ラプソディインブルー3
七一号室は、僕が帰る頃には、ほぼもとの姿に回復していた。玄関前のゴミはゴミ置き場へ。中の臭いも何とか消えて。あの嫌らしい侵入者達の姿もない。
お帰りのキス付きで愛しい人が出迎えてくれた。
「すみません、間に合いませんでしたか?」
「いや。力仕事が残ってる。君の大事なコンポの裏とかにゴキブリが残ってないか見てくれる? 僕は食器を洗わなきゃ。薬の付いたのなんて、使えないからね。寝具は明日洗濯して、服も虫干ししとく」
「分かりました」
二時間後。
共同作業を終え、六二号室に戻って一息付いた。
ソラ君と遠藤君が提供してくれた二人だけの夜。
「お疲れさまでした……」
「お疲れさん……」
僕の言葉にならない要求をのせた口づけを甘く受け取ってくれた悠季は、シャワーを一緒にという誘いも素直に受けてくれた。
「ソラ君達のプレゼントを受けないわけにはいかないからね……」
君は僕を意地っ張りだと言うけれど、君だって相当なものですよ。でも、どんな言い訳が添えられていたって、君の気持ちに変わりはない……。
ここ数日のラプソディックな出来事が僕に教えてくれたこと。幸せはどんな時でも僕にとっては悠季という形でもって腕の中に……。
そんな暮らしの流れはゆったりと心地よいあまやかなラルゴ。緩急のないメロディは飽きが来る可能性もあるけれど、生活に関してはこの心地よさが出来るだけ長く続けばいいと思う。
「愛してますよ、悠季。永遠に」
悠季の骨張った優美な指が僕の唇をそっと塞いだ。
「永遠なんて言わないで。今だけでいい」
「悠季?」
「今を重ねていけばいいんだ」
今の想いを積み重ねて……。そうですね。
君の言いたいことは分かります。
それでも僕は誓わずにはおれなかった。
同意の答えを君から得て、僕自身が安心を得るために。
今もこれからも、愛してますよ。ずっとね。
悠季に叱られないように心の中で呟いた。
その時僕はまだ知らなかった。ラプソディは終わっていなかったのを……。
プラチナのリング。
僕は自分の左手薬指を見つめたまま溜め息をついた。
結婚指輪なら銀が主流だろう。
常に填めて、磨耗を招くほどでなければ表面が腐食してその輝きを失ってしまう銀の装身具。それはある意味で愛のバロメーターのようなものだから。お互いに誓い合った愛の象徴である結婚指輪が輝きを保ち続けることで、目に見えない愛という不確かなものにある種の形を与えることが出来る。
もちろん、それはあくまでも銀が選ばれる理由に過ぎず、それに頼るなど馬鹿げた幻想で。
しかし。
ステディリングにプラチナを選んだのは幻想とは解っていてもそんな象徴的な意味を意識していたから。
常に身につけることが出来ずに、曇ってしまった指輪がかき立てる不安に、まだ僕は勝てる自信がない。
銀を選ぶときはそんな不安に勝てる自信が付いたとき。
そんな日が本当に来るかどうかは分からないけれど。
「結婚なんて、言い出せませんね」
それはきっと悠季を困らせるだけだから。ステディリングなんて逃げに過ぎない。
僕は悠季に指輪を渡したことを早くも後悔し始めていた。
指輪はペンダントヘッドではない。チェーンで下げても意味がない。それは特別な指に収まってこそ意味をなす。
「悠季……。ゆう……き……」
切なさがつぶやきになって無意識に飛び出す。
悠季が指輪を外したままなのだ。この三日間、僕と二人だけの時でさえ。
ごく普通の態度の愛らしい恋人が、僕の指輪をしていないだけで、かえって不安をかきたててしまうなんて。
仕事から帰った時に、居る筈の悠季が留守だというだけでその不安は倍増しになる。
どこに居るんです?
誰と居るんです?
