X
1921年2月11日。
僕は、朝日に向かって伸びをした。
爽快な気分だ。昨夜は同じ屋根の下に悠季が眠っていると思うと、心がどうしても浮き立ってあまり眠れなかったのだが。
───さて。
念入りに身支度を整えて、僕は鏡の中の自分に言った。
行きましょうか。デートのお誘いに。
117号室。調べておいた悠季の部屋のドアを叩いた。
「どなたですか?」彼の声だ。
「桐ノ院です」
しばらくの沈黙の後、ドアは静かに開いた。
「起こしてしまいましたか?」
悠季はいいえ、と言って、しかし困ったように僕を見た。
「何の御用でしょう?」
「朝食をぜひご一緒に」にっこり笑って言うと
「朝食は部屋でとる習慣ですので」とドアが閉めかけられた。
「ちょっと待ってください」僕は慌ててドアを抑えた。
「では昼は?」
「夜に備えてリハーサルがあるので・・・」
「休憩時間は?その時に散歩でも」
彼はため息をついた。「困ります」
「断られるともっと困った事になりますよ」
彼はぎょっとしたような顔をした。その表情も楽しみながら、僕は微笑んだ。
「嘆きのあまり、僕はきみの楽屋で首を吊りますから。
・・・ああしかし」僕は首を振った。
「僕が首を吊れる鴨居その他があるかどうか・・・それが問題ですが」
悠季は黙っていたが、唇のはしがクスッとほころんだのを僕は見逃さなかった。
「お願いです。どうしてもお話したいことがあるんです」
「桐ノ院さん・・・」彼は言いよどんだ。
「違います」
「はい?」
「名前を呼んでください。ただ、圭、と」
そうしないと返事をしません、と言うと、とうとう悠季はクスクスと笑い出した。
「子供みたいですね」
その笑顔にまた魅入られながら、僕は心の中でつぶやいた。
きみに付き合っていただくためなら、子供にでも何でもなりましょう。
「・・・わかりました。じゃあ少しだけなら。昼頃・・・一時に」
悠季はそう言ってかすかに微笑んだ。ドアが閉められた。
が、また開いた。
「別館の、ホールにいますから。先生は、その時間はいらっしゃいません」
またドアが閉まった。
僕は笑った。心の中でガッツポーズをつくりながら。
───やりました。
庭で出されているテーブルで朝食をとっていると、背後から声をかけられた。
「ユウキの周りをうろつくのはやめろと言ったはずだが」
ブラーニン氏が立っていた。
「何の権利で?」僕は切り返した。
「ユウキは私の大切な弟子だ。みすみす君のような輩に駄目にされてしまうのを見ていることはできない」
「聞き捨てなりませんね」つくづく腹立たしい男である。
「僕が何をしたというんです?」
「何が目的だ。・・何故あらわれた?」彼は僕の言葉など耳に入らないらしい。ただじっとこちらの顔を見ている。
「あなたに会いにでないことは確かです」
「指揮者だと言ったな」
「ええ」
「君の名前を耳にしたことはない」
「そうでしょうね」ある訳がない。
「私を怒らせない方がいい。その若さで舞台から追われるのは嫌だろう?
