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 2001年2月16日。
 あれから、4日が経過していたが、僕に日の感覚はなかった。
 寝食などその存在自体を忘れ、取り憑かれたように例の方法を何度も何度も何度も試みた。
 早く戻るのだ、すぐ!
 こうしている間にも、80年前で、現在で、時はどんどんたっていく。悠季の傍にいられない時間が。
 あんな風に突然消えた僕を、悠季はどう思っているだろう。
 戻らなければ、早く、一刻も早く!
 しかし。
 どう足掻いても駄目だった。
 どんなに念じても、願っても、二度と成功する事はなかった。

 こんな事があるだろうか。こんな酷い事が人間の上に起こり得るとは。
 生命を気紛れに与えられ、また気紛れに取り上げられるようなものだ。
 どうしても受け入れられない現実に・・・もし、と僕は思った。
  
 もしほんとうに。
 
 本当に、このまま、二度と、戻れなかったら・・・?
 当初から変えがたい何かによって既にそう定められ、僕にはどうする事も出来ないのだとしたら・・・?
 冷たい確固とした戦慄が、腹の底にしみわたった。
 ふと。
 その時───

(“私信のようなものだから”と)
(“音にはどれくらいの力があると思う?───時間を超えられると思うかい?”と)
(“僕は待っているんだ”と、一言)
 
 五十嵐老人から聞いて以来、ずっと謎だと思っていた言葉が一気に僕の中でつながり、ひとつの大きな意味、動かしようのない確信となって立ちあらわれた。
 そして。
 それが指していた事実、そのあまりの衝撃に・・・
 もはや驚くことさえも出来ず、ただ茫然と僕は思った。
 ああ・・・
 僕だけに向かって、僕にしか解らない言葉で。
 あの時、そうやって僕に愛を告げてくれたように。
 あれからおそらく死までの10年間、悠季のヴァイオリンはそのために弾かれ、費やされたのだ。
 ただ音で時を超えて僕に呼びかけ、呼び戻すためだけに。
 それだけのために。
(───“私信のようなものだから”)
 だから、舞台を降りたのだ。

 震える手で自分の髪を握り締め・・・
 心の中で、僕は絶叫した。

 ───おまえは、悠季を破滅させてしまう。

 その通りだったとは!




 お願いです。
 どうか僕を彼のところへ帰してください。
 お願いだ。
 何でもする。
 何でも捧げる。
 生まれて初めて神に祈った。
 悪魔にも。時にも。
 かなえてくれるなら何でもいい。誰でも。
 
 やがて。
 狂奔するようにそう懇願し続ける力も無くなったとき。
 ぼんやりと、僕は思った。
(死にたい)
 きみのいない世界などいらない。
 きみに会えないのなら、もうこんなところで生きていたくない。ここに在ることが、許し難い。呼吸しているのも厭わしい。じぶんが、生きているのが。
 そうだ・・・そう、この肉体を捨てれば、戻れるかもしれない。
 きみのところへ。

 僕は力の入らない足でよろけながら立ち上がった。
 最期にひと目、彼の微笑みを見たかったのだ。


 階下に降りた。
 ロビーを横切り、あの部屋へ向かった。
 部屋の入り口で、しかし、僕は立ち止まった。
 ・・・・・。
 ポートレイトの前に誰かが立っている。
 後ろに手を組んだ姿で、写真に見入っているらしい。
 ほっそりとした青年。すらりとした姿勢。その後ろ姿は・・・

 まさか。

 目眩がした。
 世界から音が遠のく。
 僕は、根が生えてしまったかのように動かないと思われた足を、無理矢理に動かした。
 もっと近くで見なければ。その思いだけで、心臓が止まってしまいそうだ。
 しかし、僕がそこへ着くその前に。僕の足音を聞きつけたか、その人はちょっと小首をかしげ、そして。 
 ゆっくりと・・・振り返った。
 それは目の前の肖像と寸分違わぬ顔。
 愛しいひとの顔。
 その顔が、僕を見た。
 悠季。

「・・・悠季」
 僕はつぶやいた。はっきりと呼びかけたつもりだったが、声が出ず、呟きになってしまったのだ。
 しかし、彼はそれに微笑んだ。
「僕の名前を、ご存知でしたか」
 ───?
「それとも、こっちの人の方ですか?」
 彼は微笑みながらポートレイトに目をやって言った。
「フロントで、あなたはずっとお部屋にこもられて、どなたにも会われないと聞いたので・・・。
 でも、ここでお会いできて、よかった。お渡ししなければならないものがあるんです」
 僕はぼんやりと彼の言葉を聞いた。
 悠季?───何を言っているんですか?
 戸惑う僕をよそに彼は、上着の内ポケットを探り、何かを取り出して僕に差し出した。ひどく変色したそれは・・・封筒のようだが。
 思わず受け取りつつ、呆然としながら僕は言った。
「きみは・・・」
 どうしたんです?
 なぜそんなに静かに微笑んでいるのですか?
 どうやってか、それはわからないが。
 僕のもとに来てくれたのではないのですか?