キッチンにあったユウキの下の置き手紙には、(ちょっと出てくるけど、夕食までには帰るからね。)と、だけ……。
それがやはり三日続いている。
「ちょっとって、何なんですかね?」
僕の知らないスケジュール……。問うてはみても、リアルな質感を持った陶器のウサギは手紙を敷いたままその瞳を虚ろに黒光りさせ、何も教えてはくれない。
その日一日のスケジュールを教え合って打ち合わせるのは毎朝の日課だったのに。
壊してしまったのだろうか。あの心地よい温かな生活を。僕の余計な行動が、墓穴掘りになってしまったのだろうか。
そんなはずはない。そんなはずはないのに。
打ち消しても打ち消しても不安は募る。
ああ、どうしたんだ、僕は……。
こんなにもおぼつかなげな自分を僕は知らない。
僕を包む強固な外郭はすっかりふやけてしまった。
悠季という柔軟剤が僕を……。それなのに、そうして変質した今が嬉しい。今までの僕は人としては不完全で、僕から欠け落ちていた部分に悠季というピースが填ることで、より人間として完成するのだから。
だが今、そのピースが外れかかっているような気がする。それは、一歩間違えば、悠季の不興を買う疑いでしかなく。だから僕は、はち切れそうな不安を抱えながら沈黙し、表情を固める。
「どうしたもんでしょう。ストレートに尋ねることもできないとなると……」
「圭?」
ユウキに囁きかけた僕の背後から声がした。
振り返ると本物の悠季が立っていた。瞳に心配げな微笑みを浮かべて僕を見つめて。
聞こえてしまったかもしれない独り言による狼狽を隠すためには更に表情を固めるしかなく。
悠季は僕の顔色を見て取って眉をひそめた。
「どうしたんだい? 明かりも点けず」
「どうもしません。今帰ったところですから」
「そう?」
信じていない瞳でもってそう言うと、彼はスーパーの袋をテーブルに置いた。
キリリと美しい顔立ちを隠す眼鏡を取り、汚れてもいないのに丁寧に拭き始めた。
「買い物……だったんですか?」
「うん、まあね」
買ってきた物を整理しながら、全身で僕の気配を探ろうとしているかのように、身体を緊張させて……。
一体君は何を隠しているんです?
そう、今僕は確信した。悠季は何か秘密を持っている。それを僕に知られたくなく、見透かされそうな自分を守るため、全身を強張らせて警戒している。
「悠季……?」
僕の忍ぶような呼びかけに、彼は微かに身を震わせた。
「何だい?」
笑みを浮かべようとして失敗している。強張った口元、さまよう視線。
ああ、君が言いたくないことを無理矢理聞き出すことは出来ない。以前の僕ならためらわず聞き出していただろうに。
「……ただいまのキスを……」
「あ……。ただいま……」
「お帰りなさい……」
ホッとしたように本当の微笑みを浮かべた悠季。じっくりと口づけながら、胸の燻りが痛みとなって僕をかりたてるのを意識して。
応え方はいつも通りなのに……。上の空といった空気が彼にはまとわりついていて……。
裏切り?
いえ、そんなことはありえない。誠実さは彼の本質。
心変わり? それを打ち明けられないでいる?
僕を気遣い、言い出せないとしたら……。それはあり得る。悠季は特にそういうことを切り出すのは下手で……。
そんな思いつきに僕は身震いした。思いついてしまった自分を呪った。
嫌だ。絶対嫌だ!
悠季を失うなんて、絶対に……。
「悠季……、悠季! 悠季<」
縋り付くように彼を求めた。僕だけが知っている悠季の姿を再確認し、不安の灯を消すために。
「け、圭? ちょっ、……待って、まっ……」
テーブルの上に彼を組み敷き、首筋に貪り付いて。
僕等に押しのけられてジャガイモやオレンジが転がり落ちた。ごとごとと不協和音の嵐。
「今欲しいっ! 欲しいんですっ」
抗いをかわしてシャツをむしり取ろうと力を込めた途端……。
「だめっ! 嫌だ!!」
悠季の強い語気に僕は固まった。
「ゆ……うき……?」
「ごめん、今は……嫌だ……」
素早く僕の下からすり抜けて、身繕いをしてしまった。
「すまないけど、夕食は『ふじみ』ででもしてくれるかな。あの、買いもらしがあったから、ちょっと行って来る」
震える声でそう言うと、蒼白な顔をしてキャビンから飛び出して。やがて防音扉の重い音が響いた。
「悠季…………」
僕は後を追えなかった。
彼の襟に手を掛けた瞬間の強い拒絶に驚きもしたが、もう一つ、判ってしまったから。
胸元にも、指輪はなかった。悠季の首には鎖さえも存在しなかったのだ。
するときに鎖が擦れて痛いと言って、寝る前に外すのが習慣だったから、鎖がないことには気づかなかった。
昨日は疲れているからと言って、やはりさせて貰えなかったし……。
膝がかくんと折れた。
僕はよろけるように腰掛けて陶器のウサギと真正面から対峙した。
「そんなに……嫌になったんですか……?」
ユウキは答えない。
僕が縛ろうとしたから?