・・・解ったら、一刻も早くここから出て行くことだ」
「馬鹿な」僕は笑った。「脅しのつもりですか」
「悪いが、僕はあなたに潰されたりなどしない───あなたこそ」
そろそろお国へ帰られてはいかがか、と僕は言った。
彼の目が細められた。「よく言った」
「次に君の姿を見かけたら・・・何らかの手は打たせてもらう。心づもりをしておけ」
そう言い捨て、去ってゆく後ろ姿に僕はつぶやいた。
やなこった。
別館のホールは、ホテルの最左翼から少々離れて、ほとんど海へ突き出すように位置している建物だった。
中へ入ると、それなりに贅を尽くした、がらんとした客席が僕を出迎えた。他の人々は休憩という事で出て行ったらしい。ステージの上、グランドピアノが置かれた反対側に、椅子にかけた悠季がいた。ヴァイオリンの手入れをしているようだ。
僕は、ステージのすぐ下まで近付き、上に向かって言った。
「何を弾くんですか?演目は?」
悠季は僕の姿を認めると、軽くうなずくように会釈した。そしてヴァイオリンケースの蓋をしめながら答えた。
「パガニーニ。カプリースです」
「ふむ」
カプリース───24の奇想曲ですか。それもいいが、僕はどちらかと言えば・・・そうだ。
五十嵐氏から貰ったあのスコアのことが思い浮かんだ。
「きみにはこっちの方が」
僕はステージの上に上がり、ピアノの蓋を開けた。音は合っている。よし。
あるメロディーを弾き始める・・・ラフマニノフのラプソディーと呼ばれる曲を。本来はアンダンテ・カンタービレで奏される管弦楽曲なので、ピアノでは限界はあるのだが。
綺麗ですね、と悠季がちょっと目を見開いて微笑んだ。
じっと聴き入っている。
「何という曲ですか?」
僕の方へ身をかがめて、手元を覗き込んできた。近づけられる顔に動悸が早くなった。気を紛らわすために言ってみた。
「聴いた事はありませんか?」
大変よく知られているメロディーなのですが・・・。
「いいえ」彼は首をかしげて、横に振った。
ああ・・・そうでした。この時代ではラフマニノフは同時代人で、しかもまだ壮年のはず・・・おそらく未発表なんですね。
「ラフマニノフのパガニーニの主題によるラプソディー、第18変奏。
つまり、カプリースのアレンジです」
答えると、彼は目を丸くした。
「全然違う曲に聴こえます」
「ああ・・・主題を反転しているんですよ。これは」
「反転?」
「そう。カプリースの主題を裏返しに、反行させて転回して・・・ほら」
「ほんとうだ」
彼は目をみはって、手品を見たこどものようににっこりと笑った。「すごい!」
瞬間。
僕は至近距離でのその笑顔に、何もかもすべてさらわれ、ただ見惚れた。
あのポートレイトは素晴らしかった。だが。
目の前でこうして生きて動いている悠季は・・・それを実際に目の当りに出来るとは何という、何と輝かしい喜びだろう。人の笑顔に心を奪われるということは、その事自体、こんなに幸せなものだったのだろうか。
───初めて知りました。
ほんとうに、僕はきみに出逢ってからというもの、初めてづくしです。・・・こんな事を考えて泣きたくなるのも。
「桐ノ院さん?」
はっとした。悠季が小首をかしげて見ている。
僕はゆっくり首を振った。
悠季は、あ、と言って口をおさえた。
「ええと・・・」口ごもってしまうのに、どうぞ、と目で促すと。
やっと言ってくれた。「・・・圭?」
「はい」
僕は微笑んだ。出来ることなら、大声で笑いたかった。
きみが僕の名前を呼んだ!
「もう一度、弾いてもらえますか?」はにかむように、そう言ってくれるのに、
「喜んで」
すかさず答えて、僕はまた曲の冒頭を弾きはじめた。ええ、何度でも。きみが望むなら。何十回でも何万回でも。
ああ、この曲を僕は愛する。きみを微笑ませるこの曲を。
それを自分が奏でられる幸運を愛する・・・そして。
きみに会わせてくれたこのめぐりあわせを、この人生を愛する!
遅い昼食を一緒に取り、その後、海岸を歩きながら。
通りがかりに気になっていた事を思い出し、悠季に尋ねてみた。昨日、ここで初めて会った時に、なぜあんなに驚いたのかと。
悠季はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑って言った。
「おかしく思われるでしょうけど・・・先生が」
ブラーニン氏が、何ですか?
