ラプソディインブルー
出会いの妙というのを考える。
あの時あそこを散歩しなければ。僕がM響で店晒しの憂き目にあっていなければ、もしかしたら気づけなかったかもしれない彼の存在。
守村悠季。僕の素敵な恋人。
彼の奏でる音が僕の心を救わなかったら、僕は今でも恋というものを知らなかったかもしれない。
ままならない想い、焦がれる気持ち。自分以上に大切な存在との出会い。
「圭?」
こんな風に甘く呼びかけて貰えるだけで、僕の胸は躍る。
「どうしたの?」
心配顔で覗き込んできた彼をじっくり見つめた。
理知的で大きな黒目が揺るぎのない愛情を浮かべながら僕を映し込んでいる。
こんな目をしてくれるようになるなんて、一年前には想像がつかなかった。もちろん僕の夢の中ではいつも彼はこんな風に僕を見つめてくれていたけれど。
実際にこうして向かい合って朝の食卓を囲むという幸せは当時夢のまた夢という感じで……。
「ね、圭? 何考えてるんだい? 飯、まずい? やっぱり和食よりパンの方が良かったかな……」
ああ、君は……。また余計な心配で、君という人を目で味わう僕の楽しみを取り上げてしまうんですね。
僕は笑ってみせ、箸を動かすペースを早めることで、彼の心配を否定した。
実際、和食の朝食なんて、僕だけだった時には考えられない贅沢さだ。板わさと新香、あじの開きとひね生姜。トマトとキュウリの酢の物、白和えに、ナスと鳥の味噌炒め。炊き立ての飯の香りはまさにお袋の味をイメージさせる。味噌汁はネギと揚げの白味噌仕立て。それに、僕の味噌汁には卵が落とし込んであって……。タガの外れた昨日の僕への気遣いか……。本当に、君って人は……。
「美味しいですよ。君が作る料理はどれも僕を幸せな気分にしてくれる。……君と出会えた歓びを、改めて噛み締めていたところです」
悠季の頬に、ほんのり朱が走った。僕の台詞に感じてくれたのか、瞳がとろけるように潤み、そばからそれを抑えるように消し去った。
「また急に。……どうしたんだよ。そんな風に言われたら、何かデザートでもおまけしなきゃならないじゃないか。……何がいい? っても、今あるのはスイカかブドウなんだけど」
「君がいいです」
「なっ、何言ってんだよ? 朝っぱらから! 僕はデザートじゃないからねっ。昨日あんなに……」
言いかけて、悠季は首筋まで真っ赤になって口ごもった。
そうですね。確かに僕らは昨日……、熱い夜を過ごした。翌日は朝寝坊が出来るからと、思いっきり。
それでも、僕は欲しい。事あるごとに求めてしまうのは、ただ愛しいこの人を愛したいだけ。
「冷たいんですね。今日はせっかくの祭日なのに……。ここのところお互い忙しくて、こんな風に二人っきりで過ごせること、少ないじゃないですか」
むくれてみせれば、大抵の場合は苦笑しながら眼鏡を取って、僕の望みに応えてくれるのを僕は知っている。
悠季の後ろに回り込んで抱きすくめ、うなじに唇をはわせながら囁いた。
「欲しいんです。どうしても……」
言いながら片手で彼を捜し当て、そっと握りしめれば……。
「あん……っ……だ……め……」
こんな時のだめ出しはOKの印と僕は捉えることにしている。事実欲望に固くなった彼を弄びながらした口づけにも濃厚に応えてくれて。
「け……い……」
熱に浮かされたように掠れた声で僕を呼ぶ。
「ベッドへ……行きましょう」
「ん……」
僕らは、この春から目的に向かって確実に踏み出したところである。フジミのみんなを巻き込んだそれは、僕らの生活に活を入れてくれるし、こなせれば更なる高みを目指すためのステップになる。
けれど。少々オーバーワークになりつつあるのも確かで……。
僕はともかく根を詰めやすい悠季は、僕が取り上げなければ何時までもヴァイオリンを放さない。そうやって睡眠時間を削れば、僕の誘いにもなかなか乗ってくれにくくて……。
しかも、僕の方もフジミの練習後のソリスト達のレッスンやら月給取りとしての仕事も手は抜けない等々……。僕らのすれ違いは泣き出したいほど続いていた。
そんな状況が招いた行き違いで、またも彼のプライドを痛く傷つけてしまった僕に叩き付けられた怒り。僕らの間に出来たヒビは、彼の歩み寄りという形で修復されたのだった。
悠季は僕を愛してくれている。確かに。でも、その深さは……。僕はヴァイオリンに負けているのでは。悠季の中での僕は今、何番目なんだろうか。そんな想いが僕を落ち込ませる。
僕は贅沢になっている。
最初は僕を魅了したあの笑顔を見せてくれるようになっただけで嬉しかった。
僕を少しでも認めて、好きになってくれた時、もっと頑張ろうと思った。そのための努力なら惜しまなかった。それがいかに辛い苦行だろうと逃げ出すことさえ出来ないくらい彼を好きになっていたから。
彼が煮詰まった僕を救おうとして身体だけでも受け入れてくれたときは幸福感で地に足が着かないほどだった。
彼が好きだよと言ってくれたとき。もう、これ以上は望まないと本気で誓った。一生分の幸運を使ってしまったとしても惜しくないと思った。
ああ、だけど。
今の僕は、彼の心を独占したいのだった。
いや、独占できないにしても、もっと僕と一緒にいて欲しい。彼に関してはいくらでも貪欲になれる僕がいる。
僕にとっての憩いの泉がその水量を減らしてしまったと感じたとき、その枯渇感と来たら残りを一度に飲み干してしまいたい衝動に駆られるほど激しくて。
引き裂かれる。
悠季を独り占めにして誰にも触れさせたくない僕と、ヴァイオリニストとして羽ばたかせたい僕。そこに生じる様々な矛盾が僕を引き裂こうとする。
それでも、僕は守りたかった。彼を。彼との生活を。僕の力で守ってみせる。悠季には一切背負わせない。そう誓って……。
それこそが次第に膨れ上がる増殖性のストレスだったのに。
馬鹿馬鹿しいと人は笑うかもしれない。
誰にも、ことさら悠季には言えない愚痴や辛さは、悠季と出会うまでの僕なら処理できた筈だった。
だが、一旦安らげる場所を手に入れた僕はそこに潜り込むことを我慢しなければいけない辛さに耐えられなかった。背負おうとしている荷の重さには耐えられる。だが、それを知られないまま、気づかれないままなのには僕の甘え心が耐えられなくて……。
自己過信。
僕は僕の弱さを見せるわけにはいかない。
そんな、どこにも吐き出せない想いが、こんなに重荷になるなんて、思いもしなかった。
安息の眠りを失うほど、僕の不安は大きくなってしまって。酒に頼っても見たけれど、渇きが増すだけだった。忙しい悠季に拒絶されたことも輪をかけて僕を追いつめた。
やがて悠季は何か感づいたようだった。朧ながらに僕の様子がおかしいと。
それはものすごく恥ずかしいことで。僕自身のプライドが許せないような恥ずかしいことで……。
僕が深酒で醜態を曝してからの悠季の気の使い方といったら……。
どうやら、僕を放っておいた、相手をする時間が足りなかったと、自分のせいにしてしまったらしく。
僕はただ、悠季を失いたくないだけ。ただそれだけなのに。
「あ……あぁ……ん」
仕方なく身体を開いて僕を受け入れる悠季は、その雄弁な瞳で、僕のことを子供だなぁと見つめる。
教職課程で習う児童心理学なんかを僕に当てはめているんじゃないかと思われる視線。
「気分が乗らないようですね」
つい不機嫌な声になってしまう。どうやら僕の仮面は氷で出来ていたらしい。暖かな悠季にふれる度、それは緩んで形を保てなくなっていく。
「そ……んな…………と……な……よ」
喘ぎながら答える悠季。
甘い吐息。優しい愛撫。
ガードの堅い悠季が僕にだけ見せる艶やかな姿。僕はそれを確かめていたくて彼を求めてしまう。それは多分性欲とは違う。情欲というのだろうか。
愛しさを伝えるために口づけや愛撫があり、それだけでは伝えきれないもどかしさから身体を繋がずには居れなくなる。射精による快感とは違う、それが彼の中だからこその至福感が僕の求める喜び。
僕と同じだけ思って欲しいなどとは思わない。願ってはいても要求は出来ないのを知っている。
だけど悠季、僕を愛して。もっと……もっと!