君に嘘をつかせようとしたから?
神聖な誓いのためのものを身につけて貰うのに、あんな理由を付けたのがいけなかったのだろうか。
嬉しいと感動に瞳を潤ませてくれた彼が、何故こんなに短期間に……。
最初の感動が覚めて落ち着いた時、まやかしに対する後ろめたさが首をもたげたのだろうか。
「……話し合う必要がありますね……」
話し合って、悠季の心を取り戻したい。そうでなければ、僕の行く手はまた凍りついてしまう。
どうしようもなくすれ違った心をもう一度寄り添わせるには、どうしたらいいのだろう。
薬指で光る僕の指輪を見つめた。その光はただひたすらに冷たかった。
悠季が帰ってきたのは十時を過ぎてからだった。疲れきった顔をして、ぐったりとして。
僕は話し合おうと申し出ることもできなかった。
ただいまのキスもくれずにコンクールの課題曲であるバッハの無伴奏ソナタを無言の内に弾き出して。
その音に余りにも余裕がなかったので。キリキリと引き絞られた音は悠季の中の辛いことを全て表しているようだった。
ああ、君を追いつめているのは何なんですか?
僕の手の届かないところで、君は何を悩んでいるんです?
その夜、悠季の音は僕の胸を同じように引き絞り、抉り続けた。
一時になって、ヴァイオリンを取り上げることが出来るのが嬉しく思えるくらいに。
「悠季……、君は疲れています。もう、おやすみなさい」
悠季は素直にヴァイオリンをかたずけ始めた。
「シャワー、浴びてくる。先に寝てて」
俯いたまま、僕の方を見ずに言った。言い置いて彼が消えたキャビンのドアを、僕は見つめるしか出来なかった。
避けられている。
僕が、悠季に。
知らず知らずの内に僕は何か失敗してしまったらしい。それもかなり大変なことを。そうでなければ今の状況は説明できない。
この数日間の記憶を検索してみよう。何かあるはずだ。悠季の変化に関係することが何か……。
僕は言われたとおりにベッドに入った。取りあえずは静観。自分から今の生活の崩壊に加速度を付ける気にはなれないから。
本人に尋ねて見ればいいことかもしれないが、僕は怖かったのだ。
きっかけを得たとばかりに別れ話が切り出されたら?
僕自身どうなってしまうか判らない。そんな怖れ。
それなのに。
僕の記憶には糸口すら見つからなかった。
どうしよう。彼を失いたくない。
どうしたらいいんだ……。
「圭……」
密やかな囁きが僕の耳に触れた。僕の背後の、彼の分のスペースに収まった悠季が、半身を起こして僕を覗き込んでいるらしい気配。
ハッと見開いた僕の目元の枕カバーはじっとりと濡れていた。
半分眠りながら、僕は泣いていたらしい。内心慌てたが、シミを隠すように背中を丸めた。眠そうにうなって見せて。
「寝ちゃったのか……?」
小さな溜め息が聞こえた。
「ごめん……」
言うだけ言って彼は眠ってしまった。
何を謝っているんです?