 しかし悠季はそれを僕に手渡すと、思いもかけないことを言い出した。
「ずっと以前に一度、お会いしました。ああ、もう8年くらい前のことになってしまうんですけど。僕は中学生で。───おぼえてらっしゃいますか?」
 8年前。
「銀の時計を・・・」
「ええ」
 そうだ。あれはきみから貰ったのだ。あの時。
「あの時はびっくりなさったでしょ?突然。 祖母の言いつけだったんですけど・・・」
「お祖母さん・・・?」
 何の事だろう。
「どうしても、って。どうしても訳があるからと・・・僕じゃなきゃ駄目だと言い張るんですよ。
 とにかく、あの日あの場所で、桐ノ院さんという背の高い指揮者の男の人───あなたですね───に、この時計をお渡しして、こう言いなさいと、」
「・・・戻って来て、かならず」僕はつぶやいた。
 ええ、と彼は笑った。
「全然知らない方のところへ、意味もよく解らない事を・・・いかにもいわくありげで、恥ずかしかったんですけどね。しかも、行ってみたら何かおめでたいお祝いの席みたいでしたし。
 今日も、実は祖母の言いつけなんですよ。
 もう3年前に亡くなってしまったんですけど、亡くなる間際まで何度も、しつこいほど必ず行ってくれ、と念を押されていましたので、こうしてうかがいました」
「失礼ですが、お祖母さんのお名前は・・・」
「千恵子といいました」
(───千恵子といいます。姉です。)
「ではもしかしてこの写真の人は」
 きみの、
「大叔父・・にあたるのかな。祖母の弟だったそうですから。
 戦前に大分若くして亡くなってしまったけど、ヴァイオリニストだったみたいですね。祖母はこの人と仲が良くて、とても可愛がっていたみたいで。
 おかげで僕はこの人と同じ名前をもらいました。偶然、命日に生まれたので」
「2月、11日?」
「ええ。僕のことを生まれ変わりだ、なんて祖母は信じてたみたいです───この人のことを、よくご存知なんですか?」
「ええ・・・」
 とても。
 とてもよく知っています。

 しかしまだいくつか解らない事がある。
 そうだ。
 ───これを。
 僕は渡されたまま手にもっていたものに目を落とした。
 宛名はもう読めないほどすっかり変色して、それも黄色というよりは茶色の封筒。 
 裏を返すと厳重に封がしてある。これはもしかして・・・
 にわかに起こった手の震えに邪魔されながら急いで、だが慎重に僕は封筒の端を破いた。
 思ったとおり、中からは折りたたまれた数葉の便箋らしきものが出てきた。
 外側にくらべて、中の文字の方は褪せつつこそあっても、読めないほど薄くはなっていない。
 やはり。
 これは悠季からの───80年前の彼方からの手紙。




 親愛なる桐ノ院圭兄へ

 前略失礼いたします。
 この手紙をあなたが読んでいるということは、千恵子姉さんが長生き出来たということですね。
 よかった。
 ああ、御免なさい。ふざけているつもりはありません。
 ただ、七十年という時の流れは、僕にはとても想像のつかない大きなものなので、それを超えて無事にこの手紙があなたのところへ届くかどうかも、まったく見当がつかないのです。
 僕は今、あなたと会ったあのグランド・ホテルで、これを書いています。
 本当は近くのサナトリウムに滞在中なのですが、この手紙はどうしてもここで書きたかったので、先生の目を盗んで抜け出して来てしまいました。悪い患者です。
 あまり大袈裟に取らないで欲しいのですが・・・
 どうやら、僕はこれから先、あまり生きないようです。
 最近は毎朝起きるたびに、自分の躰から何かが失われていっているのが解ります。
 ですから、少なくともまだペンを持つ力があるうちに、書いておこうと思います。

