Beyond the Sky  ───ある日どこかで──
by東郷 葵さん



「戻ってきて」
 そう言って、彼は微笑んだ。
「戻ってきてね、圭。かならず」

T 
 1993年7月14日。帝国ホテル。
 それは、僕が指揮者として最初のコンサートを成功させた夜のことだった。
 終演後、打ち上げを兼ねてパーティーが催された、その席で、しかし僕は退屈していた。
 全力で振っていて疲れていたし、早く帰りたかった。周りに集まり、話しかけてくる人々をあしらいながら、一体あとどれくらい我慢していれば、ベッドで休めるのだろうかと、それだけを考えていたその時。
 後ろからそっと腕に手を置かれた。
 僕は振り返った。またか。もうサインは勘弁して欲しい。
 が。そこに立っていたのは予想に反して、プログラムを胸に抱き締めたご婦人などではなかった。
 この気取りかえったような場にひどく不似合いな、それは─── 
 少年だった。
 華奢な体つきは中学生くらいだろうか。白いシャツに黒のズボン、制服の夏服姿とも思える格好である。
 彼は大きな目で、じっとこちらを見つめている。
 周囲の会話がやんだ。
 その不意の静寂の中、彼はゆっくりと口を開き・・・
 僕に向かってはっきりと言った。
「───戻ってきて」
 ・・・・・?
 何を言っているのだろう、この子は。
 あまりにも思いがけない言葉に、僕はぼんやりと思った。
 しかし驚くのはまだ早かった。
 次に彼は僕の左手を取り、自分のポケットを探って何かを取り出し、僕の手のひらに握らせたのだ。つめたく、かたく、丸い感触・・・僕は手元に目を落とした。
 これは、時計・・・?それも、蓋を開ける式の、懐中時計といわれるものではないか?
 にぶく光る、美しい銀の輝き。
 彼はそれを握っている僕の手の上に、またそっと触れて言った。
 やさしい顔立ちをほほえませて、
「戻ってきてね、圭。───かならず」
と。
 そして、あらためて周りを見回し、自分が注目の的になっているのに気付くと、顔を赤らめて踵を返し、足早に歩き去ってしまったのだった。
(今のは、いったい・・・・)
 僕は呆然と手の中の時計を見、彼が去った方を見た。
 もう彼の姿は跡形もない。
 周囲の音はふたたび戻って来ていたが、その喧騒の中で自分だけが白昼夢でも見たような頼りなさを覚えて、時計を見つめたまま僕は額に手をやった。

 ずっと忘れられなかったその何とも奇妙な出来事は、そろそろ8年前のことになる。



U 
 2001年2月8日。某交響楽団事務局。
「桐ノ院くん、ちょっと待ちたまえ!」
 事務長がころがるように後を追いかけて来た。
「休暇は申請してあります」
「そうは言っても君!」
「そちらが勝手に請け負って来た事です。僕には関係ありません。失礼」
「そうは言っても君、皆待っているんだよ?」
「これ以上スケジュールに空きなどない。もう充分でしょう。このうえ、僕の了解なく余計な仕事を押し付けられてはたまらない」
「そうは言っても・・・」
 うるさい男だ。おまけに能がない。同じ事しか言えないのだろうか。
「とにかく、僕は本日よりオフです。失礼」
「そうは言っても・・・・どこに行くんだね?」
 僕はうんざりした。
「あなたに関係ありません」
 言い捨てて、部屋を出た。

 まったく・・・何だと言うのだろう。
 半年振りのオフ、それもわずか4日という短いものだというのに、それさえいざとなると、あっさり認めようとはしない。
 この分では、家に帰っても電話攻勢が待っているだけだろう。まあ、電話はコードを引き抜いておくにしても・・・もしかすると、家までおしかけてくるかもしれない。
 帰りの車の中で、そんな事を考え、僕はひどく疲労を覚えた。本当に心身ともに疲れきっている。
 いっそこのまま、どこか旅行にでも出る事にしようか。そんなに遠いところでなくてもいい。とりあえず静かな場所で何も考えずゆっくりしたい。
 そして─── 
 僕はそこへたどりついたのだった。
 古くからある、そのグランド・ホテルへ。
 そしてそこで出会ったのだ。
 僕の運命を予想もつかないほど大きく変えることになった、あのポートレイトに。

