているな。だが……。
「結婚はしてませんが、特定の人はいるようです」
 僕は自分の左手はポケットに突っ込み口を差しはさんだ。
「婚約者ですか?」
 和美嬢のつっこみに、悠季はぼっと顔中に炎を走らせながら、それでも背筋をピッと伸ばした。
「ええ。一生を共にしたいと思っています」
 毅然とした態度で、はっきり、きっぱりと言ってのけた。
 その瞬間の僕といったら。その場でブラボーと叫んで彼を抱き締めてしまいたいのを必死で堪えるのがやっとという始末。
「障害は多いんですが、乗り越えていきたい」
 ええ、ええ! もちろんです。二人で頑張れば乗り越えていけます。
 悠季、悠季……、愛してますよ。誰よりも、何よりも。
 この場を早く立ち去りたい。早く二人に。君を抱き締められる場所へ……。
「守村さん……、そろそろ……」
「あ……うん。じゃ、これで」
 ぺこりとお辞儀をして、僕と肩を並べた。そう、一生こうして肩を並べて歩いていきたいですね。
「お世話かけました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 見送る女性達。小夜子はポーカーフェイスのままだった。
 悠季の良さを見せすぎただろうか。
 僕の大切にしているものにちょっかいを出すのは昔からの妹の趣味。
 隣の芝生よろしく、いいものに見えるのだろう。
 物なら譲ったっていい。
 しかし悠季は……。譲らない。絶対に。悠季をなくしたら僕は……、僕は生きていけないから。
「悠季……」
 二人だけの足音の和音が心地よくて、しばらく沈黙を守って歩いていたのだが。ホテルの明かりが見えなくなったあたりで我慢できなくなって声をかけた。
「ん……?」
 心地よさを残したままの自然で優しい返事。
「愛してますよ」
「うん、僕も」
 照れ笑いも無しに真剣な声音で言ってくれた。
「指輪、外しますか?」
「え? なんで? 富士見町に帰るまではこのままでいいよ。……外さなきゃだめ?」
「とんでもない。君さえ嫌じゃなかったら……。ずっと填めていて欲しいくらいですよ」
「じゃ、填めてる。……圭」
「はい?」
「ほんとにね、嬉しかったんだよ」
 指輪にキスしながら呟くように言った。
 その瞬間。
 ズキッと心臓を引き絞るような痛みとなって感動が突き抜けた。
「悠季……この場で欲しいって言ったら……怒りますか? 帰るまで待てないんです」
 びくっとして悠季が立ち止まった。俯いたまま小さな声で言った。
「……、怒る。……なんてできない」
 僕を見上げ、にこっと笑った。
「君が言わなかったら、僕が言ってた」
 そっと僕の手を取り、別荘までの途中の暗がりへ誘うように歩き出した。僕は後ろから彼の肩を抱いた。
 そこから先は僕らの別荘しかない私道。道から外れ、茂みに入って、悠季は大きな木立の影に寄り掛かるようにして僕を引き寄せた。柔らかな唇が微かに開いて声には出さずに僕の名を呼んだ。その引力は抗いようの無い力で。……もとより抗うつもりもないけれど。
「悠季!」
 貪るように彼の唇を味わった。柔らかな舌が絡みついてきて。息継ぎも甘く、夜風の冷たさと吐息の暖かさが交互に僕を刺激して……。本当に、この人の艶めかしさといったら、喩えようもなく、かけがえもなく。それは初めての時も今も同じ。いや、抱けば抱くほど新たな力で僕を引き込む。行為に馴れれば馴れたなりに。学ぶときの勤勉さと同じにそれはそれは熱心に。僕を愛してくれる。
 大好きな大好きな君。
 身体をのけぞらせ、ボトムだけを降ろして僕を迎える君。僕を感じて火照った身体を激しく波打たせながら、悦びの声をピアニシモからフォルテへクレッシェンドさせていく君。
「あああっ素敵ですっ! ほんとに……君は……」
 悠季の脚が僕の腰に絡みつき、しがみつく手は僕のシャツを引き裂かんばかりの力が込められていて。
 やがて緩慢に力を失っていく彼の柔襞が、痙攣しながら僕を締め付けた。
「圭っ! 圭!」
 悲鳴に近い声で僕を呼びながら、イッた。瞬間引き絞られ、僕もうめきを抑えられなかった。
 僕は彼の色香に酔い、クラクラしながらも限界まで我慢していたものを彼の中に撃ち出した。
「!!!」
 僕に縋るように崩れ落ちていく悠季を支えながら見つめた。
 惚けた瞳、唇から伝い落ちる唾液。何もかも投げ出して、無防備な、君の痴態。プライドの高い君にそうさせることが出来るのは僕だけ。
 ……そうですよね?
「素敵でした……」
 僕の腕の中でぐったりした悠季を木立の支えを頼りに抱き締めて。
「続きは部屋で……」
 浅く息をつきながら、囁きに力無く頷く悠季はまだ僕を飲み込んだまま。
 ゆっくりと引き抜き、戦く彼にキスをしながら、彼のボトムを整えるように引き上げたとき。
「俺にもやらせろぉっ!」
 声と共に後頭部に衝撃が走った。
「え…………?」
「圭っ?
 悠季の叫びを遠くに聞きながら、悠季の腰に縋り、僕は力を失いかけていた。
「守村さん、あんたやっぱそうなんじゃないか……」
 聞いたことのない声が言った。
 悠季を知っている?
