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 朝・・・らしい。
 何だか頭が壮絶に痛む。
 首も肩もだ。それでぼんやりと目が覚めた。
 僕は何故こんなところに・・・床に寝ているのだろう。
 薄目を開け、はっきりしない意識を呼び起こした。今日は何日だったか・・・仕事に行かなくては。
 今日は・・・そう今日は。
 ───1921年2月12日。
 僕はカッと目を見開いた。
 悠季!
 そうだ!こんなところでぐずぐずしている場合ではない!
 僕は飛び起き・・・ようとして、体が動かないのに気付き、ギョッとした。
 何だ、これは。
 薄暗い中、僕は自分の体を顔を顰めながら見下ろした。足と腕が縄で幾重にも取り巻かれている。手首は後ろで縛られ、その上ご丁寧に猿轡まで噛ませてもらっているのだ。不愉快な事極まりない。
 しかも、見るところ、ここは納屋のようだ。おそらく外から鍵もかかっているのだろう。
(やってくれましたね・・・)
 とにかくこの縄を外すのが先決であるが・・・手首を動かしてみて解った。縛った奴はこういうことには不慣れな人間だったとみえる。しばらく呻吟したあげく自由の身になった僕は、すぐさま怒りをこめて扉を蹴破り、一目散に駆け出した。

 外は朝の光で明るかった。眩しさに目を瞬かせ、走りながら時計を見た。9時を回っている。やはり予定通り、昨夜のうちに悠季はもう発ってしまったのだろうか。
 それにしてもあんな手にひっかかるとは!僕は自分に腹が立って仕方がなかった。
 よりによって人生の一番大事な瀬戸際という時に・・・何という不覚!
 自分を罵りながらフロントへ駆け込んだ。
 僕の勢いと風体に、フロント係は驚いたらしい。すぐさま教えてくれた。
「はい。守村様はもう・・・」昨夜に発った、と。
 目の前が暗くなった。運命の悪意を感じた。
 僕は悄然と庭に続いているポーチへ出た。しばらく気力が回復しそうにない。カウチに腰を降ろし、頭を抱えた。
 
 その時。
「圭!」
 その声にうたれて、僕は顔をあげた。
 見れば、ポーチの向こう、広がる芝生の遠くから駆けて来る人がいる。
 走ってくる。僕のところへ。一心に。
「圭!」
 ああ・・・あれは。
 ───愛しい人!
「悠季!」僕も駆け出した。
 腕を広げた。
 悠季が飛び込んできた。
 僕は彼を抱き締め、彼も僕を抱き締めた。
「消えてしまったのかと、思った」
 悠季は僕の胸の中で言った。
「どこを探してもいなくて・・・心配でした」
「すみません」僕は彼の髪に顔を埋めながら言った。
「しかし・・・きみこそ、昨夜帰られるはずだったでしょう?もう発ってしまったかと」
「あなたを残して、行けるはずないでしょう」悠季は怒ったように言った。
 では部屋をチェックアウトしてからここで一晩中、僕をずっと探し続けてくれていたのだろうか・・・つきあげるような愛おしさに胸が詰まって、抱く腕に一層力をこめ、胸の中の頭に頬擦りした。が、すると動かした拍子に、頭の後ろがズキンと痛んだ。
「っつ・・・」随分ひどく殴ってくれたようだ。
「怪我を?」
 悠季が僕の腕から身を起こして心配そうに言った。「やっぱり先生が・・」
 こうして会えたからにはそんな事はもうどうでもいい。
「大丈夫です」
 慌てて言ったものの、彼は見せろと言って聞かない。
「ああ・・・痛そうだ。耳の後ろが切れてる」
 自分が痛そうな声で悠季は言った。「手当てをしましょう」

 僕の部屋へ戻って。
 フロントで借りた薬箱で手当てをしてくれ、そのまま離れようとした悠季の手を、しかし僕はつかまえて、見上げた。
 目を見つめたまま立ち上がり、彼の体に腕をまわした。
「あらためて言います」
 心の中では何度もすでに叫んでいたが、面と向かってきちんと言うのはこれが初めてだ。
「僕はきみを愛している。
 どうか、きみの傍にいさせてほしい。このまま、ずっと」
 もっと言葉を尽くしたいのに、出てきた言葉はこれだけだった。
 悠季は黙っている。僕の胸は早鐘をうっている。
 やがて。
 僕を見つめ返したまま、
 彼は眼鏡を取った。
 いったん目を伏せ・・・
 僕を見上げた。