心の奥底でそんな欲望が渦巻く。
どうしてこんなに愛しいのか。
愛しいからこそ、あんな目で僕を見た君を虐めたい。
イかせないぎりぎりの愛撫を続けながら、僕は指でゆるめた悠季の秘部に猛る己をあてがった。
一気に犯しきり、ゆっくりと腰を揺らす。僕が出入りする度に戦く悠季が腰をくねらせ僕にしがみついてきた。
「あ、いいっ……。っもっと! もっと! 愛してる! 愛してるよ圭!」
そう、最近の君は確かに僕を愛してると連発してくれる。それは嘘じゃない。掛け値なく、僕を愛し、心配してくれている。心配して、ヴァイオリンより僕を取るとまで言った。
嬉しいけれど、悲しい。
それは真実とはほど遠いのだ。嘘じゃない気持ちは分かっているけれど、それに現実感はない。きっと君は悩む。本当にそんなときが来たら……、迷うだろう。
それこそが僕の愛した人。だけど悔しい。
切迫感に動きの早まった悠季からゆっくりと引き抜いた。
「ひっ?」
追うように熱い柔襞がうねった。暴発しそうになって呻いてしまった。
僕だって辛いんですよ、悠季。
「は……あっ? やだっ……意地悪……しないで……っ。お願いだから……。こんな……こんな……」
「僕が……欲しい? だったら、俯せになってどこに欲しいかよく見えるように見せて下さい」
「そんな……、恥ずかしいかっこ……」
言いながら、促す僕の手に素直に従い腰を高く掲げた。
上気した象牙色の双丘を割広げるとピンクの色を濃くした菊花がしっとりと湿って僕を誘うように呼吸した。バラ色の悠季の根本を暴発しないように抑えながら、中心に舌を入れた。舐めては犯し、喘がせて……。
「あ…………んんっ、早くっ圭! 入れて! 君を……、君を!!」
ファルセットにトーンを上げた叫びは僕を直撃する。強請るように震える腰を押さえて貫く。
僕を飲み込んだそこは、待っていたと言わんばかりに締め付けうねった。ああ、気が遠くなりそうに素敵だ。
アンダンテからアレグロ、ヴィヴァーチェまで一気にかけ昇り、僕らの喘ぎがシンクロして……。
「悠季、悠季っ! いいですか? ああ、僕ももうっ」
プレストな突き上げと、プレスティシモな鼓動。
痙攣した柔襞に誘われ、悠季を解放した。そして僕も……。悠季の頬を伝い落ちる涙の一滴が僕の切なさをかき立てる。
君をいたぶるなんて、僭越至極な行為だって思い知りました。そうです、こうして僕を欲しがってくれるだけでも、感謝しなければいけなかったんですよね。
「君は素敵です。何度抱いてももっと欲しくなる……。世界で僕だけが君を……こうして抱けるんだと思うと、本当に幸せです。ああ、僕の悠季!」
悠季は僕の台詞を嬉しがらせるための睦言だと……、その時限りの虚言だと思っているようだけれど。本気なのだ。心から湧き出る真の言葉なのだ。
確かに。僕は彼に出来るだけ僕のいいところだけを売り込んできた。それはもう必死に。彼に好きになって貰うために……。怖がらずに僕を受け入れて貰うために。
たった一つ欲しいもの、それが悠季の心であり体であり……つまりは悠季の全て。
それをほぼ手に入れることが出来た今、手放さないように努力するしかない。僕の弱みや欠点はなるべく彼の目に触れないようにしなければ……。そうしなければ、いつか僕は飽きられてしまうかも……。それが怖くて、今更僕の全てをさらけ出すなど出来ないのだった。悠季から見た僕は常に強く、完璧な、失敗のない男でなければいけない。
恋人同士を港と船に喩えて語り合ったことがある。僕は船であると同時に港でありたいと、彼に言った。
彼も同じように思うと……。
けれど。
港としての彼を喉から手が出るほどに欲しいのに、僕は手を伸ばすことのできない呪縛にがんじがらめにされている。それは僕自身の心理的呪縛。
解き放たれる道を失い、僕は迷路をひたすら惑い続ける。悠季の一番の導き手になりたいのに、夢の中での僕は、でくの坊のまま同じ迷路を堂々巡り。
このままではいつか業を煮やして僕の手を振り払い、彼は一人で行ってしまう。そんな風に焦燥感が更に煽られ、腕の中に悠季の感触がなければ眠りの精を捕まえることが出来なくなってしまうのだ。
母親の心音を聞いて安息の眠りを得る赤子のように。
そう、僕にとって怖いものはただ一つ。たとえどんなに小さなことでも悠季の拒絶が一番怖い。
まだ息が整わないうちに悠季が僕の下から這い出そうとした。思わず抱き締めて肩越しにキスをして。
「どうしたんです?」
腕の中で抗うように身を翻した彼を、とっさに僕は抑えつけてしまった。野ウサギのように戦きを走らせた大きな瞳が僕を見据えた。
「あ……すみません。でも、どうしたんです?」
心配そうな瞳は潤んだまま僕を見つめていた。
「どうかしてるのは君だよ。僕はただ君にキスしたかっただけなのに……」
悠季の腕が僕の首に巻き付いた。柔らかな唇の感触が首筋や鎖骨を這った。
「圭……。僕の圭。好きだよ。大好きだ。君のためなら僕は……。だから……」
ああ、悠季、済みません。心配させてしまって……。でも、だめなんです。僕はまだ泣けない。純然たる私事の悩みをぶちまけて君の前で泣くなど出来ない。情けない男だと思われたくないんです。
君を愛してる。多分僕があられもなく泣きわめくとしたら、君に捨てられたときでしょう。
だからこそ君の前では見栄を張りたい。君が安心してついてきてくれるような導き手になりたい。君の前では最高の男でいたいんです。
僕はただ微笑んだ。何でもない、安心して欲しいと。
悠季は無理矢理聞き出そうとはしない。僕に答える気がないのを読みとれば、すぐに疑問符をしまい込んでくれる。どんなに知りたい内容だとしても、僕の気持ちを優先させてくれるのだ。そうして心配げな瞳だけをくれ、言葉を飲み込む悠季。
好ましく、愛しい君。君が側にいてくれれば、僕は頑張れます。ですから……。
僕はそっと彼に口づけた。貪るキスではなく、親愛のキス。
「素敵なデザートをありがとう。僕は幸せな男だ……」
言いながら彼の胸に頬ずりした。
温かい君の胸。早鐘のように鳴る鼓動は、単調でも耳に心地よい音楽の様。
「圭ってば……」
(甘えん坊だね)
そんな言葉を飲み込んで、悠季の手が僕の髪を撫でる。優しく、愛しげで、慈しみ深いその撫で方が、僕を安らぎへと誘う。
この優しい時間が永遠ならいいのに……。
そう思いながら目を遣った先に悠季の乳首。