「悠……季……ど……して……」
 今、意識を失うわけには行かない。こんな暴力に屈して、悠季を一人になど出来ない……のに……何で……僕は……こん……なに……脆い………………んだ……………………。 
 
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 靄に包まれながら、一つのビジョンが明確に僕の前に拡がる。
「ケイ! ケーイッ」
 名を呼ばれて振り返る。手招きされて僕は飛ぶように走り寄る。
 僕はそこでは何故か子犬で。走るためには地面を四つ足で蹴る事に。
 手招きした人物が僕の祖母だということは何故か判っていた。だが、僕が近寄ろうとすると、同じだけ距離を置いて遠ざかった。やがて、困ったように笑い、菓子を投げて寄越した。
「お食べ」
 それは美味しそうな物だったはずだけれど、泥にまみれてしまっていた。
 暗転。
 もう一つのビジョン。僕は追われていた。やはり僕は子犬で。大きな鋏を持った男が、僕を追ってくる。僕は必死で逃げた。逆光で顔の判別は出来なかったが、男の目的は判っていた。正体も。父だ。
 僕の耳を切ろうとしている。
 僕の耳が垂れているのが気に入らないのだ。
 走って走って、だけど前から来た人に抱き上げられてしまった。それは義母で。
 もがく僕の耳に痛みが走った。ジャキン、ジャキンと二回。僕の両耳は半分になった。
 更に暗転。
 更なるビジョン。
 耳の傷も癒えて、ピンと立った耳と長い手足の成犬になった僕。要求されたことをきちんとやり遂げる事にプライドを持っていた。そう、僕は何だってちゃんと出来る。それに対する評価は…………。
 僕の望む評価は、感嘆の声と誉め言葉よりもスキンシップ。
 だが、実際は出来て当然という顔での黙殺。
 側で僕の分まで可愛がられている無邪気なプードルを横目で見つめる。
 そうして、僕は少しずつ凍り付いていく。
 凍り付いて、要求は聞くが心は許さない。そんな風に殻を固めて……。
 子犬の時なら可愛がってくれそうな人もいたけれど、成犬となった僕は見るからに強面で、人を寄せ付けない見かけ通りのものになっていた。
 ドーベルマン。それが僕の種類。
 やがて家を出て一人で暮らすようになり、様々な出会いをして。だが、どの出会いも僕の凍り付いた心を溶かしてくれるほどの暖かさを与えてはくれなかった。
 暗闇の中、凍り付いた道をとぼとぼと歩き続けていた僕に、光が射してきて。
 ビジョンが変わった。
 光の射す方から流れてくる澄んだ美しい音色に惹かれて、そちらに足を向けた僕は、黙ってその音色を奏でている人の足下に寝そべった。
 それは優しく暖かく。僕の心を溶かし、僕を受け入れてくれる音。
 ふいにその音が消え、寝そべったまま見上げた僕を、困ったような表情が見下ろしていた。困惑と恐怖の混ざり合った視線が、僕を受け入れる気のないことを示していた。
 本来なら、そんな視線を向けられただけで僕はその場から立ち去っていただろう。けれど、僕はそうしなかった。出来なかったのだ。あの音を失いたくない。初めて得た優しさだった。安らげる場所だった。
 だから……。
 そそくさとヴァイオリンをしまい、立ち去ろうとした彼の後を追った。ビクッとした彼は一瞬振り返って駆け出した。僕のことを怖いと思うのは当然の反応だったろう。だけど、逃せない。僕が唯一手に入れたいという思いに駆られた人だから。
 ゆっくりと、同じテンポを守って追い続けた。彼が立ち止まるまで、襲うつもりはないと分かって貰えるまで。
 やがて諦めたように立ち止まり、彼が振り返った。差しのべた手に恐る恐るお手をする。
 美しく優しい笑顔が迎えた。僕を魅了した音を紡ぎだしていた手が僕の頭を撫でた。何度も何度も、慈しむように。
 僕は初めて得た心地よさに酔いながら、凍り付いた心が緩解していくのを意識していた。
 そう、僕はその人を見た途端に、《この人から離れまい》と、決意していた。この温もりを手放すことは出来ない。何ものも寄せ付けず、独占したいとさえ思った。実際、独占しようと決めた。威嚇の表情だって得意な、僕はドーベルマンだから。
 
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 髪に優しくキスされていた。そっと、気遣うように……。頭を上げようとして、鈍い痛みに舌打ちした。後頭部を中心に拡がるそれは、先ほどの至福の瞬間を砕いた暴力を思い出させた。人間の僕は……、殴られたんだった。
「圭……?」
 悠季の囁きが、僕の耳に忍んでくる。
「気がついた……?」
 僕は彼の身体にしがみついたまま気を失っていたらしい。僕の腕から抜け出そうと身をよじる悠季の感触から、かなり長い間そうしていたらしいことを知った。
「ああ、すみません……。君を押しつぶしていたんですね」
 退こうとして強張った身体の痛みに呻いた。
「圭……、大丈夫?」
「…………何が起きたんです? 僕には……よく分からない」
 悠季の腕が僕を抱き締めた。
「圭……ごめん……。僕のせいだ……君に、こんな怪我させちゃって……」
「君の……? いえ、僕のミスです。渇きに目がくらんで、周りに気を配れなかった僕が悪い。君の色っぽい姿を他人に見せてしまったなんて……。……悔しい……です。悠季、君は大丈夫なんですか?」
「君が守ってくれたから……。僕はなんともない」
「僕が?」
「どんなにひっぺがそうとしても、君の腕は僕から離れなかったからね。僕は口で応酬するしかできなかったけど……。気絶してても君の力は強くて……驚いたよ。奴がいなくなってから、手当しようにも、僕は動けなくて……。君の気がつくの待ってた……。歩けるなら、手当しに帰ろう。だめなら誰か人を呼ばなきゃ……。僕一人じゃ君を運べないもの」
「すみません……。歩けます」
「また! 違うだろう? 肩は貸せるから……。帰ろう」
「はい……」
 二人してよろよろと立ち上がった。体を動かす度に頭痛がする。
「医者……往診してくれそうな所、あるかな……」
「要りませんよ。ただの打撲だ……」
「血、出てるよ。気絶するほど殴られたんだ、後頭部なんだし、検査はしとかなきゃ……」
 これ以上無いほどの真剣さで言いつのってこられては、嫌とは言えない。紛れもなく僕を愛してくれているからこそ、こうして心配してくれているのだから。
「検査なら、月曜日に行きます。今日明日は休日だし、大きい病院でもなければ、いずれにしろ応急処置でしょう」
「絶対行く? 月曜日に……」
 僕は頷きながら、嫌なことを思い出して早くも嫉妬心に身を焼かれていた。
「君に誓います。それより……、事情を説明して下さい。君の名を知っていたって事は、知っている顔ですか? 僕を殴ったのは……」
 悠季を知っていた男は、一体どういう関わりのある人物なんだろう。僕たちの行為を見て、僕を殴りつけるなんて……、一体………………。
 悠季は奥歯に物が挟まっているように言いづらそうにして、表情をことさら曇らせた。
 僕に言いにくい事ってまさか……まさか……。
 彼は僕が初めてだと言った。僕が口説き落とすまで、ストレートだったんだ。だから、そんなはずはないのに。過去に男がいたなんて、そんなはずは……。
「とにかく、戻ってから話すから……」
 ぼそっと言う悠季の肩に縋る手に思わず力が入る。
「必ずですよ」
「うん……」
 別荘のリビングに腰を落ち着けた。
 悠季の作ってくれた氷嚢をタオルでくるんで頭に当てながら、ソファに身を沈めて……。
 やがて僕が頼んだブランデー入りの紅茶を持って、悠季が向かいの椅子にかけたのをしおに切り出した。
「説明……して下さい」
「あ……うん……」
 カップを僕に渡しながら、彼は俯いてしまった。
「……去年、五十嵐君の所に写譜に行ったことあったよね、僕……」
「ええ」
「あいつ……、尾山もそこにいたんだ。五十嵐君の友達だって事だけど……」
「五十嵐君の……?」
「暑くって、冷房も風もなくって、つい、僕はパンツ一枚になっちゃったんだよ。何つーか、男ばっかだし、みんな、同じよーな格好でやってたし……。で、徹夜明けで仕事終わらせた後、そのまま寝ちゃったんだよね」
「パ、パンツ一枚で、寝てしまったんですか?」
 思わずどもってしまった。そんな、無防備なことを!
