V
2001年2月9日。
その日の午前中を、僕は図書館の資料室で過ごした。彼の軌跡を追うために。
守村悠季(1898〜1931)
ヴァイオリン演奏家。
1914(大正3)年、東京高等師範付属音楽学校在学中、当時来日中であったロシアのヴィルトゥオーソ、ブラーニンに見出され、師事。以降ヴァイオリニストとして活躍。しかし、1921(大正10)年、グランド・ホテルで紀元節を祝って催された演奏会でソロを披露したのを最後に、演奏活動は事実上休止。その後まもなく母校で教授活動へ入る。
独自の繊細な音色で表現される深遠な解釈、高貴な音楽性を惜しむ人は多く、第一線への復帰を嘱望されつつも、1931(昭和6)年、鎌倉のサナトリウムにて急逝。2月11日。享年33歳。
これが今のところの成果である。
すでに70年前になろうかという戦前、それも若くして亡くなったためか、彼に関する記事自体そう多くはないのだ。
僕は音楽関係の書籍、グランド・ホテルに関する記録などを片端から調べ、それらに散る数行の記述を追いかけ、やっと見込みのありそうなある一冊の回想録を見出した。
『戦前の名演奏家たち』五十嵐健人・著。
五十嵐健人・・・彼に関しては僕もその名前を知っていた。現在僕が常任をつとめている交響楽団の創立当時のメンバーの一人。無論とうに引退しているので一面識もありはしないが、現役当時は確か長年にわたりチェロの首席だった人物である。
その本の、守村悠季に関する章を開き、数ページをめくって、僕は愕然とした。
書かれている人物に関連して幾葉か掲載されている古い写真、その中に。
8年前、僕に銀の懐中時計を手渡した少年───彼の姿が、そこにあったからだ。守村悠季の、少年時代の写真。
僕は本をひっくり返して一番最後のページを見た。随分昔に出版されたものだが、五十嵐氏が亡くなったという話は聞いていない。しかもこれは郷土資料室にあったのだ。
とすれば・・・
僕は五十嵐氏の住所を問い合わせた。予想の通り、五十嵐氏は健在で、しかもこの付近に在住だった。
電話で了解を取り、そのまま訪ねることにした。
五十嵐氏の家は車で20分ほどの閑静な住宅街にあった。
自己紹介すると、
「お噂はかねがね耳にしております。随分とご活躍のようで」
と返って来た。もう80半ばになるはずだが、矍鑠と元気な様子である。
あらためて、あなたが書かれていた守村悠季氏についてお訊きしたいのだが、と言うと、
「守村悠季・・・守村先生ですか?」
かつてベテランのチェリストであった老人は、これは懐かしい名前を聞く、と微笑んだ。
「お親しかったのでしょう?」
「ええ。よく知っていますよ。私はそもそも、子供の頃に守村先生のヴァイオリンを聴いて、それが忘れられずに音楽を志したものですからね。
楽器を親にねだり倒して、弟子入りしたいと押しかけて。でもその時私が持っていたのは何とチェロだったんですな。ヴァイオリンじゃなしに・・・子供心に何かおかしい、妙に馬鹿でかいとは思ったんですがね。あの頃は西洋の楽器なんざ珍しかったから、区別がつかなかった」
五十嵐老人はおかしそうに笑った。
「先生はとても優しい方でしてね。それはチェロだよ、と笑って、でも基本は一緒だからと言って手を取って教えてくれました。
その後、チェロの方の先生にもご紹介いただいたんだが、結局なんだかんだと守村先生のところに入りびたっていたなあ・・・。もう演奏活動の方はおやめになっていて、普段は、音楽師範の方で講師で教えられていたんだが、そちらにも追いかけていこうと思った矢先に亡くなられてしまって」
「ずいぶん若くして亡くなられたようですが」
ええ、と老人は言った。遠くの美しいものを夢見る眼差しだった。
「あまり丈夫な方ではなかったですからね・・・雰囲気もどこか浮世離れしたところがあって。
ご自身のヴァイオリンで出される音そのままに、何というかとても静かで、どこか哀しげで・・・綺麗な人だった」
(───哀しげ?)