ぷつんと起ったままの胸のつぼみを指先で撫でながら呟いた。
「レッスン……あるんですよね? 明日も……」
「いや。今日明日はないよ」
「え……?」
身を起こして覗き込んだ先に無邪気な輝きを浮かべた瞳があった。視線を捕らえた瞬間、微笑みが浮かんだ。
「言ったじゃないか。ほら、連休だってんで、三条さんは友達と温泉。音壺は貸し切りパーティで使用不可。福山先生の所は生徒でいっぱい。練習場を貸してくれてた友永さんの所も家族旅行で閉めきりだから使えない。……連休ってだけで、みんながなんか特別な事してるんだよね。だから僕は自主トレしか残された道がないんだ」
指折り数えながらの説明に、僕は目眩がしそうだった。ああ、そうと知っていれば……。
いや、悠季が言ったはずと言うのだから、僕が記憶に留めなかっただけのこと。なんて、なんてお馬鹿なんだ。余裕のない生活というのは、本当にケアレスミスを犯しやすくする。
いや待て。まだ間に合うかもしれない。
「……僕らも例に倣って特別なことをしませんか?」
「へ?」
「デートです。海の日に因んで、海にでも……」
「お……、泳ぐの?」
「ああ、それはどちらでも構いませんが……。出来れば、君の海パン姿は誰にも見せたくありませんね。この肌を見つめられるのは僕だけの権利にしておきたい。……僕のビジョンとしては、海を見下ろす静かなところでコーヒーでも飲みながら君のヴァイオリンを聞けたらと……」
「ふうん、海水浴とは違うわけだ。気分転換にはなるね。……僕は構わないけど……どこの海?」
「そうですね、葉山あたり……、どうです?」
「ええっ? と、遠いし、車じゃないと不便だし……」
もごもごと先を言い渋った悠季。
時々歯がゆくなるほど、経済面では煩い君。もしかしたら、以前君を怒らせてしまった僕のあの台詞がひっかかっているのですか?
僕の愛に応えてくれているのは金目当てでも地位目当てでもない、本気の愛だと主張するために……?
もしそうなら、僕はどんなにして謝ればいいのか。それは育ってきた環境のせいなのです。そんな疑いを持つように育った自分が恥ずかしい。
「……高い、ですか? 葉山なら、おじいさまの別荘があるので……。泊まってゆっくりしても、気兼ねも要らないかと思ったんですが……だめでしょうか?」
悠季が僕の下で瞬間身体を強張らせた。
「……だめって事もないけど……。急にいいのかい?」
僕の家が絡んでくると、途端に悠季の顔は曇る。
彼にとって、僕らの関係を取りざたされるのが一番痛いところだから。家とは、つまり一番高く険しい、でも乗り越えなければいけない山のこと。
それでも、君は避けようとはしない。この、今の気持ちを大切にするために立ち向かうつもりでいる。それが、どんなに僕を喜ばせるか、君は知っていますか? そんな君を、僕がどんなに愛しく思っているか……。
でも、安心して下さい。戦いはまだ先です。君を矢面に立たせたりはしません。
強張った彼を解きほぐすように、僕は彼の全身にキスの雨を降らせた。そうしながら、説明を加える。
「夏の前に掃除は入るんですが、お爺さまも老齢ですから、ほとんど誰も使用しないのが常でして。風を入れに行ってやれば、喜ばれます」
「ほんとうに?」
「……家に電話します。誰も使う予定がなければ行ってくれますか?」
「あ……う、うん……」
僕は起き出して、ベッドの下から電話を引きずり出した。
「ああ、僕です。葉山の別荘は今どうなってます? …………ええ、そりゃ好都合だ。今日明日使わせて貰います。管理はまだ山室さんに? はい。じゃ、お爺さまによろしく」
「OKかい?」
「ええ。掃除も免れましたよ。一昨日やったばっかりだそうです」
「予定があってやったんじゃないのかい?」
「ええ、月曜から使うそうです」
「それじゃ、綺麗に使わなきゃね」
「大丈夫ですよ。それより、僕は一つだけ野暮用がありまして。二時に品川で待ち合わせということでいいでしょうか?」
「ああ、いいよ。僕はちょっと練習して頃合い見て出かける。どのへん?」
「そうですね……横須賀線の下りホームの前の方で。切符は逗子まで買って下さい」
「分かった。じゃ、スタートだ」
本当に単なる思いつきだった。
僕にも悠季にも、気分転換が必要だっただけ。レッスンに明け暮れる中、福山先生にあてがわれた伴奏者と思うようなコンビネーションを生み出せないでいる悠季。夢に追いつめられる愚かな僕。
悠季を安心させるためだけにかけた電話は、それなりな情報をもたらした。
別荘はついこの間掃除した状態だという事。酒は整えてあるが、食べ物は持ち込まなければならないこと。もちろん、月曜まで他の人間が使う予定はない。
全てがゴーサインを出していた。
場所は葉山の御用邸と旧高松宮邸の間に位置する山の中腹。海へ出るには道を渡って少々歩かなければならないが、緑に囲まれて静かなところだ。眺めもいい。
JRとタクシーで、約三時間。途中駅前で買い出しをした。出だしが遅かったから、風を入れて落ち着いたらもう夕方。それでも、環境を変えるという気分転換方法は、正解だったと思う。少なくとも僕にとっては。
キッチンに荷を降ろし、悠季の指示で整理していく。生ものだけは着いて直ぐに悠季が冷蔵庫へ入れたけれど。
「圭、調味料とかは?」
「あ、さぁ。このへんですかね」
ばたばたと戸棚を開けて回る。
「何だよ、自分所の別荘なのに……」
クスクス笑いながら、探索に悠季が参加した。二人で捜し物をする。そんな行為も何故だか楽しい。
結局、使い勝手から目星をつけた悠季が先に見つけた。僕は決まり悪さから頭を掻いて笑って見せた。
「……何というか。僕はここ五年は利用してませんし、キッチンにはあまり入らないもので……」
「ああ! そっか、やってくれる人が雇われてたんだよね」
「ええ、まあ。……、これからは手伝いますよ。何をすればいいか言って下さい」
「いいよべつに」
「言って下さい」
悠季の邪魔かもしれないけれど、二人で何かを作るというのも、僕には素敵なことに思えたので。
ムキになってしまった僕をあやすように微笑み、悠季がコーヒー豆を手渡してきた。
豆は僕の好きなマンデリン。いつもはこれにブルマンをブレンドしたものを飲んでいる。
「それじゃ……。コーヒー、煎れてよ。その間に夕食の下ごしらえ、しとくから。コーヒー出来たら、一服しよう」