僕はそんな言葉聞きたくない。それよりも愛してると言って欲しい。いや、言葉よりも、君の瞳にそう語って欲しい。正直な気持ちしか現れない君の瞳に。
陰鬱な空気のまま朝を迎えた。朝食も、行って来ますのキスも無しで出かけた。僕等の生活のリズムは完全に狂ってしまったのだ。蜜月の幕切れのあっけなさ。
一人がこんなに寂しいなんて……。
僕には耐えられない。悠季の温もりを知ってしまった今、元の僕に戻るのは耐えられない。
僕は早退したいと事務局に届け出た。
二つ返事でOKが取れた。おまけに東コンの本選までの二週間を休暇にくれるという確約まで貰って。
悠季がレッスンに出ている時間帯に帰宅するつもりだった。
彼の帰宅を待って、今度こそ話し合おう。僕のいけないところは教えて貰ってちゃんと直して。もう一度チャンスを貰うんだ。
いざとなったら取り縋って泣くことも辞さない。父のように。あのみっともない姿で、プライドをかなぐり捨てて。まあ、最後の手段だが。
時間帯のせいでガラガラの車内のシートの真ん中に腰掛けて向かい合わせの窓の外を見つめ、頭の中で父の姿に僕を重ねてみた。
……。かえって悠季に愛想尽かしされる可能性もありますね。よろしい。泣くのは却下です。
何の気なしに首を巡らし背後の窓の外に目を遣った。誰かのポマードで汚れ曇った車窓からの風景は瞬時に変化していくせいもあって何かが目に留まるということは余りないのだが。
僕の目はそれを認めた。
富士見川土手と平行して走る区間だったせいもあるだろう。
土手を這いつくばっていたのは悠季だった。横にいるのは……。誰だ? 僕の知らない男。
思わず立ち上がった僕は窓に貼り付いて目を凝らした。
僕の悠季を這いつくばらせるあの男!
痩せ過ぎなほどに細身の、そうだな、喩えるならカマキリ……。
その場で飛び降りたい気持ちを抑え、車中を走った。改札に一番近いドアが開くのをたたらを踏みながら待って飛び出し、富士見駅を後にした。
土手の川風が僕の背中を撫でた。まるで僕をあざ笑うかのように川面の葦がそよいだ。二人の姿はとっくに消えていて。僕は残像すらつかめないままそこに立っていた。
「一体何をやっているんだ……僕は……。君は……」
後手後手に回っているのがしゃくに障る。こんな僕はちっともスマートじゃない。
その場にいても仕方ないのでマンションに足を向けた。大きな溜め息をつきながら。
重い防音扉をそっと開けた。流れ出てきたのはヴァイオリンの音。ツィガーヌだ。日コンの二次の曲だったな。
無心に弾き続ける悠季の姿を気配を殺して見守った。僕を見た途端におどおどし始めるに違いない彼は、一人でいるときにはちゃんとヴァイオリニストの顔でいる。それもとびきり自分に、芸に厳しい演奏家。
そんなヴァイオリニストの音が微かに曇っていた。僕の耳でもそれは聞き落としてしまいそうに小さな歪み。
「手を……見せなさい!」
驚きで飛び上がった悠季。実際、自分の音の中に埋没していたのをいきなり掴みかかられたのだから、驚いて当たり前だが。
「圭? ……何?」
僕の手からひったくろうとして失敗した自分の手を青ざめながら見つめ……、やがてゆっくりと顔を背けた。
「この手は何です?」
「……痛い……。離して」
「いいなさい、悠季。そうでなければ離しませんよ」
僕の手の中で抜け出そうとする悠季の手は無数の傷でがさがさだった。弦を押さえる指先のタコの周辺には無理がたたってか血が滲んでいる。しなやかさを失った皮膚はかさかさと毛羽だって白濁していて……。
「こんなに荒らして、君にはヴァイオリニストとしての自覚があるんですか?」
言った途端だった。
「うるさい! ひっ人の気も知らないでっ」
悠季の瞳に炎が走り、気が付けば僕は突き飛ばされていた。ラックに背中から激突して、雪崩れてきたCDの洗礼を額に受けた。ゆるりと瞼を伝う感覚。拭った指を見つめた。血だ。額が切れたらしい。
指先の赤い色が目前に拡がった。傷の痛みよりも突き放されたというショックの方が僕を打ちのめしていた。
「あ……」
「圭っ!」
オロオロと僕の前に跪き悠季が僕の額に手を遣った。
「ごめっ、そんなつもりじゃなかった」
悠季……。まだ僕を心配してくれるんですか? 少しは僕を好きでいてくれる?
僕の中でどこかが切れた気がする。ぷつっと、いきなりの休符。
「悠季っ……悠季ぃっ!」
抱き締めて押し倒した。シャツを剥ぎ取って仄かに温かいすべらかな肌に口づけた。
「け、圭? よ、よせよっ」
「僕は君が欲しい。愛しているからです。君は……違うんですか?」
ああ、悠季の匂い……。甘く僕を燃え立たせる悠季の体臭を思い切り吸い込み……。彼のジーンズに手を掛けた。
「圭! やめてっ! だめだっ」
悠季がめいっぱいの力で僕を押しのけようとするのを全力で抑えつけた。
ごわつくジーンズを剥ぎ取るにはかなりの力が要る。けれど、カッとしたときの僕は加減を忘れるほど馬鹿力が出るらしい。
「っつぅ……」
悠季の苦痛の声も、今の僕を冷静にさせるには力が足りない。僕は強張ってきついままの悠季の秘部を二本指で犯した。
「い、痛いっ! 圭! やめてってば!」
この温もりにくるまって安らぎたいと思うのは……僕の甘えですか?