「まもなく突然一人の男が現れて、きみの人生を変えるだろう、なんて」
「良い方に?」
「多分・・・悪い方に」
「それで・・・・?」
「だから、注意しなさいと。それだけなんですけど」
「で、僕がその男だと?」憮然としたものを感じて僕は言った。
あの先生氏こそ、僕の人生を悪い方に変えようとしているのでは?まったく、用意周到に邪魔をしてくれる。
悠季はとりなすように申し訳なさそうに微笑んで
「いえ・・・あなたはそんな人では。ただ、」
「ただ?」
だが、彼は逆に訊きかえしてきた。
「あなたはどうして、昨日、ここへあんな風にして立っていたんですか?」
「どんな風に立っていましたか?僕は」
まるで石像のようだった、と言って悠季は笑った。
「あんまり尋常な様子ではなかったから、つい勘違いを・・・すみません」
「きみにやっと会えたので、嬉しさのあまり固まってしまったんですよ」
と言ってやると、悠季は顔を赤らめてまた「すみません」と言った。可愛い人だ。
「しかし、何故またブラーニン氏はそんな事を?」
「解るんだそうです。先生には。未来が───なんとなく読める、とか」
「・・・」
まさか。
到底信じ難いというのが表情に出てしまったらしい。悠季は苦笑して言った。
「本当みたいですよ。傍で見ていても、大抵の事は先生の言う通りになるんですから。
4年前くらいにお国で起きた革命の事もそれとなく解ってたと仰っていました。だから事前に、この国へ」
ここの4年前と言うと1917年───ロシア革命ということか。しかし・・・。
「きみは信じているんですか?その予言を」
「さあ・・・」悠季はあいまいに笑った。
そして、ふと言い出した。
「どうでしたか?正直に言って?」
「え?」
「僕のヴァイオリンです。リハーサル、聴いてらしたんでしょう・・・本当は」
「───解りましたか?」完璧に隠れていたつもりだったのだが。
「舞台の上からはボックス席ははっきり見えます。カーテンの陰も」悠季は笑いながら言った。
「で、どうでしたか?」尚も尋ねてくる。
僕は答えた。「素晴らしい。完璧だ」
「ほんとうに?」
「・・・技術的には」
やっぱり、と小さく言って悠季は海の方へ視線を投げた。続けてつぶやいた。
「───感情に溺れるな。すべてを抑制し統制した時に、音楽はあらわれる」
「ブラーニン氏の意見ですか?」いかにも言いそうな事だ。
悠季はうなずいた。
「先生によれば、演奏家というのは皆、音楽のための器なんだそうです。演奏するその曲、それの表現されるべき真実の姿はただひとつで、それを表現するために僕たちがいる」
「僕はそうは思いませんが」思わず言っていた。
「それならば、きみはどこにいるんです?
誰が演奏してもひとつの解釈しかなく、それがきみではなくてもいいのなら、きみが演奏する意味はどこにある」
悠季が目を見開いた。「では演奏に最も必要なものは、何だと?」
「想い、ではないでしょうか。そして、真実」
「真実?」
「きみがそのときその演奏で何を伝え、何をあらわしたいのか、という真実です。
大切なのは曲ではなく、きみ自身です。
きみ自身の心の中の音を聴き取り、それを再現することだ」
「・・・」
「聴いていて、きみが苦しんでいるのは解りました。あのカプリースは鎧を着せられている。その下のところどころの綻びから、やっと本来のきみが顔を出していた。
きみは、要求されている解釈に違和感を覚えながら、それを完璧に弾いている。そしてそれに疲れているのでしょう。自分の思い通りに弾きたいと───違いますか?」
悠季が僕を食い入るように凝視している。その瞳に向かって、僕は言った。
「自分に、望まない枷をはめる事はない。きみは自由だ。
自由に弾いていいんです。想いのままに」
「僕の、想いのままに?」
悠季がゆっくりと繰り返した。
「ええ───きみの想いのままに」
「・・ありがとう」
彼は微笑んだ。
「僕は誰かにずっと・・・そう言ってもらいたかったのかもしれない」
「ではもうひとつ」言わせてください、と僕は言った。
「何ですか?」
「───お誕生日おめでとう。23歳ですね」
彼は一瞬目をみはり、また微笑んだ。「どうして知っているんですか?」
「知りたかったからです」
ひと目で、心をとらわれた人の事を。
「・・・不思議な人だ」
彼は僕をじっと見て言った。「───ほんとうに」
それからしばらくして。
あたりに夕暮れの気配がしてきたのに気付いて、悠季が言った。
「今、どれくらいでしょう」
「時間ですか?」気になるのだろうか・・・僕はもっともっと話していたいのだが。
「ええ」
しかし、舞台を控えているとなれば仕方がない。