「イエッサー!」
しかつめらしく敬礼して応えた。プッと悠季が笑う。
「献立は何です?」
「天ぷら、牛刺し、揚げ出しに飛竜頭と、鯖のみぞれ煮。前菜にくずたたきの盛り合わせ。イカのウニ和え。あと漬け物。他にリクエストは?」
「肉じゃがを……」
配膳台に転がるジャガイモを横目で見ながら彼を抱き締めた。
「言い忘れたのはわざとですか?」
「言わなかったっけ?」
肉じゃがは僕の好物。
悠季に作って貰うまではさほどではなかったけれど……。悠季はこの手の家庭料理を作るのが上手で、実際惚れた欲目ではなく「お袋の味」というものを感じさせる。それはヴァイオリンの音色と同じように技術だけではない、愛情というエッセンスがたっぷり加えられたもので……。
高嶺を魅了した点から見ても、これは客観的な評価のはず。
そして、僕にとっては胸の内を暖かにする最高の味。
「圭の好きなものばっかりで食卓を飾りたかったんだけど、材料そろわなかったから……。変なメニューでごめんね」
「君の作る物なら何でも好物になります」
全く、僕は運がいい。
無理矢理に手に入れたも同然のこの想い人は、思いがけない嬉しい付録を沢山持って僕の胸に飛び込んできてくれた。
後はこの幸せが一生続くことを祈るのみ。
「圭……」
「なんです?」
「キスは後にして、コーヒー、頼むよ」
「ああ、すみません。君って人も僕の最高の好物なので、ついつまみ食いを……」
「お行儀悪いぞ」
「はい……」
叱られた子供のように返事をしてコーヒーミルを手にした。
ガリガリとミルを回しながら、コマネズミのように飛び回って要領よく料理を進めていく悠季を見つめる。華奢な背中、きゅっと締まった腰、スレンダーで真っ直ぐな脚。たちまち僕は彼を頭の中で裸にしてしまう。
ああ、いけません。お行儀が悪いです。コーヒーに集中しなければ。せっかくの特別なコーヒータイムです。
美味しいものを煎れなければ、悠季に申し訳ない。誰にも邪魔されない二人だけのひとときを始めるに相応しい味に煎れなければ。サイフォンに豆を仕込みながら考えた。
幸せなのはセックスの時だけじゃない。二人で過ごす憩いの時は、どんなことをしていても安らぎの時で……。
僕にとっては幼い頃から欲しかった暖かさ。
悠季は笑うけれど、僕は彼と出会って初めて、人としての幸せを手に入れたのだ。
愛する人と一緒に過ごす何気ないひととき。喜んで貰うこと、頼って貰うことのうれしさ。愛する人に必要とされるということが、どんなに自分の存在意義を大きくしてくれるか。そして、同じ目的を持ったときにはフォローしあいながら邁進する……、その心強さ。
「一人じゃないって、素敵なことですね……」
それは独り言めいたつぶやきだったのだが。
「ブッ、なんだよそれ。昔、そんな歌あったよね。……幼稚園ぐらいの時」
包丁を持つ手を止めずに悠季が応えた。
「そうですか? 君を見てたら、本当にそう思えたんですが……」
「……そりゃ、僕だってそう思うけどさ。うん、いつだってそう思ってるよ」
「悠季……」
君にそんな風に言われたら、コーヒーも食事もどうでもよくなってしまいますよ。
「丁度一年前。君を避けまくってたくせに、あの嫌な事件の時は躊躇いなく君の所に泣きついちゃったんだよね、僕は」
「ああ、そういえば……、丁度明日ですね。僕は嬉しかったですよ。あの時の君はものすごい状況だったけれど、そんなこと気にならないくらい君の泣き顔は魅力的でした」
諦めなくてもいいかもしれない、いつか君が僕を受け入れてくれるかも、と、希望を持ったのはまさにあの時。
八坂にフェラチオを強要され、強姦されそうになって逃げ出してきた君が、他ならぬ僕を頼ってくれたとき……。
汚液にまみれてどろどろでも、君は美しく輝いて見えた。悔し泣きに泣いて訴える君の声を聞きながら、僕以外の男が君に触れたということに嫉妬した。僕には触れることも許されていなかった君に……。
悔しかった。
「可愛くて、大切で、愛しくて……、その分……、あいつに怒りを覚えた。……はらわたが煮えくり返るというのを本当の意味で実感しました」
「あの時の君の心遣い……、嬉しかった……。だから、君って人と親密になりたいって思った。その、恋……とかじゃなく、人としてね。それが君を苦しめちゃったんだよね。半端なことしてごめん……」
「いえ。君の戸惑いは尤もだったんです。僕が性急すぎたんだ」
「川島さんにね、音で分かるって言われた。だめもとでプロポーズしたら、勘違いするな、本当に僕が愛してるのは桐ノ院圭だって……。つまりね、僕は君を毛嫌いしてるように見せながら、音では君のこと好きだって、無意識に告白してたらしい」
「知っていました……。いや、その、君の言う、人としての愛ですね。音楽家として認めてくれているのは分かっていました。プライベートは自信ありませんでしたが。僕にしつこくアタックする勇気を与えてくれたのは、確かに君の音だった……」
「八坂にさ、君と僕はツーカーだからって言われたんだよ。あの時の僕は、そんなことないって否定しちゃってさ……。あの勘違い野郎にさえ分かっちゃう様なことなのに、僕は自分のこと、全然分かってなかったんだ」
悠季がカップとソーサーを持ってテーブルに来た。
「君が自分を知らなさすぎるのは前から言ってあるでしょう? 自分の魅力がどんなに人に影響するかも気づかないんだから……」
コーヒーを注ぎながらふっと悠季が笑った。
「女にはモテないけど、男にはモテるって、分かった。それも、君と出会ってからだよ。全部。ほんとにそれまではそういうことなかったんだから……。君が僕を、見た目も変えちゃったんじゃないかと思うくらいだ」
僕を見つめた悠季の瞳は悪戯っぽくきらめいた。
「君が気づかなかっただけです。君はガードが堅いから……。間違って発展場なんかに行こうものなら、たちまち取り囲まれてしまったでしょうね」
「発展場ってなに?」
「え?」
「発展場って、どういう所なの?」
「変な誤解して欲しくないんですけど。……つまりですね、同じ趣味の人間がパートナーを探しに行くところです。そこにいる人なら、つまり、探りを入れなくても安心して声をかけられる」
本当はそれ以上のことが出来るのだが、言わないでおいた。
「………………」
悠季の目の色が胡散くさげな光に変わった。
ちょっと、しっかり誤解してませんか?