「ふ、普通、男の僕がそういう格好でいたからって、貞操が危ないなんて、考えないよ。あ、あの時は、僕がそんな風に好かれるなんて、思ってもいなかったし……、まして五十嵐君の友達だよ? ゲイが混ざってるなんて、考えもしなかった……。五十嵐君達だっていたんだし」
「オーマイガッ! ……です。そんな美味しそうな格好で……君が……、君が……。僕は嫉妬心で気が狂いそうだ。……それだけですか?」
「…………。怒らないでくれる? その……、一年前だし。……キス……されたんだ。五十嵐君達が慌てて引き剥がそうとしてくれたんだけど……。眠ってたとこ、いきなり唇押し当てられて……」
 キ、キスですって?
 その、可愛い唇を奪われたですって?
 僕も許されていなかった時に、あの禁断の果実を味わった奴がいるなんてっ。高嶺にしても許し難いというのに、その尾山って奴は……万死に値する!
 僕がぎりぎりと歯ぎしりしているのを見て慌てて付け足した。
「もがいて、耳ねじりあげて、ひっぱたいて……。頭冷やすように酒ぶっかけてやったんだ。それ以来、尾山には会ってないし、五十嵐君から噂を聞いたこともない……」 
「君が嫌がるのに無理矢理唇を奪ったんですね?」
「うん……まあ。でも酔っぱらいだから……。酒が入るとおかしくなるって五十嵐君が……」
「奴を庇うんですか? 酔っぱらいだから何でも許されるっていうんなら……」
「圭……」
 頭の痛みなんて、どこかに飛んでいってしまっていた。今は嫉妬と悔しさで体中に震えが来ている。
 僕は五十嵐君を問いつめて、尾山の居場所を聞き出し、復讐の蹴りを入れている自分を想像していた。
 いや、想像じゃない。未来のビジョンだ。
「今日もね、酒入ってたみたいだった。……僕が奴を変態呼ばわりしたの覚えてたらしくって、嘘つきだって言われた。……君を殴ったのは、単なるやっかみだったみたいだ。僕の相手だからじゃないだろう。殴った後で、僕に気がついたらしい」
「それで、奴はどうしたんです? 君を嘘つき呼ばわりして、それだけで逃げたんですか? そうじゃないでしょう? 何があったんです? ちゃんと話して下さい」
「あんまり……言いたくないんだけど」
「悠季?」
「だって、君、きっと……」
「きっと? 何です?」
「怒るに決まって……」
「悠季!」
「……怒って暴れたりしない?」
「僕が? 暴れる? そんな事しませんよ」
「ああ、言い方が悪かったね。つまり復讐のなぐり込みならぬ蹴り込みとかに飛び出したりしないでくれる?」
「しません。誓います」
 飛び出したりは、ですけどね。この復讐心を抑えるのは難しいんですよ、悠季。僕は残念ながら人間が出来ていませんので。
「あの……あのね。身動き取れなかったから……。君を殴ったこと文句言おうとしたら、尾山の奴僕の口にね」
「まさか……ねじ込んできたんですか?」
「だから、噛んでやったんだ。さすがに食いちぎる程じゃないけど……。ま、縫わなきゃいけない程度に……」
 悠季の不敵な笑顔というのは、なかなか見られるものではない。男として生を受けたら、誰でもその痛みが想像を絶するものであることは知っている。
 知っていて、優しい悠季がそういうことをしたというのは、本当に怒っていたからに他ならない。
 その怒りが僕のためであったこと。それは幸福感として、僕の怒りを静める安定剤の役目を果たしていた。
 瞳に微笑みをちらつかせる余裕さえもてる。
「それでさっきは洗面所からなかなか出てこなかったんですね?」
 悠季は僕の瞳に微笑みを見つけてホッとしたのか、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「うん。血の味がして、君のじゃないってだけで、吐き気がするほど気持ち悪くて……」
 僕は氷嚢をテーブルに置くと、両手を広げて悠季を招いた。
「こちらへきて下さい。消毒してあげます」
「消毒……って……」
 分かっているくせに……。
「悠季、早く……!」
 もじもじと僕を上目遣いで見上げながら頬を赤らめる悠季に焦らされて、つい命令口調になってしまう僕。
 悠季は首筋まで真っ赤になったまま僕の膝に跨った。悠季の重みは温もりと一緒に僕に安らぎを与えてくれる。
「圭……」
 自然な赤味の唇がうっすら開いて僕の名を呼んだ。
 その甘い響きに誘われるように僕は口づけた。何度も何度も……。ついばむように、やがては貪るように……。温かく柔らかな感触の甘い甘い悠季の唇と舌。
 これは僕のもの。僕だけの……。そう、消毒だけでは足りない。
「ワクチンを……打ちましょう」
 息継ぎの合間から囁いた。一瞬身体を強張らせた悠季は、キスでとろけかけた艶っぽい瞳を見開いて僕を見つめた。
「え……?」
「君が他の奴らに侵されることの無いように、予防注射を……」
 そう。君は僕以外には不可侵の存在でいなければいけない。
「注射って……、その」
「痛くないようにしますから」
 悠季を抱き上げた。
「だめ……。降ろして」
「悠季……?」
「歩けるから……。君は怪我してるんだから……。出来ることなら僕が抱いて行ってあげたい位なんだ。一緒に……行こうよ」
 差しのべられた手を押し頂いた。
 寝室への階段を一段一段昇る。手を携え、ゆっくりと、確実に。
「圭……」
「はい?」
「こんな風に階段を上り続けていけたらいいね。焦らず、確実に、二人で……」
「ええ……」
「僕はね、僕からはこの手を離さないから……。君が離さない限り離さないから……」
「……」
 照れ屋な悠季がこうして僕に語りかけてくれる愛の言葉は、僕が深酒をしてからよく耳にできるようになった気がする。
 これは絶対の秘密だけれど、たまには醜態を曝すのもいいかもしれない、などと考えてしまう僕はとことん甘ったれだ。
 僕が直ぐに答えなかったのは、言うべき台詞を先に言われてしまったから。その沈黙を、またうがった捉え方をしたのだろうか。悠季が立ち止まった。
 僕を覗き込んできた瞳に、僕は精一杯の微笑みを捧げた。
「僕は、君が離しても、この手を離すつもりはありませんよ」
「うん…………」
 
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「なんすか?」
 月曜日の夕方。病院へ行くという口実で、M響から早退し、悠季には少し遅くなると言って割いた時間。開店時間直後の音壺では、まだ僕らしか席を埋めてはいない。
 あっけらかんとした口調が能天気に見せているフジミのチェロ首席は、僕の呼び出しに怪訝さを見せながらも好奇心に瞳を輝かせて身を乗り出した。