 都心から約二時間。
 気がつくと、車はいつのまにか隣県の海沿いの道路を走っていた。
 早くも夕刻の陽射しが冬の海を輝かせているのを、窓から眺めるともなく眺めていると、ふと運転手が
「今日はどちらへお泊りのご予定ですか」と訊いてきた。
「まだ決めていません」
 答えると、彼は、このままもう少し行くとちょうど、グランド・ホテルの前を通りますが、と言った。
「グランド・ホテル?」
「ええ。何でも明治時代からあるとかで、このあたりでは結構有名なんですよ・・・アンティックっていうんですかね」
 ほう。
 少々興味を覚えたが、その前に尋ねてみた。
「やはり、かなり人が?」観光名所化していて、騒がしいのはごめんだ。
 運転手はいやいや、と首を振った。「今はシーズンオフですからねえ。静かなもんです」
「あ、ここですけど。どうします?」
「行ってください」僕はうなずいた。
 車は道路から分かれて、さらに海の方へとなだらかな曲がりを行った。
 芝生が広々と続く前庭、その向こうに、これはコロニアル風とでも言うのだろうか───白の円柱が外に浮き出た造りの、横に長いクラシカルな建物が見えてきた。
 やがて車は正面に停まった。
 車から降りると、潮の香りがした。この前庭は、向こうの木立を抜ければどうやら海に続いているらしい。
 正面玄関から、ドアマンらしい人影が出てきた。荷物という程もない荷物を預け、彼に続いて、ポーチの階段を上った。
 玄関に入る寸前で、それが目についた僕は立ち止まった。
 凝った意匠の、古びた真鍮のプレート・・・歳月にほとんど掠れたような刻で、グランド・ホテル、とある。なるほど、確かに随分古いホテルのようだ。
 敷き詰められた赤い絨緞を踏み、フロントへ向かう。ロビーはそのままサンルームのようになっていて、こういう古い建物の中としては随分と明るい。場所から言っても、昔からリゾート用として使われていたホテルだったのだろう。
「いらっしゃいませ」
「4日の予定で。部屋は空いていますか?」
 フロント係ははい、と答えて、鍵をくれた。

 部屋は416号室。スイート。
 荷物を置いて、コーヒーでも飲もうかと、また階下へ降り、ロビーを横切ろうとして僕はその一隅を見つけた。
「ホテルの歴史」
 そう小さく書かれた案内板が立てられている。開放されている部屋のようだが・・・。
 何となく近寄り、入り口を覗いてみた。中には、ガラスケースやパネル、写真などが並び、ちょっとした展示室のようだ。このホテルに関する物や、歴史について紹介しているらしい。
 別に夕食までは、特にする事もない。
 僕は部屋へ足を踏み入れ、一番手前のガラスケースに顔を近づけた。
 その時。
 ふとどこからか、視線を感じて、僕はゆっくりと見回しながら立ち止まった。他に誰かいるのだろうか。
 そして気付いた───その部屋の一番奥の壁。
 そこから。

 そのひとが、じっと僕を見ていた。
 やわらかく、深く、輝くような眼差しだけを微笑ませて。

 僕は、息が止まる衝撃に胸を撃ち抜かれ、吸いつけられるようにその前に歩み寄った。


 『1921年(大正10年)2月11日 紀元節祝賀演奏会にて』
 そう説明がつけられた、実物大の古いセピア色のポートレイト。
 青年の胸像写真だった。
 20歳前後だろうか。スワローテイルのタイが良く映える、線の細くやさしい、だがどこか凛としたきれいな顔立ち。
 かけられた眼鏡の向こうからのぞく、表情ゆたかに美しい大きな瞳。
 そう、素晴らしいその瞳・・・この時なにを思っていたのか、まるで喜びそのもののようにきらきらと輝いている。それが、とても古いモノクロの写真とは思えないリアルさで、こちらに微笑みかけているように思えるのだ。
 僕は見惚れた。
 どうしようもなく心が傾き、惹きつけられるものを覚えて、僕はつぶやいた。
「この人は・・・」
 いったい、誰なのだろう。

 僕は部屋の入り口に取って返し、ちょうど通りかかった年配のマネージャーらしき人物をつかまえて、ポートレイトの前に引っ張ってきて尋ねた。
「この人は、誰ですか?」
「ああ・・・」マネージャー氏は微笑んで言った。
「いい写真でしょう。よく訊かれるんですよ。大正時代に活躍したヴァイオリニストだった方だそうでしてね。この時、ここで演奏された記念に撮られたものらしいです」
 せきこんで続いて尋ねる。
「名前は?」
「守村悠季さんと仰ったそうで」
「もりむら、ゆうき」
 僕は口の中で繰り返した。どういう字を書くのだろう。この人についてもっと知りたい。
「こういう事は先代の支配人が詳しかったのですが・・・何せ古いホテルなものですから、私などはどうもまだ新参者のようなものでして。これ以上はわかりかねるのですが」
 字を教えてくれながら、マネージャー氏は言った。このあたりに縁の深い方だったようなので、地元の図書館に何か残っているかも、と。
 僕は時計を取り出して見た。もうすぐ4時半をまわろうとしている。閉館は5時・・・今からでは無理か。
 図書館の場所を尋ねてから、僕はまたポートレイトを見上げた。
 明日、と心の中で僕はつぶやいた。明日すぐ、きみのあとを追いかけます。
 なぜだか、ひどくわくわくした。こんなに浮き立つような気分になったのは、どれくらいぶりのことだろう───いや、と僕は思った。
 もしかしたら、生まれて初めての事かもしれない。

 




素材提供:月球戯工房様