「言っておきますが、僕は行きませんよ。自慢じゃないが、そんなところに相手を探しに行くほど飢えていなかったし、困りませんでした。君から見れば信じがたいかもしれませんが、セックス自体が好きな訳じゃないんです。君だから欲しくなってしまうだけで……」
「つまり、そこにいる人は、セックス目的なわけ?」
「大抵は……そうでしょうね。同じ夜に複数の人とする人もいるそうですから」
「信じられない……。愛がなくてもできちゃうってことだよね。僕には分からないよ」
「君は分からなくていいですよ」
一生分からないでいい。君は僕だけの男。
「とにかく、そういうところには絶対近寄らないことです。襲われたくなかったら」
「はいはい」
当然だよと微笑んだ。
……ありがとう、悠季。
悠季は見つめ合う僕の瞳に仄かな欲情の光を認めたらしく、頬を赤らめると視線を逸らした。分かっています、食事が先です。
彼はコーヒーを啜り、立ち上がった。
「さて、煮物の仕上げをしよう。朝飯が遅かったから昼抜いちゃったし、腹減ったよね。出来たら呼ぶから、音楽聴くなりして待っててよ」
「ここに居ちゃいけませんか? 君を見ていたい」
煮物の味を調え、最後の天ぷらに取りかかる。
「いいけど……。つまみ食いはだめだよ」
作業を続けながら声だけでのいらえ。悠季の後ろ姿が最高の絵に見えるから別に不満はない。
「大人しく待ってます」
「食後の予定は?」
「少し海辺を散歩しましょう。それから君のミニリサイタル……というのは? ああ、君さえよければですが……」
「望むところだ、なんてね」
明るい笑いを含んだ声と一緒にリズミカルなジューッという油の音。
誰も邪魔する者のない本当の二人きり。君の音はきっと僕のためだけに暖かく響くだろう。
ああ、その前に。
渡す物を渡してしまわなければ。散歩の時? いや、食事の時に……。
悠季はどんな顔をするだろう。どうか、迷惑顔だけはしないでいてくれるように……。
「圭! すぐ飯にする? それとも一杯やる?」
「え?」
悠季の声に目を上げれば、テーブルには旨そうな料理が並べられ、油を切った天ぷらを盛りつけながら悠季が微笑んだ。
「……そうですね、乾杯くらいしたいかな。ああ、美味しそうだ。君の料理に合う酒を探してみます」
立ち上がった僕を悠季が制した。でんと五合瓶をおいた。
「酒なら持ってきたよ。越之寒梅。姉貴が送ってくれたんだ。君が出た後宅配便が来てさ」
「ほう……。実にタイムリーだ。ラッキーです。生か……冷やでいきましょうか」
「うん、そういうと思ってさっきまで冷やしといた」
「つまり、今日のメニューは、この酒あわせで?」
「あはははははー。乾杯しよ!」
「では、僕等とフジミの成功を祈って」
「うん、成功を祈って、乾杯!」
カチンとグラスを合わせた。冷酒用のグラスの音は鈍い音だけれど、僕の耳には心地よく響いた。シチュエーションという効果のせいだろう。
クイッと干して、置かれたグラスに映り込む悠季。温かく優しい笑顔。色っぽく柔らかな唇が開いた。
「冷めちゃうから食べよ!」
ああ! 酔いが回っているのは僕だけなんですね?
君という美酒に酔っているのは僕だけ……。
悔しさをポーカーフェイスに隠して、更にその上に微笑みを浮かべてみせる。
「はい、いただきます」
向かい合って座った食卓はキッチンの簡素なダイニングテーブル。使用人用だ。
悠季がどうしてもここでと主張したので。
確かに給仕の居ない時にあちらのダイニングを使っても悠季の負担が増えるだけだし、大きなテーブルは僕と悠季を遠ざけてしまう。
そう、僕にとっても、この食卓の方がずっと魅力的だった。
マムマリアの家庭を知ってから、気取ったよそよそしさで飾られた冷たく味気ない桐院の食卓には辟易していたのだ。
「ああ、旨い……」
本当に幸せな気分。
「本当? よかったぁ」
悠季の安堵の微笑みは、今日という日を特別にしたいがための気遣いと成就感から。
「外泊してまで君を働かせてしまって……すみません」
「何言ってんだよ。二人だけで気兼ねなくくつろげる方がいいに決まってるじゃないか。だから頑張っちゃったんだよ。君に美味しいって言って貰えるのが一番嬉しいんだ」
酒が入ると悠季の微笑みは更に色っぽく変化する。頬が桜色になり、とろけた瞳ははんなり柔らかな笑みを浮かべ、口数も増えて僕の言って欲しい台詞を誘惑の口元が紡ぎ出すのだ。
ああ、どうしよう。今出したら……、微笑みが引っ込んでしまうだろうか。いや。酒が入っている方がいい。そうでないと、照れ隠しに叱られてしまいそうだ。
「何?」
言い出せないもどかしさを見て取ったのか悠季が覗き込んできた。
だめです、勇気が出ない。
「あ、いえ。天つゆをもう少し下さい」
「ああ、ごめん。気がつかなくて。そろそろ飯よそおうか?」
「……いただきます」
暖かな味噌汁とご飯を受け取り、また彼を見つめた。きっと、きっと受け取ってくれる。だけど、困ったように溜め息をつかれたら……?
「何だよ? 圭」
「は?」
「浮かない顔してる。不味いの我慢してない?」
「いえ! そんなことは絶対ありません」
ただ、緊張してしまうんです。君の反応が怖くて、渡したい物が渡せない。
変な奴だなという顔をしながら、冷蔵庫からメロンを出してきた。
「デザートはこれ。黒崎の奴はとっても甘いんだよ。奮発しちゃった」
「それは素敵だ」
食事も締めくくりに近づき、食後のメロンを食べながら、僕は意を決して彼に呼びかけた。
「悠季?」
「ん?」
「受け取って欲しいものがあるんです」
「え?」
彼の前に懐から出した包みを置いた。
それは、野暮用と言って今日受け取ってきた物。
銀座の本店で。
出来れば出会いの記念日の、あの夜に渡したかったのだ。特別注文のプラチナ使いな上に、気に入ったデザインが見つからず、サイズ直しも思いの外時間がかかってしまって間に合わなかったが。
「これ…………?」
不思議そうに箱を眺めた悠季。箱に書かれた文字を目で辿り、更に疑問符を瞳に浮かべた。
水色の箱はその店のトレードマーク。ティファニーの文字が黒く浮かんでいる。
「開けてみて下さい」
「えっと……。タイピンか何か? でも誕生日でも何でもない今日に……何で?」
「記念日に間に合わなかったんですよ。僕らの出会いの……。とにかく中を見て下さい」
「う……うん」
怪訝な顔をしたまま箱の中のケースを取りだし、葛籠を覗くようにそっと開けた。凍り付いた。
「こ……これ……?」