 悠季の音大の、入れ違いの後輩である五十嵐君は、まっさらのストレートなのだが、そのなつき方が時々僕の癇に障る存在だったりする。
 悠季が可愛がっているせいもあって、あの辛い片思いの時期には一番憎い存在だったこともある。
 その明るく人懐こい性格でもって彼が悠季を微笑ませる度に、僕の羨望と嫉妬は沸点を遥かに超える域に上昇していたのだ。それが今でも後遺症になっている。悠季に愛されていると感じられる今でさえ、悠季にとって可愛いと思えるのは僕よりも彼の方が上なのでは……と。
 悠季との間で傍目には親しげなスタンスを維持していた五十嵐君に脅しをかけ、馬鹿な墓穴を掘ったこともあった。
 それが為に、今、かえって気楽に話を持ち出せるのだから因果である。
「尾山という人が君の友人にいるそうですね」
 言った途端に五十嵐君の顔色が変わった。
「あ、あの、守村さんが何か言ったんすか?」
 彼には僕が八坂を痛めつけたところも、吉野に制裁を加えたところもしっかり見られている。
 それを考慮した警戒心が、彼の顔からいつもの能天気さを剥ぎ取っていた。
「君は……どこまで知っているんです?」
「あ、あの……」
「写譜の時の事件は聞いています。聞けば、悠季も悪かったんだ。彼の態度は罪作りだった……」
「え……ええ、まあ……。尾山も、いつもはあんな風に実力行使に出る奴じゃないんすよね。守村さんて、確かに可愛い……」
 言いかけてアワワと口を閉じた。僕の目の色が変わったのを読みとったのだろう。
「昨日、一昨日と海に行きました」
「は?」
「そこで僕はいきなり殴られた。後頭部をです。悠季が言うには、殴った人は尾山という人だと……」
「ホントですか?
 言って身を乗り出したまま、あれこれ想像を逞しくしているらしい。好奇心旺盛な彼を刺激してしまったようだ。
 やがて彼は僕の顔を恐る恐る覗き込んできた。
「何でですか? 何でコンが殴られるんです?」
「それも、君を呼びだした理由の一つです。僕も知りたいんですよ。彼の居所を教えていただきたい」
「あの……。尾山の奴をやっぱり蹴り飛ばすつもり……ですか?」
「いえ。悠季に約束させられましたから。キレてしまえばわかりませんけどね……。取りあえずそのつもりはありません。とにかく、一度会ってみたいんですよ」
 悠季に痛めつけられた後、彼がどう出るかも少し心配だったのだ。僕はどうでも、悠季を傷つけられたのではたまらない。釘をさしておきたかった。
「とにかく、教えて下さい。この通りです」
 丁寧に頭を下げた。
「ああっコン! やめて下さい、そんなこと!」
 五十嵐君はかしこまって手をぶんぶんと振った。それから、声を潜めた。
「……俺から聞いたってのは内緒ですよ。ホント言うと、去年の守村さんのことで、俺もあいつには愛想尽かしたって言うか、距離おいてるとこあるんで……。尊敬してる守村さんを滅茶苦茶怒らせちゃって、もう、フジミにいられないってまで落ち込んだんですよ。あの時……」
「わかりました。絶対に言いません」
 内緒話の体勢で額を寄せ合う姿を、もし悠季が見たなら、少しは嫉妬してくれるだろうか。
 五十嵐君に教えて貰った住所をそのまま訪ねた。音大の側の学生向けのアパートの一つ。
 尾山は留守だった。
 丁度開いた隣室のドアから出て来た学生らしき青年に、念のため所在を尋ねてみたが、一昨日から人の気配は無いという情報のみ。
 肩すかしを食った気分で帰り路についた。
 情報が正しければ、尾山はあの夜以来帰っていないということになる。
(食いちぎる程じゃないけど……、ま、縫わなきゃならない程度に……)
 気恥ずかしそうに言った悠季の言葉を思い出した。
「病院か……」
 ならば少し時間をおこう、と、いう気になった。
 悠季や僕にしたことを考えれば、同情の余地はないが、傷の場所が場所だけに、敵に塩を贈るような気分で復讐を先送りにしてやろうと。
 そう、僕は復讐する気でいた。どんな形になるかは彼の答え方次第だけれど。
 とにかく、二度と僕らに手出しをしようなぞという気にならないように、完膚無きまでに叩きのめす気でいたのだ。
 八坂の時のように。
 そうだ。
 あの時の僕は逆上していた。八坂は僕の神経を逆なでするような台詞を吐き続け、僕の復讐心は当初持ち合わせていたものより何倍にも膨れ上がってしまったのだから。
 奴に蹴りを入れながら、僕は頭の中で僕自身に蹴りを入れていた。
 ここにいるのは僕。
 あの美しく清浄な人を肉欲で繋ぎ止めようとした下劣な獣。八坂の台詞を耳にする度、悠季を貶めていた自分と対峙させられ、それが更に僕の怒りを煽ったのだ。
 僕こそが、悠季をそれこそ強姦してしまった者には違いなく。強姦された者の恋人の気持ちも、経験させられた僕は…………。
 怒り、悔しさ、情けなさ。悲しさ、切なさ、そして愛しさ。いずれもやるせなさを伴って、もどかしげに喉元に詰まる。
 あんな行為で悠季を奪えると信じていた自分の傲慢不遜さを、下劣さを、見せつけられたための怒りだったと思う。
 やせ我慢に近い苦行を自分に強いることが出来たのも、その気持ちのおかげだが。それが、結果的に彼を振り向かせる一因になってくれたこと。僕には幸運以外の何ものでもない。
 愛して貰うのが、心を得るのが、いかに大変かを思い知らされた。力も金も通用しない、だからこそ美しく高貴な宝。まがい物ばかりを見てきた僕にとって、その輝きは崇高で近寄り難く、けれどどうしても手に入れたい存在で……。どんな努力を費やすことも苦ではなかった。
 悠季との出会いが僕を成長させてくれる。両親から貰えなかったものを彼が与えてくれる。
 全てが予定調和なのだろうか。ならば幼い日々に僕が経験した凍土のような道も、無駄ではなくて。
 僕なりに頑張った成果として、与えられたご褒美が悠季という存在なら。僕の二十三年と十一ヶ月ちょっとの人生は無駄ではない。
 そんな風に考えていたら、無性に悠季の笑顔が見たくなった。
 思わず駆け出していた。
 早く、早く。
 改札を飛び越えるように抜け、富士見銀座を駆け抜けて、悠季の待つ部屋へと急いだ。
 明るく優しいテノールの「お帰り!」と言う声が僕を迎えるはずだ。
 そして、キス……。
 特別に濃厚にしてしまいそうだ。もし悠季さえその気になってくれたなら、そのままベッドへ直行してもいい……。
 コンビニに差し掛かったところで、八坂を見かけた。まだこの街にいたらしい。走ってきた僕に気づいた様子で、恐怖に顔をひきつらせ駆け出した。走る僕の姿が追っ手に見えたのか……?