「まだ僕を愛しているなら……受け入れて下さい。お願いです」
「い……いや……」
僕を……拒絶しないで……!
「悠季っ! ……拒まないで……僕を……愛して……!」
「あうっ」
熱く強張る襞壁を無理矢理押し広げながら、僕は深々と悠季の中に押し入った。
「いやだぁぁぁぁ」
苦痛に満ちた悠季の悲鳴は、僕のペニスの痛みと同化する。
「どうです? 悠季……。行為に馴れた君の身体なら、どうすれば気持ちよくなるか知っているはずです。さあ……悠季、僕に……許して……」
悠季の急所を知る限りの手で責め続ける。喘ぎが大きくなり、僕を締め付ける柔襞がぞわりと波打った。
「ああっ……あぅっ。や……だ……。こん……な……の……は……あ……は……う……」
言いながらも腰が動き始める。激しく動きながら快感に溺れて……。淫靡な海に自らを埋没していく。
「いいでしょう? 悠季、もっと僕を感じて下さい。君がどういう気でいようと、ほら、君の身体はこんなに正直に僕を捕まえようとしてる……。そう、もっと腰を動かして……」
「っかやろ……。っ……あああぁん。やめ……っ!! ああっ……だめっ……抜いちゃ嫌だ! は……はうっん……」
ああ、悠季、悠季……。
「ねえ悠季、君の身体にはもう、僕という男の感触が染みついているんです。君は僕だけの男だ。僕は許しません。君が離れることも、僕を拒絶することも……!」
肉の擦れる音を耳にしながら、僕は悠季を犯し続けた。何度も、何度も。悠季が気を失ってしまうまで。
嵐の後というのは……。本来なら清々しいものの筈であるが、心の嵐の場合はそうはいかない。
死んだように眠る悠季の涙で汚れた顔を見つめながら、僕は呆けたようにベッドの上に座り込んでいた。
セックスなんて、何の役にも立たない。
どんなに身体を繋いでも、心が寄り添わなければ後から来る虚無感に打ち勝つことは出来ない。
僕はまた……。間違った選択肢を選んでしまったのだ。
冷静さを欠くということが、こんなにもミスを呼ぶものとは……。
思い通りに事が運ばないことが常の悠季との関係。僕を振り回し、慌てさせ、戸惑わせるのは悠季がらみの事件ばかり。
だが、だからこそ僕を惹きつけて止まないのかもしれない。それだけ僕が悠季という存在に対して心を砕いている証拠。
たまらなく……たまらなく僕を惹きつけ、追いつめる愛しい存在。
彼さえ僕の側にいてくれれば他には何も要らない。
と、いうことは。
彼を失ったら、僕は何もかもを無くすということ。
だのに、僕は彼の不興を買うような行為しかできなくて。
「悠季……」
涙の痕を辿りながら囁いた。すべらかな肌に残る軌跡はパリパリに乾いていた。そのかさつきがそのまま僕への気持ちのささくれを表しているような気がして。
「悠季……、ごめんなさい……」
本当に僕は捨てられてしまうのだろうか。こんな風に悠季を傷つけることしかできない僕は、その隣に寄り添う資格を剥奪されてしまうだろうか。
「僕を……許して……」
汗で冷えた肌に口づけた。何度も何度も……。悠季は戦きもしない無反応。ぐったりと力を失って、昏々と眠り続けるその寝顔はけして安らかとはいえない表情で。
愛しているのに。こんなに愛しているのに……。
君を守らなければいけない筈の僕が、君を一番傷つけている……。
「ん…………」
悠季の唇が微かな吐息を吐き出した。もうすぐ目が覚めるらしい。
「悠季……、悠季?」
「ん……ん」
ぱちっと見開かれた大きな瞳が宙を見つめていた。
「悠季……」
ゆっくりと小首が傾げられ、覗き込む僕を静かな光をたたえた瞳が射抜いた。
揺らぐ眼光がふっと微笑みを灯した。
「なんて顔してんだい? 大魔神!」
「どんな……顔をしてますか? 僕は……」
「死んだ恋人を見つけたロミオみたいだ……。っつうっ……」
体を起こそうとしたが、苦痛に歪んだ顔でもう一度ベッドに倒れ込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「後でそんな心配そうにするなら、あんな乱暴、するなよ。ったく、切れちゃったじゃないか」