「かして下さい。僕の分も入っているんだ」
僕のことをまじまじと見つめながらケースを渡す手は震えていた。
「僕のには君のイニシャル、君のには僕のイニシャルが入っています。……手を出して下さい。ああ、左手を」
「圭……? 一体……」
悠季は僕を見つめたまま。手を出してくれない。
「結婚指輪に見えませんか?」
「見えるから……見えるから僕は……」
「ステディリングって知ってますか?」
「え……?」
「アメリカの学生が、沢山のボーイフレンドやガールフレンドと付き合ってから、この人と決めた特別な相手と交わす指輪です。それをはめている人には手出ししないという……婚約指輪に近いものでして。君は僕のステディですから。これを……」
「だって……」
「とにかく一度はめてみて下さい」
僕は席を立ち、悠季の背後に回り込んで彼の左手を取り上げた。薬指に指輪をはめ込み、キスで封印した。
「ああ、ぴったりだ……。良かった……。普段からはめていてくれとは言いません。ただ、遠出するときは必ずはめて下さい。見知らぬ他人には君が妻帯者だと思われる方が安心です。で、普段はこれで……首に下げておいて下さい」
更に別の包みを彼に渡した。それはチェーン。指輪と同じプラチナで出来た細いもの。
「どういう思いつきだよ? それ……。僕が妻帯者?」
「君が男にモテる以上、これは有効な防御策です。実は、四月に福岡で旅行添乗員の女性と知り合いまして」
悠季がぴくっとした。妬いてくれるんでしょうか。
「彼女がね、独身なのに、指輪をはめていたんですよ。ツアー客の中には、若い女性の添乗員をホステスか何かと勘違いして迫ってくる人もいるそうで。彼女の会社では全員、仕事の時には社の支給の指輪をはめているそうです。ちょっといいかもしれないと思いまして……真似してみました」
「何で君はその人が独身だって分かったんだよ?」
「人妻と付き合う趣味はないと誘いを断ったら……。否定しました」
「で?」
「僕は妻帯者だと言いました。指輪をしてないだけで、新婚半年だって……」
「僕が奥さん?」
「すみません。でも、ゲイだって言うより無難だったものですから」
「ああ、ボッヘ氏とかいたからか……」
「ええ、まあ。人に訊かれたら君も僕という奥さんがいると言って下さい。圭なんて名なら、女でも通りそうでしょ? ……怒りましたか?」
馬鹿げてると笑い飛ばされることはなかったけれど、沈んだ悠季の表情は僕の気持ちも沈ませた。
「怒ってないけど……。人を欺くみたいことは……」
そんな憂鬱そうに言わないで下さいよ。
「怒っていないなら……僕の指にもはめて貰えませんか?」
「圭……」
「君を縛るつもりはありません。ああ、いえ、……少しはあるけれど……。詭弁やまやかしだと言われても、僕は君に持っていて欲しい。僕の名の入った指輪を……」
子供じみていると笑ってもいい。要するに僕は君を独占したいだけ。こんなまやかしの形にこだわるのもそのため……。
愛してるんだ。本当に。
「悠季……?」
お願いだから……。どうか僕の手を取って……。
「分かった。形は嘘の上塗りでも、この中に込められた気持ちは本物だものね……」
悠季は小さく溜め息をつくと、僕の手を取って指の一本一本にキスをくれた。そしてゆっくりと指輪をはめてくれたのだ。
「悠季!」
頬を赤らめ、僕に微笑みかけてくれた悠季の顔。迷惑がってはいない。良かった…………。
「まやかしでも……、フジミのみんなの前でははずしていなければならなくても……、嬉しいよ。……大切にする」
「では、誓いのキスを」
「待って、それなら……」
悠季が指輪を光らせた左手を挙げた。
「私、守村悠季は……」
悠季の瞳を捉えたまま僕もその手に重ねて続けた。
「私、桐ノ院圭は……」
悠季の右手を探り当て、握りしめて掲げた。
「病めるときも」
「健やかなるときも」
悠季の右手に力が入り、視線は僕を捕らえたまま僕の左手を口元に持っていった。
「富めるときも」
「貧しきときも」
指輪にキスをしてくれた。
「この男を尊重し、慈しみ、一生愛することを誓います」
見交わしたまま唱和した。
口づけ……。
「浮気したら絶交だからな!」
唇が離れた途端に言われて、思わず微笑んでしまった。
「浮気なんかしませんよ。君こそ……!」
「出来るわけない……」
悠季の潤んだ瞳は、口よりも雄弁に感激を伝えてきていた。
ああ! だめですよ。そんな誘うような瞳で見つめられたら僕はこの後の予定を全て変更してしまいたくなる。
「……ベッドの寝心地を試して見ませんか?」
僕の手を押しのけ窘めてきた。
「だめ……。せっかく海に来たんだ、予定通り散歩! あ、その前にかたずけだ!」
僕の腕からすり抜け、かたずけ始めてしまった。
「手伝います」
「いいよ。…………まって、やっぱり頼む。ここで水が切れた物から拭いてくれ。でも割るなよ。ここの食器はどれも高そうだ」
悠季が布巾を寄越した。多分僕ががっかりした顔をしたんだろう。どんな些細なことだろうと、悠季に拒否されると落胆してしまう僕。ポーカーフェイスで隠すのが下手になる一方だ。
「気をつけます」
彼が洗って、僕が拭いて。何とか食器は割らないように気をつけて……。心配げな悠季に見張られながらも僕の手伝いは成功した。
無器用だって、集中すれば何とかなるものですね。
綺麗にかたずいたキッチンを見渡してから僕を見上げた悠季は満足げに笑った。
「たいへんよくできましたのハンコを上げよう」
言いながら僕の頬にキスをくれた。
「ここだけですか? もっとがんばりましょうのハンコでもいいから沢山欲しいんですけど」
「それはあとでね」
「約束ですよ」
夕暮れを過ぎた紫色の空と暗い海。公園となっている海辺を散歩しながら、潮風に吹かれた。
「髪、乱れちゃったね」
立ち止まった悠季が僕を見上げた。
「ああ、ちょっと風が強くなってきたようですね。海も凪いでいる」
目にかかった髪を掻き上げながら、公園の灯を反射させたうねりで泳ぐ光の玉を見つめた。
視線を感じて悠季を見たら見とれるような瞳に出会った。
「知ってた? 前髪を掻き上げる君って、すごく色っぽいんだよ。僕はそんな君を見る度ドキドキしちゃうんだ」
そう言う彼の髪はさらさらな細い髪質のせいで乱れてもすぐに落ち着いてしまう。絹糸のような手触りが好きで、僕は事あるごとに触れてしまうのだ。
「僕は君のサラサラの髪が好きですよ。君の瞳も唇も鼻も肌もみんな好きですけど……。ああ、でも、君がそう思ってくれるなら、髪型を変えてみようかな」