「僕は・・・」
 悠季はやわらかに震える声で言った。
「こういう気持ちは初めてなので・・・うまく伝えられない」
 言いづらそうに、でも何とか続けようとする唇に、いいえ、とそっと指をあてて黙らせた。
「伝わりました。昨日。あのホールで」
 僕はこみあげてくる微笑みとともに言った。
「あまりに嬉しくて、幻聴かとも思いましたが」
 ただじっと僕を見つめている輝く瞳。
 その愛しい瞳に、僕はもう一度繰り返す。
 きみが僕に聴かせてくれたその言葉を。
「───愛しています」
 僕はささやいた。「そうですね?」
 彼は微笑んで・・・
 
 ゆっくりと瞳をとじた。


 左手を取って、指先にくちづけた。
 僕への想いを奏でてくれた、愛しい指先・・・それを口に含んだ。
 指、そして腱を一本一本たどった。返された手のひらが僕の頬を包んだので、手首を吸った。
 カフスボタンを外した。右手も、と言うと悠季は笑った。
 ええ右手も。
 外したボタンを横のボードに置きざま、ほほえみの唇にまたキスをした。
 息を詰めて、襟元のボタンを外した。白いシャツをそっと開く。
 あらわになったきれいな首筋に、目眩を覚えながらくちづけた。
 次いで、胸へ。触れるように覆いつくすように何度も。
 悠季が息を吸い込んだ。
 シャツをくぐらせ、背中に回した手を首のつけねから脊椎にかけて撫で下ろすと、目の前の胸がなめらかな曲線を描いて反った。突き出された格好になる薄い色の蕾に吸い付いた。悠季が震え、高い声をほとばしらせた。
 それを受けて僕の体も震える。気が狂いそうな愛おしさに頭の芯が痺れる。
 唇をむさぼりながら、細い腰を引き寄せる。脇腹をたどり、ズボンの戒めをはずす。
 欲望を探り当て、手の中に握りこむと、腕の中の体が硬直した。白い肌がいつのまにか、バラ色を散らせて上気している。

「や・・・めて。圭」
 まだです。まだ僕を感じて。僕の手。僕の唇。僕がきみにあたえられる愛を。
「だめ・・・だ。もう」
 とろけるような吐息が甘く訴えた。
「もう?何ですか?」目尻に淡く浮かぶ涙を吸い取りながら、耳元にささやいた。
 やるせない哀願のうめきが答えた。

 そのうめきをも吸い取るようにまた唇を合わせた。喘ぎもため息も熱も、彼が生み出すものは、すべて僕のものにしたい。そしてこの、欲望も。
 限界に近付き、熱いそれをふたたび口の中に包み込む。舌を這わせ、甘噛みすると、悠季が跳ね、鼓動と共に望んでいた蜜が溢れ出た。もちろん、余すところなく飲み干し、名残もすべて味わわせてもらう。
 弛緩してかすかに震える体を撫でる。どうしてこんなに愛おしいのか、どうやったらそれがもっと伝わるのか、わからない。
 だからとりあえず僕はくちづける。抗う足を封じ、どんな秘密も舌で抉る。
「い・・や・・だ。もうそこ・・・やめ・・・」
 きみの切れ切れの言葉、きみの体の揺らぎ、きみの快さを訴える叫び。
 すべてが僕を酔わせる。狂わせる。目の前を赤く染める。
 そして。耐えがたい苦痛にまで高まっている僕自身の欲望で、悠季を押し開こうとする時、僕はまるで死に向かっているような気分だった。あまりにも熱く、あまりにも快く、あまりにも甘美な死に。
 僕を留めている細い腰が揺れる。僕の動きに合わせて。
 何もかも弾け飛ぶ快感の中───その瞬間も。
 到底あらわしきれない感を覚えながらそれでもやはり。気がつけば、僕はそのただひとつの言葉を彼に向かって繰り返しているのだった。ただ、愛していると。
 愛している、愛している、愛しています、と。
 それだけを。