僕はあのポートレイトを思い浮かべた。
あの微笑みにはそんな感じはまったくなかったが・・・。
「なぜ、途中で演奏活動をやめられたのでしょう?確か、演奏家としてはこれから、という若さではなかったですか?」その当時、彼は23歳だったはずだ。
「解りません。その事については今だに誰も知らんのですよ。先生も何も・・・ただ」
「ただ?」
「最後の舞台になった1921年のグランド・ホテルでの演奏会から、先生の音が変わったとは、以前を知る人から聞いた事はあったが」
「音が・・・」
グランド・ホテルでの演奏会というと、あのポートレイトが撮られた時ではないか?
「ええ。私は、変わったといわれた後の音の方しか耳にした事がないので、良く解らんのですがね」
「もしかして、それから・・・音色に精彩を欠くようになったとか?」
「いいや」老人は僕をじっと見据えた。「その逆です」
「もし楽器が人の感情を動かすために奏でられるものなら、私が聴いた、あの当時の守村悠季のヴァイオリンはまさにそれだった。先生はどうしてか、音ですべてを伝えるすべを知っていたんですよ。
私もこの年になるまで、いろんな演奏を耳にしてきたが・・・とうとうその後、先生のほかに、そういうふうに弾くことの出来る人に会う事はできなかった。だからこそ、不思議なんだ。
なぜ、あれだけの腕を持ちながら観客の前で弾くことをやめてしまったのか・・・あれは」
と、老人は言葉を切って、ゆっくりと首を振った。何度も。
「あれは、ただの教師になって閉じ込めてしまうのはあまりに残酷な───あまりにも惜しい音だった」
しばらくの沈思の後、僕は言った。
「ほんとうに、守村氏はその理由については一言も?」
老人はうなずいたが、やがてふっと眉を寄せた。
「そう言えば、不思議な事を仰っていたことがあったな」
「不思議な事?」
老人はええ、と言い、顎を手で覆った。
「ある日、例のごとく先生がひとりで弾かれているところへ行き合わせた時に・・・その時はまたひときわ凄い音を出しておられたので、私は言ったんですよ。本当にもったいない、舞台でこれを聴きたいものです、と。
すると“これは、私信のようなものだから”と、先生は言って、そして・・・そう、
“五十嵐くん、音にはどれくらいの力があると思う?───時間を超えられるものだと思うかい?”と。
わかりません、と私が言うと、先生は微笑んで───」
「ええ」
「“僕は待っているんだ”、と一言」
───待っている?
(何を?)
わからない。
いったい彼は、何を待っていたというのだろう・・・。
去り際になって。
挨拶に一礼すると、五十嵐老人はふっと目を細め、不意に言った。
「───今日の以前に、どこかで、お会いした事はありませんでしたかな?」
「いいえ」
「そうですな・・・そんな訳はない」
五十嵐老人は微笑んだ。「そうだ」
「あなたにこの楽譜を差し上げましょう」
差し出されたのは、端々が変色した、かなりの年代物と思われるスコアだった。
Rachmaninoff
Rhapsody on a theme of Paganini, Op43
「ラフマニノフのラプソディー?」僕はつぶやいた。
五十嵐氏はうなずいた。
「守村先生の遺品です。形見分けにいただいたものだが・・・私もこの年でいつどうなるか。
あなたのような若い人に持ってもらっていた方がいい」
僕は丁重に礼を言い、受け取ったスコアと、さらなる謎とを胸に、その家を辞した。
ホテルへの道をたどりながら、僕は考えていた。多少のことは知ることができたが・・・結局のところそれ以上に謎だらけである。
いったい守村悠季、彼は───
なぜ、ポートレイトではあんなに輝いた表情をしているのか。それなのになぜ、実際の彼は哀しげだったのか。なぜ、途中で音が変わったのか。それも良い方にらしいのに、なぜ演奏活動をやめてしまったのか。その後、演奏活動を退いて、ずっと何を待っていたのか。
・・・数え上げると、きりがない。僕はため息をついた。
しかし。
その数々の謎は、みな元をたどれば、ひとつの事につながっている。
───1921年のグランド・ホテルでの演奏会。
この時に、彼に何事かが起きたのだ。とても重要な、何事かが。
(ああ・・・)と僕は嘆息した。
彼に直接会って、訊けるものなら、どんなにか・・・
会って?
僕は心の中に生まれたその単語にどきっとした。
70年前に亡くなった人に会って、80年前の出来事について、尋ねる?