「だめ!」
思いの外強い調子で言われて僕は固まった。
「え?」
ハッとしたように頬を染めて俯いた悠季の、ぼそぼそ声が理由を教えた。
「乱れた前髪は、僕の前だけでいいんだ。みんなの前ではきっちりオールバックでいてよ…………色っぽい君を知っているのは僕だけでいたい」
まだ酒が残っているんでしょうか? そんな嬉しい台詞を君から聞けるなんて……。
「では、もっと強力な整髪料を使いましょう。君にしか見せないようにがんばります」
クスッと笑い声。
「……頑張らなくてもいいけどさ」
「言わなきゃ良かったなんて、思わないで下さいね。僕はすごく嬉しいんですから。……キスしてもいいですか?」
「だめ。人がいる」
「誰も僕たちなんか目に入りませんよ。みんなお互いのことしか目に入りそうもないカップルばっかりじゃないですか。……僕たちと同じだ」
言いながら彼を引き寄せ、唇を奪った。ディープではないけれど、しっかりと彼の唇を味わうように吸い上げて。
「もうっ!」
僕を引き剥がして真っ赤になりながら睨み付けてきた。
「君って奴は!」
「すみません……だけど、僕もこんなに素敵な恋人といるんだって見せびらかしたかったんです。ほら、見渡してみたって僕らほど似合いのカップルはいません」
「帰る」
「悠季? ま、待って下さい」
すたすたと歩き出した悠季に追いつけば、怒った口調で歩みを止めずに言いつのってきた。
「……君って、いつもやっちゃってから謝るんだ。ほんとにすまないって思ってるなら、やるなよ」
「すみません、そんなに怒らないで……」
「怒ってない。叱ってるんだ。……ほんとに謝りたかったら、ごめんなさいを使えよ。そうじゃないときは謝るな。すみませんはいろんな意味がありすぎる。知ってるかい? 香港とかで日本人相手の仕事してる人が真っ先に覚えるのがすみませんなんだってさ。大抵のことがそれで事足りるんだよな」
「……」
またすみませんと言いそうになって飲み込んだ。
叱られた子供の気分というのは何だかすごく懐かしい。
言いすぎたと思ったのか、僕に手を差しのべた。その手を握ると、また早足で歩き出して……。
「……謝るくらいなら、最初からするなって言ってるんだ」
「と、言いますと?」
「そう言うのを他人行儀って言うんだよ。君の嫌いなね」
ああ……、そういう意味ですか。それにしても。君の一言一言で歓喜したり落胆したり……。こんなにも揺れてしまう僕は、藤重の叔父などが見たら、動物園の猿なみに面白おかしい存在なのだろう。
「帰ろうよ、圭。やっぱり二人きりになりたい。君が……火を点けたから……、いけないんだぜ」
「帰りましょう」
手を繋いだまま別荘までの道を急いだ。
早く辿り着いて君を抱き締めたい。
だが……。
「おにいさま!」
気取ったアルトの声に阻まれた。確かめなくてもわかる小夜子の声。悠季の手がとっさに離れた。
「お散歩でしたの? あら、守村さん、今晩は」
「あ……ども、今晩は」
緊張した声は、可哀想になるほど。
「どうしたんです? こんな所で」
「お友達と近くまで来たものですから。別荘に寄ろうって話になったんですのよ。山室さんに電話したら、お兄さま達が使ってらっしゃるってきいて……。お茶ぐらいさせて貰おうかって……ねえ?」
振り返った小夜子の後ろに二人、女性が立っていた。
「突然すみませーん。おじゃましまーす」
ぺこんとお辞儀した二人。可愛らしく作っているつもりだろう。どちらもブランドものを身にまとい、きらびやかだが、悠季には勝てない。いや、比べるなんて悠季に失礼だ。
本当におじゃまですよ、もうっ。
「大学のゼミのお友達で、和美さんと美子さん。こちら兄と、お友達の守村さん。守村さんはヴァイオリニストですのよ。秋の公演では共演しますの」
「すごーい。さすが桐院さんだわ、関わる人達もハイソねぇ」
ああ、これは本当にごめんなさいだ。こんな事になるなんて、想像もしていなかった。
「よろしく、妹がいつもお世話になっています」
不愉快さをポーカーフェイスで堪えて、とりあえず社交辞令を言った。
「よ……よろしく」
二人が退いていくのが分かる。
「け、圭! 妹さんのお友達じゃないか、おどかすなよ」
小声で僕の袖を引きながら悠季が窘めた。
だって、仕方ないでしょう? おじゃま虫はおじゃま虫なんですから。
ついでに言えば、本当の友達ではなさそうだ。小夜子と気が合うとは思えない。取り巻き……と言った方がより近いのではないだろうか。
「お兄さま、ご機嫌斜めね。お邪魔だったかしら?」
小夜子は僕の不愉快さを喜んでいる。わざとかち合ったとは思いにくいが、この状況を楽しんでいるのは確かだ。
「これから守村さんのヴァイオリンのレッスンをするつもりでしたからね。遊びに付き合う暇はあまりありません」
「桐ノ院! 僕は大丈夫だから。コーヒーと紅茶と、どっちにします? 僕が煎れますよ」
既に悠季はフジミのコンマス顔になって、客をもてなすつもりのようだ。
「そんな、教えていただければ私たちでしますよ。どうぞレッスン、して下さい」
和美と呼ばれた方が言った。美子という方が頷く。
「小夜子さんは?」
「コーヒーを下さい」
「君は?」
僕に向かって尋ねる悠季はよそ行きの優しい笑顔。
「では、僕もコーヒーを」
「うん、わかった」
「ああ、守村さん、ほんとに私たちが……」
二人が慌てて悠季を追った。そんな二人に悠季が微笑みかける。
「食事はお済みですか?」
よけいなこと聞かなくっていいんですよ、悠季。さっさとお茶を飲んで帰って貰いましょう。
「はい。私たち、そこのホテルに泊まってるんです。お二人はお食事お済みですか?」
「ええ、僕らは食後の腹ごなしの散歩でしたから。……じゃあ、手伝って貰おうかな……」
「はい!」
声を揃えた二人を伴って悠季はキッチンに向かった。
僕は小夜子と玄関に残された。とりあえずリビングに向かいながら聞いてみた。
「……君もホテルに? 何故別荘を使わないのです?」
「私が使う予定だと知っていたら来なかった……?」
小夜子の喉を転がすような高笑いは癇に障る。
「お友達と研究レポートをやるくらいで伊沢やハツ達に迷惑はかけられませんもの。ここはレストランが遠いでしょう? 皆さんお炊事とか苦手みたいだし、私もまっぴら。ホテルの方が気楽です。ただ、この近くにあるといったら、彼女たちが見たがったんですの」
女性がこれでいいのだろうか?