 一目散に逃げ去るずんぐりとした背中を見送りながら考えた。
「悠季も罪作りですよね」
 無防備で美しい上に、受け入れてくれると勘違いしてしまいそうな優しい笑顔。その実、本当の自分をしまいこんである殻は堅牢で……。八方美人に近い気がする。だからこそ僕は嫉妬と独占欲に身を焼かなければいけないのだ。
 どうか悠季、誰にでも優しくしないで下さい。僕だけに笑顔を見せて下さい。
 そう強請ってみたら彼は笑うだろうか……。
 胸の内に気恥ずかしい微笑みを浮かべ、僕は部屋への階段を駆け上がった。
 六階に差し掛かったあたりで異臭が鼻を突いた。
 鼻の奥がつんと痺れるほどの悪臭に僕は思わず眉をしかめていた。
 正体は分からないが不潔な匂い……。強いて言うなら、生ゴミ臭……だろうか。それは僕に八坂を連想させた。
 嫌な予感がする。
「悠季?」
 七階までを一気に駆け上がった。
「悠季!」
「ケイ!」
 ソラ君の叫びが僕を迎えた。けれど僕の眼中にはない。まずは悠季の姿をこの目で確かめなければという想いが立ちはだかるソラ君の小さな身体を押しのけるように僕の腕に命令を下していた。
「悠季っ? 悠季はどこですっ?」
「ケイッ! ケイってば! マミーはいないよっ」
 僕の袖にしがみつくようにして叫ぶ声がやっと耳に届いて。我ながら不気味なほどに固まったまま、ロボットのような仕草で怯えの走ったソラ君の大きな瞳を覗き込んだ。
「いない……?」
「病院にいる」
「どうしたんですっ?」
「い、痛いよ」
 思わず掴んでしまったソラ君の肩から手をどけ、僕は冷静であれと自分に言い聞かせながら彼の次の言葉を待った。
「高嶺をつれていった」
「高嶺を?」
「高嶺が階段から落ちたから。……オレはケイが帰ったら知らせられるように待ってた。高嶺……オレをかばって……オレの代わりに……」
 嗚咽がソラ君の言葉を遮り、僕はよくは分からないがホッとしていた。高嶺には悪いが、病院が必要なのが悠季ではないということだけで、安堵してしまう。そう、僕はエゴイストなんだ。
 だが。
「高嶺の指は無事ですか?」
「あ……うん……。頭打ったけど手は……。マミーが無事だって言ってた」
「それは不幸中の幸いでした」
 あの天才的なピアノ弾きが再起不能になってしまったら、僕らだけでなく、音楽界にとっての損失だと思う。高嶺自身にとってもピアノを取り上げられたら一生の不幸だろうから。
 僕はいたって冷静な気分になれ、ソラ君に優しい声音を聴かせてやれるほどの余裕を取り戻していた。現金なものである。
「で、この悪臭の原因はなんです?」
「変な男がドア開けた途端に、何か放り込んでった。オレ、ケイが帰ってきたんだって思って……それで……」
「変な男……? って、ずんぐりした鈍そうな奴ですか?」
「う……うん……そんな……かんじかな……」
「八坂だ……」
 そうか、それで僕を見て逃げ出したんだなと合点がいった。それにしても何を?