一瞬睨み付けた瞳を和ませて僕の額の傷に手を遣った。
「ああ、君もここ……傷になったんだっけ……。痛い?」
「いえ……」
悠季の手を握りしめて頬ずりした。
「いいえ、ただ……僕は……」
僕を捨てないで。僕に秘密を持たないで……。
「君の音に影響が出るほどの、この手の荒れを心配しているんです……。悠季……僕には君の心が見えない……。君は……何を隠しているんです?」
「圭……。君…………?」
「僕のこと……嫌になったんですね? ……そうなんでしょう?」
「圭!」
叱りつけるように僕を遮り、悠季の腕が僕の頭を抱き締めた。
「何を……言い出すんだか……? ああ、ごめん、僕のせいだね。僕が……。圭、今まで黙ってたけど、ごめん、君に謝らなきゃいけないことが……」
いよいよ別れ話か……?
悠季の腕から抜け出して彼に縋った。
「聞きたくない! 僕は君と別れません。絶対、絶対君と離れない! 指輪なんて、しなくていいから、縛ったりしないから……! 別れ話だけはしないで下さい」
僕は自分の薬指から指輪を引き抜くと、指で押しつぶした。不安を募らせるだけの指輪なんて、必要ない。
歪んだプラチナに吸い寄せられるように悠季の瞳が動いた。呆気にとられ、ぽかんと口を開け……。やがて、泣きそうに美しい顔を歪ませて僕の頬を両手で包み込んだ。
ぐいぐいと揺さぶられ……。僕は呆けた瞳のまま彼を見つめた。
「もう! 君って奴は!」
「悠季……?」
「圭、圭! 聞いて! 君は何か勘違いしているよ。僕が……君と別れるって……? そんなこと出来る訳無いだろう?」
「……君は僕が嫌になったから……、僕を避けていたんでしょう?」
「僕がいつ? ……あ……」
言いかけて、思い当たったという風に語尾を濁し、ガバッと僕の前に座り直して両手を合わせた。
「ごめん! 指輪を落としちゃったんだ!」
「は?」
「左じゃやっぱり邪魔になるから、右に填め変えようとして……。部屋に帰ってからやればいいものを、帰り道に急に思いついてさ。富士見川の土手あたりに落としちゃったんだよ。このあいだから、探してるんだけど、どうしても見つからなくって……。ほんと、ごめん!」
「何で……直ぐ言わないんです?」
「あの……。だって、あれ、すごく高いものだろう? その上、君の名前が入ってて、絶対大切にしなきゃいけないのに……。こんなに早くなくしちゃったなんて、言い出せるわけないよ。何とかして見つけてやろうと思ってたんだ……」
僕が固まったまま悠季を見下ろしていたせいか、彼はおどおどと綺麗な黒目を潤ませながら僕を見上げた。
「あの……、ご、ごまかそうとか、そんなつもりじゃなかったんだよ。ただ、やっぱり言いづらくて……。君が……がっかりすると思って……。もしかして、僕に嫌気がさしちゃうかもって、そう思ったら……もう、怖くって……」
「君は……それで、手がそんなになるまで土手を這いつくばっていたとでもいうんですか? ヴァイオリニストの君が?」
あんな指輪とは引き替えにならない大切な手なのに……。
「ああっ! 君って人は!!」
固く抱き締めながら呟いた。その細い肩は冷え切ってしまっていたけれど、僕の腕の中にすっぽり収まってくれて、ゆったりと息づいていた。僕を拒んではいない。それが嬉しい。
僕は腕をゆるめて、もう一度愛しい人を覗き込んだ。僕を受け入れてくれる優しい瞳。
「ねえ悠季、僕が一番大切なのは君なんですよ。君の指を傷つけてまで指輪なんかに執着するわけないでしょう?」
悠季は傷ついた指を固く握りしめながらその拳に目を落として呟いた。
「だ、だって……」
言いかけて、ハッと息をのんだ。
「何で、土手を這いつくばってたなんていうんだよ?」
「電車の窓から見ましたから。そうだ、君は今日、カマキリみたいな男と一緒にいましたね。あれは誰です?」
「あ、ああ、あれ……。あの……」
また視線をさまよわせる!