僕は懐中時計を取り出し、蓋を開いた。「4時35分」
「いい時計ですね」
「贈りものです」
憶えていますか、と心の中で問いながらそのまま悠季の手のひらにのせた。
「何か記念のものなんですか?」悠季は珍しそうに時計をためつすがめつして見ている。
ええ、と僕はうなずいた。そう・・・きみからの。
「8年前になりますか。7月14日、僕が初めて指揮者として立った日に、帝国ホテルで」
───これは、その時きみがくれたのですよ。
(しかし。)
僕は一抹の疑問をおぼえた。
あの時悠季はまだ少年だったのだが・・・いったいどうやって僕のところへ現れたのか。しかも、この様子ではどうも、その事を一切憶えていないらしい。
これは・・・どういう事なのだろう。
「そろそろ、帰らなくては・・・準備があるので」
彼の言葉に我に帰って、僕はうなずいた。
ホテルの中に入り、一緒に悠季の部屋の前まで来て。
僕はあんまり情けない顔をしていたらしい。
「あまりお構いできませんけど」と言った彼は、部屋の中へ入れてくれた。
ぐるりと見回して、隅にあった大きな古風なスーツケース・・・いや、トランクというべきか・・・が目についた。
「出発はいつですか?」訊いてみた。
「今夜、演奏会が終わればすぐ」という返事だった。
次の予定は、と続けて尋ねようとし、何気なく目を向けた先で。
ボードの上に置かれた写真が目に入った。椅子にかけた若い女性がほほえんでいる。
僕はぎくりとし、それを凝視した。
この写真は・・・まさか。
彼の───恋人、あるいは妻なのでは?
途端に沸きあがって来た嫉妬に、胸の底が引きつるような感覚を覚えた。心臓が痛い。
「この人は・・・」声が喉にからむ。
しかしそんな僕をよそに、悠季はあっさりと言った。
「千恵子といいます。姉です」お守り代わりに持たされている、と続けてちょっと笑った。
「・・・よかった」
思わず口から出てしまった僕の安堵の言葉に、悠季は
「どうして?」
と小首をかしげた。
「わかりませんか?」
「ええ」
僕は彼を見つめた。
「ほんとうに?」
「・・・」
悠季が僕を見た。
大きな目だ、と思った。
なぜこんなに澄んでいるのだろう。何をうつしているのだろう。
その底にかすかに揺らめくものをもっと見たくて、僕は顔を近づけ、覗きこんだ。
と。悠季がまたたきをしかけて、そのまま目を伏せた。
その視線を追いかけて、僕は、彼の顎を両手でそっと持ち上げた。
「こちらを見てください」言ってみた。
長い睫毛が震え、持ち上がり、彼はもう一度僕を見た。
もっと近くで見たくなり、僕はさらに顔を近づけた。
今やほとんど触れ合わんばかりの距離で、僕たちは見詰め合っている。
触れ合わんばかり?
触れては、いけないだろうか。
そう思った時には、もう僕は悠季の唇に触れていた───勿論、自分のそれで。
そして。
「・・・こんな」
彼はかすかにうめくように言った。「こんなこと・・・」
「こわがらないで」
くちびるを触れ合わせたまま、僕はささやいた。
「僕がいます」
やわらかく、美しく弧を描く曲線をそのまま端から端までたどる。
「僕を見て」
悠季はわずかにかぶりを振った。
「あなたに会ってから、僕はおかしい」小さくつぶやいた。
そして僕を見た。
「あなたは・・・」
切なげに非難するようなため息。
「・・・あなたは、いったい、僕に何をしたんです?」
「恋を」僕は答えて悠季の髪に手を差し入れながら、一気に深くくちづけた。
その時。
ノックが、僕の陶酔を破った。ブラーニン氏の呼びかける声が続いた。
悠季の体が、僕の腕からすり抜けた。
ドアが開いた。ブラーニン氏が部屋に入って来た。悠季に話し掛けようとして───そして僕を見て、止まった。
「出て行け」
ブラーニン氏がドアを指し示した。
・・・仕方があるまい。騒ぎになっては、悠季が困るだろう。僕は歩き出した。
が。
「圭」
背中に投げられた声に振り返った。悠季がどこか強い光を浮かべた瞳で僕を見つめていた。
「演奏会、来てください」
僕はうなずいた。愛しい人に、微笑みながら。
「ええ勿論───行きます」
そして、その部屋を出た。後ろ手に扉を閉め・・・しばらく、目をとじて寄り掛かった。
なぜか胸が痛かった。
それから二時間ばかりして。
開演直前のホールの中は大層な人ごみだった。
席を確かめに行こうと人を縫って進んでいると、前の方で、つまづいたのか子供がべちゃっ、と転んだのが目に入った。
泣きもせず、きょろきょろと何かを探している。
僕の足元に飛んできた本を探しているらしい。僕はそれを拾い、彼に近付いた。
「たけちゃん!」母親らしき女性の声が聞こえた。
たけちゃん・・・?