 部屋へ入ってみて、僕は固まった。ゴミ袋からはみ出た生ゴミがアトリエに散乱し、それと一緒に黒光りしたゴキブリが大量に……。悠季が見たら卒倒しそうな量が……、僕の存在を感知してかさかさと物陰に隠れ去った。
 生ゴミも、ただの生ゴミとは違う。腐敗の進んだ熟成されたものらしく……。強烈な悪臭が僕らの愛の巣を埋め尽くして、僕に襲いかかってきた。
 気が遠くなりそうになって後ずさり、ドアを閉めて七一号室のプレートを見つめた。
「ご、ごめんなさい。オレ、確かめないで開けちゃって……。でも、これ、どうにも……。とにかく臭くって……」
 八坂の恨みが一年分熟成されたものであることをこの腐敗臭が語っている。
 ある意味では八つ当たりに近い僕の制裁を、彼自身は納得のいかないまま受けたわけで……。
 そう、悠季が先に誘ったと、最後まで彼は信じていたのだから。そんな馬鹿馬鹿しいことはあり得ないのに。
 僕ですら相手にして貰えないのに、こんな奴……悠季が誘うものかと……。それは嫉妬でしかなかったかもしれないけれど。悠季を泣かせ、傷つけた罪を意識しない奴に僕はただ怒りの蹴りを入れることしか思いつかなかった。
 暴力が本質的な解決にはならないことは承知している。しかし、痛みこそが何かを覚えさせるためには効果的な方法であるのも事実。
 ただし、相手を選ばなければいけなかった。悠季が言うところの勘違い野郎は僕の与えた制裁も、別の捉え方しかできなかったという事。奴にはどんな教えも無駄なのだ。あの愚鈍な頭にはまともなことを刷り込むのは無理。
「仕方ない。とにかくかたずけましょう。ソラ君、薬局に行ってゴキブリ用の殺虫剤を買ってきて下さい。そう、水煙とか言うのを幾つか……。あんなものにはびこられたのでは堪らない。ああ、それと消臭スプレーを何個か」
 ソラ君に金を握らせた。
「う……うん。あれ……だな。分かると思う……」
 頭の中で僕の望む品を検索し、頷くと駆け出した。
「急ぎなさい。僕はその間に元を断ちます」
「わかったぁ!」
 階段の下の方でソラ君の叫びが聞こえた。ダダダという足音。
 転ばなければいいんですがね。
 道の向こうへ駆け出していくソラ君の後ろ姿を見送り、僕は溜め息をついて重苦しさをはらんだ防音扉を見つめた。
 ゴム手袋でも欲しいところだが、臭いがしみ込むのを少しでも防ぐには時間との競争だ。
 僕は腕まくりをして、指輪を外し、ポケットにしまった。
 大きく息を吸い込み、呼吸を止めて部屋に飛び込んだ。キャビンまで一気に走り込み、ホウキとチリトリとゴミ袋を出すとアトリエに駆け戻った。
 ゴミ袋を掴んでしっかり封をする。散乱した分は取りあえず置いておいて、袋をもって外に飛び出した。深呼吸する。ゴミ袋を二重に封じて玄関横に置くと、ホウキとチリトリで武装し、もう一度深く息を吸い込んだ。
 散乱したものをかき集めるために。
 黒光りした羽を見せつけるように蠢き回る虫達を横目に、まずは動かないゴミ達をかき集めた。
 コルク材の部分ではないフローリングの床に散乱していたことに感謝しながら、腐敗液の上にティッシュを何枚か落とした。液体部分をあらかた吸い取ったティッシュをつまみ上げ、ゴミ袋に詰めると、もう一度外に出た。
 既に嗅覚は麻痺し始めている。それでも、外の空気を吸い込んだ途端に、嘔吐反射が起こった。
 こみ上げてくる嘔吐感に、目の縁に涙が滲み出る。
 大きく深呼吸してもう一度部屋へ行き、汚れた手を洗った。悠季が留守で良かったと思いながら、念入りに。なぜなら、これからヴァイオリンの救出に向かわねばならないから。汚液がケースについたら難儀である。
 ああ、それよりも。今夜の寝場所は……。
 下の階にも一応悠季名義の部屋があるけれど……。
 悠季が契約したままになっているが、高嶺の困った特技によって鍵を取り上げられて以来、悠季は僕の部屋、高嶺達が悠季の部屋で生活している。そんな六階の部屋に四人はあまりにも狭い。
「八坂の野郎っ……」
 恨み言が唇から漏れる。
 アマーティ写しと《まほろば》を外に出したところでソラ君が戻ってきた。息を弾ませ袋を突きつけるように僕の方に寄越した。
「これっ、合ってる?」
「OKです」
 まずは消臭剤を取り出して、シミになったところを中心にまいた。悠季と僕の当座必要な物を取り出し、トランクに詰め込むと殺虫剤の準備に取りかかった。
 注意書きによれば、衣類や精密機器には付かないようにとのことだが、この際仕方がない。
 殺虫剤のセッティングを終え、わき上がる煙から逃れるように部屋の外へ飛び出し……。ソラ君と二人、門番の様にドアの前に立った。悠季が帰ってくる前に燻霧中である旨の張り紙をしておかなければ。
 しかし、取りあえず深呼吸。
「どのくらい……かかるの?」
「そうですね。説明書によれば二、三時間……でしょうか」
「その後で片づけるの?」
「ええ」
「……マミー、帰ってこないかな……」
「いつ頃出かけたんです?」
「えっとぉ、ケイが帰る……一時間くらい前……かな」
「そうですか……。月曜日は混みそうですし、後一時間くらいはかかりそうですね……」
 腕時計を見ながら言った。
「高嶺……大丈夫かな」
「あの男はゴキブリ以上に生命力があります。大丈夫ですよ。頭を打ってもどうという事はない」
「そうかなぁ……」
 心配げに病院のある方の空を見つめるソラ君の頭に手を置いた。
「大丈夫。悠季が付いています」
 世話やきな悠季はかいがいしく世話をしているに違いない。
「妬けますね……ホントに……」
 病院まで迎えに行きたいほどに。
「……どうして階段落ちなどとなったんです? 君をかばって……と言いましたね」
 時間つぶしのつもりで気軽に尋ねただけだったのだが、ソラ君はシュンと俯いてしまった。
「あの……。今日、ご飯食べてるときにね、高嶺があんまりマミーのこと見てるから……。オレ、頭来ちゃって……。部屋飛び出して、階段踏み外した。追いかけてきた高嶺がかばってくれて……それで……」
「悠季を見ていたから……頭に来たんですか?」
「マミーは作るご飯も美味しいけど、マミー自身も美味しそうだって」
「そんなこと言ったんですか?」
 それは僕でも頭に来る。理由はソラ君とは違うが。
「言ってない。でも、目がそう言ってた。オレは高嶺にとって、マミーの代わりなのかなって……」
「ソラ君……」
 小さくても、恋する者の気持ちは同じだ。ソラ君も僕と同じようにままならない想いを抱えている。
 愛しさと同じだけ募る不安を。
 人の心の不確かさを考える度、いかに想い人の心を掴んでおくかが……問題になる。今愛して貰えているからと、それに安住してしまったら、たちまち足下は崩れていくのだ。それも、気づかないほど少しずつ。倒れて地面に這いつくばってからそれに気づく。僕はそんなことごめんだ。