 さて。
 今年も、二月十一日が近づいて来ます。僕があなたと会った日。僕の誕生日が。 
 もし三日後にせまったその日を、今年も無事に迎えることが出来れば、僕はもうそれで三十三歳。
 想像がつきますか?二十三歳の僕しか知らないあなたは、今の僕を見たらきっと驚くでしょうね。
 十年前の二月十一日、あなたが突然僕の前に現れて、そしてまた突然消えてしまってから。
 あなたのいない月日を、僕はこの日を目印として生きてきました。次の年のこの日には、もしかしたらこのグランド・ホテルで、再びあなたと会えるかもしれない。毎年毎年そう思いながら、ここで過ごすのです。
 そうして、十年が経ってしまいました。
 出来れば、これからもずっとそうやって待っていたかった。でもそれも、どうやら来年は無理のようです。
 折にふれて、あなたを待ちながらその間、僕はいつもあなたについて考えていました。
 そして、その度にあらためて僕は、実はあなたのことを何も知らない事に思い至るのでした。
 だから、どうやってあなたが僕に会いに来てくれたのか、そして何故行ってしまわなければならなかったのかも、未だによく解りません。まあ、説明して貰っても解らないのかもしれないけど。僕はそういう事を考えるのは得手ではないので。

 僕が知っているのは、あなたが自分についていくつか話してくれたこと。
 名前は桐ノ院圭であること。二十九歳であること。指揮者をしていること。いくつかの日付・・・そして。
 パガニーニの主題による、ラフマニノフのラプソディー。
 これも手がかりのひとつです。第十八変奏をあなたが弾いてくれたこの曲を、僕は探してみました。恩師をはじめ色々な方に訊ねてみましたが、なかなか見つかりませんでした。
 それもそのはずです。ラフマニノフは、アメリカで評判のピアニストであり作曲家で、その曲は、昨年、彼によって発表されたのだそうです。つまりそれまで、今まで、存在しなかったのです。
 あなたは、何故、もう十年前になる僕たちが出会った時に、その曲を知っていたのでしょう。

 そして、不思議なことがもうひとつあります。
 あなたが持っていた、あの銀の時計。
 あれとどうやら全く同じものだと思われる時計を、この間、偶然行き合った時計屋で見つけました。もちろん、こちらはまだ真新しく、あなたが持っていた落ち着いた輝きのものとはそこだけが異なりますが。でも、どう見てもあの時計と同じものなのです。
 不思議です。それは、そこの主人がひとつずつ作っているもので、二つと同じ物はないということでしたから。
 僕はそれを買いました。ある予感がしたからです。

 あなたはあの時計を、人から貰ったのだと言っていましたね。
 初めて指揮者として成功をおさめたときに貰ったのだと。八年前の七月十四日、帝国ホテルで。
 帝国ホテルも僕たちが出会った時はまだ建設中で、完成したのはその翌年だったはずです。
 さらに、あの時は冗談にしてしまいましたが。
 あなたは昭和四十六年生まれだと言っていました。聞いたときは、昭和などという号はなかった。でも今はあの時皇太子であられた方の御世、御即位により玉名、昭和天皇と仰せられる方の御世六年目です。

 これらの事を考え合わせると、信じ難い事ではありますが。
 もしかしたら、僕とあなたの今生きている時間、あるいは時代は違うものなのではないですか。
 僕の推測通りならば、僕とあなたの間にはおそらく・・・あの時には八十年、今では七十年の時の違いがある。
 違いますか。
 何らかの方法でこちらへ来たあなたは、やはり何らかの理由で、本来のあなたの場所へ帰ったのでしょう。
 そしてそれ以来、もうずっと会えていない事を思えば・・・それは一度の偶然がもたらした何かであり、あなたはおそらくもうこちらに来る事はできない。多分、二度とは。
 それはおそらく動かしがたい、時の摂理というようなものなのではないでしょうか。

 愚かしい事を言っているのかもしれません。
 躰の衰弱に伴い、もう既に、頭も少しおかしくなっているのかもしれない。
 だが、僕は信じたいのです。あなたがやむにやまれぬ理由で、あなた自身にもどうすることも出来ないままに、僕から離れざるを得なかったのだと。
 そう思えば、この結論以外あり得ない。
 だから僕はあなたが僕に言ってくれた事を信じ、また、自分が考え出したこの途方もない事を、事実と信じる事にします。