 日が暮れた。
 今、僕は間違いなく、自分こそこの世で最も幸福な男だと断言できる。
 満ち足りた腕には、愛しくて愛しくてたまらない恋人。額をあわせ、あたたかい鼓動を抱き締めていると、尽きる事のない幸福感に訳もなく、くすくすと笑いがこみあげてくる。
 そして。
「本当にずっと、傍にいてくれる?」
 悠季は僕の目を見つめて言った。
「・・・それは、プロポーズですか?」
 僕はその言葉にさらにくすぐったい、幸福な気分になって言った。ああもう、このまま行くと、ふわふわと天まで昇ってしまいそうです。
「からかってるんだね」
 悠季は顔を赤らめて、僕を睨んだ。
「からかってなど!」
 僕はその可愛らしい頬にキスした。止まらなくなってそのまま、顔中にキスの雨を降らせる。
「誓います」
 真面目に言った。もとより本気だ。以前いたところに未練などさらさらない。きみがいない世界など。
「今から死ぬまで僕はきみの傍にいます。
 そうですね・・・とりあえずあと50年は大丈夫」
 悠季は50年って・・・と笑った。
「いくつなんですか?何年生まれ?」
「29歳。昭和46年です」
 きみより年上ですよ。ここではね。
「しょうわ・・・いつですって?」
 悠季はやさしく苦笑して言った。「やっぱり、からかってますね」
 僕は心ひそかに、いつか話してあげましょう、とつぶやいてキスをした。そう、元号が昭和になった時がいいですかね。やはり。
「ところで・・・」僕は言った。にっこり笑いかけながら。
「腹、減りませんか?」

 悠季がバスルームに逃げ込んでいる間に、廊下を通りかかったボーイに頼んでルームサービスを取った。大正時代でもちゃんとあるのだな、と妙なことに感心した。
 食べ終わった後、悠季が椅子の上に放ってあった、かぎ裂きができている僕の上着を拾い上げて、
「ああ・・・こんなになってしまって」と悲しそうに言った。
 僕は肩をすくめた。
「新調だったのですが」そして笑った。
「しかし、なかなか役に立ってくれましたのでもういいです」
 悠季はうなずいた。「よく似合ってた」
「ああ・・・もしや、これのお陰で惚れましたか?それではさらに感謝をしなくては」
 僕は上着を悠季の手から受け取り、それに向かって大仰に身をかがめてお辞儀をしてみせた。「きみよ、大いなる感謝を───そしてさようなら」
 悠季がふきだした。そのまま、肩を震わせて笑い転げている。
「そんなにおかしいですか?」と言いつつ、自分もやはり笑いながら僕は愛しい人の手を引寄せた。上着が床に落ちた。跳ね返るような音がした。ポケットの中のものが散らばったのだ。
「あーあ。ほら、お金が」悠季はまだ笑いの発作をとどめながら、床の上のものを拾い始めた。ふと、手を止めた。
「あれ?これは・・・」僕に向かって差し出した。「どこのですか?初めて見た」
 僕は何気なく受け取り、手のひらを見た。
 凍りついた。
 これは。
 現代の・・・平成鋳造の100円硬貨。
 ───あの時、すべて置いてきたはずだったのに!
 しかしこれは、今ここにある。まだ紛れ込んでいたのか・・・。
 
 頭の中を、例の本の一節が駆け抜けた。
 タイムトラベルの条件は───
(現在を思い出させるものをすべて意識と周りから排除すること。)
 僕は呆然と硬貨を見つめた。現在の金。
 では。
 まさか・・・。
「圭?」
 僕は手を固く握り締めた。いや。違う。そんなはずはない。
 動揺するな。必要なものは強い意志。この時代のこの日付に自分がいると思い込む事。
 その限りは、大丈夫。大丈夫なはず!
「圭・・・どうしたの?」
 ではなぜ?
 目をすがらせた愛しい人の顔が揺れるのだろう。
 何故どんどん声が遠くなるのだろう。
「圭!───圭!」
 僕を呼び続ける声を必死に失うまいとしながら・・・
 僕の意識は絶望の暗闇に呑み込まれていった。

Z
 そして。
 2001年2月12日。
 二度と帰って来たくはなかった時代を、その部屋を再び目にした僕は・・・
 心がばらばらになりそうな痛みと、指一本もあげられない体の重さにうめいた。
 うめきながら泣き、泣きながら気を失った。
 力を失った手の間から、憎むべき硬貨が滑り落ちたのも気がつかないまま。

  







素材提供:月球戯工房様