「オレ……、オレも、マミーみたいになれるかなぁ」
「え?」
 ソラ君の不安げな視線は縋るように僕に注がれていた。
「オレ……なんにも出来なくて……。高嶺にメーワクばっかかけて……。ケイとマミーみたいになりたいのに……」
 悠季のように優しい扱いは出来ないけれど、僕はソラ君の肩を軽く叩いた。
「急ぎなさんな。急ぐより、沢山のことを覚えればいい。君はまだ、勉強をするのが仕事ですから」
「だって……」
「高嶺は迷惑とは思っていませんよ。きっと。迷惑ならはっきりそう言う男だ。君が何かして上げたいって気持ちと同じように、高嶺もそう思っているんです。恋人って、そういうことでしょう?」
 言って聞かせながら、あ……、と思った。頭で分かっていても、心で分かるのとは違う。
 僕と悠季の関係に想いが及ぶ。相手の思いが先行していた今までと違う、僕が追いかける関係。追いかけ、振り向いて貰い、愛し愛されるという本当に素敵な今の関係。僕にとってはこのような恋愛関係は初めてで……。毎日が模索に満ちている。
 僕と同じように悠季が思っているとしたら……。
 いや、それはあまりにも希望的観測に過ぎるかもしれない。人に期待しないようにするのは僕の自衛手段。期待しなければ、がっかりもしないですむから……。そして、思いがけず得られた喜びは倍加するから……。
 本当を言うと、あのツアーの時も。
 僕は悠季があそこまで気にかけてくれるなんて期待していなかった。それでも鳴らないポケベルを意識している自分を知り、辛くなって上着に入れたままクロークに預けてしまったのだ。
 飯田君に叱られ、伝えられた悠季の表情を想像してゾッとした。どこまでもエゴイストな僕は、勝手の分からぬ土地での孤独な夜を過ごした悠季を思いやる前に、悠季の僕への処遇のこれからを心配しての恐怖に戦いたのだった。
 捨てられるかもしれない。
 八つ当たりでしてしまった悠季への仕打ちを考える度に悔やみ、恐怖した。
 帰り着いた部屋ががらんとして悠季の痕跡を全く残していないという悪夢を見たり……。
 何度電話をかけようと受話器を手にしたか……。永遠に鳴り続けそうな呼び出し音のみの返事や、もし電話に彼が出てくれたとして、受話器の向こうの声が冷たかったらという怖れが愛しい人のナンバーを押す前に受話器を置かせてしまって。
 水曜の夜に帰り着けなかったのだって、本当は怖かったからだ。
 悪夢が正夢になったときの恐怖を考えて。
 生真面目な悠季が必ずいるだろう時と場所を選んで訪ねた。しかも、激しい口論すら出来ない人目もある場所なら、最初の激情をかわせるかもしれないと……。怒り狂った悠季の手の着けられなさは経験済みだったから。
 どこまでも身勝手な行動だったと、今は思う。いくら謝っても足りない我が儘な僕。そんな僕を悠季は許してくれた。
 僕のために用意してくれた料理をゴミ箱に放り込むことで僕への怒りも半分以上は捨て去ってくれたらしく。
「愛あればこそ。ですね」
「え? 何……考えてたんだ?」
 不思議そうに覗き込んできたソラ君に微笑んで見せた。
「恋愛はギブアンドテイクで出来ていてね。ギブもテイクも、これといった型があるわけじゃない。君と高嶺はあくまでも君と高嶺です。君は悠季になる必要はないんですよ」
 僕が愚かなことをする度、悠季は赦しと怒りを巧くコントロールして僕との仲を修復してくれる。
 僕は僕で、悠季が落ち込んでしまったときに手を差しのべることが出来るだけの影響力を持っていた。ことに音楽面で。
 僕を頼りにしてくれる悠季に愛しさを感じ、悠季が与えてくれる安らぎを存分に受ける。そんな僕らの幸せは僕等固有のものであって、他人が真似を出来るものではない。
 幸せはそれぞれがそれぞれの捉え方で形にするものだから。
「あれっ、なにやってんだい?」
 明るいテノールが僕等の背中を叩いた。
「マミー!」
 ソラ君がいち早く駆け寄ってしまい、出遅れた僕は愛しい人が階段を上り終えて全身を現すのを待った。
「お帰りなさい」
「ただいま……」
 にっこりと微笑んだその姿だけで、僕を舞い上がらせることが出来る愛しい人。
 近頃では当然のようにその愛らしい唇を貪ることが出来るようになって……。
 なんて幸せなんだろう。
 僕の視線を真っ向から捕らえ、甘い輝きでもって返してきた悠季を抱き捉えられる距離まで後半歩。
 当然僕はその半歩を狭めて、いつものキスを交わすつもりだったのに、ソラ君にまたしても後れをとってしまった。悠季に見とれすぎてどうしても出遅れるのだ。歯がみしながらも子供相手に大人げないぞと自分を叱りつけ……。
 そう、ソラ君の立場なら僕だって……。
「ねえマミー、高嶺は? 高嶺はどうしたの?」
 心配を全身で表しながら悠季にせがむようにしがみつくソラ君を見て、僕も悠季が口を開くのを待つことにした。
「ああ、ソラ君、心配しないで。生島さんは元気だけどね、一応検査入院てことになっちゃったんだ」
「打ち所が悪かったんですか?」
「圭!」
 途端に表情を曇らせたソラ君を悠季が横目で指した。僕の無神経さを責める視線が痛かった。
「ああ、失言でした。高嶺……、嫌がったでしょう?」
「もちろん! あのがたいで騒ぐから、ホントに熊が暴れてるみたいでさ。あの元気があれば大丈夫だろうけどって、医者にもあきれ顔で言われちゃったよ。とにかく今日だけって言いきかして、置いてきたんだ。やっぱり一応、頭だしね。あ、でも、ホントに検査だけだから。今夜だけだからね」
 ソラ君は不安な表情のまま頷いた。優しく微笑んだ悠季が頭をくしゃくしゃと撫でてから、僕の方を向いた。
「で、二人してこんな所で何してんの?」
 邪気なく覗き込んできた悠季に僕は言葉を失った。
「あの……」
 僕等の愛の巣が汚されてしまった。僕の忘れかけていた昔の行いが元で。
 今夜僕はどこで君を抱き締めればいいのか……。君にどう説明すればよいのか……。途方に暮れてしまいますよ。
「殺虫剤焚いてる。まだ入れない」
 僕の代わりにソラ君が七十一号室のドアを指さした。
「いきなりなんだい?」
「中に入ってみたら、卒倒しますよ。きっと……」
 僕は溜め息混じりに付け加えた。
「?」
「変な男がスゲー臭い物とゴキブリを放り込んでった」
「臭い物……? と……ゴキブリぃ?」
「……生ゴミです。それも熟成された……」
 神経質な悠季が真っ青になった。
「ななな……? それっ! それでっ?」
「あ、ケイがかたずけて、薬まいたよ。オレ……」
 自分のせいだとソラ君が訴えるのを遮るように割って入った。