 ただ、僕が心配なのは、あなたのこと。
 圭。
 お元気ですか。
 そう思いながら、僕はいつも彼方の空を見上げます。
 そして、ヴァイオリンを弾きます。どうかあなたに届けばいいと思いながら。
 僕は、あなたにあの時、ちゃんと言えただろうか。あなたに対する、僕の気持ちを。
 あなたとの時間はあまりに短く過ぎ去ってしまったので、きちんと伝える事が出来たかどうか、少々不安なのです。
 ですから、今またあらためて、ここに言っておきます。

 圭。
 愛しています。
 僕は、あなたを愛しています。
 そしてこれからもずっと、愛するでしょう。ずっと。

 僕はあなたにすべてを貰った。
 生きる事、愛する事、そして本当に音楽に必要な事、すべてを。
 みなあなたが僕に教えてくれたものです。
 人より多少短い人生だったかも知れませんが、しかし僕はあなたに会えた。あの、あなたと過ごした数日間、僕はそれまでの人生の何倍もを生きた。僕には全く後悔はありません。
 だから僕はこの手紙と、この時計を千恵子姉さんに託しておこうと思います。
 これはまた、これから始まる輪の一環なのだと、これがあなたの手に渡る事が出来たら、これから再び、過去の僕たちはまた出会う事が出来ると。
 そう信じて。

 そして。
 もしあなたが今、あなたのいるその時代で、僕が傍にいない事で悲しいと、辛いと感じていてくれるのだとしたら。
 周りを見回してみてください。
 たとえ目には見えなくても、僕はいつもあなたの傍にいます。
 いまこの命が終わってもそれは仮のもの。
 なぜなら、初めて会ったあの時、僕の本当の生命はあなたと共にはじまったから。 
 だからきっとあなたと共に終わる。
 このままこの姿で会うことはもうできなくても、あなたがどこにいても。
 あなたがどこかで生きているかぎり僕はあなたを愛し、あなたを守る。
 あなたをひとりにさせたりはしない。
 だから、どうか泣かないで、信じて、あなたの時代で生きてください。生き続けてください。
 そして、かならず。
 戻ってきてください。
 僕のところへ。
 戻ってきて。圭。

 長くなってしまいました。
 いささか、疲れたようです。笑ってください。最近はヴァイオリンもろくに持てない。そう言えば、ラプソディーをきちんと弾いてみたかったのに、楽譜を入手してそのままになっています。
 それだけが、心残りなのですが。
 どんな時も、あなたの事を考えています。
 いつも、あなたの幸運と幸福を祈っています。
 早くあなたに会いたい。
 それでは

 西暦千九百三十一年 二月八日

 守村悠季








 ───戻ってきて、圭。かならず。

 声を聴いたような気がした。その楽の音も、ともに。
 僕は目の前の愛しい肖像を見つめた。
 そして目の前の、愛しいひとを。
 僕は答えた。

 ───はい。

 戻ってきました。
 悠季。



 僕は目をとじた。
 涙があふれた。
「桐ノ院さん?」
 気づかわしげに言われる声に、顔をあげて微笑みかけた。
「・・・ありがとう」
 手紙を持ったまま、手を伸ばして、僕は彼を抱き締めた。抱き締めながら、喉に詰まる声でささやいた。
 胸にせまる万感と、想いのすべてをこめて。
 80年、70年の彼方へ。
 そして現在へ。

「───悠季。ありがとう」
 愛しい人。
 ありがとう。
 僕を、きみに会わせてくれて。
 きみのもとに、僕を戻らせてくれて。
 僕に、もう一度、きみを───生命をあたえてくれて。

 輪はめぐるだろう。
 いつの時も僕はまた、きみに出会い、ひととき離れても、ふたたびきみのところへ帰る。
 生命の限り、きみはずっと僕を呼び僕を待ち、僕と共にいてくれるのですね。
 ありがとう。
 愛しています。

 愛しています。



 ありがとう。








                 END





2001.2.28. Wed.
 山田朋弥さまに捧げる。



 BGM : Paganini  24 Caprices op.1
Rachmaninoff  Rhapsody on a theme of Paganini, Op43

ありがとう
あの映画を初めて観てから。
ずっと何度も泣いてきたけど。
少しずつ慣れて枯れ始めていた涙がもう一度溢れました。
キャスティングは苦手なので、
書きたくてもかけないネタでした。
葵さんに書いて貰えて良かったです。
第二の悠季の人生に、圭が幸せな関わりを持ちますように。
ところで。エッチな部分に山田の名前が^^;
お心遣い有難う御座いました。
この際、名前の読みは……まあいいや^^;。

 



素材提供:月球戯工房様