どうやって?・・・馬鹿な。
───しかし。
会いたい。
そう、僕はきみに会いたい。いても立っても居られないほど。
謎などは口実だ。
僕はただ、生きているきみの瞳を目の前に見たい。きみが話すのを、ヴァイオリンを奏でるのを聴きたい。どうしても。
僕はすでにどうしようもなく心を捕らえられてしまったのだ───きみに。これは恋だ。29年間生きてきて初めての、目も眩むほどの恋。
ふと先程の、五十嵐老人の声がよみがえった。
(先生は───“時間を超えられるものだと思うかい?”と)
時間を、超える・・・さかのぼる。
さかのぼって、彼に会う・・・。
それが出来るなら?
僕は時計を見た。午後2時23分。まだ間に合う。
「すみませんが戻って下さい」運転手に声をかけた。
「どちらへ?」
「───市立図書館へ」
再び戻って来た図書館で、今度は哲学と物理学の書物を漁った。
タイムマシンというのはアインシュタインの相対性理論を利用すれば、数式の上では可能なのだと聞いたことはあったが・・・こうして渉猟して調べると、タイムスリップの方法というのもまた、どうやら理論的には成立しているらしい。
中でもこの『時の流れを超えて』という本。
(───自己催眠によるタイムトラベルには、「物」の同時代化と、現在を完全に断ち切る「精神」が必要であり・・・・・)
今開いているこの本が、どうやら僕の途方もない望みを叶えてくれそうだ。ここに書かれていることが真実で、僕にその実行が可能であれば、だが。
その内容を要約すれば、タイムトラベルの条件は───
・まず、これから行きたいと思う時代から変化の少ない場所にいること(古い建物や昔から変わらない場所などが好ましい)。
・現在を思い出させるものをすべて意識と周りから排除すること。
・そして自分が今、その時代のその日付にいると、脳と体に認識させられるほどの強い意志。
───なのだそうである。
著者はこの方法で、かつて一度だけだが、中世へ行くのに成功したらしい。
だが。
僕が行きたいのは・・・もちろん、1921年2月11日。グランド・ホテルで紀元節の記念演奏会が行われた日。守村悠季の上に重大な何事かが起きたその日。
奇しくも、2001年の現在でも、明後日は2月11日だ。そして僕はグランド・ホテルに滞在している。
これはきっと何かの符合にちがいあるまい。偶然にしてもこれだけ重なると、すべての事が一点を指し示しているように思われてならない。
閉館のアナウンスが流れてきたのを遠くで聞きながら、僕は決意した。
もう明後日まであまり時間がない。準備を整えなくては。
そして、決行だ。
僕はホテルへ帰り、成城の家の方へ電話を入れた。とりあえず必要なものは、1921年という時代にふさわしい服、そして貨幣だが、あの家には多分両方ともあるはずだ。僕は、土蔵などというものがある妙な古い家に生まれたことを、初めて天に感謝した。
夜11時をまわった頃。
成城の家から僕は大急ぎでとんぼ返りに再び、グランド・ホテルの自分の部屋に帰って来ていた。
持ち帰って来た物をベッドの上に広げる───当時の貨幣と曽祖父のフロック・コート。中の服についても、あることはあったのだが・・・あまりにも古びていて使い物にはならなかったので、ついこの間新調したスワローテイルで代用することにした。
着替えて、鏡の前に立った。貨幣と例の銀の懐中時計をポケットに入れる。余計な音がしたので、底をさらうと、今の時代の小銭がまだ入っていた。危ない危ない。現在を思い出させるものは一切ご法度なのである。僕は、手の中で選り分けて、それを取り除いた。
さて、と思った。準備は完了です。
───今日は1921年2月9日。あと僅かで1921年2月10日。
口の中でつぶやいた。必要なものは強い意志。脳と体に錯覚を起こさせ、さらにそれを真実へと転化させるほどの。
他のあらゆるものを意識から締め出し、僕は呪文のように日付を繰り返した。ただ一心に繰り返して繰り返して・・・繰り返した。
が。
・・・やっぱり駄目である。雑念があるのか、今ひとつ信じきれていないところがあるのか。
(何か確証があれば・・・)と思った。これからもし僕が80年前の彼方にたどり着けるのなら、過去の僕もそう出来たはずなのである。その痕跡のようなものがどこかに残っていて、それを知ることが出来たら。