いや、僕の悠季が特別なんだ。女性と比較したなんて知ったらきっと嫌な顔をするだろうけれど。
つまりは男の悠季があれだけのことをしてくれるという特別さに感謝しなければということで。
「一通り見せたらお帰りなさい。さっきも言った通り」
「レッスンに立ち会いたいわ。私、まだ守村さんの音を知らないんですもの。ソロの曲を決めるためにも……いい機会です」
僕を遮り言いたいことを言う。桐院家ではこの妹だけは本当の怖い物無しなのだから……参る。
「では、大人しく聞きなさい。彼女たちは?」
「一緒に。いいでしょう?」
「守村さんに頼んでみましょう。彼がうんと言わなかったらこの話は無しです」
「よくってよ。嫌と言うとも思えないし」
まあ、確かに。だからこそ彼に苦痛となることは避けたいのに。
「ああ、やっぱりこっちにいた!」
声に明るい笑いを含ませ、お盆を持った悠季が入ってきた。後ろから二人が空手でついてくる。
「桐院さん、守村さんたらコーヒー煎れるのプロなんですよぉっ。私たち出る幕無しでしたの」
「あら、それは楽しみだこと」
小夜子は無表情なままコーヒーを受け取った。
悠季の煎れたコーヒーなら、美味しくて当たり前です。心して飲みなさい。
言ってやりたい気持ちを押しつぶし、僕は件の話を持ちかけた。
「守村さん、小夜子が君のヴァイオリンを聴きたいといっているのですが……いいでしょうか?」
「へ?」
悠季はコーヒーを口元まで持っていったところで顔を上げ、その拍子に傾いたカップから危うくコーヒーをこぼしそうになった。
「わあっ、あぶないっ」
立て直したカップの中身は大半が無事だったが、幾つか飛び散った滴が悠季の白いポロシャツに斑点を残した。
「あららっ、大変! 私、染み抜き持ってます!」
美子嬢がおもむろにバッグから濡れティッシュのような物を出した。染み抜き専用らしい。
丁寧にシミの一つ一つをつまんで落としていく。
「あ……どうも……」
ほんのり頬を赤らめ、身を任せる悠季を目にして、僕は嫉妬の炎を燃え上がらせてしまった。
そんな嬉しそうな顔しないで下さい! たかが女性に染み抜きをして貰う程度で。君さえ嫌がらなければ、美子嬢の仕事は僕の仕事だったんだ。
「さあ、出来ました。良かったわ、跡にならなくて」
「ありがとう……」
瞬間見つめ合う二人に割り込むように声をかけた。
「守村さん、演奏できますか?」
「あ……えとぉ……」
戸惑うように僕を見て口ごもった悠季に、小夜子が追い打ちをかけた。
「突然お邪魔したあげくに、ごめんなさい。でも、守村さんの音を聴きたいんですの。よろしいでしょう?」
強請る口調で言う小夜子に、悠季が苦笑した。
「……いいですよ。お気に召すかどうかは自信ありませんが……。あの、ヴァイオリン、取ってきます」
寝室に置いてある借り物の名器《まほろば》を取りに悠季が階段に向かったのを追いかけた。リビングの連中にはわからないところで悠季の手を取った。
「悠季……」
「圭、相手してなきゃだめじゃないか」
潜めた声で僕を押しとどめた。
「謝りたかったんです。こんな事になって……。ごめんなさい」
「何言ってんだい? 君のせいじゃないだろう?」
見上げる瞳が甘い輝きで揺れた。
「小夜子さんの強請る口調があんまり君にそっくりで、とても断れなかった……。僕が君のお強請りに弱いの知ってるだろう?」
「でも君の胃に負担が……。断っても良かったんですよ」
「大丈夫。そんなこと言ってたら、公演なんて出来ないよ。僕の精一杯を披露しよう。僕はずっと君を見て弾く。君も僕を見ていて。ヴァイオリンだけはドジらないようにしなくちゃね」
クスッと笑って階段をかけ昇った悠季は部屋へ行きかけ、吹き抜けの二階の手すりから少し身を乗り出すと彼を見上げている僕を手招きした。
僕はもちろん犬のように即座に、彼のもとへ走った。
彼は追いついた僕の腕を引き、寝室へ。
「悠季?」
「酒が少し残ってるみたいだ。あがり性の僕にしては結構前向きだろう?」
言いながら僕の頬を両手で挟み、唇を合わせてきた。躊躇いがちのノックで、柔らかい舌が入り込んできて僕を誘った。
どうしたんです? こんなに情熱的に……。
思いっきりディープに貪りあいながら、僕は思いだしていた。演奏会の時の幕間を。
息継ぎの吐息は甘く。けれどその先に行く気はない。
名残惜しげに舌が出て行った後。
「あがらないためのおまじないに君を食べさせて貰った」
そう言って悪戯っぽく微笑む彼を抱き締め、髪にキスして。
君自身のためにと言っても君は奮い立たないだろう。だから……。
「僕のために弾いて下さい。巧くやろうなんて思わずに」
「うん」
「君なら大丈夫です」
「うん……」
「愛してますよ、悠季」
「僕も……。だから頑張るよ」
もう一度めいっぱいの力で彼を抱き締めてから解放した。
「行きましょう」
「うん!」
《まほろば》を下げて背筋をのばした悠季は、とてもりりしかった。
僕は何度惚れなおせばいいんだろう。悠季への思いはいつだって満杯な筈なのに、惚れなおす度に容量が増えてどんどん膨らんでいく。まるで底なしのクラインの壺のように。
愛しい君。可愛くて、素敵で、りりしくて……。君を貶す奴がいたらそいつこそ最低だ。
G線上のアリア。タイトに引き絞られた清純でストイックな音。
僕の方を見つめていながら、曲の中に入ってしまった君の瞳に僕は映らない。……多分。けれど、僕は君を見つめ続ける。君が我に返って怯えないように。気を逸らさないように。
しんと聞き惚れる彼女達に、僕は勝利感を持った。
小夜子は僕らの関係を知っている。
食い入るように悠季を見つめるその表情を目の端で捉えながら、彼女が彼を見る目を少しは変えたのを認めた。僕がこれ以上無い本気で彼を思っていることが少しは理解できただろうか。
どうです? これが僕の悠季の音です。僕の惚れた人です。
悠季は、タイスの瞑想曲、愛の喜び、亜麻色の髪の乙女、ユモレスク、無伴奏ソナタと弾き続けた。それぞれの曲想を捉えた美しくドラマティックな音。小品とはいえどれもロマンティシズムあふれる名曲である。悠季の再現した世界は、胸の奥を温める仄かで優しい炎の様な世界だ。人が初めて手に入れた炎はこんな感じだったのではないだろうか。
シシリエンヌを弾き終えて弓を休めた悠季が大きな吐息を吐いた。ぺこんとお辞儀をして。
小夜子の取り巻きはハッとしたように拍手を始めた。手を真っ赤にして盛大に。
「スゴイですぅ。素敵でした!」
「なんて言うか、熱くなっちゃう感じです」
一方小夜子は憮然としていた。……ということは。
合格のようだ。
もちろん。
この演奏に難癖なぞつけさせない。
小夜子の前という緊張はあったが、紛れもなく僕のために悠季は弾いてくれていた。
聴衆は予定外の増え方だが、予定通りのミニリサイタル。
「ブラボーですよ、守村さん! どうです? 彼は良いソリストでしょう?」
後半は、妹へ。
「ええ、お兄さまが惚れ込むだけあるようね」
瞳を冷たくきらめかせたままにっこり微笑むという芸当をやってのけ、我が食えない妹は立ち上がった。
「守村さん、公演ではよろしくお願いしますわ。私、楽しみにしております」
握手のための手を差し出した。悠季はぽかんとしたままその手を見つめ、やがて怖ず怖ずと握りしめた。
「全力を尽くしますよ。僕に出来る限りを。約束します」
悠季が嬉しそうに微笑んだ。それはそれは僕の官能を揺さぶる笑顔で。小夜子のことをうらやましくなるくらいの笑顔……。そう、あれが僕のためのものじゃなかったのが悔しい。
小夜子はそんな笑顔にも心を動かされた様子もなく軽く頷き、友人達に声をかけた。
「遅くなってしまったわ。そろそろ帰りましょう」
「歩いて帰るんですか?」
応急メンテをしながら悠季が尋ねた。
悠季? 何を言いだすんです?
「ええ、そのつもりですけど」
「送りますよ。若い女性ばかりで暗い夜道は危ないですから。ね、桐ノ院」
うっ、よけいなことを! 二人きりで過ごす時間がどんどん短くなってしまうじゃありませんか。
小夜子なら、どんな怪物に襲われたって大丈夫ですよ。君じゃあるまいし。
言いたいのを堪えてポーカーフェイスを固めた。
悠季がきょとんとした顔で返事をしなかった僕を覗き込んできた。
「桐ノ院?」
小夜子がクスッと笑った。
「守村さん、有り難いお申し出ですわ。よろしければお願いします」
(嫌がらせじゃありませんわよ、お兄さま。私が言いだしたことではありませんもの)
目線でそう言ってまた笑った。
僕は溜め息をついて玄関へ続くドアを開けた。
「では行きましょうか」
「すみません」
口々に言いながら女性達が出るのをポーカーフェイスで待った。最後に悠季が通るときには、思いっきり恨めしい目で彼を見つめてやった。
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