ふと思いつき、僕は彼の上に身をかがめた。
「きみは・・・きみの名前はもしかして、五十嵐くん、ですか?」
子供はうん、とうなずいた。「いがらしたけと」
「そうですか」
僕は彼に本を差し出しながら微笑んだ。ヴァイオリニストになり損なう、将来のチェリストに。
失礼───やはり、お会いしていましたね。
席に着いてまもなく、演奏会は始まった。
パガニーニ、24の奇想曲。
自ら天才的なヴァイオリニストだったニコロ・パガニーニが自分の多種多様な演奏技法のすべてを駆使して作り上げた、“芸術家のための”練習曲。ややもすれば、超絶技巧を披露するための手段に陥りやすいこの曲を、しかし悠季はそうは弾かなかった。
昨日の厳密で完璧な正確さだけを最優先させた演奏は、きれいに姿を消し、そのかわりにあらわれていたのは、そのテクニックが表現できること自体の楽しさ。単純な、だが得難い、音楽の感嘆と喜びである。
これを聴いた人は、それが楽器を弾く人ならば、うまく弾けるようになったときの嬉しさをありありと思い出すだろう。そして弾かない人をも、そういう喜びはいったいどういうものかと、楽器を手に取らせる・・・そういう演奏だった。
僕は手を打ち鳴らしながら思った。これが、と。
これこそが、本当の守村悠季の音。
彼が想いのままに表現したかった音なのだ。
そしてアンコール。
悠季はふたたび姿をあらわした。舞台の中央で一礼して、ふと、その時。
彼は何かを探すように視線をさまよわせ・・・やがて、僕たちの目は出会った。
そうして何と。
悠季は僕と視線を合わせたまま、手にしたヴァイオリンを構え・・・。
ゆっくりと弾きだした。
静寂の中、最初の音がつむがれ、徐々に広がってゆく。
(このメロディーは・・・)
聴きながら僕は呆然とした。
無伴奏のまま、きらめくように美しく奏でられているこれは───
ラプソディー。ラフマニノフの。
あの時わずか数回、主旋律を僕がピアノで弾いたこの曲を弾こうと?
それにこれは・・・気のせいか。あるいは願望があらわれた幻聴か。
いや。気のせいなどではない。幻聴などでも。
明らかにこのメロディーは僕へ何かを語りかけている。僕だけにわかる言葉で。
僕は悠季を凝視した。
苦しかった。あまりに甘美に聴こえる、これはめくるめく苦しみだ。
そして。
あえかな余韻を残し・・・
無限とも、また一瞬とも感じられた演奏は終わった。
沸き起こった割れんばかりの拍手の轟音のなか、僕はひとり手を叩くのも忘れて、まだ呆然と座っていた。
たった今、ヴァイオリンの音で告げられた言葉について考えていた。
───愛してる。
・・・悠季。それは本当ですか?