階下の例の部屋が頭をよぎった。そう、あの部屋のガラスケースの中には、確か・・・
僕はスワローテイルの上にコートをひっかけ、部屋を飛び出した。
大急ぎで階下に降り、例の部屋へ駆けつけた。ガラスケースを覗き込む。あった。これだ。
───『宿泊帳』(明治〜大正〜昭和年間)
何冊か積み重ねてある、古びたそれの中を調べるために、フロントに頼み込んでガラスケースを開けさせた僕は・・・やがて会心の笑いを得た。
大正十年 二月十日
桐ノ院圭 四一六号室 午後四時十三分
見誤りようもない、自分自身の筆跡のサイン・・・これで確証も得られた。
今度こそ準備完了です。
何とはなしに安らかな気分になって部屋に戻った僕は、コートをフロックに変えて、ベッドの上に横たわった。天井を見上げながら、明日彼に───悠季に会ったら、一番先に何と言おうか、と考えた。
一目惚れしました。愛しています。・・・いきなりこれではまずいか。
やはりここは順当にまず「初めまして」で、それから・・・
だんだん目蓋が重くなって来たのを意識しながらも、僕は挨拶の文句を推敲し続けていた。
そして。そうだ、髪をもっと短くしておけばよかった、しまった・・・などと思ったのが・・・それが、記憶に残る最後だった。
W
ぼんやりと、明るい光を感じた。
ぼやけていた焦点がだんだんと合ってくるように、昨夜眠りに落ちる前の祈るような気分を思い出し、僕はそろそろと目を開けようとした。
1921年2月10日。あの演奏会の前日。
今日は、その日のはず。
その日のはずだ。
覚悟を決めて目を開けた。
一番最初に目に入って来たのは・・・壁だった。見覚えのない模様・・・そう、さっきまで確かに、花柄ではなかった。
では・・・。
起き上がって、僕は首をまわした。ベッドにいたはずなのに、何故か長椅子の上で。
「・・・やった」
思わず、つぶやきがもれた。
部屋の中は、調度がほとんど変わっていた。
もっとも、しつらえられていた物それ自体が、ではない。状態が、である。アンティックと呼ばれる時を経た古いものから、見たところ同じ形でありながらまったく新しいものになっている。そして絨緞、壁紙、カーテンはすべて見慣れないものになり、あらゆる電化製品は影も形もない。
そして何より・・・これは、何と言うのだろう。
空気が、違う。
・・・当然だ。
ここは、1921年なのだ。
僕は来たのだ。
来ることができたのだ。彼が生きているこの時代に。
驚くべき事に、懐中時計の針はすでに3時半をまわっている。
この明るさからいって、当然昼の時刻の、であるが・・・タイムトラベルというのは随分と体力を消耗するものらしい。これほどの睡眠をとったというのに、体中がきしむように痛む。
だが、高揚した気分がまもなくそんなものを吹き飛ばしてしまった。
とりあえず、階下に降りてみた。今、僕がいた空き部屋・・・416号室の確保をしておかなければならない。宿泊帳のサインの時刻は、
(確か、“四時十三分”でしたね。)
まだ、三十分はある。その間ロビーで、観察にあてることにした。向こうではシーズンオフで閑散としていたが、こちらでは大層な賑わいだった。歓談し、行き交っている人々・・・和装の、長いスカートのドレスの、三つ揃いの古風なスーツの、スワローテイルというよりは燕尾服の・・・これが、80年前の世界。
なかなか壮観である。
時間きっかりに首尾よく部屋を手に入れてから、僕は早速、想い人を探しに出かけた。
が、ホテルの隅から隅まで歩き回ってもどこにもいない。
部屋は留守だとフロントが言っていた。ではいったいどこにいるのだろう・・・。
うろうろと歩きながら、焦るな、と自分に言い聞かせた。
絶対に彼はここにいるのだから。この場所、この時代のどこかに、必ず。
しかし不安なものは不安なのである。
一時間ほどホテル内を歩き回って収穫が得られなかった僕は、居ても立ってもいられない気分で外へ出た。海に続いている松林の中を足早に歩く。冷たい風が頬にあたった。もうすぐ、日が暮れるのだ。
本当に会えるのだろうか。
そう思いながら、海のほうへと近付いて行ったその時。
不意にそれが視界に入ってきた。
砂浜を歩いているすらりとした後ろ姿の青年。
あれは・・・もしかすると。
僕は目を細めた。途端に、胸の動悸が加速をつけて激しくなっていくのを感じた。