「取りあえず、繁殖しないように殺虫剤をセットしました。ゴミはそこに……。あと二時間は開けられません」
 あんぐり開けた口のまま、ドアとゴミ袋を交互に眺めた悠季は、やがてトランクとヴァイオリンを見て頷いた。
「……下の部屋に行こう。お腹減ったろう? 圭、君も食べて、レッスン行かなきゃね。ソラ君、鍵、開けておいてね」
「わかった!」
 ソラ君を先に行かせてから小さく溜め息をついた悠季は瞳をなごませて僕を見上げた。
 腕まくりした僕の手を取って握りしめてくれた。
「大変だったね……。君の方の病院の結果は?」
「どうという事はありませんでした……。僕には、病院の薬よりも君のキスの方がずっと効きますから……。お帰りなさい……」
「ああ、ただいま……」
 ずっとお預けにされていた気分で彼の唇を捉えた。じっくりと濃厚に、挨拶以外の気持ちも載せて。
「入院なんかにならなくて良かった……」
 抱き締めた腕の中でホッと吐息を吐いた悠季は僕の胸に身体を預けてくれた。夕闇に囲まれているけれど、外灯に照らされているところで……。
 君の中で少しずつ世間体や照れが消えていくのがわかる。それはただの慣れではなく、それだけ僕とのことを真剣に、誠実に考えてくれているから。君という人は、そういう人。だからこそ愛しい、大切な恋人……。
「今夜……どうしましょうか」
「え?」
「君を抱きたい僕は、どこに君を連れ去ろうかと悩んでいます。この部屋は……残念ながら今夜は使えそうもない」
「ソラ君を一人には出来ないよ……」
 抱き込んでいた腕から真っ赤になって抜け出そうともがく悠季を捕まえたまま囁いた。
「だって、欲しいんです」
 子供のようにせがむ僕に悠季は弱い。
「掃除……しなきゃ。卒倒しそうな有様なんだろ?」
 崩れ落ちそうな風情で、それでも僕の愛撫の腕を押しのけた。
 分かりました。今夜は諦めます。
「では、明日……。僕に時間をくれますか?」
 頬を染めて素直に頷いてくれながら言った。
「うん。取りあえず、今日は下で川の字で寝よう」
 言いながら微笑んで。
 うっとりとその微笑みを見つめながら僕は頭の中の辞書を検索していた。
 悠季の言葉の意味が分からなくて。
「川の字?」
「僕と、君と、ソラ君。並べて川の字。布団、足りるかな。夏で良かったね。冬なら風邪ひいちゃうよ」
 ああ、そういう意味ですか。でも……。
「嫌です」
「え?」
「川の字では真ん中にソラ君でしょう? それは嫌ですっ」
 僕は君が横にいなければ眠れませんから。
「圭〜」
「子供みたいなことをと思っていますね? だけど、これだけは譲れませんっ」
「分かった、分かったから!」
 ドウドウと僕を抑えるように抱きつき背中をポンポンと叩いた。
「圭、順番なんて無いんだ」
(後にも前にも、僕を抱いて眠るのは君だけ。僕が恋人として抱き締めるのは君だけだよ)
 声に出さない君の言葉が何故か聞こえる。
 今の僕たちは分かり合える。戸惑い、手探りでここまで来たけれど……、これからも同じだろうけれど……。少しずつ理解が深まっていくのが嬉しい。
 悠季の一言で安心してしまう僕は単純なのかもしれない。
「さ、とにかく食事にしよう。冷蔵庫の物も出せないから……。今買ってきた物で何とかしなきゃね。下に米くらいはあるかな……」
 ヴァイオリンケースと買い物袋を下げ、僕にはトランクともう一つのヴァイオリンケースを持つように指示して、悠季は先に立って階段を下り始めた。
「レッスン終わったら、上覗いてみて。掃除始めとくから。……手伝ってくれるよね?」
「……無論です。僕等の部屋ですから」
「ったく、この忙しい時期に家具の移動までしなきゃならなくなるってのは何の因果かな。犯人、分かってるの?」
「確証はありませんが、多分八坂でしょう。そこのコンビニのところで見かけました。僕の顔を見て一目散に逃げていきましてね。よっぽど懲りているのかと思っていたら……」
「ぷっ。あいつらしいね。生ゴミとゴキブリかぁ。あいつの所のじゃ、強力だ」
「笑い事じゃありませんよ。ソラ君なんか怯えてしまって、しかも留守番をしていた自分のせいだと責任を感じているようです」
「ああ、可哀想な事しちゃったね。元凶は僕だもの……」
「いえ、僕の制裁の加え方が間違っていました。あいつに理解力があると思ったのが間違いだったんです」
「また復讐に出かける?」
「同じことはしません。君が無事だったことだし、またゴキブリをまかれるのはごめんですから。陰険なからめ手でも考えておきましょう」
「おいおいおい……」
 クスクス笑いながら僕を見上げた悠季はやがて揺れる視線を僕に注ぎ、ぽおっと頬を染めた。
「まあ、大魔神の君も悪くないな……。僕のためにあんな風に我を忘れたって感じで怒り狂ってくれるの。愛されてるのかなって感じられて……。エゴなんだけどね……。でも、危ない事しちゃだめだよ。君を失いたくないから。人を呪わば穴二つってね」
 後半を真剣な光を瞳に浮かべて言いつのる悠季に微笑みを返しながら、ソラ君の待つ六二号室に踏み込んだ。
「では、まず腹ぺこ魔神に何か食べさせて下さい」
 悠季が腕時計に目を遣って飛び上がった。
「わあっ、時間、無くなっちゃう!」
 ばたばたとキッチンに駆け込む悠季を見送り、荷を解きにかかった。
 部屋を見回して溜め息をついた。畳と布団……は、嫌いじゃないが。高嶺の住まい方はちょっと乱雑だ。
 まあ、どこだろうと悠季と一緒でさえあれば僕には極楽のしとねに違いないのだが。
 ソラ君をアシストに、有り合わせを美味しい夕食に仕立て上げた悠季の腕に改めて脱帽し、フジミのソリストのレッスンに出かけた。出来れば早めに切り上げて掃除に参加したい。
「ケイ!」
 国道に出る途中でソラ君が追いかけてきた。
 小さな鞄とコンビニで買った菓子折の袋を下げている。
「どうしたんです? その荷物は?」
「エンドの所に行くっていったら、マミーが空手じゃだめだって。持たされた」
「遠藤君の所? 吉祥寺までですか?」
「うん。さっき電話したら、お邪魔虫は泊まりに来いって。下の部屋に二人で寝るといいぞ。高嶺がもどるまでには帰ってくるから」
 遠藤君もソラ君も! 君達はいい子だ!
 しかし……。
「悠季がよく許しましたね」
「マミーは掃除だから、勉強も練習もできない。エンドの所行けば勉強は出来るって言った」
「そうですか……。あちらで失礼のないようにね」
「うん。分かってる。エンドがちゃんと親に話しといてくれるって。じゃーね」
「行ってらっしゃい」
 駅に向かって走り去るソラ君を見送った。



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