「いやあ、素晴らしかった」右隣の紳士がつぶやいた。
紳士の連れがドイツ語で二言三言しゃべった。
「え?何です?」紳士は首をひねって、僕に話し掛けてきた。
「お相手を仰せつかったはいいが、どうもわからなくてね。君、解るかい?」
僕は前を見たまま口を開いた。「こう言っています」
「今の奏者のヴァイオリンは───彼は、恋をしていると」
答えながら立ち上がり、僕は楽屋の方へ駆け出した。
胸が苦しいほど愛しい人の姿を求めて。
「悠季」
駆け込む勢いで楽屋に一歩入って。しかし僕は、入り口をちょうど塞ぐかたちに大きなカメラが置かれて、何やら忙しく動いているカメラマンに出くわした。
「守村さん、撮りますよ」
おっと。記念撮影中でしたか。これは失礼。
悠季は暗色の布がかけられた背景を背にひとり座っていたが、カメラとカメラマン越しに僕を見つけると、目で微笑んだ。はやる心を抑えながら、僕は小さく手を振った。
悠季の微笑みがますます大きくなった。僕はさらに早くなる鼓動を胸に、うっとりと見入った。
乾板が光った。
そしてマグネシウムが灼けつく白い閃光と共に。
僕の網膜の奥で、あのポートレイトの表情と、今の彼の微笑みが───
ぴたりと重なった。
ああ───と僕は思った。
新たな発見に、さらに幸福な気持ちに包まれながら。
・・・やはりきみは、僕に向かって微笑みかけてくれていたのですね。
と。不意に、腕をつかまれた。
見れば、横にブラーニン氏が例の重厚な無表情のまま、目だけを血走らせて立っていた。
「外へ出ろ。話がある」
いよいよ決着をつけるつもりらしい。
望むところです。
僕は悠季の方へ、(すぐ戻りますから)と目線を投げて、氏の後を追った。
そうして出た、外のあずまやにて。
先に口火を切ったのは、ブラーニン氏だった。
「何年、彼を教え、見守ってきたと思う?
彼を見出したのは、私だ」
「・・・・・」
「彼には才能がある。特殊な才能が。君がまともな耳を持っているなら、解るだろう。
初めて彼のヴァイオリンを聴いたとき、私は啓示を受けた、と思った。あれほど純粋に、敬虔に、音楽にすべてを捧げている魂を、見たことがなかったからだ。
この最果ての国に骨を埋める事になっても、彼を私の芸術の理想、それを果たし得る器に育てあげてみたいと、そう思った」
「あなたの情熱は解らなくはない」僕は口を開いた。
「だが彼は苦しんでいます。あなたの解釈を押しつけられて。演奏を聴いていればわかるでしょう。
今日のあれが、彼の本来の姿なんだ。
あなたは、彼を縛り、不必要に苦しめている」
「芸術に苦しみはつきものだ。君こそ、彼に余計な苦しみをしかけているのじゃないかね?」
「どういう事です?」
「解らないとでも?君の彼を見る目つきは、飢えた狼のようだ」
嘲笑うようにブラーニン氏は言った。
「彼の関心をこいねがい、何もかもを貪り喰らおうとしている。
ユウキはいったん決めたら、己の何もかもをすべて捧げてしまう性質だと言っただろう。その彼が、恋愛などをしたら・・・どうなると思う。精神にくらべて、体の方はあまり強い方ではない。音楽に関する事だけで、すでに余るほどだというのに。・・・その点だけでも。
ユウキに、君は妨げだ」
「何が妨げで、何がそうでないかは、彼が決める事です。あなたじゃない」
僕は言った。一歩も退く気はなかった。
自分の存在を賭けて、相手をねじ伏せるように見据えた。
彼と僕の目がぶつかった。
ややあって、ブラーニン氏はうめくように言った。
「やはり・・・君は「あの男」だ。
───おまえは、ユウキを破滅させてしまう」
「狂ってる」
僕は言い捨てた。
師であろうが何であろうが、妨げを許すつもりなどない。ましてや、こんなたわ言など。
「君はあくまで───」
「ええ」
僕は答えた。「悠季の傍を離れるつもりはありません。僕は」
「───僕は彼を愛している。心の底から」
そして彼も僕を。
僕は悠季の顔を思い浮かべて微笑んだ。
早くきみの傍に行きたい。一刻も早く。
待っていてください。すぐに行きますから。
「愛だと?」
投げつけられた言葉に我に帰った。ブラーニン氏はおかしそうに喉の奥で笑っていた。
「おまえのような人間をたくさん知っている。ヨーロッパでもロシアでも、飽きるほど目にしてきた。
恋だ愛だと言い訳をしながら、その場限りの下劣な歓楽を追い求める輩───愚かしい」
笑いを消して、彼は僕を見据えた。
「そんな人間に、ユウキを、私の芸術を壊されるわけにはいかないのだ」
声の調子が微妙に変化した。「・・・仕方がない」
「消えてもらう。悪いが」
その語尾を聞くか聞かないかのうちに───突然。
世界は暗転した。
素材提供:月球戯工房様