やめて下さい。君にそうされるだけで僕の不安は倍増しになるんだ。
「誰なんです?」
「えと……。お、尾山……」
なっ、なんですってぇ?
ああ、抑えなければ。嫉妬に身を焦がしている僕は、きっと悠季の目にはみっともなく映る。
「……何もされなかったでしょうね?」
「ああ、素面の時は……大丈夫だよ。……あ、あの、君を殴っちゃったことは……謝ってた。どうかしてたって」
「そう……ですか」
冷静であれ。まだ大丈夫。まだ彼は僕を愛してくれている。
「だったら、約束して下さい。二度と彼に近づかないと」
「まさか、君……」
「焼き餅とは違います。君が傷つくのは耐えられない。僕を心配させないで下さい。危険と判っていることに自ら近づく必要はありません」
「なんか……僕にとっては君が一番危ないような気がするけど……」
「本気で……言ってるんですか?」
「うん。危なくって、だから惹きつけられる。怖いもの見たさ……かな。ああ、ごめん、言い方が悪い。僕の人生は君のおかげで急展開をして、目が回りそうなくらいで……。それも輝かしいほど活気づいた毎日でさ。君はいつだって新鮮な驚きと刺激を僕にくれる。こんな毎日を知ってしまった僕は……もう、君から離れられないよ。圭、ねえ、いつだって君は、僕にとって大切な、かけがえのない人だよ。僕は小心者だけど、君を僕から奪うものには全力で立ち向かう。ホントだからね、誓うよ」
「悠季……」
赤面しながらも、それは懸命に言いつのる悠季の姿は、僕にとってはまさに天使。羽はないけれど無垢な瞳に必死な色を浮かべて、僕に幸せを与えてくれる。
「指輪だって、君がそれで僕を即捨てるなんて思ってなかったけど。でも、そういう小さな事の積み重ねがいつか君を僕から奪ってしまうかもって考えたら、どうしても僕は……」
同じだったなんて。お互いに、より自分の方が囚われの身だと思うほどに愛している。そんな気持ち。
「悠季、かけがえがないのはお互い様ですよ。僕の君を思う気持ちは誰にも負けない。君にだってね……」
「じゃあ、ライバルだ。僕だって負けないからね。僕はどんな目に遭わされたって、君から離れないから!」
固く抱き締めに来た華奢な身体を折れんばかりに抱き締めた。
愛してる、愛してる、愛してる!
抱き締めて、キスして、身体を繋いで……。それだって僕の気持ちを全て伝えるには不十分だ。
「何も要らない! 君がいれば何も!」
悠季の叫びが僕の直撃した。思いの深さに取り込まれ、翻弄され、思惑なんて全てが吹き飛ぶ。
「愛しています!」
もどかしい。言葉なんてこの気持ちを伝えるにはあまりにも単純すぎて。
お互いの瞳を覗き込んだ。思いの丈は溢れ出し、僕を押し流す勢いで。離れないように縋った。口づけに言葉に出来ない思いをのせて。
「悠季、悠季! 悠季<」
愛しい人の名をとびきりの呪文のように唱える。この気持ちが終わらないように。彼の思いが消えないように。
ああ、ラプソディは終わらない。終わらせられない。
それは僕の一生と同じ長さで奏でられ続けるだろう。
お互いの思いの淵が深ければ深いほど、スリルとサスペンスに満ちたフレーズが繰り返される。時に甘く、時に痛々しく。
すれ違いはカノンのように。和声の一つ一つが異なるメロディラインを奏でつつ重厚なハーモニーを創り上げるように。
生まれも育ちも全てが異なる僕等の人生が、音楽を媒体にして交錯し、寄り添った。
それがずっと絡み続けることを祈る。
悠季との出会いは僕にとって人生最大の奇跡であり幸運だが、僕が僕であるための必然であったと信じたい。
悠季、君こそが僕の音楽の象徴です。
一生をかけて愛していますからね……。