じっと見ているうちに、その人はゆっくりと迂回し、松林の中を戻って来た。
近付いてくる。
伏せぎみだった顔が、ふっとあげられた。
眼鏡をかけた、小造りなやさしい美貌。・・・思い焦がれたひとの顔。
やはり、そうだ。まぎれもなく。
───守村悠季、その人。
僕は息を呑んだ。
ひたすら彼を見つめ、立ち尽くしている僕に気付いて、その人は訝しげにかすかに首をかしげ・・・
やがて、僕の前で足を止めた。
あわせて僕の周りの世界も止まった。僕たちは向かい合っていた。
そして。
彼は僕を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「・・・あなた、なのか?」
初めて聴く彼の声は・・・少々やわらかな震えを含んだテノール。
「そうですね?」
僕は空気に溶けたその声を心と耳にしっかりと刻みこみ、味わいつつ、答えた。
「───そうです」
僕の声も、おそらく震えていただろう。推敲した挨拶の文句なぞ、すべて跡形もなく頭から飛んでしまっている。全身が熱い。
そう、僕です。
───きみに会いにここまで来ました。
すると。
見つめる僕の前で、悠季が一瞬目をとじ、ふと手をついた木に寄り掛かった。
僕は慌てて支えようとしたが、
「大丈夫。ただ・・・驚いて」
彼は差し出した僕の手を、手を上げてやんわりと断った。
その時。
「───ユウキ!」
背後からの突然の声に、思わず振り返った。
向こう側から恰幅のいい初老の男が足早に近づいて来るところだった。手に杖を持っている。外国人のようだ。
「先生」彼がつぶやいた。
「そろそろ夕食だ。戻ろう。来なさい」
「・・はい」
悠季はちらっと僕を見、会釈すると、男の方へ歩き始めた。僕はその後を追いかけようとし・・・男の杖に塞がれて止まった。
男は重厚な無表情で、僕を仔細に観察しているようだった。ガラス球のような灰色の眼が夕刻の薄闇に冷ややかに光っている。ややあって、見事に厳密に口のみを動かして、彼は言った。
「名前は?」霧笛のような響きのバス。ほとんど、訛りはない。
「桐ノ院圭」
「職業は?」
「コンダクター・・・指揮者です」
「ここへは何故?」
「───彼に会いに」だからそこをどけ、という意味をこめて見返した。
「何のために?」
「あなたに言わなくてはいけない義理はありません」
しばらくの沈黙の後、男は言った。「私の名を知っているか」
僕はうなずいた。予測はついている。
「アレクサンドル・ブラーニン」
19世紀末のロシアを代表するヴァイオリニスト。超人的な技巧で知られるヴィルトゥオーソ。そして、悠季の師。
「そうだ」やはり口だけを動かして、彼は言った。
「ならば解るな?私たちの───彼の周りに近付くな。
君などの相手をしている暇は、彼にはないのだ」
そして踵を返し、心配そうな顔でこちらを見ている悠季の方へ向かって行った。
僕は苦笑いした。・・・そんな脅しが効を奏すと思っているなら、甘くみられたというものだ。
ブラーニン氏は悠季を促してホテルの方へ歩き出した。
僕は少し離れてその後をついて行った。
時々、悠季がこちらを振り返る。気になるようだ。
にっこり笑いかけると、慌てて前を向いてしまうのだが。・・・ふむ、ずっとこっちを向いてくれないものでしょうか。
僕は駆け出した。
二人に追いつき、悠季の腕をつかまえた。先生氏を引き離すためにそのまま走って・・・。
驚いたように見開かれている彼の目に向かって、僕は言った。
「自己紹介をまだしていません。僕は桐ノ院圭。繰り返して」
「・・・。」
「と・う・の・い・ん・け・い、です。繰り返して」
「とうのいんさん?」悠季が勢いに押されるように言った。
「そう。指揮者をしてます。きみにどうしてもお会いしたくてここまで。
覚えておいてください。───覚えましたか?」
うんうん、と悠季はうなずいた。
「結構」僕はにっこり笑った。「今日はどうも無理のようですから───」
後ろを見てみた。そろそろ追いつかれそうですね。
「明日また、お会いします。必ず。忘れないで」
そう素早く彼の耳にささやいて、僕は踵を返して歩き去った。
せっかく推敲した挨拶を使えなかったのは残念だったが・・・。
物事というものはとかく、臨機応変に対処しなくてはならないもの。まだ明日がある、と僕は心の中でつぶやいた。
素材提供:月球戯工房様